■過去の旅

17:S・P・E・W


 ハーマイオニーほど勤勉ではないのに、ハリー達が『優秀』というレッテルを貼られたのは、ひとえに自分達が一足先に三年生の全授業を履修済みだったというだけのことに他ならない。出題者が変わるレポートには多少時間を取られたが、二回も授業を受けていれば、それなりのものを出せる。

 ただ、一つ想定外のことがあった。選択科目である数占い学である。

 魔法生物学は前回も取っていたのもあって、続けて履修することにしたが、問題は占い学だった。教授であるトレローニーがハリーに対して死の予言をしたことは記憶に新しい。もちろん今の教授は彼女ではないので、気にすることはないのだが、一度嫌な感情を抱くと、どうしても食指が動かなくなってしまうのが世の常。

 数占い学が面白いわよと言うハーマイオニーの意見を鵜呑みにし、ハリー達三人はもう一つの科目は数占い学にした。件のハーマイオニーは、まさかの占い学である。他の科目は元の時代にて大変な苦労をしながらも履修済みで、となると、トレローニーとそりが合わず、途中で断念した占い学が気になってくるのは、ハーマイオニーの性格でもある。

 要するに、問題は、数占い学は初めて受ける授業で、かつハーマイオニーは別の授業を受けているという点である。正直に言って、数占い学はなかなかの強敵だった。ハーマイオニーの『面白い』を決して信じてはいけなかった。楽しいという意味での面白いではなく、やりがいがあって面白いのだと、そういう意味が込められているのを、なぜ誰も見抜けなかったのか!

 というわけで、ハリー達三人は今日も今日とて談話室で数占い学のレポートとうんうん唸りつつ睨めっこすることになった。ハーマイオニーの手は絶対に借りられない。なぜなら、単純に、彼女は数占い学を選択していないからだ。誰が聞いてるかも分からないのに、授業を受けてないはずのハーマイオニーが、訳知り顔で三人に教えられるわけがない。

「ハーマイオニーに騙された」

 ここ一月で、ロンのこの言葉はもう軽く十回は超えている。羽ペンを放り投げ、ロンはソファに身体を預けた。

「全く、何が面白いだって? これのどこが! 計算ばっかで頭がおかしくなりそうだよ」
「正直、ちょっと甘く見てたわ。プライマリースクールみたいなものだと思ってたから」

 ハリエットも渋い顔になった。足し算やかけ算、それを基礎とした占いなのだと勝手な想像をしていただけに後悔も大きい。実際の所、こんなに複雑な計算方式があったなんて!

 三人揃って項垂れていると、肖像画の穴からリリーが入ってきた。パッとハリーは手を上げた。

「リリー! こっち!」
「ハリー? 皆で宿題してるの?」
「あー、うん。それでちょっと助けて欲しくて。数占い学は取ってる? もし取ってるなら、教えて欲しくて」
「ごめんなさい。私が取ってるのは魔法生物学と古代ルーン文字学なの」

 三人は揃って打ちのめされた顔をした。下級生の期待に応えられなかったことに罪悪感を抱いたのか、リリーはすぐさま違うアイデアを持ち出した。

「そうだわ。確かセブなら数占い学を取ってたと思う。教えてもらったら?」
「えっ――セブって、スネイプ?」
「そう」

 ハリーとロンは苦々しい表情を浮かべた。ついで、へらっと笑みを浮かべて手を振る。

「うん、ありがとう。ちょっと考えるよ。その、スネイプに教えてもらうかどうか……」
「ええ。教えてもらうんだったら私から紹介するわ」

 優しく微笑み、リリーは寝室へと上がっていった。ハリエットがまた前を向いたときにはもう二人の答えは決まっているようだった。

「僕は嫌だよ」
「僕もだ」
「そう言わないで……。スネイプ先生、教えるの上手いんだから」
「どうせぐちぐち文句言われるに決まってる。教えてもらうならハリエットだけにしてくれ」

 顰めっ面を返し、ハリーはまた課題に向き直った。

「それに、スネイプに教わるくらいなら、僕らには強力な味方が――」
「スネイプ?」

 天敵と愛しの女性の名前には面白いくらいに反応するジェームズが、いつの間にかすぐ側に立っていた。

「スネイプに何を教わるって?」
「アー、数占い学。でも、僕らは教わりたくなくて――つまりは、ジェームズ、数占い学取ってる?」
「取ってるよ。数占い学はなかなかコツがいるからね」

 訳知り顔で頷くジェームズにハリーとロンの顔は一気に明るくなる。ジェームズは学年主席だ。彼も同じ授業を取っているというのなら――。

「僕らに教えてくれない?」
「いいとも」

 パアッと心からの笑みを浮かべる二人に、ハリエットもつられてソワソワした。スネイプの教え方が上手だというのは身をもって知っているが、しかし、どうせ教わるなら父親から、というのが純粋な子心ではないだろうか。

 教科書を持って己の隣を陣取ろうと争奪戦を始める三人の後輩に、ジェームズは微笑ましげに目を細める。だが、すぐに忍び笑いを漏らすリーマスに非難の目を向けた。

「ムーニー、何がおかしいんだい?」
「いいや。先輩風を吹かせようとしてる所悪いんだけど、ジェームズに教わるのはあんまりおすすめできないなと思って」
「なんで?」
「ジェームズは、いわゆる天才型だよ。努力知らずで要領が良いんだ。僕らが分からない所が、ジェームズにはなぜ理解できないのかが分からないんだ。だから正直教えるのもあまり上手くない。分からない人のことが分からないからね」
「随分な言い草じゃないか」
「一応は褒めてるつもりだけどね」
「どこがだよ!」

 すっかり腹を立てたジェームズは、リーマスの言うことなんか聞くことないよ、と三人に懇切丁寧に勉強を教えようとした。だが、五分も経たないうちにリーマスの言うことは事実だったとハリー達は思い知った。――基礎が分からないと言っているのに、ジェームズは悪気なく基礎を飛ばし過ぎだ。

「ジェームズ、なんでここが『歪んだ十字架』ってことになるの?」
「え? いや、だからこことここの計算を合計すると、そうなるでしょ?」
「なんでこの二つを合計するの?」
「見れば分かるじゃないか」

 真面目に聞き返したハリーを、ジェームズは冗談を言っているのだと思ったらしい。ケラケラと笑い飛ばした。ハリーは頭を抱えた。

「分からないから聞いてるんだよ!」

 分からない所が、更に分からなくなってしまった。本格的に唸りだした三人を、リーマスは『だから言っただろう』という同情の目で見た。その顔を見て、ピンときたのはロンだ。

「そうだ、リーマス! リーマスは先生――アッ、いや、ウン、先生よりも教えるのが上手そうだ……数占い学取ってる?」
「残念ながら、僕は取ってないよ。シリウスとピーターは取ってるけど」
「シリウスは教えるの下手だよ」

 可愛い後輩達が、自分から教わることを諦めたらしいことを悟り、ジェームズはふて腐れながら答えた。

「ジェームズ、大人げないよ。自分にできないことがシリウスにできるのが嫌なんだろう?」
「そんなんじゃないさ!」

 躍起になって言い返すジェームズを、リーマスは笑って受け流した。

「まあ、僕としてもシリウスはおすすめできないね。面倒くさがり屋だから、たぶん教え方も雑になるんじゃないかな。それで言うと、ピーターは分かりやすいと思うよ。ピーターも最初の頃は躓いてたみたいだけど、周りから教わって今は優秀な成績を収めてるって聞いたよ。教え方も丁寧だと思う」

 『僕らは丁寧じゃないと?』とジェームズが拗ねたように尋ねたが、リーマスはカラカラと笑うのみで応えなかった。

 その小さなやり取りがあったおかげで、ハリー達の反応にはそれほど注意が向かず、むしろ良かったかもしれない。あからさまに顔を見合わせて眉を寄せる、なんて光景は、どう見たって違和感しか覚えない。

「ま、人には向き不向きがあるか! 仕方ないな。僕がピーターを呼んでこよう!」

 せめてこれくらいは役に立たないとね、と言いながらジェームズは階段を駆け上った。断る暇も無い変わり身の早さに、ハリーは一層眉間の皺を深くした。ハリエットは気を利かせてこっそり囁いた。

「スネイプ先生っていう選択肢もあるけど……」
「僕はどっちも嫌だよ。究極の二択だ!」

 ロンに続いて、ハリーも囁き返した。

「スネイプの方がまだマシだよ」

 そうこうしているうちに、ジェームズとピーターが戻ってきた。ピーターは嬉しそうに顔を綻ばせている。

「まさか僕が後輩に勉強を教えられるようになるなんて……でも、分かるよ。数占い学はそもそもの基礎が難しいんだ」
「分からないなあ。教科書を読んでれば分かるじゃないか」
「それが分からないから勉強してるんだよ」

 ブツブツ言いながらピーターはリーマスの隣に腰を下ろした。

「どこが分からないの? 僕も基礎はもうバッチリだから、何でも聞いて」
「あー……いや、折角なんだけど」

 ロンは視線をウロウロさせながら言葉を探した。

「僕達、自分の力で何とかするって決めたから、大丈夫」
「遠慮しなくても良いんだよ。ピーターはジェームズより絶対に分かりやすいから」
「僕達、さっき気づいたんだけど、そもそもそんなに勉強好きじゃないし……落第しても気にしないから」

 頑ななロンに、ピーター達三人は困惑して顔を見合わせた。

「……でも、それ、次の授業で提出するレポートだろう? それだけでも聞いておいたらどうだい? さすがに真っ白なレポートを提出したら、ベクトル先生も怒るだろうし……」
「いや、本当に大丈夫」

 暗い声でハリーも続けた。居心地の悪い空気に耐えきれなかったのはハリエットだった。

「……あ、じゃあ、私だけレポート教えてもらっても良い? 初めてのレポートくらい、きちんとしたものを出したいから……」
「もちろんだよ! あ、じゃあ今から参考書を借りてくるよ! ちょっとここで待ってて」
「ピーター、僕達も行くよ」

 本を閉じてリーマスが立ち上がった。一瞬遅れてジェームズも頷く。

「そろそろシリウスを回収しないといけない頃合いだしね……。さすがにシリウス一人に罰則を押しつけたのは悪かったかもしれない」
「確実にね。今頃カンカンだよ」

 ワイワイ出ていく三人を、ハリエットは落ち着かない気持ちで見送った。完全にその姿が見えなくなって、ホッとしてまた前を向いたとき、思っていた以上にハリーの顔が怖くなっていたので、ハリエットはビクリと肩を揺らした。

「なんであんなこと言ったんだ? なんでわざわざペティグリューなんかに」
「でも、あの態度はあからさまだと思うわ。お父さん達に変に思われるかも」
「教わる相手はペティグリューじゃなくても良かった! それこそスネイプに教われば良かったじゃないか!」

 言葉を詰まらせ、ハリエットは俯いた。ハリエットとて、喜んでピーター・ペティグリューに教わりたいという訳ではない。ハリー達が露骨にピーターを避けようとするから、否応なしにそのフォローに入らなければならないと思ったまでで。

 自分だけが一方的に責められているこの状況に、ハリエットも理不尽を覚えていた。拳を握り、何か言い返そうと顔を上げたとき、場違いなほど明るい表情でハーマイオニーが三人の中に飛び込んできた。

「ついにできたわ!」

 嬉しそうに笑うハーマイオニーに、思わず毒気を抜かれる。ロンは首を伸ばした。

「何ができたって?」
「これよ、これ」

 ハーマイオニーはとんと机の上に箱を置いた。蓋を開けると、色とりどりのバッジが山ほど入っている。

「S・P・E・W」
「スピュー(反吐)?」
「スピューじゃないわ!」

 心外だと言わんばかりハーマイオニーは首を振った。

「エス・ピー・イー・ダブリュー。順に協会、振興、しもべ妖精、福祉の頭文字。しもべ妖精福祉振興協会よ」
「聞いたことないなあ」
「私が始めたばかりよ」
「へえ」

 興味なさそうにロンは相づちを打った。

「メンバーは何人?」
「三人が入会すれば四人」
「僕たちが反吐なんて書いたバッジをつけると思うの?」
「エス・ピー・イー・ダブリュー!」

 顔を真っ赤にしてハーマイオニーが言った。彼女はそれ以降も熱く語った。屋敷しもべ妖精の正当な報酬と労働条件の確保することを目的とし、まずはメンバー集めからすると宣言した。

「でもハーマイオニー、君、忘れてないかい? 僕達はこの時代で目立っちゃいけないってこと」

 こういうときのロンの口は良く回る。『反吐』なんていう団体の会員だなんて死んでもごめんだという顔だ。

「もしこの取り組みがうまくいったとしたら、未来が変わることになるんじゃないの?」
「…………」

 ハーマイオニーはあんぐり口を開けてロンを見た。ハリーもハリエットも同じ顔でハーマイオニーを見た。……まさか……?

「……そういえば、そうね……」
「ハーマイオニー! 君ともあろう優等生が一体どうしたんだ! まさか、ホントに全く考えてなかったって言うの?」
「仰る通り……」

 ポスンとハーマイオニーはソファに座り込んだ。その表情は虚ろだ。

「私……なんてこと……。もうバッジを五十個も作ってしまったわ」
「ご、五十……あっ、でもほら、大々的に活動することは無理でも、今の時代の人達の意識改革ならできるんじゃないかしら? 今のうちに少しずつしもべ妖精への認識を改めていって、未来でまたS・P・E・Wを発足すれば良いんじゃない?」

 ひとえに、ハーマイオニーを慰めるための鼓舞であったことは間違いない。だが、ハリーとロンの、『何を言ってるんだ?』という顔を真正面から見てしまって、その時ようやくハリエットは己がしでかしたことの重大性を認識した。

「――そうね! それだわ! ありがとう、ハリエット! 今の私達には、今しかできないことをやるべきよ! S・P・E・Wは未来に戻ってから始めるとして、今はしもべ妖精の境遇を少しずつ広めていきましょう!」

 ハーマイオニーはすっかり元気になって、ガシッとハリエットの手を掴んだ。

「ハリエット、あなたは広報担当よ! 私と一緒に、しもべ妖精についてどう思ってるか皆に聞き回って、かつしもべ妖精がどんな境遇にあるか、認識を広めていってちょうだい! ハリーは書記よ。私が今喋っていることを全部記録しておいて。第一回会合の記録として。ロン、あなたは財務担当ね。ここでは特にすることはないけど、未来では、募金用の空き缶を設置しようと思ってるの。管理はあなたにお願いする予定よ」

 しばし、四人は見つめ合ったままだった。その間、ハーマイオニーはにっこり微笑んでいた。『精一杯頑張るよ!』『広報担当だなんて光栄だわ!』なんて言葉がハリー達の口から出てくる訳もなく……ただただ不思議な沈黙に包まれていたこの状況を打破してくれたのは、談話室に駆け込んできたピーターだった。

 彼の『参考書借りてきたよ!』という言葉に、ハリーとロンは、いつもなら絶対にしないだろうひどく安堵したような表情を浮かべた。