■小話
13:君の声
R様
リクエスト
休暇に入ると、ドラコはよくルシウスについていろんな場所へ行く。ナルシッサは過保護な部分があるが、ルシウスはある程度息子の好奇心は寛大に見守ってくれるし、むしろ助長してくれる部分もある。そのため、時には母親の干渉の及ばない場所で一息つくことも必要なのだ。
今日ルシウスと共に訪れた場所は、ボージン・アンド・バークスだった。ナルシッサはそもそもドラコがノクターン横丁へ行くこと自体良くは思わないだろう。なので、ドラコは唯一父と共にいる時だけ、年相応の好奇心をくすぐるような代物が山ほど並べられているその店の敷居を跨ぐことができるのだ。
ルシウスが店主と話している間、ドラコは店の中のものを見て回った。いつ来ても、ここには馬鹿らしい曰く付きの代物ばかりが置いてある。だが、注意書きだけ見ればバカバカしく思えても、事実、それが正しく効力を発揮するのはルシウスのお墨付きだ。なんでも、ヴォルデモート卿も気に入っていた場所だというのだから、その効果は疑いようもない。
呪いのネックレスや、不気味な仮面、醜悪な臭いを放つ花など、いろんなものを見ていると、ふとドラコは一つの瓶に目を留めた。注意書きには「読心薬――その人の心の内を暴く」と書いてある。そんなことできるのだろうか、とドラコはじっと見入った。開心術や真実薬は聞いたことがある。だが、それ以外でそんな薬の存在は聞いたことがなかった――。
「お坊っちゃまはやはりお目が高いようですね」
ボージンは嬉しそうに手を捏ねながら近づいてきた。
「その水薬は、六時間指定した相手の心の声を読めるというものでございます。真実薬のように魔法省より認知はされておりませんので、こうして裏で売買されるしか日の目を見ませんが、それでも効果はお墨付きです」
「興味があるのか?」
ルシウスは息子に尋ねた。ドラコは慌てて首を振る。
「違います、これは――」
「有効的に使える方法を思いついたのだろう?」
ルシウスは薄く笑みを浮かべていた。
「ならば、父親としてそれを後押ししないことはない。ボージン、それを一つ頂こう」
「承知いたしました」
恭しく頭を下げ、ボージンは水薬を手に取り、カウンターまでやって来た。
「どなたで登録を?」
「ポッター」
ドラコは即答していた。もちろんルシウスも同じ人物を想像していたのだろう。その微笑に変化はない。
昨年、ハリー・ポッターに秘密の部屋の黒幕として暴かれ、そしてしもべ妖精を奪われたことは、ルシウスにとって非常にプライドを刺激されるものだった。その上、ホグワーツの理事長の座だって奪われたのだ。腹立たしいことこの上ない。
「では、ポッターさんで登録させていただきます」
ボージンも深くは聞き返さず黙って杖を奮った。ノクターンで店を開いていれば、いろんな情報が舞い込んでくる。ルシウスがウィーズリー家のアーサーやハリー・ポッターと仲が悪いことなど随分前から流れていた噂だ。
「惜しいことに、これは閉心術に長けた者には効果はありませんが……では、お坊っちゃま」
ボージンは早口で言って水薬を差し出した。割と重要なことではあるが、ハリーが閉心術を学んでいるとは思えないので気にすることはない。
「有効に使えますよう」
にこやかにボージンはマルフォイ父子を見送った。
帰り際、ルシウスは読心薬の使い道を深く聞こうとはせず、ただ短く「有効的に使えたのなら私に教えるように」とだけ口にした。
*****
なかなかそれと思うタイミングはなく、ドラコは読心薬を使う機会を逃していた。これを使って何かハリーの弱みを握ってやりたいとは思うものの、そうそう易易とチャンスは巡ってこない。
このまま宝の持ち腐れになるかとも思っていた矢先、マーカス・フリントにハリーの新しい箒偵察を命令された。ドラコとしては「どうして僕が」と不満たらたらだった。だが、去年のクィディッチ杯のことをネチネチ持ち出されると立つ瀬がない。シーカーとしてハリーに負けたのは事実なのだから。
半ばやけっぱちな気分でドラコは読心薬を使うことに決めた。ハリーの箒偵察だけではない。彼の弱みも握りたいし、シリウス・ブラックのことをどう思っているかも知りたい。一瞬ハリエットのことが頭に思い浮かんだ。
『私たちがシリウス・ブラックをどう思ってるか、どうしたいかなんて、部外者のあなたにとやかく言われたくないわ!』
一方的に怒鳴られて以降、ドラコは彼女と話していなかった。城裏にも現れない。少し罪悪感が湧いたが、それとこれとは話は別だ。ドラコは単にハリーの弱みを握りたいだけで、それについてハリエットは何の関係もないだろう。
そう自分を納得させると、ドラコは読心薬を飲み干した。時間は午後過ぎ。これから魔法薬学の授業でもある。ドラコは、ハリーがスネイプをどう思っているかも知りたかった。それはもちろん、己をいびり倒す教師のことなど憎らしく思っているだろうが、あのスカした顔が心の中で一体どんな風に考えているのか――非常に興味深い。
心の声がよく聞こえるよう、ハリーの近くに座りたかったので、ドラコは教室の入り口で鞄をゴソゴソして何かを探す振りをしながら待った。
すると、時間ギリギリになってようやくちらほらグリフィンドール生が教室に駆け込み始めた。いくら嫌いな授業だからといって、こんな態度だからスネイプ先生が嫌うんだとドラコはふんと鼻を鳴らす。それに、ドラコの目的であるハリーなんて、まだ来ない――。
『いい匂い!』
突然場違いなほどに明るい声が響いてきてドラコは面食らった。
『今日の夕食はチキンね! ご飯を食べたら持って行こうっと!』
浮かれた声と浮かれた内容、その声主は紛れもなくハリエット・ポッターだった。あいつはこんなに大きい声でくだらない独り言を言うのかとドラコは呆れた。
事実、前から歩いてきたハリエットは一人きりだった。教科書を抱えて駆け足でやってくる。だが、教室の入り口でドラコが立っているのを見てはたと足を止める。
『……ドラコ』
「何だよ」
「えっ?」
ハリエットは瞬き、そーっと視線をそらした。
「別に……」
「もうチャイムが鳴るよ!」
その時、バタバタとハリエットの後ろからハリーとロンとが現れた。
『うわっ、マルフォイだ……。ハリエットに難癖つけてるのか?』
「退けよ、マルフォイ」
ハリーの声が二重で響き、ドラコは面食らった。そのせいで、一瞬反応が遅れる。
『本当面倒な奴だな』
「君の大好きなスネイプ先生の授業に遅れるだろ」
どっちが本物の声か分からない。ドラコは口をパクパクさせた。
『なんだ? まるでクラッブみたいだ』
「誰かクラッブだ!」
思わず反射的に言い返せば、ハリーたち三人はビクッと肩を揺らした。
「急に何だよ。誰もそんなこと言ってないだろ」
至極最もなことをロンがのたまった。ハリエットも神妙な面持ちで頷く。ハリーだけが唯一驚いた顔をしていた。
ようやくドラコも事態を把握しつつあった。――見極めるのは難しいが、確かに自分は今ハリー・ポッターの心の声を聞いたのだ。
『気味が悪いな……』
『ちょっと様子がおかしいみたい』
「早く行こうぜ」
声が三つ重なった。どれが本当の声か分からなくてドラコは固まった。そんな彼を一瞥し、ハリーとロンは教室へ入っていく。
『やっぱりまだ怒ってる……』
二人の後ろ姿を見つめながらハリエットがしょんぼりと肩を落とした。ハリーと喧嘩でもしているのだろうかとも思ったが、シリウス・ブラックのことでまだ自分たちは冷戦中だ。ドラコは口を結んだままだった。
「――チャイムが鳴るまで君たちはそうしているつもりかね?」
不意に声がして二人は振り返った。額に皺を寄せ、スネイプが見下ろしていた。
『うわ、スネイプ先生……』
「すみません、ちょっと話をしてて」
二つ声が重なった。ハリーの時と同じ現象だ。ドラコはまたしても固まる。
「入り口を塞ぐようにして立ち話とは育ちが窺えるな」
「すみません」
『今日は何点減点されるんだろう……』
愚痴とも非難とも取れる言葉。だが、スネイプは減点するどころか反応だってしない。ハリエットがパタパタと教室内へ入っていくのを見送るのみだ。
「それで、ドラコ、君もまだここで時間を潰すというのか?」
ドラコはゆっくりスネイプを見上げた。信じられない事実に今気づいた。
「すみません、すぐに席につきます」
――まさか、ポッターの声が聞こえるようになってるなんて!
『どなたで登録を?』
『ポッター』
思い起こせば思い当たる節はある。もしかすると、世界中の「ポッター」と名のつく者の心の声が聞こえるようになっているのかもしれない。
ドラコは頭が痛くなった。ただでさえ実際の声と心の声との区別が付きにくいのに、それを見極めないといけない人物がもう一人できたなんて!
スネイプに咳払いされたため、ドラコは我に返り、慌てて教室へ入った。
だが、事態がややこしくなったとはいえ、やることは変わらない。ドラコは、当初の目的通りハリーの近くの席に座った。グリフィンドールは前の席がガランと空いており、ずっと前からそこへ着席していたハーマイオニーはともかくとして、遅れてやってきたハリー、ロン、ハリエットは、仕方無しに前方の席に腰を下ろす。
そうして始まった魔法薬学の時間。正直言って、スネイプがいびり倒すたび、ハリーが心の内で悪態をつくのを聞いているのは胸がすく思いだった。ぜひとも今ここでスネイプに告げ口したいところだが、まあそんなことができるわけもなく。
ちょっとした優越感を抱きながらハリーの赤裸々な心情を思う存分楽しむのが関の山だった。
とはいえ、もちろん弊害もある。本来はスネイプの声だけが響く授業中に、余計な声が二つも加わるのだ。集中力を乱されることもままあった。
『スナッフル、今頃何してるかなあ』
『早く終わらないかなあ。ルーピン先生の体調とスネイプのが入れ替わったらいいのに。月に一度くらい僕らに休みがあったってバチは当たらないよ』
『先生すごい早口』
『メモ取らせる気ないよ』
『あっ、ベゾアール石! ハリーが怒られた時の!』
『絶対嫌味だろうね。今僕を見て笑った……』
若干二人の会話がリンクしてきた。さすが双子と言うべきか、まるで二人で会話しているようだ。
不覚にも二人の会話に笑いをかみ殺そうとしていると、誰かに肩を叩かれ、ドラコは顔を上げる。
「マルフォイ、何してるんだ? もう皆材料を取りに行った」
不思議そうに立っていたのはクラッブだ。慌てて見回すと、確かに皆もう材料棚へわらわら集まっている。ドラコもすぐに立ち上がった。クラッブに注意されるなんて、とドラコは己を恥じた。やっぱりポッター双子に関わると碌なことがない!
調合の時は、ドラコは心を入れ替えて集中――を心掛けたのだが、そううまくはいかない。ハリエットがうんうん悩み始めたからだ。
『あれ……満月草は何本入れるんだっけ?』
スネイプは、要所要所で大事なポイントは早口で、しかも板書なしで言うこともよくある。くだらないことばかり考えていたハリエットは、どうやら聞き逃してしまったらしい。
ハリエットは困った顔でチラチラ横を見るが、残念、ハーマイオニーはとっくの昔に満月草は入れ終えてるし、ここで彼女に尋ねれば、私語は厳禁とスネイプに減点されること間違いなしだ。
困り切ったハリエットは、ちょっと伸びをしてハリーの様子を盗み見た。ハリーはちょうど満月草を躊躇いもなく三本入れたところだった。ハリエットの顔は輝く。が、実際のところ――。
『どうせ上手下手関係なしにPなんだからなんだっていいよ』
などと単にやけっぱちになってるだけだった。あの迷いのない手付きに惑わされたハリエットは自身も同じく満月草を三本鍋に入れた。可哀想に、答えは二本だ。
どうでもいいことを付け加えると、ハリエットの方を見ながらロンも満月草を三本鍋に放り込んだところだったが、もう何も言うまい。仲良く三人でPを取ればいい。
授業が終わると、ハリーとロンはいそいそ後片付けをして教室を出ていった。目的を果たすため、ドラコは慌ててその後を追う。
「ポッター、新しい箒は決まったかい?」
意気揚々と声をかければ、うんざりした顔でハリーが振り返った。
『また何か用か?』
「もっとも、もう君に箒をプレゼントしてくれる人はいないだろうから、自分で調達するしかないんだろうけど」
「君には関係ない。僕たち急いでるから」
『ファイアボルトのことは言えないな。マクゴナガルに調べられてるし、敵に情報を教えていいこともない……』
「ファイッ!?」
奇声を上げて黙り込んだドラコを見て、ますますハリーとロンは気味悪いものでも見るかのように見てきた。ロンが「行こうぜ」とハリーを小突き、二人は足早に去っていく。ドラコはもうその後を追うことなどできなかった。
まさか――ファイアボルトだと!? いくらすると思ってる! 僕ですら父上に冗談を言うなと相手にしてもらえなかったのに!
ハリーが最高級のファイアボルトを手に入れたかもしれないことを知り、ドラコは嫉妬と羨望でどうにかなってしまいそうだった。
一体誰が? いいや、もうあいつがプレゼントをもらう宛はないはずだ。じゃあ、噂に聞くポッター家の遺産とやらで買ったのか? なんだってそんな馬鹿なことを! たかが箒一本に全財産をはたいて、これからどうするつもりだ!? ホグワーツにはこれからあと四年も通わないといけないのに、その上二人分だ――。
『どうしよう。夕食、嫌だな。ハリーと一緒だと気まずいし』
茫然と立ち尽くすドラコは、ハリエットの声が近づいてくるのに気づいた。急に後ろめたい思いが込み上げてきて、ドラコは慌てて近くの空き教室に身を潜める。
『仲直りしたいな……』
細い声で響いてきたその心の内は、寂しさを伴っていた。耳を澄ますに、ハリエットのそばにはハーマイオニーもいないようだ。いつもならば、どこへ行くにもあの四人組でほっつき歩いているというのに。
やはり喧嘩でもしたのだろうか。
教室から出て視界に飛び込んできたハリエットの背中は、寂しそうに丸まっている。ドラコからしてみれば、憎しグリフィンドールの四人組が喧嘩中というのは胸がすく思いだが、しかし、ああも落ち込んだ姿を見せられると、どうも調子が出ない。
ハリエットの後に続いて、ドラコも大広間に入った。ガヤガヤと騒がしいこの場所では、二人の心の声も聞こえてこず、残念に思う気持ちとホッとした気持ちとが渦巻いた。ハリーの弱みを見つけられないのは残念だが、ハリエットの落ち込んだ声は、聞いているこっちまで調子が狂ってくるので、正直助かった。
夕食を食べ終わった後に、もう一度ハリーにつっかかって様子を見てみようとグリフィンドールの方を窺っていると、やはり、ハリーたちとは少し離れた場所でハリエットがご飯を食べているのが見えた。時折ラベンダーやパーバティとも話しているが、いつもより更に大人しく見える。
ただ、そのうちハリエットは怪しい動きを始めた。目を細めると、広げたナプキンに、ホカホカのチキンをいくつも忍ばせているのが見えた。
姿が見えないハーマイオニーに持って行くつもりだろうか。それにしては、あまりにチキン一択すぎる。もっとデザートやパンも選ぶのが優しさだ。
そこまで考えて、ドラコは我に返った。ハリエットの奇行に気を取られている場合ではない。現に、ハリーとロンが食事を終え、席を立ったところだった。そろそろハリーに文句をつけに言って、何か弱みになるようなものを探りに行かなければ。
ドラコが立ち上がると、ハリエットの方も立ち上がった。両手一杯チキンを抱えているため、ラベンダーに苦笑いされている。
ハリーたちの後をつけていると、後ろからハリエットがついてくるのが分かった。例によって、ハリエットの心の声が追ってくるからだ。
『ハーマイオニー、結局来なかったな。また本に夢中でご飯忘れてるのかしら。後で連れてこないと』
ただ、これ以上ハリエットの心の声に振り回されるいわれはない。ドラコには、ハリーの弱みを握るという使命があるのだ。早く行こうと足を早めるが、聞こえてきた言葉にまた注意が引き戻されてしまう。
『スナッフル、今日はいるかな。喜んでくれると良いなあ』
思わずとドラコが振り返ると、今まさにハリエットが角を曲がったところだった。――玄関ホールに向かっている。ドラコは目を疑った。正気か!? シリウス・ブラックに狙われている身で、たった一人で外に出るなんて!
もう外も暗くなりつつある。それなのにのこのことチキンを抱えて現れるなんて、ニフラーが金貨を持ってやってくるようなものだ。考え無しにもほどがある!
ドラコの前では、ハリーたちが階段を上っていくのが見える。しかし振り返った先では、ハリエットが暗がりの方へのんびり歩いて行くのが見えて。
イライラと髪の毛を掻きむしった後、踵を返し、ドラコは玄関ホールまで駆けていった。
辺りが薄暗いおかげで、ハリエットの後をつけていても、彼女には全く気づかれなかった。それどころか、心の声は呑気にデザートがおいしかったとか明日の宿題をやらないととか、ブラックの危険性についてなんてこれっぽっちも考えていない。あの様子では、ブラックが現れたとしても、杖を抜くことすらできずボケっとしているに違いない。
禁じられた森に着くと、ハリエットは「スナッフルー?」と小さな声で呼びかけた。どうやら、あの凶暴な黒犬に餌をあげようとここまでやって来たらしい。全く酔狂にもほどがある。可愛げもない巨大な気味の悪い黒犬に餌をあげに来るなんて!
やがて、森から黒犬がとことこやってきた。ハリエットは喜色満面、喜びの声を上げた。
「スナッフル!」
スナッフルは野性を忘れてハリエットにじゃれかかった。――ドラコに向かって噛みついてきたあの獰猛さは見る影もない。本当に同じ犬かと問いただしたくなるくらいだ。
スナッフルに会えて、ハリエットの機嫌はぐっと上昇したらしい。心の声もはしゃぎにはしゃぎ回っている。ただ、頭の中の言語が全て、可愛い、柔らかい、あったかい、ふわふわ?、肉球触りたい、お腹を向けてくれた! 等々のどうでもいい内容ばかりだったため、ドラコは早々にうんざりしていた。
自分だけが杖を構えているのも馬鹿らしくなって、階段に腰掛けると、ふとハリエットの声が止んだ。何か思い悩むように息を詰めている。
「わん?」
スナッフルが鳴くと、ハリエットは恐る恐る右手を差しだした。
「お、お手」
スナッフルは固まった。ドラコもため息をつく。何をするのかと思えば、お手!
しかも、あの見るからに野良丸出しの犬に、お手はないだろう。躾けなければお手を知っているわけもない。
だが、ドラコの思いとは裏腹に、スナッフルは軽くうめき声のような鳴き声をあげながら、ゆっくりゆっくり前足を上げ、ハリエットの手にポンと乗せた。まるで魂を売ったかのような苦渋な表情にも見える。さすがに気のせいだとドラコも思ったが。
一方で、ハリエットは、右手に乗せられた温かい前足をきゅっと握った。その時の脳内と言ったら。
『きゃあ〜〜〜〜! 可愛い! 賢いわ、スナッフル! やっぱり人に飼われてたのかしら? 教えてもないのにお手ができるなんて!』
へにゃりと顔中の力を抜き、ハリエットは笑った。
「今度ボールも持ってきてあげるわ! 一緒にボール遊びをしましょうね!」
ハリエットが元気よくそう言うと、スナッフルは複雑そうに間延びした返事を返した。気乗りしないらしい。しかしハリエットは気付きもしない。
『飼いたいなあ……』
スナッフルを撫でながら、ぼんやり考えている。
『でも、ちょっと臭うな……』
心の中の声は、やはり素直だ。ハリエットの正直な感想に、ドラコは思わず噴き出しそうになってしまった。
『洗ってあげたいけど、スナッフル、洗われるの苦手だしな……。綺麗になったら絶対ハンサムになると思うのに』
「そろそろ帰らないと」
ちょっと臭うらしいスナッフルを抱き締め、ハリエットは立ち上がった。
「じゃあね、バイバイ。気をつけるのよ」
気をつけるのはお前だ、とドラコは思うが、もちろん口に出せるわけもない。
やがてハリエットが城へ向かい始め、本当ならドラコもこんな森からさっさと離れたかったが、どうしたことか、スナッフルがなかなかその場を動かないので行こうにも行けなかった。
以前思い切り噛まれたので、ドラコはスナッフルを苦手としていた。だから早く行ってくれと思うものの、スナッフルはハリエットの後ろ姿をじっと見守ったまま動こうとしない。
いい加減痺れを切らしかけた時、ようやくスナッフルが森の中へ姿を消したので、慌てて走って行ってハリエットの後を追う。
ようやく城の灯りが見えてきた時には、ドラコは心底ホッとした。だからこその油断もあったのだろう。ハリエットの姿が見えないからとそのまま城の中へ入ったら、玄関ホールの影にハリエットとハーマイオニーが立っているのを見つけた。二人もすぐドラコに気づいたようだ。特にハーマイオニーはドラコを一睨みし、ハリエットに顔を戻した。
「とにかく、夕食の後はバックビークの資料集めをしようと思うの。誰かさんのせいで死刑にさせられそうだから……」
「ええ。分かった。私も後で行くわ」
「よろしくね」
ハーマイオニーはドラコを一瞥して大広間の中に入っていく。気まずいのか、ハリエットはドラコの方は見ないが、心の中ではものすごく意識していることが容易に窺えた。
『こんな時間になんで外から帰ってきたんだろう』
お前に言われたくない。
だが、ドラコは何も言わず、立ち尽くすハリエットのそばを不機嫌そうな顔で通り過ぎていく。
『やっぱり怒ってる? もう話してくれないかな?』
――決して声はかけられていないのに、非常に気まずい。何だか悪いことをしている気分だ。
『腕、大丈夫かな……』
咄嗟に、ドラコは咳払いをして腕を動かした。本当に反射的だった。別に他意はない。
『治ってるのかな? マダム・ポンフリーの腕は確かだし、それもそうね』
ハリエットの声が小さくなっていく。そうして最後に聞こえたのは。
『仲直りしたいな……』
そのあまりに寂しそうな響きに、ドラコはパッと振り返った。ハリエットと目が合い、ドキリとする。
『びっくりした。見てたのバレたかな。変な人に思われるわ……』
そーっと不器用に視線を逸し、ハリエットは階段を登っていった。ドラコが喧嘩をふっかけなかったからか、その足取りは軽い。シリウス・ブラックのことなどすっかり忘れている様子だ。ついこの間、ホグワーツに侵入してきたばかりだというのに。
――そこまでしてやる義理はないと思う一方で、ここまで来たのだからと、ドラコはつい足音を忍ばせてハリエットの後をつけた。心配だからとかではない。以前、ブラックのことでハリーを挑発してしまって怒られたことを気にしてはいたのだ。
『明日はなんのご飯持って行ってあげようかなあ』
誰のことを考えているかは一目瞭然だ。いっそのことマクゴナガルに告げ口してやろうかと思ったくらいだ。だが、ハリエットがあんまり嬉しそうなので、ホグズミードにも行けないのにその少しの楽しみを奪ってしまうのもいかがなものかと思ってしまう。
結局判断ができないまま、図書室についてしまう。ハリエットがしっかり中に入ったのを見届けると、ドラコはくるりと身を翻し、階段を降りていった。途中、マクゴナガルの部屋の前も通ったが、しばし逡巡した後、結局通り過ぎてしまった。