■過去の旅

11:燻る心


 現在、ハリーは何者かに抱えられ、文字通り飛ぶようにして廊下を移動していた。時折くくっと堪えるような忍び笑いには、どこか聞き覚えがあったが、残念ながら、その答え合わせはできなかった。手足を縄で縛られた上、目隠しをされているからだ。

 不思議と恐怖や混乱はない。何となくではあるが、この声にも、こんな『悪戯』をしでかす輩に身に覚えがあったからだ。

 仮にもハリーは十三歳の立派な男児で、それなりに体重もあるが、二階、三階と階段を駆け上がる彼に疲労は見られない。おそらく、その学年主席の頭脳を以てしてこの状況に相応しい魔法を使っているのだろう。

 ようやく目的地に着いたのか、バンッと音をたてて彼は扉を開く。ツカツカと部屋の奥へ歩みを進め、柔らかなソファへとハリーを下ろした。

「誰だ? マルフォイか? おい、誰だって聞いてる!」

 唐突に隣から聞き覚えのありすぎる声が聞こえた。ハリーは思わずそちらへ顔を向ける。

「ロン?」
「……ハリー? ハリーかい? ハリーがこんなことやったの?」
「僕じゃないよ。たぶん僕も君と同じ目に遭った」

 自分達が連れてきたというのに、ハリーとロンを捨て置き、誘拐犯はのんびり会話を始めた。

「遅かったな」
「二階からここまで来たんだよ? むしろ早いくらいさ」
「いいや、エバンズを追っかけてるお前の方がよっぽど早かった」

 ポンポンと軽快に交わされる会話は、どこか既視感のあるものだ。――そう、今朝だって同じような会話を耳にした。

「後の二人はどうした? まさか失敗したのか?」
「どうだろうね。地図で確認してみるか。……われ、ここに誓う。われ、よからぬことを企む者なり――」

 最後まで言い切るよりも早く、再び扉が開かれた。入ってきたのは二つの足音。

「……なに? ここ?」

 困惑したような高い声は、紛れもなくハーマイオニーだ。

「見ての通りさ、ハーマイオニー」

 そしてそんな彼女の問いに答えるは、ジェームズ・ポッター。

「君達の歓迎会だ!」
「……歓迎会?」

 ハーマイオニーは訝しげに聞き返した。不信感ありありのその声は、顔を見ずとも彼女の心境を色濃く表している。

「あの……残念ながら、全然そういう風には見えないんだけど。そもそも、ハリーとロン? 二人はどうして縛られてるの?」
「特に意味はない」

 ないのか。

 ハリーは思わず閉口した。

「強いて言うならサプライズかな。普通に連れてくるだけじゃ面白くないだろう? 拉致だ! ってドキドキさせたかったんだ」
「思い切り理由あるじゃない」

 ハーマイオニーがハリーの気持ちを代弁してくれた。

「とにかく、二人の拘束を解いてあげて。そんな格好じゃいじめられてるようにしか見えないわ」
「仰せのままに、お嬢様」

 わざとらしく一礼し、杖を一振り。すると、あっという間にハリー達の目隠し、拘束が解かれた。ロンはキョロキョロ飾り付けられた部屋を見回し、ハリーは呆れた顔で立ち上がる。

「ジェームズ……?」
「やあ、ハリー。サプライズはどうだった?」
「うーん、ちょっと驚いたかな」
「おや、思ってた反応と違うな。てっきり喜んでもらえると思ったのに」
「いや、もちろん嬉しいんだけど――」

 小さな音をたててまたも扉が開いた。この部屋唯一の扉だ。そして皆が視線を向けた先には――何もない。ただ静かに扉が開き、そしてまたゆっくり閉じられただけだ。ハリーは首を傾げ、そしてジェームズは口角を上げる。

「最後の主役がようやく登場だ」
「遅くなってごめん」

 背景のヴェールを脱いだかのように、何もない所からポッと現れたのは気弱な笑みを浮かべたピーター・ペティグリュー。そしてその彼の腕には、青白い顔でぐったりしているハリエット・ポッターの姿がある。

 ハリーは、一瞬では全てを理解できなかった。にもかかわらず、気がついたときには身体が跳ねるように動き出し、ピーターの胸ぐらを掴んでいた。勢いに押されるがまま、ピーターは今閉めたばかりの扉に身体を押さえつけられる。

「――っ」
「お前ッ!」
「くっ、くるし――」
「ハリエットに何をしたんだ!?」
「ハリー!」

 一体どうしたんだ、とジェームズとシリウスが両側からハリーを押さえ込んだ。

「ハリエットを連れてくるようピーターに頼んだのは僕らだ。ピーター、ハリエットは怪我なんてしてないよね?」
「う、うん……」

 圧迫感から解放され、ピーターはおどおどしながらハリーを見つめ返す。ハリーは一瞬冷静になりかけたものの、力の緩んでいた拘束から抜け出し、すぐにハリエットを奪い取った。

 男とは言え、同い年の少女を抱えるには足りない筋力にもどかしく思いながら、ハリーは妹を抱えてしゃがみ込んだ。ジェームズは気遣うような声色で杖を振るう。

「リナベイト。――ほら、ハリー、ハリエットは気絶してただけだよ」

 ジェームズの言う通り、ハリエットはすぐに瞼を震わせて目を開けた。ジェームズとそっくりな、ハシバミ色の瞳がハリーを映し出す。

「ハリー……?」
「何もされてない?」

 ハリーは囁くように問いかけた。ハリエットは何が何だか分からないと言った様子で微かに首を傾げる。

「何の話?」
「君達の歓迎会を開きたくて、ピーターに君を連れてきてもらったんだ。驚かせたくて、些か乱暴な手段になったのは認めるけど……」

 歓迎会、と小さく呟いて、ハリエットは目だけでぐるりと周囲を見回した。

 『ホグワーツへようこそ!』の文字がキラキラ輝く垂れ幕の下では。ロンやハーマイオニーが心配そうな表情を浮かべ、シリウスやリーマスも戸惑った顔をしている。それに、気のせいでなければ、ハリーはここ最近類を見ないほど心配そうな顔をしている。それに加えて、ピーターの大変に申し訳なさそうな表情も。

 ハリエットは、薄ら状況を理解した。そして焦った頭が生み出した答えは。

「わっ……わあああっ!」

 いっそ清々しい程にハリエットはわざとらしい歓声を上げた。懸命に感情を込めたつもりだが、しかしこの冷え切った部屋には白々しく響き渡った。

「す、すごい! 歓迎会!? まさか、私達のために? とっても嬉しいわ!」
「あー、うん、喜んでくれて嬉しいけど……」

 ジェームズはチラチラハリーを見ている。あからさまに怒ったオーラを出している彼のことが気になって仕方ないのだろう。ピーターもまたひどくしょげ返っている。

「ハリエット、ごめん。強引に連れてきちゃって……。こんなやり方しか思い浮かばなくて、その」
「ううん、気にしないで。別に怪我をした訳じゃないんだし。ハリーももう良いでしょう? いくら驚いたからって、ね?」
「…………」
「ハリーも、ごめん」

 沈黙に耐えきれず、ピーターは頭を下げた。対するハリーは、目を伏せて黙したままだ。ハリエットが彼の袖を引っ張ると、ようやく小さく頷いた。

「さあ、気を取り直して歓迎会だね」

 気まずい雰囲気をいち早く吹き飛ばしたのはリーマスだった。ロンとハーマイオニーの肩に手を置き、部屋の中央にあるテーブルの方へ連れて行く。そこには、ハロウィーンのご馳走かと見紛うほどの料理やお菓子が並べられていた。

「うわっ、おいしそう!」
「だろう? しもべ妖精達に用意してもらったんだ」
「朝食のすぐ後で申し訳ないけどね」

 ジェームズが苦笑しながら口を挟んだ。

「本当は夜に歓迎会を開きたかったんだけど、君達は編入してきたばっかりだし、寮に帰るのが遅くなったら駄目だってリーマスが」
「当たり前だろう? まだホグワーツ一週間の彼らに減点を味わわせる訳にはいかない」
「僕らがそんな目に遭わせる訳ないだろう? そんなことになったら、悪戯仕掛人の名が廃るよ!」

 部屋に散らばっていた皆が徐々にテーブルの方へ集まってくる。ハリエットは、その時ようやくハリーの様相に気がついた。何故だかトレーナーが汚い。土埃に塗れているのだ。朝の時は普通だったのに。

「ハリー、その格好どうしたの? 転んだの?」
「ああ、違うよ。ジェームズにやられたんだ。落とし穴でね」
「僕なんか網だよ」

 ロンは恨ましげにシリウスを見た。シリウスはニヤリと笑う。

「貴重な体験ができただろう?」
「どこが!」
「ハーマイオニーは何されたの?」

 何気なく尋ねたハリーは、ハーマイオニーがポッと頬を赤らめたことに逆に驚いてしまった。

「え……なに? どうしたの?」
「……んよ」
「なんて?」
「本よ!! リーマスに、監督生だけが使える特別な図書室があるんだって言われてついてきたの! 悪い!?」

 火がついたように怒り出したハーマイオニーに、ハリーとハリエットは目を白黒させた。唯一なぜかロンだけは冷静だ。

「ハーマイオニー……大丈夫かい? 今時子供でも蛙チョコに釣られないって言うのに」
「僕は不審者なの?」

 リーマスは困ったように笑った。ジェームズは訳知り顔で彼の肩を叩く。

「不審者極まりないよ。まさかそんなスマートかつ腹黒く大胆な誘拐方法をとったとは……。いやはや、恐れ入った」
「ジェームズ、馬鹿言ってないで早く乾杯しようぜ」

 シリウスが杖を振れば、テーブルの片隅にあったジョッキが一人一人の前にポンと現れた。大きなジョッキに並々注がれたそれは、見慣れた飲み物で。

「バタービールだ!」

 ホグズミードに行ってからというもの、すっかり大好物になってしまったロンは嬉しそうにジョッキを持った。リーマスがきょとんと彼を見る。

「バタービール、飲んだことあるの?」
「えっ? そりゃもちろん――」

 隣でハーマイオニーがロンの足を踏んだ。ロンはゲッと口の中で悲鳴を上げる。

「アー、えっと……」
「入学用品を買いに行ったときに、漏れ鍋で飲ませてもらったの。あまりにおいしくて、それからロンの好物になっちゃって」
「そうそう、そうなんだ!」
「おいしいわよね、バタービール!」

 ハリエットもあまり戦力になってない援護をする。ハーマイオニーの助太刀は影響力があったようで、あまり追求されることはなく、ジェームズが皆を見回して。

「バタービールを用意して正解だったね! じゃあ皆、ジョッキを掲げて――ようこそ、ホグワーツへ!」

 ガチッと鈍い音をたててジョッキが鳴る。テーブルは少し大きかったが、ハリエットが身を乗り出せば、向こう側から長い腕を伸ばしてゆうゆうとシリウスやジェームズが乾杯しに来てくれた。皆がニコニコしているのが見える。ハリエットも久しぶりのバタービールに舌鼓を打ちながらにっこり微笑んだ。

「さあ、遠慮なく食べてくれ」
「用意したのは僕達じゃないけどね」
「野暮はなしだよ、リーマス」

 皿の上に盛られているのは、見たことのない料理ばかりだった。二十年近くもの過去なので、しもべ妖精達の料理のレパートリーが未来とは違うのも当たり前なのかもしれない。もちろんこれはこれでとてもおいしかった。

 お腹が膨れた後は、皆で魔法界のゲームをして遊んだ。『マグルの遊びも良いけど、郷に入っては郷に従えって言うだろう?』と気を遣ってジェームズ達はたくさん教えてくれたが、生憎と魔法界の遊びはどれもロンから習得済みだったため、ハリー達は初心者を装うのに必死だった。特にロンは何度も冷や冷やする場面に陥り、その度にハーマイオニーが彼の尻拭い係と化した。――談話室に戻ったら必ずやってくるだろうハーマイオニーの説教タイムを思い、ハリーとハリエットは顔を見合わせて苦笑した。

 歓迎会は、昼を越して夕方まで行われた。夕食まで持ち越すかと思われたが、リーマスの監督生の仕事があったため断念された。とはいえ、それでも間違いなく素晴らしい一日だったと言える。最初こそ不穏な空気だったが、終盤にはそんなことすっかり忘れて楽しんだ。

 ――はずだが、本当に?

 ハリーも、もちろん楽しそうな顔をしていた。だが、ハリエットはどうしても胸に燻る不安を消しきれずにいた。

 歓迎会の最中、時折ハリーと目が合った。寝室へ上がるときだって、彼からの視線を感じた。

 ハリーはきっと無意識だ。無意識のうちに、何か言いたいことでも――自分の胸の内に秘めるだけじゃ収まらない何かが込み上げてしまったのかもしれない。

 就寝時間をとうに過ぎた寝室は、もちろん真っ暗だった。寝息も同室生の三人分が漏れ聞こえる。

 カーディガンを羽織り、ハリエットは寝室を抜け出した。階段を降りれば、談話室にはまだ一つだけ明かりが灯っていた。仄かなオレンジ色に浮かび上がるのは、どんな色をも通さない黒髪。特徴的なクシャクシャ頭は、ジェームズとよく似ているが、ハリエットは見紛わなかった。

「ハリー、眠れないの?」

 ハリエットは前を向いたまま彼の隣に腰掛けた。ハリーもまた、ハリエットの方は見なかった。

「どうして僕達はここにいるんだろう」

 そして吐かれた言葉は、答えを必要としない問いだった。

「最初はとても嬉しかった。本当に嬉しかった。頑張った僕達へのご褒美なのかとも思った」
「……ええ、そうね」
「でも、死んじゃうんだ」

 あっさりと口にされた言葉に、ハリエットはぎゅっと手を握りしめる。

「夢を見ているようなものなんだよ。どうしたって過去を変えることはできない。元の時代に戻ったら、父さんと母さんは死んでて、シリウスは脱獄囚で――ペティグリューは裏切り者だ」

 ようやくハリーはハリエットの方を見た。その表情は今にも泣き出しそうで。

「今、あいつを――」

 ハリーは、全てを口にはしなかった。だが、ハリエットはサッと顔色を悪くする。その先の言葉が分からないほど鈍感ではなかった。

「なんてこと言うの!」

 ハリエットは叫ぶようにして怒鳴った。

「ハリー……冗談でもそんなこと言っちゃ駄目。駄目よ……」
「分かってる……。ちょっと、一瞬でもそう思ったってだけ」

 まるで拒絶するかのように、ハリーはサッと立ち上がった。ハリエットの視線から逃れるようにして俯く。

「あいつと仲良くしないで……」

 囁くようにして言うと、ハリーは振り返らずに寝室への階段を上って行った。