■別視点

08:彼



*死の秘宝『束の間の平穏』、隠れ穴居間にて*


 夕食後、ハリエットとドラコは示し合わせてロンの部屋に向かった。その様子をソワソワして見ていたのはハリー、ロン、ハーマイオニー、ジニー、フレッド、ジョージ達六人である。彼らはどこからか『伸び耳』と呼ばれる盗み聞きには持って来いの品物を取りだし、足音を忍ばせながら二人の後を追った。

「あの子達、食後にカトラリーを磨くっていう仕事を言いつけられたの覚えてないのかしら」

 モリーは憤慨して六人を見送った。夕食の招待を受けていたルーピンは苦笑いする。

「私がやるよ、モリー。おいしい夕食をご馳走になったからね」
「私も手伝うわ。だからあの子達は見逃してあげてくれない?」

 トンクスもにっこり微笑んだ。モリーは嬉しそうな、でもやっぱり怒りが収まらないような顔をしながら、頷いた。

「分かったわ……ありがとう。私は洗濯物を干してくるから、ごめんなさいね」

 テーブルの上を片付けると、モリーは物置部屋からカトラリーを出してきた。招待客分の量があるので、それはそれはかなりの量だ。ルーピン達はすぐさま磨きにかかる。

「シリウスは行かないで良いのかい?」

 のっそりカトラリーに手を伸ばしたシリウスを見て、ルーピンは悪戯っぽく聞いた。

「子供に混じって盗み聞きなんかできるか」
「あの子達がいなかったらやってたんだ」

 意地悪くルーピンが問い返せば、シリウスはふんと鼻を鳴らした。

「あいつは何をしでかすか分からないからな」
「彼はそんなことしないよ」

 断定的な言い方に、シリウスは驚いたようにルーピンを見た。

「リーマスはあいつの味方なのか?」
「味方……ではないかもしれない。そう言えるほど、私は彼のことはよく知らない」

 ルーピンはそう前置きした。

「ホグワーツでは、彼は理想的な生徒ではなかった。でも、私は一年間しか彼を見ていない。それも、ただの教師と生徒としか接してこなかった。私の知らない一面が、彼にも当然あるんだろう。だからこそ、ハリエットがあそこまで彼のことを気にしてるんじゃないかな。――他でもないハリエットが信頼を置いてるんだ。それが全ての答えだと思うよ」

 シリウスが苦虫を噛みつぶしたような表情になる。トンクスも頷いた。

「私は、今までの彼は知らないけど、ここでの彼はとても良い子だと思うわ。それに、格好良いじゃない?」
「どこがだ」

 シリウスはすぐに鼻で笑った。トンクスはなおも続けた。

「客観的に見たら、よ。女の子にモテるんじゃないかしら、あの容姿だったら」
「そんな訳ないだろう。中身が中身だからな」
「ほんっとシリウスったらあの子のことになると意地悪なんだから……」
「スネイプと彼、どっちが嫌いだい?」

 リーマスが茶化すようにそう言うと、シリウスはギロリと親友を睨み付けた。

「どっちもだ!」

 リーマスは無邪気に笑った。トンクスもクスクス笑い声を上げる。

「でも、普通に考えて、よ? あの子の年で、ヴォルデモートに刃向かおうなんて考える子はなかなかいないと思うわ。しかもそれはハリエットのためだったのよ?」
「何が言いたい?」

 シリウスはその鋭い視線をトンクスに向けた。手にフォークを持っているのでなかなかの迫力だ。トンクスは眉を下げる。

「少しはあの子のこと許してあげてもいいんじゃないかなって。私は、あの子の勇気は賞賛されるべきだと思うわ」
「あいつは死喰い人だ」

 間髪を入れず、シリウスはそう言い放った。

「あなたはそればっかりね」

 トンクスは呆れたように言った。ルーピンも同調するように頷く。

「両親共々闇の陣営側で、父親はアズカバン。そんな状態で、ヴォルデモートの申し出を撥ね付けられると思うかい?」
「間違っていることは間違っていると、最初から確固たる信念を持っていればそんなことにはならない」

 苦々しい顔で言うシリウスにルーピンは、シリウスはもしかしたらあの子を自分と重ねているのかもしれない、と思った。もちろん、二人は性格がまるっきり違うし、考え方も正反対だ。彼は純血主義だし、ハリーを毛嫌いしていた。一方のシリウスは、両親が掲げる純血主義を真っ向から否定し、実際その獅子をも唸らすだろう強い信念でグリフィンドールを勝ち取った。だが、彼とシリウスは――聖28一族の家に生まれた。もしシリウスがグリフィンドールに望まれるような資質ではなかったら、スリザリンだったかもしれない。もし家族と袂を分かつ勇気がなければ、スリザリンだったかもしれない。もしグリフィンドールでなければ――シリウスは死喰い人になっていたかもしれない。
 そんなことをちらとでも考え、シリウスは腹立たしくて仕方がないのだろう。いくら数多くの『もしも』を考えたとしても、シリウスはグリフィンドールだったし、死喰い人でもない。似た境遇でありながら、シリウスと彼は光と闇を進んでいたのだ。自分にはできたことが、彼にはできなかった。だからハリエットにはふさわしくない。

「彼は君とは違うよ、シリウス」

 ルーピンは、優しい口調で諭すように言った。

「弱冠十一歳で、家風に楯突こうと考える君の方が特異なんだ。普通は、両親の教えに染まって、両親が言うままにそれが正しいと思い込むのが普通だよ。私は、大切なのはそれからどうするかだと思う。いろんな人と接していくうちに、自分の考えを改めるのか、それともやはり正しいのだと揺るがない信念を築くのか」

 一年間教師をしていたせいもあって、ルーピンの口調はすんなり頭の中に入ってくる。トンクスはそんな夫を見ながら、嬉しそうに目を細めた。

「私は、何でもかんでも白黒つけないで良いと思うわ。互いに譲り合って尊重する。そういう関係性もいいと思わない?」
「ハッフルパフらしい素敵な考えだと思うよ」

 ルーピンもトンクスを見て、にっこり微笑んだ。

「シリウス、何はともあれ、大切なのは今だと思うよ。彼はヴォルデモートに刃向かう決心をして、私達の所に来てくれた。それが彼なりの後悔と勇気だと思うよ」
「スネイプは我々を裏切った。改心したとダンブルドアに擦り寄りながら、ヴォルデモートの復活を目論んでいたんだ……」
「彼はスネイプとも違うよ」

 ルーピンの声色に、少し苛立ったものが含まれた。

「学生時代、スネイプは自ら闇の魔術に傾倒していった。リリーに何を言われても、聞く耳を持たなかった……。でも、彼は違う。ある意味、子供だったんだ。小さい頃からずっと親の言いなりで、ある意味、彼ら無しでこれほどまでに大きな決断したのはこれが初めてなんじゃないかな」
「どうしてそんなに詳しいの?」

 トンクスは興味津々にルーピンを見た。ルーピンは気まずそうに笑った。

「マッドーアイと少し彼のことについて話したんだ。開心術で、マッドーアイが何を見たのか」
「何を見たんだ?」

 シリウスが少しだけ興味深そうに目を上げたので、ルーピンは内心おかしくなってしまった。

「何って、さっき言ったとおりだよ。彼は心から両親を敬愛していた。両親の教えを忠実に守っていた。それに、彼自身普段は高慢な態度だったし、決して良い性格とも言えなかった。ただ、ハリエットの前では、年相応の少年に戻るみたいだね」
「どういう意味だ?」

 シリウスが反応したのは『年相応の少年』という部分だ。彼に関してはやたら勘ぐり深いシリウスが、聞きようによっては不穏な響きにも聞こえるこの言葉に反応しない訳がなかった。ルーピンは慌てて首を振る。

「何を想像してるのかは知らないけど、あくまで普通の男の子だったってことだよ。ハリエットの前では、彼もただの少年だった。僕たちのように悪戯をする仲間でもなければ、ハリーやロン、ハーマイオニーのように信頼し合ってる親友でもない。かといって、家の名前に傅くような取り巻きでもない。喧嘩したり仲直りしたり、ハリエットの前では、彼も素直になれるんだよ」
「何となく分かる気がする」

 トンクスはほんのり微笑んだ。

「彼、ずっとハリエットのこと気にしてるものね。話しかけはしないけど、チラチラ見てる」
「自分には話しかける資格がないとでも思ってるんじゃないかな。操られていたとはいえ、自分のせいで好きな子があんな目に遭ったんだ。以前のように、という訳にはいかない」
「だからって、ハリエットはきっともう許してる。避けられることの方が辛いわ。二人がまた元の関係に戻れれば良いけど……」

 聞き捨てならない、とでもいうように、シリウスのナイフを握る手に力が入った。トンクスは慌てて続ける。

「だ、だって、あの子、本当に良い子そうに見えるんだもの。真面目に仕事をするし、誰かと喧嘩もしないし」
「私は、それが逆に少し心配だけどね」

 ルーピンは呟くようにして言った。

「今の彼は、目に見えて元気がない。ご両親のことが心配なんだろう。……そのうち、神経がやられてしまわないか、私は心配――」
「これは没収だ!」

 ルーピンの低い声を遮って、ドラコの興奮した声が響いた。ついで、ドタドタと階段を駆け下りる音がする。

「おい! 止めろ! それは俺たちの――」
「マルフォイ! ママにバレたら、僕らただじゃ済まされないんだよ!」

 階段からドラコが現れたと思ったら、続いてフレッドやロンも姿を現した。大人達が子供の分までカトラリーを磨いているというのに、全く彼らときたら、何を呑気に追いかけっこなんかしてるのか。
 シリウスはジト目でルーピンを見た。

「誰が元気がないって?」
「あはは……何か心境の変化があったみたいだね。ハリエットのおかげかな」

 その言葉は、当然シリウスを一層不機嫌にさせた。
 当のドラコは、肩で息をしながら、何かを後ろ手に持ち、フレッド達と相対している。腕を組んだモリーが、犯人を追い詰めたような顔をしてドラコとロン、フレッドとジョージを居間の隅まで追い立てた。

「私にバレたら……何ですって?」
「い、いや、何でもないよ、ママ」

 ロンが冷や汗を流しながら首を振る。フレッドも援護した。

「そうだよ! 俺らはドラコ坊ちゃんと親睦を深めようとしていただけさ、な?」

 そしてドラコの肩に腕を回し、彼は何やら囁く。
 交渉がまとまったのか、しばらくして、フレッドは満面の笑みでドラコの背中を叩いた。

「俺たちのことはフレッドとジョージで良いぜ、な?」
「もちろんだ。ドラコ坊ちゃん!」

 ――いつの間に、彼らはこんなに仲良くなったのだろうか。
 隠れ穴での彼は、可能な限り影を薄くし、誰ともほとんど話さないようにしていた印象だったが、今の彼は、確かにルーピンの言うとおり『年相応の少年』に見えた。青白い顔は血色良く色づき、羞恥と怒りと困惑がない交ぜになった、自分でもよく分からないのだろう複雑な表情で彼はフレッドとジョージを見ていた。
 そして肝心のハリエットは。
 階段のすぐ側で、眩しそうな目でドラコを見つめていた。口元は綻び、母親のように慈愛に満ちた表情を浮かべている。シリウスの胸がチクリとした。

「……おい、遊んでる暇があったら手伝ったらどうだ」

 反射的に口から出てきた声は、とことん低いもので。フレッドやジョージなどは気にも留めないが、ドラコを威嚇するには充分だったようだ。ぴしりと身体を固まらせ、おろおろとシリウスとモリーを見つめる。

「もちろんよ、シリウス!」

 シリウスの不機嫌さは、今のハリエットには伝わらなかったようだ。すぐにシリウスの前に腰掛け、ドラコに向かって手を上げた。

「ドラコ! こっちへ来て!」

 一緒にやりましょうと彼女は手招きする。その場の誰もがぎょっとしたが、誰も何も言わなかった。『それ』を指摘してしまうと、争いは避けられないと分かっていたからだ。
 多少の後ろめたさはあったのだろう――いや、下心もあったに違いないとシリウスは確信した――ドラコは、恐る恐るハリエットの隣に腰掛けた。
 そして三人は、もくもくとカトラリー磨きに専念することになった。
 何が嬉しくて、可愛いハリエットを挟んでドラコ・マルフォイなどとカトラリーを磨かなくてはならないのか。
 シリウスは不満で仕方がなかった。気を利かせたつもりなのか、はたまた茶化したつもりだったのか、ルーピンとトンクスは示し合わせたようにもう帰らなくてはと席を立った。フレッド達もいつの間にやら姿を消し、いつの間にか居間にシリウスとハリエット、そしてドラコしかいない。
 この空気の悪さに気づかないのは、おそらくハリエットだけだろう。
 しかし、鼻歌でも歌いそうなくらい上機嫌なハリエットに他愛もない話をされると、シリウスもこの状況に文句を言うことはできなくなってしまった。
 ハリエットの話に相槌を打ちながら、シリウスはチラリとドラコを見る。
 彼の目元は少し赤く、もしかしなくとも、彼が涙を流したのだということが窺える。
 この様子では、きっと二人は仲直りをしたのだろう。また友達に戻ったのだろうか? それとも、それ以上に?
 ルーピンの言葉が頭を過ぎる。
『喧嘩したり仲直りしたり、ハリエットの前では、彼も素直になれるんだよ』
 もし彼と喧嘩すれば、ハリエットは意地悪なことを言われるんじゃないだろうか。また傷つくようなことになるんじゃないだろうか。また彼が裏切ったりしたら、今度こそハリエットはこの手に戻ってこなくなるかもしれない。
 シリウスの心配は尽きない。もちろん、自分自身がドラコ・マルフォイを気に入らないという要因は大きい。だが、それ以上に、ハリエットを心配する気持ちが強いのだ。シリウスには後悔しかなかった。自分だってあの場にいたのに、みすみすハリエットを連れ去られてしまった。自分がもっと早くハリエットの元に駆けつけていれば、彼の呪文を避けることができていれば、スネイプの裏切りに気づいていれば――。

「シリウス?」

 暗い面持ちで黙り込むシリウスを心配して、ハリエットが覗き込んでいた。シリウスは慌てて笑みを取り繕った。

「何でもない。ちょっと考え事をしていただけだ」

 だが、シリウスはハリエットを悩ませたくはなかった。彼女は今は不安定な状態だ。拷問を受け、正気を失い、長い昏睡状態になり……。ようやくと最近目を覚ましたが、まだ充分に回復したとは言えない。ドラコ・マルフォイのことは気にくわないが、あれこれと交友関係について口を出して、ハリエットを精神的に追い詰めることだけはしたくなかった。悲しませたいわけではないのだ。
 だからこそシリウスは、できるだけハリエットに気づかれないよう、二人の邪魔をしようとしたのだ。ドラコ・マルフォイがハリエットに好意を持っているのは見ていればよく分かった。ならば、自分は二人の中がこれ以上親密にならないよう見張るのみ。
 シリウスは瞳を光らせて、油断なくドラコ・マルフォイを監視し続けることを心に誓った。