■小話

09:子供達の未来に


モルダウ様
リクエスト

 空気を切り裂く怒号と子供の甲高い泣き声に、シリウスの穏やかな睡眠はいとも容易く破られた。寝ぼけ眼で飛び起き、杖を片手に部屋を飛び出す。

 嫌な意味で聞き慣れた怒号は玄関ホールから響いている。幼い泣き声も、おそらくそこから。

 いくら保護呪文が効いている屋敷だとは言え、万全ではない。名付け子の無事を確認するよりも、先に侵入者の撃退をした方が得策だと、シリウスは息を詰めながら階段を降り――そして、拍子抜けした。髪を振り乱してまくし立てる我が母上の肖像画の前に、何とも小さな子供が二人、ズルズルの寝間着の裾に足を引っかけ、尻餅をついていたのだ。肖像画のとんでもない形相と悪態に恐れをなし、ピイピイと哀れなほど大声で泣いている。

「君達は誰だ?」

 ゆっくりと近寄りながらも、シリウスは警戒を怠らない。ヴォルデモートが復活し、闇の魔法使いはより活動が活発化してきている。こちらの警戒心を解くような魔法を使って奇襲を仕掛けてきていることだってあり得る。

「あの……僕達、気づいたらここにいて……」

 子供がするには大きすぎる眼鏡をずりあげ、少年は目を擦った。

「家に帰ろうと思ったんです。でも、かぎが開かなくて、二人で話してたら、この絵が突然叫びだして――」
「汚らしい孤児めが、さっさと出て行け! 我がブラック家の恥さらしが、どこの馬の骨とも分からない女と子を成したのだ!」
「黙れ!」

 思わずシリウスが叫ぶと、目の前の子供二人がビクリと肩を揺らした。

「ご、ごめんなさい……」
「ああ、君達に言ったんじゃない。……ちょっと待っててくれ」

 警戒は怠らないまでも、シリウスはひとまず騒がしい肖像画にカーテンをかけた。ようやく屋敷が元の静けさを取り戻す。

「それで……君達は、あー、気づいたらここにいた、と?」
「はい……。ここはどこですか? 僕達……あの、売られたんですか?」
「…………」

 おおよそ子供の口から出てきたとは思えない言葉に、シリウスは思わず閉口する。改めて子供達を見れば、クシャクシャした黒髪の少年と、ボサボサした長い赤毛の少女は、随分と小柄だ。五、六歳ほどに見えるが、思いのほか言動はしっかりしているので、もしかしたらもう少し上かもしれない。棒のように細い手足からは『栄養失調』という言葉が頭に思い浮かぶ――いや、ちょっと待て。

 シリウスは、少年の額に見える稲妻形の傷によく見覚えがあった。少女のハシバミ色の瞳にも。

「……君達、名前は?」

 少年と少女は顔を見合わせた。おずおずと少年が口を開く。

「ハリー・ポッターです」
「ハリエット・ポッターです」
「…………」

 シリウスは一瞬幻聴を疑った。ハリー? ハリエット?

「……ちょっと待っててくれ」

 混乱していたシリウスは、まだ正体がはっきりしない子供二人を、あろうことかその場に置き去りにし、今度こそ名付け子達の身の安全を確認しに行った。――が、ベッドはもぬけの殻で。シーツを触ってみると、まだ温かみがあった。まるで、つい先ほどまでここに部屋の主がいたかのように。

「……ハリー? 本当にハリーとハリエットか?」

 戻ってきたシリウスは慎重に尋ねた。子供達は大人しく頷いた。

「君達の家はどこに?」
「プリベット通り四番地です」
「あの……両親は?」

 子供達は悲しそうに顔を見合わせ、おずおずとシリウスを見上げた。

「死にました。交通事故で」
「育ての親は?」

 だんだんシリウスの声が低くなっている。ハリーはビクつきながら答えた。

「伯父と伯母です」
「ダーズリーか?」

 額に手を当て、シリウスは尋ねた。どうして分かったのか、という顔でハリーが頷いた。シリウスは呻いた。

「なんてことだ……」

 シリウスは確信した。十六歳の誕生日を迎えたばかりの己が名付け子達は、なんと幼子の姿に戻ってしまったらしい!


*****


 事情を把握したシリウスは、すぐさまリーマスを呼び出した。そして混乱する彼に子供達を預け、自分が向かった先はウィーズリー家。六階まで駆け上がり、寝ぼけ眼のロンを叩き起こした――一方のロンは、一瞬三年生の時の恐ろしい出来事を思い出し、思わずシリウスがナイフを持ってないか確認してしまった――。

「昨日ダイアゴン横丁で何かあったか?」

 簡潔な問いに、ロンはあからさまに視線を泳がせ、冷や汗を流した。

「べ、別に何も……」
「ロン、わたしは君やハーマイオニーに多大な恩がある。だから二人の間だけで解決しようと言ってるんだ。もし君が全てを明かしてくれなければ、アーサーとモリー、二人を交えて――」
「ノクターン横丁に行きました!!」

 びっくりするほど大きな声でロンが白状した。シリウスは厳かな表情で頷いた。

「うん……そうだろうな。そんな予感はしていた。ダイアゴン横丁に行ったらノクターン横丁にも足を伸ばしたくなるのは健全な学生には誰しもあることだ……」

 誓って言うと、怪しいドラコの後をつけていった先がノクターン横丁だったのだが、ロンは深掘りされたくなくて曖昧に同調した。

「それで、そこで何があったんだ?」
「ノクターン横丁では何も起こらなかったんだ。でも、WWWまで戻ってきたとき、僕達の後をつけてた奴がいたみたいで……そいつが、何かめちゃくちゃなことを叫びながらハリーに向かって液体をかけたんだ。それがハリエットにもかかっちゃって……」
「なぜそれをすぐわたし達に言わなかったんだ?」

 鋭い目でシリウスがロンを射貫く。ロンはすっかり抵抗する気力も失って白旗を掲げていた。

「あんなに物々しく警護されてたのに、透明マントでのこのこノクターン横丁に行ったなんて知られたら――その上まんまと事件に巻き込まれたなんて言ったら絶対怒られると思ったんだよ……。もちろん、液体がなんなのかすぐに僕らも調べたよ。でも、ハーマイオニーは縮み薬の失敗作だから大丈夫だって。ハリーもハリエットも、見た目も普通だったから大丈夫だと思ったんだ……」

 ここまで説明して、ようやくロンはシリウスがこんな早朝にやってきた理由に思い至ったようだ。

「……何か、あったの?」
「……二人が、朝起きたらいきなり子供の姿になっていた」
「えっ!? 大丈夫なの!?」
「今頃リーマスがポピーを呼んで二人の身体を見てもらっている頃だろう。まだ安心は抜けきらないが、ハーマイオニーが縮み薬の失敗作と判断したのなら、そう危険な状態でもなさそうだ」
「なら良かった……」

 肩の力を抜き、ロンはベッドに仰向けになった。しかしシリウスの真面目な顔は崩れない。

「問題は魔法薬をかけてきたその魔法使いの意図だな。一体何のためにハリーにそんなことをしてきたのか……」
「ただ頭がイカれてたってだけだと思うよ。ちょっと酔ってるみたいにも見えたし。逃げ足は速かったけど、杖は持ってなかった」
「なら良いんだが」

 そわそわとシリウスは立ち上がった。

「わたしはもう行くことにする。二人のことが心配だからな。話してくれてありがとう」
「僕も行って良い? ちょっと安心はしたけど、二人の顔を見るまではやっぱり心配だし」

 内心、小さくなった親友達を見てみたいという野次馬心もあった。だが、シリウスに呆気なく一蹴される。

「あの子達、随分と他人に対して怯えた様子なんだ。リーマスに預けるのだって一苦労したくらいで、わらわらと人がやって来たらすぐにストレスで参ってしまいそうなくらいだから、今回は遠慮してほしい」
「わらわらって……僕一人が行くだけだよ」
「君はそう言うだろうが、彼らはそれで納得しないだろう」

 気配を感じ、ロンが振り返った先には、泊まりに来ていたフレッド、ジョージがそっくりな顔をドアの隙間から覗かせていた。

「いつから聞いてたんだよ!」
「割と最初の方から」
「シリウス、つれないことを言うなよ。子供になった二人、見てみたいんだ!」
「駄目だ駄目だ。君達は特に来させたくない。絶対に悪戯をするだろう」
「しないしない! 俺達の純粋なこの目を見てくれよ!」
「この曇りなき眼が悪戯をするように見えるか!?」
「見える」

 シリウスは、この赤毛の双子にかつての自分達・・・と同じ匂いを嗅ぎ取っていた。自分だって、ジェームズやリーマスが幼子の姿になったと聞いたら、絶対に悪戯をしないではいられなかっただろう――。

「とにかくもうお暇しよう。早朝に悪かった。じゃあ」

 煙突飛行で素早くシリウスは姿をくらまし、後に残ったのは、悔しそうに煙突飛行粉を鷲掴みにするフレッドと、騒がしさに起き出したモリーがそれを見咎める光景だった。


*****


 屋敷について早々、一番に幼子特有の黄色い声が耳に飛び込んできた。陰気くさいブラック邸には似ても似つかない楽しそうな声だ。

 灰を落としながら暖炉を出たシリウスは目を見開いた。目の前には――動物園が広がっていた。

「今度はゾウさん! ゾウさん出して!」
「さすがにそれは大きすぎるからできないかな……。いや、小さくしたらできないこともないのか」
「僕、動物飽きちゃった……。空飛んで見せてよ! 僕、空飛んでる所見たい!」
「私も!」

 リーマスを中心にキャッキャと笑う双子の周りには、犬、猫、鹿、ウサギ、リス、ハムスターなど、とにかくたくさんの動物が騒がしく辺りをうろついていた。ドアの隙間からクリーチャーが顔を覗かせ、激しくリーマスを睨み付けているのが分かった――由緒正しいブラック邸を動物園にされたのが気にくわないのだろう――そしてシリウスも気にくわないことがあった。ブラック邸に対するリーマスの尊敬も何もない扱いについてではない。――短時間で二人に懐かれすぎじゃないか?

 のしのしとリーマスの所まで歩み寄ると、双子が驚いたようにリーマスの背中に――二人の身長的に足か――隠れた。シリウスはそれを見て若干心が傷ついた。

「リーマス、これは一体どういう状況だ?」
「ああ、この動物達のこと?」

 言いながら、リーマスは杖先から花を出し、それを器用に花冠にまでに変化させると、ハリエットの頭に優しく載せた。ハリエットの顔はパアッと喜びに溢れかえり、シリウスの顔は妬みで歪みそうになった。

「ポピーに二人を見てもらおうと思ったんだけど、飲み慣れない魔法薬とか杖とか格好とかが怖かったみたいなんだ。それで、二人の気をそらすために動物を出したら気に入っちゃったみたいで」
「怖がられなかったのか? いきなり魔法なんて……。この子達はずっとマグル界で暮らしてたのに」
「このくらいの子はまだ魔法だって信じてるさ。ハリエットはすぐに信じたよ。ハリーだって、ものを浮かせたり姿現ししてみせたら信じてくれた」
「…………」

 シリウスとリーマスが話している間、ハリーとハリエットはお利口にも邪魔をすることはなかった。大人しく猫を撫でたり、鹿を追いかけ回したりしている。

「ポピーはなんて?」
「明日には元に戻ってるそうだ。たぶん縮み薬の失敗作を浴びたんじゃないかって。身体にも悪影響はないそうだ」
「なら良かった。ロンの話も大方そんな感じだ。昨日ノクターン横丁に行ったら、頭のおかしい魔法使いが後をつけてきて、魔法薬をかけてきたと」
「いつの時代もそういう人はいるもんだね……。君達も似たような出来事なかったかい? あの時は確か、何がしたかったのか戯れ言薬を浴びせられて――」
「その話はしたくない」

 表情の抜け落ちた顔でシリウスは切り捨てた。リーマスは笑いをかみ殺した。普段のクールなシリウスからは想像もつかないような『意味の分からない』ことを口にしたあの時の出来事は、彼の中で相当な黒歴史となっているようだ。もちろん、そんじょそこらのイカれた魔法使いなんかに魔法薬を浴びせられたこと自体も。

「自分のことは話したのか? ほら……父親の友達だとか」

 シリウスは何食わぬ顔で話を元に戻した。リーマスも仕方なしにそれに合わせた。

「どこまで話そうかは迷ってる。でも、二人をこのままダーズリーの家に戻すわけじゃあるまいし、ショックを受けるような話以外は話しても大丈夫だと思う」

 『ダーズリー』の言葉に、ハリーとハリエットは同時にビクッと反応した。それぞれ動物たちと遊んでいたのを止め、恐る恐るリーマスを見上げる。

「僕達……そろそろ本当に帰らなくちゃ」
「遊んでくれてありがとう」

 急によそよそしくなってしまった子供達にリーマスは慌てた。

「帰るって、ダーズリーさんちに? えっと……そうだね、私達は実はダーズリーさんから君達を預かったんだ」
「そうなの? でも、あの人達は魔法みたいな不思議なことを嫌ってて……」
「もちろん、私達が魔法使いだってことはダーズリーさんには内緒なんだ。君達も内緒にしてくれるかい?」

 悪戯っぽく片目を瞑れば、ハリーは慌てて『はい』と返事をし、ハリエットは両手で口を塞いでこくこくっと頷いた。

「だから今日は思う存分遊んで良いんだよ」

 リーマスの優しげな笑みに、ハリー達は顔を見合わせて喜んだ。

「リーマス! じゃあ僕、空飛んでる所が見たい!」
「私も見たいわ!」
「ああ、いいさ。ただ、魔法使いは何もなしで空を飛べるんじゃなくて、箒を使って飛ぶんだ。ちょっと待っててくれ。取ってくるから」
「箒! ハリエット、箒だって!」
「本当に魔法使いだわ! 箒!」

 箒という単語に興奮し、双子はピョンピョンその場で飛んでみせる。本来なら心和やかになる光景なのに、対するシリウスの頭の中は荒れに荒れていた。

 ――リーマス、だと!? いつの間にそこまで仲良くなって! 後見人のわたしを差し置いて!

 早くリーマスに追い付かなければ、いや、むしろ追い越さねばと意気込み、シリウスは緊張した面持ちで膝を折った。

「ハリー、ハリエット。そういえば自己紹介が遅れてしまったね。わたしはシリウスだ」

 ファーストネームしか口にしなかったのはわざとだ。ずるいなんて言わせない。

「君のお父さん――ジェームズ・ポッターとは友達だったんだ。お母さんとも知り合いだ。二人の結婚式にも出た……」

 みるみる双子の頬が紅潮していく。瞳だってキラキラしてくる。

「そして同時に、わたしは君達の名付け親でもある。ハリー、ハリエット――君達の名前をつけたのはわたしなんだ」
「そうなの!?」
「ああ、そうとも。そうだ、お父さんの学生時代の話は聞きたくないかい?」
「聞きたい!」

 まんまと双子を釣ることができてシリウスはホクホクした。元はといえば、最初からこうすべきだったのだ。リーマスに預ける前に、ロンに事情を聞きに行く前に。

 目が覚めたら見知らぬ場所にいて、意味の分からない恐ろしい肖像画に罵倒され……。

 幼い子供達がそんな状況に陥れば恐怖を感じるのは当然なのに、自分は事態を把握するのが先だと二人の不安を取り払うこともせずリーマスに預けてしまった。そりゃあ、押しつけられた先の優しそうな男性が、不可思議な魔法で一番に双子の不安を取り除いたのも頷ける……。リーマスは人当たりが良く、人の気持ちが分かる男だ。幼子の幼気な心なんて簡単に鷲掴みにできる。

 リーマスが戻ってくるまで、シリウスは子供達にジェームズの話をうんと聞かせてあげた。これでようやくリーマスと同じくらいまで追いつけたかと思いきや――リーマスが煙突から箒を持って現れたことに気づいた途端、一目散に子供達が駆け寄っていくのを見て、シリウスはまた心が傷ついた。

「早く飛んで見せて!」
「危なくない? 大丈夫?」
「大丈夫だよ、箒には子供の頃から乗ってたんだ」

 まるで親子のように寄り添いながら庭に出て行くリーマス達。シリウスは激しく燃え上がる嫉妬に駆られながら後を追った。

 庭では、リーマスが華麗に空を飛ぶ姿に、子供達は大歓声をあげていた。『僕も乗りたい!』『私も!』と言い出すのは時間の問題で――。

「さすがに二人一緒には無理かな。いくら君達が小さいとは言え、三人乗りは……」

 ――人気者でさぞ羨ましいことで。

 シリウスはふて腐れた。

 なに、リーマスみたいな男が一番子供に好かれるなんてのは、分かりきっていたことじゃないか――。

「ハリエットはシリウスに乗せてもらったらどうかな。シリウスも空を飛ぶのが上手いんだ」

 ――リーマス! それでこそわたしの親友だ!

 ハリエットの期待に輝いた顔が己に向けられ、シリウスはすっかり機嫌を持ち直した。部屋から箒を持ってきてハリエットを前に乗せる。ハリエットはウキウキと足を動かしていた。

「さあ、行くぞ。準備はいいか?」
「うん!」

 ハリエットを驚かせないようにそうっと浮上する。ハリエットの身体が強ばったのが分かったので、シリウスは一メートル付近でピタリと浮上を止めた。

「うわあ……本当に空を飛んでる!」
「ハリエット!」

 遙か頭上からハリーの声が降ってきた。ハリエットが顔を上げれば、十メートルも高い場所からハリーが大きく手を振っている。

「ハリー!」
「ここまでおいでよ! 楽しいよ!」
「う、うん……」
「行ってみるか?」

 ハリエットが頷いたので、シリウスはそろそろ浮上してみる。だが、五メートルもいかないうちにハリエットの身体が可哀想なくらいプルプル震え始めたので、ここが限界だと浮上を止めた。

「わたし達はこのくらいで止めておこう。ほら、丁度木と同じ高さだ。あそこにふくろうもいる。ヘドウィグって名前だ」
「可愛い」

 ハリエットの気をそらす意味でも絶えず話しかけていれば、次第に彼女も高さに慣れてきたようだ。キョロキョロと辺りを見回している。

「シリウス……」
「なんだ?」
「今、窓から鳥みたいなのが見えたわ」
「鳥? ウィルビーかな……。手乗りサイズか?」
「ううん。もっとずっと大きかった。馬にも見えたわ」
「バックビークだな。ヒッポグリフという魔法生物だ。行ってみるか?」
「うん」

 ハリエットの関心はすっかりバックビークに持って行かれたようで、十メートル近く飛んでも彼女の身体が震え出すことはなかった。

「大きい……」
「後で一緒に餌やりに行こう」
「うん!」

 真後ろからでも分かるハリエットの嬉しそうな様子に、シリウスは心がほぐれていくのを感じた。同時に、腕の中の小さな存在に心が痛む。

「ハリエット……君は今何歳だ?」
「七歳!」

 得意げに答える彼女だが、その身体は決して七歳のものではない。

 なんて小さいのだろう。

 最初に感じた『栄養失調』という印象は、事実その通りだった。マダム・ポンフリーに『たくさん食べさせように』と言われるまでもなくたらふく食べさせようと心に誓った。

 それからもしばらく空の散歩を楽しんでいると、子供達がお腹を鳴らし始めたので、一旦食事休憩を挟むことにした。箒を立てかけ、良い匂いをさせている厨房へ向かう。

「うわあ、おいしそう!」

 腕を振るうように、とシリウスが口を酸っぱくして言ったおかげか、クリーチャーはたくさんの料理を作ってくれていた。つい匂いに釣られてテーブルにフラフラと近寄った双子だが、厨房の前に茶色く痩せ細った小人のような生物がいるのを見て飛び上がった。

「クリーチャー、さっきも言ったが、この子達は君のことを知らないから挨拶を――くれぐれも、優しく」

 言外に感じる威圧感に、クリーチャーはわざとらしいまでに膝を折り曲げた。

「ご主人様の名付け子にご挨拶申し上げます。クリーチャーと申します」
「しゃ、喋った……」

 おろおろしながらクリーチャーと、シリウス達とを見比べるハリーに、シリウスはカラカラと笑った。

「しもべ妖精という魔法生物だ。魔法使いの家に仕えて掃除や料理をする」
「ハリー・ポッターです。よろしく」

 おずおすと差し出された右手にクリーチャーは目を白黒させて見つめた。ハリーも戸惑ったまま、握られることのない右手をどうしようかと悩んでいる。

「ハリエット・ポッターです。よろしくね」

 隣でちょこんと頭を下げた隙に、ハリーは何事もなかったかのように右手を引っ込めた。クリーチャーはなおも不審な目でハリー達を見ている。丁重に挨拶をされることに疑念を抱いているようだ。

「さあ、食事にしよう。お腹空いたろう?」
「うん!」

 シリウスとリーマスが席についたのを見てハリーとハリエットもようやく席についた。だが、給仕をするクリーチャーを見て慌てて立ち上がる。

「僕がやるよ」
「私も、お茶入れるわ」
「ゆっくりしてて良いんだよ。君達はお客様だ」

 リーマスが優しく言うが、ハリー達は余計戸惑う。

「でも……」
「なら、今日は互いに給仕をすることにしよう」

 ハリーの家庭環境は何となく聞き及んでいる。

 遠慮がちな双子に対して、リーマスが提案した。名案だとばかりシリウスも賛成した。

「それはいいな。わたしはハリーの、ハリーはリーマスの、リーマスはハリエットの、ハリエットはわたしの給仕をすることにしよう」
「クリーチャーは?」

 曇りなき眼でハリエットが尋ねた。

「クリーチャーの分は誰が給仕をするの?」
「……わたしだ」

 『忘れてるわけがなかろう!』と言いたげな顔でシリウスが付け加えた。ハリエットはようやく笑った。

「じゃあクリーチャーは私の隣ね」

 なぜか妙に双子に気に入られている様子のクリーチャーにシリウスは歯噛みをした。対するクリーチャーは大層居心地が悪い。主人と同じテーブルにつけと命令され、挙げ句の果てにはその主人に給仕を受けるなんて。

 対等に扱われたという感動云々よりも、むしろ珍妙な命令をされたというストレスしか感じなかったが、ハリー達には知るよしもない。

 子供達に栄養のあるものを食べさせなければ、とシリウスとリーマスはそれぞれ山ほど料理を皿に盛った。だが、ハリーとハリエットは何を思ったか――その皿から更に小皿へ取り分け、ほんの少し食べただけで食事を終えた。

「もうお腹いっぱいか? たくさん食べないと大きくなれないぞ」

 何とかしてもっと食べさせようと冗談交じりに口にすれば、ハリーは驚くべきことを言う。

「まだ食べて良いの?」
「…………」

 その一言で、ハリー達の家庭環境が良く窺えた。

 怒りのあまりシリウスの顔がカッ! と音を立てて恐ろしい表情へと変貌する。対するリーマスも、優しい面差しからストンと表情が抜け落ちる。それを目の当たりにしたハリーはひどく怯えた。

「――好きなだけ食べていい」

 しばらく経って、ようやく出てきたのはそんな月並みな言葉だった。クリーチャーもちょっと身体を震わせている。

「今日はお腹いっぱい食べるんだ。ほら」

 ハリーのためにと盛り付けた皿を、今度はきちんとハリーの前まで引き寄せる。ハリーは再びフォークを手に取った。

「ハリエットもだよ」

 食べる手が止まっているのを見て、リーマスも優しく言った。

「お腹いっぱい食べた後にはチョコレートをあげよう。チョコレートは好きかい?」
「うん!」
「ハリー、そんな顔しないで。君の分もあるから」

 羨ましそうな顔をするハリーに、思わずリーマスは噴き出した。ハリーは照れたように下を向いた。シリウスはチョコレートという単語に打ち震えた。リーマスめ、まさかそんな切り札を持っていたとは!

「クリーチャー、何か甘い物はないのか?」

 シリウスはサッとキッチンに視線を走らせた。

「デザートになるようなものだ」
「生憎と甘い物は常備しておりません」
「ケーキは作れるか?」
「今から作ったとしても、焼き上がりまでには三十分ほどかかります」
「くっ!」

 シリウスは呻いた。ハリーは慌てふためく。

「あの、チョコレートで充分です」
「私達、チョコレート好きだから」

 違う、そうじゃない。

 子供達以外の誰もがそう思ったが、知らぬは純粋な双子のみ。

 ジェームズとリリーの学生時代の話をしながらの食事はあっという間だった。食後にはのんびりお茶をしながらハリー達が生まれた時の話でもしようと思っていたら、何と彼らはクリーチャーの洗い物の手伝いを始めた。そんなことをしなくてもいい、お客様なんだからと言っても、ハリー達は『落ち着かないので』と言って断ってしまう。

 ちょっとくらいなら良いか、と思っていたら、二人はクリーチャーの後にひっついて、掃除をしたり繕い物をしたりし始めたではないか!

 午後はどんなことをして遊ぼうと計画を立てていたシリウスも、これには大慌てだ。いろんな手を使って――動物を使ったり、魔法を使ったり、それこそ多種多様な手段だ――双子の興味をこちらに引き戻そうとしたが、それは適わない。ハリー達にしてみれば、こんないい人達に恩知らずと思われたくなくて一生懸命家事の手伝いをしているのだが、そんなことシリウスもリーマスも知るよしもない。

 クリーチャーはクリーチャーで、まるでひな鳥のように後ろをついて歩く双子に内心おっかなびっくりだった。幼子の相手をしたのは何十年と昔で、相手は主人の息子だった。しかし今度はどうだ。半純血の、敬うには血筋に問題のある双子。

 シリウスの手前丁重に接してはいるが、内心では一物抱えていた。それに、長年染みついた癖で思わず口から悪態が飛び出したとき――彼らは、本当にびっくりした顔をした後、ものすごく悲しそうな顔をするのだ。さすがのクリーチャーも罪悪感を抱き、なるべく口を慎むようにはなったが、それでも混乱の極みだ。

 挙げ句の果てには、いつの間にか双子が姿を消してしまったとそれとなく心配になって探してみれば、居間でシリウスと相対しているのが見えた。聞き耳を立ててみることには。

「シリウス……」
「ん? どうした? やっぱりわたし達と遊ぶか?」
「ちょっと聞きたいことがあって……。あの、シリウスがクリーチャーのご主人様だって聞いたんだけど」
「そうだ、間違いない」
「気を悪くさせたらごめんなさい」

 思い詰めた顔でハリエットがパッとシリウスを見た。

「シリウスは、どうしてクリーチャーにあんな汚い格好をさせてるの?」
「――っ!?」
「可哀想だよ……」

 驚きのあまり言葉を無くすシリウスに、ハリーが追い打ちをかけた。一瞬にしてシリウスは我に返った。

「誤解だ! 違うんだ、ハリエット……。ああ、ハリーもそんな顔をしないでくれ!」

 おろおろと見るからに余裕を失うシリウスに、リーマスは助け船を出してあげることにした。

「しもべ妖精はそういう契約なんだよ」
「けいやく……?」
「約束ってこと。シリウスがクリーチャーに清潔な服を与えようとしたら、クリーチャーはこの家から出て行かなくてはならなくなる」
「じゃあ、僕達から服をあげれば大丈夫?」

 何とはなしに問うたハリーにリーマスは目を丸くした。

「それは……考えもしなかったな」
「私達から服をプレゼントしても良い?」
「ああ、もちろんだとも」

 リーマスが頷けば、ハリエットが駆け出して部屋を飛び出しかけたが――すぐに戻ってきた。

「あ、あの……私、そういえば今自分の服を持ってなくて」

 おろおろと可愛いことを言うハリエットに、リーマスは思わず笑みを零した。

「たぶん、君達の服でもクリーチャーにはちょっと大きいかもしれない。タオルケットはどうかな」

 双子はパッと歓喜を露わにしたが、すぐにしゅんとする。シリウスには二人の気持ちが手に取るように分かった。なぜなら、まるでご機嫌伺いでもするかのようにビクビクシリウスを見上げてきたからだ。

「そういえば、居間のテーブルの上に、もらい物のタオルケットがあった。わたしは同じ店のものしか使わないから、正直持て余していたんだ」
「…………」
「君達にあげよう」

 期待の籠もった目に耐えきれず、ついにその一言を口にすれば、双子は嬉しそうに同時に頭を下げた。

「ありがとうございます!」
「お礼ならいい」
「でも……」
「そうだな、そんなに言うなら、今からの君達の時間をもらってもいいか? 久しぶりの休日で、遊びたくて仕方がないんだ。なのに君達はクリーチャーの手伝いをしてばかりでわたしは暇で……」

 わざとらしく悲しそうな顔をして言うと、ハリー達は何の使命感に駆られたのか、『一緒に遊びます!』と宣言した。狙い通りだ。

 居間からタオルケットを持ってきたハリー達は、針と糸を使って器用に洋服もどきを作った。笑顔で差し出された手製の洋服に、クリーチャーは複雑な心境ながらも受け取るしかなかった。

 正直な所、クリーチャーはシリウスに反抗する意味でもわざと汚らしい格好をしていたというのもあるのだが、純粋な幼子からの贈り物を足蹴にすることなど、今のクリーチャーにはできなかった。

 クリーチャーの汚い格好騒ぎが落ち着いた後は、ようやくシリウスの癒やしの時間がやって来た。もう一度箒に乗って空を楽しんだり、バックビークに餌をやったり、いろんな魔法を見せてあげたり、ヒューヒュー飛行虫で遊んだり。

 楽しい時間はあっという間だった。太陽が傾く頃にクリーチャーが食事の時間だと呼びに来た。

 夕食も、昼食の時と同じように給仕をした。この頃には、すっかりクリーチャーも双子に絆された様子で、『レギュラス坊ちゃまの幼い頃を見ているかのようです』と、彼なりの分かりにくくも最大限の褒め言葉を口にするほどだった。

 夕食後には、クリーチャーが腕によりをかけて作った特大のケーキが出され、ハリー達は大喜びで食べた。

 たくさん遊び、大はしゃぎし、お腹いっぱい食べ。

 ハリーとハリエットは、いつになく幸せな気持ちで眠気に誘われていた。こっくりこっくり椅子の上で船を漕ぎながらも、それでも楽しい時間をこれで終わらせたくなくて頑張って目を開けている。

「……それにしても……」

 リーマスと話していたシリウスが不意にハリーの方を向いた。

「かっわいいよなあ!」

 突然破顔したシリウスは、くりくりとハリーの頭を撫で回した。その衝撃で眼鏡がずり落ち、ハリーは目を白黒させた。

「あ、あの……?」
「君は本当にお父さんそっくりだよ」

 ちょっと酔っ払った様子のシリウスは、本当に嬉しそうに微笑む。ハリーはポッと頬を赤らめた。

「あ、ありがとう……」

 羨ましそうな雰囲気を感じ取り、リーマスもハリエットの頭を撫でた。

「ハリエットも、お母さんそっくりだよ。後で写真を見せてあげる」
「本当?」
「ああ」

 眠気も相まって、ハリエットはふにゃふにゃと笑った。なんて幸せな光景だろうか。

 しかし、そう思ったのは何もシリウス達だけでなく。

「……ずっとここにいたい」

 思わずと吐かれたハリーの弱音にも願望にも聞こえる言葉は、シリウスの感情を揺さぶった。

 咄嗟に何の言葉も返すことはできなかった。なぜなら、幾度となくアズカバンで夢見ていた光景だったからだ。

 ジェームズとリリーが生きていたら。

 ピーターが裏切ってなんかいなければ。

 ヴォルデモートがいなければ。

 ハリーとハリエット、親友の娘息子を、まるで自分の子どものように可愛がって、たくさん甘やかして。

 なぜ自分はこんなに愛らしい子供達の幼少期を見守ることができなかったのだろう。なぜジェームズは子供達の成長を見ることすら敵わなかったのだろう。なぜこの子達はダーズリーの家で虐待紛いの扱いを受けなければならなかったのだろう。

 返事もできないうちに、ハリーとハリエットは寝入ってしまった。

 シリウスはふうと息を吐き出す。

「……わたしが今何を考えているか分かるか?」
「……いや」
「ダーズリーを闇討ちして来ようと思ってる」
「想像よりもずっとひどかった!」
「もしくはヴォルデモートをこてんぱんにやっつけようと思った」
「……それは私も考えたけど」

 シリウスとリーマスは顔を見合わせ、力なく笑った。

 本当なら、親からたくさんの愛情を注がれたはずの子供達。

 過去を変えることはできない。だが、せめて。

 せめて彼らの未来が愛情溢れた世界にするためにも、やらなくはならないことがある。

 シリウスとリーマスは、決意を秘めた表情で、天国の親友に誓うようにグラスを掲げた。