■過去の旅

15:昼下がりの戯れ


 十一月に入ると、いよいよクィディッチ・シーズンが始まった。ハリーとハリエットは、この時期を今か今かと待ち望んでいたので、内心大喜びだった。

 なんと言ったって、初めて父がクィディッチをプレイする所が見られるのだ。楽しみでないわけがない。

 ただ、ホグワーツの雰囲気は余り良いとは言えなかった。

 ヴォルデモートの脅威が去ったハリー達の時代でさえ、シーズンが始まればバチバチと互いに敵対し、特にグリフィンドールとスリザリンの間では、呪いを掛け合う事態にまで発展していた。それが、今まさに闇の時代真っ只中とあれば、くらげ足の呪いやできものの呪いはまだ可愛い方で、蜂刺しの呪いや結膜炎の呪い、更には聞き慣れない呪文の、人を宙づりにさせる魔法まで掛け合っているのだ。この時代も、犬猿の仲なのはグリフィンドールとスリザリンで、特に今回対決するのはグリフィンドールとレイブンクローだというのに、グリフィンドールが惨敗するのを期待するかのようにスリザリンはすれ違い様グリフィンドールの選手に呪いをかけていく。

 そんな中で大活躍だったのは悪戯仕掛人だ。彼らはいつもグリフィンドールの危機に颯爽と駆けつけ、その見事な手腕で寮生を守るどころか、二倍のしっぺ返しまでお見舞いしていく。彼らはまさしくグリフィンドールのヒーローだった。

 ハリエットの言葉を聞き入れてくれたのか、それとも単にそんな時間が無いだけか、あれ以降ジェームズとシリウスが誰かに理不尽ないじめをしている様子はなく、ハリエットは内心ホッとしていた。


*****


 秋風も随分冷たくなってきた今日この頃、冬の校庭はあまり人気が無い。だが、その一方で、クィディッチ・シーズンの始まるこの時期は、一時的にだが人気が多くなる。というのも、寮生同士の小競り合いで雰囲気の悪くなっている大広間で食べることを忌避した生徒が外に繰り出し、ピクニック気分を楽しむ光景がチラホラ見られるからだ。

 ジェームズ達悪戯仕掛人もその類に漏れなかった。そもそもは、彼らも大広間で食べるはずだったのだが、視界の隅にリリーがハリエットら友人達と共に大広間から出て行くのが見え、ジェームズは喜々としてリリーの後を追ったのだ。誰が言い出したのか、リリー・エバンズの行く所にジェームズ・ポッターあり、という言葉は、あながち間違いでも無い。

 『僕達と一緒にランチしないかい?』というジェームズの台詞は、リリーによっていとも容易く切り捨てられた。ハリエットはもちろんのこと、リリーの友達のほとんどが名残惜しそうな顔をしたが――人気者揃いの悪戯仕掛人は女生徒の憧れなのだ――リリーは聞き入れなかった。

 無碍にされてもジェームズは諦めず、リリー達から少し離れた場所に陣取り、そこで昼食を食べることにした。

 さすがはジェームズといった所か、彼は直接リリーの視界に入るような場所ではなく、ふと視線を外せば必ず視界に飛び込んでくるような、そんな絶妙な場所をチョイスしていた。そうして、彼は得意げな顔でスニッチを弄び始める。リリー達の方を気にしながら、スニッチを飛ばしては、すぐにキャッチするという遊びだ。ジェームズが上手くキャッチする度、ピーターは歓声を上げた。

「はあ」

 だが、両の手を使っても数え切れないほどスニッチをキャッチし、それでもリリーの気が引けないことが分かると、ジェームズはスニッチをポケットに引っ込めた。どうあっても、リリーがこちらを見てくれないことにようやく気づいたのだろう。

「僕のアニメーガスが可愛い猫だったらなあ。あの中に入っていけるのに」
「未登録のアニメーガスがバレたら最悪アズカバンだぞ。エバンズにも一生会えなくなっても良いのか?」
「どんなヘマをしたらバレるって言うんだよ。もう一日中ずっと動物の姿でいたってしんどいことはない。絶対にバレないよ。……そうだパッドフット、今から犬になって、エバンズの所に行ってきてよ。話すきっかけになるじゃないか」
「何だそれ」

 ジェームズもそれほど本気ではなかったのか、それ以上食いつきはしなかった。草地に足を投げ出しながら、ぼんやりと空を見上げる。

「そう言えば、最近二人がスネイプに絡んでる所見ないね?」

 不意にピーターがそんなことを言った。

「ああ、スネイプね。うん、まあ」
「もしかして、ハリエットと関係してる?」

 本を読みながら、リーマスはちらりと視線だけ上げてジェームズを見る。ジェームズは目を瞬かせた。

「どうして分かったんだい?」
「ちょっとぎこちないように見えたから」

 ジェームズもシリウスも、観察眼は鋭い方だが、そこに『客観性』を付け足すとなると、途端にリーマスが首位に躍り出る。良くも悪くも、ジェームズとシリウスは排他的で盲目な所があった。

 その点、リーマスは人の機微に鋭い。幼い頃から己の持病と戦ってきたが故、周囲の態度の変化には鋭いのだ。

「僕はそうでもないんだけどね、パッドフットとハリエットが気にしてるみたいだ。ハリエットは、僕達がスニベルスに絡むのが嫌みたいでね。いじめみたいだからって」
「ハリエットはスニベルスの本性を知らないんだよ。闇の魔術を開発して、スリザリンで流行らせてる」
「ああ、あれは凄いよね。レビコーパス、だっけ?」

 純粋に尊敬の念を声に載せたピーターは、すぐさまシリウスに睨まれた。

「それに、最近スニベルスがつるんでるマルシベールとエイブリー、奴らは生粋の純血主義だ。マグルどころか、マグル生まれも嫌ってる。スニベルスは一体何を考えてるんだ? 奴らがエバンズに危害を加えたらどうするつもりなんだ」
「何にも考えてないに決まってるさ。この前なんかあいつ、マルシベールがメリー・マクドナルドに呪いをかけてる所、見て見ぬ振りしてたんだぜ。マクドナルドがエバンズの友達だって知ってるはずなのに」

 頭の後ろで腕を組み、シリウスは芝生の上に寝転がった。

「あの場面をエバンズやハリエットにも見せてやりたいよ。勘当されること間違い無しかな」
「おや、おやおや、パッドフット君?」
「何だよ」

 急にニヤニヤし出した親友に嫌な予感を覚えつつも、シリウスは聞き返さずにはいられなかった。

「君、もしかして妬いてる? 割と気に入ってる子がスニベルスの味方をするのが気に食わないんだろう?」
「違う」

 シリウスはギロリと睨み返した。ピーターが意外そうにきょとんとする所が目に映り、余計に苛立ちが増す。

「勝手なこと言うなよ。俺はお前と違うんだ」
「そりゃあ、僕とは違うだろうけど、でも、正直面白くないだろう? パッドフットは好き嫌いが激しいからなあ。一度懐に受け入れた子がそっぽを向くのは好きじゃないだろう。君の愛する弟だって――」

 不意にシリウスが立ち上がった。そしてしばしジェームズを見つめたかと思うと――ポンッという軽快な音とともに、黒犬の姿へと変化した。アニメーガスだ。

「なんだい? 分が悪くなったからって逃げるのかい? パッドフットがそんなに臆病者だとは知らなかったよ」

 黒犬は、馬鹿にするようにふふんと鼻を鳴らすと、とことこ歩き始めた。本格的に逃げ出すつもりなのだと半ば呆れた思いで見守っていれば、彼が向かった先はリリーのいる集団で。

「あ、あれ? パッドフット? どこへ行くつもりだい? そっちはエバンズがいるだけ……」

 黒犬が振り返り、またも鼻を鳴らした。ジェームズはようやく理解した。あの親友はやり返すつもりなのだと! 己の心の大部分を占める女性、リリー・エバンズを使って!

 女子というものは、総じて動物が好きだ。シリウスはそれを分かって自ら愛でられようと――ッ、なんてたちが悪いんだ!

 慌ててシリウスを引き留めようとしたジェームズだが、笑いを堪えているリーマスに引き止められる。

「まさか、ムーニー! 君まであいつの味方をするつもりか!?」
「このまま黙って見てよう。きっとその方が面白いことになるよ」

 表向きは優等生を貫いているリーマスだが、内輪には存分に悪戯っ子な性分を見せる。今もなお彼を支配しているのは、その勘が生み出す期待と興奮のようだ。こういうときのリーマスの予想は大抵外れない。ムスッとしながらも、ジェームズが大人しくすれば、事はすぐに起こった――。

「ぐっ、グリムだわ!」
「グリム!?」
「グリムって、あの死神犬の!?」
「きゃあああっ! 助けて!」

 木々の影に数人固まって談笑していた、あの穏やかな光景は、今や阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。突然現れたクマのように大きい黒犬に怯え、女生徒は皆一様に立ち上がり、美味しく食べていたサンドイッチですら放り投げている。中には犬に杖を向ける者までいる始末。ジェームズはお腹を抱えて笑い出した。

「くっくっく、グリムだって! この可能性を考えてなかった! 確かに、パッドフットは、女子から見ればグリムにしか見えないかもしれない!」
「僕達、すっかりシリウスのあの姿に慣れちゃってたもんね。そりゃあ初めて見る女の子は驚くよ……」

 ピーターは同情の目で現場を見た。シリウスと女の子達、そのどちらを気の毒に思っているかは、その表情からは読み取れない。

「さあて、ここは一つ、ヒーローのご登場といこうか」

 髪をほんの少しくしゃくしゃさせると、ジェームズは気取った態度で腰を上げた。

「凶暴な野良犬に襲われるエバンズ、そこに颯爽と現れる僕、ああ、この人は私のヒーローだわってなるに決まって――」
「ハリエット、危険よ!」

 リリーの鋭い声がジェームズの妄想を打ち破った。ジェームズは半ば反射的に杖を手に取り、駆け出していた。ハリエットを危険に陥れている存在が親友のことだとは、ジェームズの頭からはすっぽり抜け落ちていた。とにかく、早くハリエットを助けなければとただその一心だった。

 リリーの言う通り、ハリエットはたった一人で黒犬と対峙していた。だが、様子がおかしい。ハリエットが嬉しそうに見えるのは、気のせいだろうか?

「近づいちゃ駄目よ! 噛みつかれるかもしれないわ!」

 困惑するジェームズと、遠巻きにこちらの様子を窺う女子生徒ら。この場の視線を集めていたのは、他でもないハリエットと黒犬だった。ハリエットは中腰になってそろり、そろりと黒犬に近づき、対する黒犬の方は、まるでハリエットを警戒するかのように硬直してじっと見つめ返していた。

 ウィルビーもクルックシャンクスもいないこの時代、ハリエットはふわふわ、もふもふ不足だった。癒やされる動物たちがおらず、内心しょんぼりしていたハリエットだったが――そんな時、目の前に現れた黒犬。

 まるで、早く撫でてくれと言わんばかりにハリエットをじっと見つめる彼は、紛れもなくスナッフルで。

「この子は噛まないわ」

 皆に言い聞かせるように言うと、ハリエットは微笑みながらゆっくり右手を差し出した。実を言えば、早くその柔らかそうな毛並みを堪能したくて堪らなかったが、一応この黒犬の正体を、ハリエットは知らないことになっている。本物の野良犬にするように、撫でる許可をもらわなければ。

 スナッフルはおずおずとハリエットの手の匂いを嗅いだ。こうしてみると、まさに本物の犬のような仕草だ。ハリエットは更に笑みを深くする。

「触っても良い?」

 窺うように問うても、スナッフルはもちろん返事をしなかった。僅かに目を細めただけだったが、しかしハリエットはそれを彼なりの了承だと受け取る。

 おずおずとスナッフルを撫でれば、柔らかな体毛がすぐに手のひらを優しく包み込む。脱獄囚だった時の毛並みとは似ても似つかない。これが本来のスナッフルの姿だろう。

 胸に込み上げるものがあって、ハリエットは更ににまにま微笑んだ。

「ハリエット……その犬、知ってるの?」

 あまりにもハリエットが怯えを見せないからだろうか。当たりをつけてリリーが尋ねた。ハリエットは一瞬固まり、すぐにすごい勢いで頭を回転させる。

「あ、ええ……知り合いってわけじゃないけど、マグル界で……前に住んでたところで、この子によく似た野良犬を可愛がってたの。だから懐かしくって」
「でも……あのね、ハリエット。魔法界にはグリムっていう恐ろしい死神犬がいて……その死神犬を見ると、二十四時間後に死んでしまうらしいの。もちろん迷信だとは思うわ。でも、その……」

 リリーは言葉を濁した。彼女だけでなく、他の女子生徒も同じく混乱と恐怖の入り混じった顔でスナッフルを見ている。

 死神犬と不名誉な呼び方をされ、更にはひどく怯えられてしまうこの状況は、シリウスにとってひどく不満だったらしい。故意か無意識にか、とにかくスナッフルは歯をむき出しにして唸りだした。それが余計に彼女らに恐怖を与える。

 黒犬の正体を知っているハーマイオニーでさえ、間近で見る犬の大きさに腰が引けているようだ。ローブのポケットに手が突っ込まれているのは気のせいだと思いたい。

「グリムのことは知ってるわ。でも、この子は大丈夫」

 ハリエットはゆっくりスナッフルを撫で始めた。声にならない女子生徒らの悲鳴が風に乗って空気に溶け込む。

「この子は私達に危害を加えるようなことはしないわ。毛並みも綺麗だし、それに、とってもハンサム!」

 相好を崩してハリエットはわしゃわしゃとスナッフルの身体を撫でた。首周りを撫でたときには、スナッフルの素っ頓狂な顔が目に入り、ハリエットは思わずカラカラと笑い声を立ててしまった。

 何となく、未来のシリウスに意趣返しできた気分だった。一年間もずっとハリエットはスナッフルがただの可愛い野良犬だと思って愛でていたのだ。シリウスから見れば、それがどんなに間抜けに映ったことだろう!

 遠巻きに警戒するだけだった女子達も、徐々にハリエット、そしてスナッフルに歩み寄り始めていた。その最たる人がメリーだ。

「そうね。それに、それだけ尻尾を振ってるのを見ると、ちょっと可愛く見えてきたぐらいだわ」

 笑いを堪えたようなメリーの声に、きっと無意識に振っていたのだろう尻尾を、スナッフルは唐突にパタリと止めた。これに吹き出しそうになるのはハリエットとハーマイオニーだ。

 ――気を引き締めないと、アニメーガスがバレるわよ!

「ハリエットは犬が好きなのね」

 気づけばすぐそばにリリーがいた。撫でこそはしないが、その目は優しく細められ、スナッフルを見つめている。見た目こそおっかないが、その実ただの野良犬だということが分かったのだろう。

「前は猫が好きだったんだけど、今はもうすっかり犬が好きなの!」

 猫のつれない態度も可愛くて好きだが、人懐こい犬も可愛らしくて大好きなのだ。とはいえ、ここまでハリエットを惹きつけるのはスナッフル限定かもしれないが。

 ハリエットの撫で撫でスキルにやられたのか、次第にスナッフルの目はとろんとしてくる。これは大分リラックスしている状態だ。こうなってくると、数分も持たずにコロリとお腹を見せて横になるはずだ。禁じられた森でも度々見られた流れだった。

 だが、この時のスナッフルはそうはならなかった。何故だか急にハッとしたように頭を振り、大きく一吠えすると、タタッと駆け出していったのだ。

「あ……もう行っちゃうの?」

 もの寂しくハリエットの声が響いたが、スナッフルは振り返らない。ハリエットは大層残念に思ったが、それでも最後に『また会いに来てね!』と声をかけて短い邂逅は終わった。

 グリムにしか見えない野良犬が去った後も、幾人かはまだ混乱と緊張が冷めやらぬ様子で、女子達のランチはお開きとなった。彼女たちの姿がホグワーツ城へと向かっていくのを見て、スナッフルはようやくヒトの姿に戻った。頭を撫でつけ、くしゃくしゃになっていた髪を整えていれば、ニマニマと意地の悪い笑みを浮かべた友人達に出迎えられる。

「随分お楽しみのようだったね?」
「どこがだ。グリムだなんて……俺のどこをどう見たら死神犬なんかに見えるんだ」
「話を逸らしちゃ駄目だよ、パッドフット。君、とっても気持ちよさそうにハリエットに撫でられてたじゃないか」

 ギクリ、とシリウスは肩を揺らす。ジェームズの笑みは更に深くなった。

「僕達に触れられるのは嫌がるくせに、ハリエットだったら良いんだね?」
「それは……男と女じゃ違うだろ」
「それにしては随分締まりの無い顔をしてた気がするけどねえ」

 リーマスまで口元を緩めてジェームズの援護に回った。シリウスは苦虫を噛みつぶしたような顔になる。

「お前達には分からないだろうけど、ハリエット、なかなか撫でるのが上手いんだよ。犬の撫でられたいところを知り尽くしてる」
「へえ。じゃあ君は、ヒトとしての理性を失ってすっかりただの野良犬として尻尾を振ってたわけだ。シリウス・ブラックの威厳形無しだねえ」

 いちいち癪に障る言い方に、シリウスはピクピク口元を引きつらせた。なまじ魂の双子と言われるだけあって、こういうときのジェームズはたちが悪い。さもシリウスのことを見透かしているという態度で――事実まさにその通りだ――からかってくるのだ。いい加減うんざりしてくるというもの。

 シリウスはそれを隠そうともせずくるりと踵を返した。

「付き合ってられないな。好きに言ってろ」
「あっ、逃げるのかい?」
「誰がだ。マクゴナガルに減点されても良いならずっとそこにいろよ」

 肩をすくめ、シリウスは歩き出した。授業に遅れそうだったのは事実だし、ジェームズの言うこともまた真実だった。

「授業に助けられたね。まあ、今日の所はこのくらいにしておいてあげるよ」

 ニシシッと悪戯っぽく笑うと、ジェームズは踊るように駆けてシリウスの隣に並んだ。リーマスも本を小脇に抱えて立ち上がり、ピーターも置いてかれまいと『待ってよ!』と叫ぶと、慌ててサンドイッチの残りを口に放り込んだ。