■過去の旅
02:見紛う兄妹
随分と長い間、ハリエットは宙を飛んでいたような気がした。本当に飛んでいたかについては定かではない。無重力の中、遠心力に従って、ハリエットはなすがまま後ろに引っ張られていたのだ。
気がつくと、ハリエットはどこか草むらの上に放り出されていた。無重力の中を引っ張られていたせいで気分が悪く、ハリエットは口元を手で押さえたまま辺りを見回した。
「ハリー?」
一度見回しただけでは、ハリーやロン、ハーマイオニー、そしてドラコの姿は見えなかった。そもそも、どうして医務室にいたはずが外にいるのか。
ハリエットは、ここ三年ですっかり見慣れたホグワーツにいた。だが、城内ではなく、ホグワーツ城南の、黒い湖のすぐ近くだった。日も暮れかけ、夕食が近いせいか、辺りに人の気配はほとんどない。今が長期の休み期間だという可能性もある。
逆転時計が何回ひっくり返されたのかは分からない。しかし、他の三人がこの場にいないとなると、過去に来たのは間違いないようだ。
まずは他の四人を捜すのが先決だろう。しかし、まだ不快感は収まらないようで、ハリエットはしばらく木を背にもたれかかっていた、その時。
「エバンズ! こんな所でどうしたんだい?」
明るい声がハリエットを現実に引き戻した。パッと顔を上げたハリエットの前にひょっこり顔を出したのはハリーだった。しかし、その口は聞き慣れない名前を発している。
「うん? なんか小さいね? 君、こんなに小さかったっけ?」
ハリーはハリエットの頭へと手を伸ばした。ハリエットが何も言わないのを良いことに、彼はポンポンと頭を撫でる。何となくだか、そのなで方に、彼がハリーのような、ハリーでないような不思議な感覚が沸き起こった。
「ハリー……?」
目の前の少年は、確かにハリーだった。だが、ハリーに比べて、目の前の少年はよく喋ること。
「それに、君の綺麗なグリーンの瞳はどこにいったんだい? 魔法で失敗したのかな?」
少年はハリエットの前にしゃがんだ。目線が同じになる。
「今の君の目も嫌いじゃないけどね。僕とお揃いだし」
少年は目を細めた。ハリエットは改めて少年を見る。彼は、ハリーそっくりだったが、ハリーではなかった。丸い眼鏡のフレームもいつもと違うし、そもそも額に傷がない。髪だって、くしゃくしゃの黒髪という所は同じだが、今の彼は、まるで箒で着陸したばかりだというくらいくしゃくしゃだった。ハリーは落ち着かないこの髪をいつも気にしてもう少し撫でつけているはずだ。
そして何より、少年の言うとおり、彼はハリエットそっくりのハシバミ色の瞳をしていた。
「君、エバンズじゃないね? エバンズなら、僕に触れられて怒らないわけがないし。今の時点で毒舌が何個飛び出してるか」
少年は首を傾げながら続けた。
「でも、そうなると本当に誰だい? グリフィンドールみたいだけど……エバンズにこんなにそっくりなら、この僕が知らないわけないだろうし」
「あ、あの……」
ハリエットもだんだん不安になってきた。この少年は、ハリーによく似ているが、ハリーではない。一体誰だろう。
不安そうな顔を受け取って、少年はパッと笑みを浮かべた。その顔は、ハリエットを安心させるために、いつもハリーが浮かべていた笑顔そのものだった。
「ああ、ごめんね。僕としたことが、自己紹介がまだだった。僕はジェームズ。ジェームズ・ポッター」
「ジェームズ?」
ハリエットは目を瞬かせた。
ジェームズ。ジェームズ・ポッター。
それは、父の名前だった。
「本当にジェームズ・ポッター?」
「ああ、そうさ。やっぱり君も知ってるかい? 同じ寮なら当然かもしれないけど……悪戯仕掛人の一人、ジェームズ・ポッターさ!」
悪戯仕掛人――。
それは、つい最近知ったばかりの言葉だ。忍びの地図の製作者達を称する名で、ジェームズ・ポッター、シリウス・ブラック、リーマス・ルーピン、そしてピーター・ペティグリューの計四人を指す。叫びの屋敷で全て聞いたことだ――。
「君は?」
「ハリエット……」
ハリエットは、そう口にするのが精一杯だ。
「ハリエット? 良い名前だね」
ハリエットは、じわじわと喜びが胸を突き上げてくるのを感じた。他の誰でもない、父が自分の名を呼んでくれた。今目の前にいる少年は、父であって、父ではない。しかし、今のハリエットにとって、彼は誰よりも心待ちにしていた存在だった。この一年、幾度となく両親が生きていれば、ブラック――いや、ペティグリューだ――に裏切られなければと思った存在。
「大丈夫かい?」
俯いたハリエットを、ジェームズは心配そうに覗き込んだ。
「今の時期、ここは女性が好むような場所じゃないだろう? もうすぐ夕食だ。どうだい、一緒に大広間まで行かないかい?」
ハリエットはこくこくっと頷いた。今口を開けば、変なことを口走ってしまいそうで怖かった。
そうと決まれば、とジェームズは立ち上がった。釣られてハリエットも腰を上げたが、思っていたよりも力が入らず、前へとつんのめる。
「大丈夫?」
ジェームズに手を取られ、ハリエットは顔を赤くした。思わずぎゅっと手を握り返す。
「立てる?」
「わ、分からないわ……」
色々あったあの夜、二度も遡った時間、そして父ジェームズとの対面は、想像していた以上に衝撃的で、腰を抜かすには十分だったようだ。ハリエットはその場に座り込んだまま途方に暮れた。
「背中に乗る?」
ジェームズはまたしゃがんで、背中を見せた。ハリエットは内心飛び上がった。
「そ、そんな! そんな、背中なんて……!」
恐れ多くも、父親の背におぶるわけにはいかない。
混乱したハリエットは、よく分からないままそう結論を下した。
「あ、あの、私、大丈夫! 一人で、立てる!」
まるで生まれたての子鹿のように足をプルプルさせながら、ハリエットは立ち上がった。ショック療法とでも言うのだろうか、ジェームズの提案は、ハリエットの腰にやる気をみなぎらせた。
「ああ、うん、それなら良かったけど……」
どことなく戸惑ったような表情でジェームズは右手を差し出した。
「でも、エスコートはさせてくれるよね?」
「え、あ……」
顔を赤くしたり青くしたり、ハリエットはとてつもなく忙しかったが、その合間にジェームズはさっさとハリエットの左手を取った。今のハリエットが危なっかしいから、という理由だろうが、それでもハリエットは嬉しかった。
「じゃあ行こうか」
ジェームズは朗らかに笑み、ハリエットはまたしても顔を赤くした。顔はハリーなのに、彼が正真正銘父ジェームズなのだと思うと、新鮮に思え、尚かつ気恥ずかしくなってくるのだから不思議だった。
*****
一方のハリーは、不安な面持ちでホグワーツ城内をうろうろしていた。医務室にいたと思ったら、いつの間にか二階の女子トイレ付近にいたのだ。
逆転時計が何回かひっくり返ったのは覚えていた。しかし重要なのは、何回ひっくり返ったかだ。何回、くらいならまだしも、何十回、何百回だったら大問題だ。ハリーは、過去の自分に出くわさないよう、すぐに身を隠そうとしたが、生憎と男子トイレの方からは声がするし、女子トイレだってそうだ。
透明マントがあれば一番いいが、生憎と未来からは持ってきていないし、過去の方の透明マントだって、おそらく寮にある。今取りに帰るのは明らかに命知らずだった。
それに、ハリエットたちのことも心配だった。
一体どうすべきか、と考えあぐねていると、唐突に女子トイレから人が出てきた。
「ポッター?」
その声は、ハリーにとっては聞き慣れすぎていた声だった。
「ハリエット!」
ハリーはパッと喜色を浮かべ、振り返った。その視線の先には、想像していたよりも何故か大きいハリエットがいたが、今のハリーにとってはそんなこと些細なことだ。
「ハリエット、無事で良かったよ。他の皆はどこか知ってる? 僕、気づいたらこの辺りにいて――」
「何を言ってるのかよく分からないけど」
ハリエットは冷たい声でハリーの言葉をぶった切った。ハリーは目を白黒させる。
「ハリエット?」
ハリエットの隣には、見慣れない女子生徒がいた。クスクスと笑いながら、ハリエットの耳に口元を寄せる。
「あなたのことが好きすぎて、彼、どうにかなっちゃったみたい」
「止めてよ、メリー」
ハリエットは肩をすくめた。メリーなんて名前は初めて聞いたハリーは更に頭がこんがらがった。ハリエットは、マルフォイ以外に他にも僕の知らない友達がいたのだろうか?
「ポッター、そろそろ退いてくれない? ここは女子トイレよ」
「あ……ごめん」
ハリーはすぐさま身をどけた。ハリエットはそのことに見向きもせず颯爽とこの場を去ろうとする。ハリーは堪らなくなって彼女の腕を引いた。
「ハリエット、あの――」
まだ何か、と嫌そうな顔を向けられ、ハリーは固まった。――彼女は誰だろう。すぐ近くまで寄ったことで、ようやくハリーは気づいたのだ。
よくよく見れば、彼女はハリーの見慣れたハリエットではなかった。目線はいつもよりハリーと近いし、視線を下げれば、その胸元には監督生バッジが光っている。艶やかな赤毛も随分と長い。そして何より、その瞳はハリーと同じ明るい緑だった。
「君……誰だい?」
ハリーが震える声でそう絞り出すと、目の前の少女は、思いっきり眉を顰めた。
「寒さにやられて本当に頭がどうにかなっちゃったみたいね。私はリリー・エバンズ。あなたのことが大嫌いなグリフィンドール生よ」
少女はツンと顎を上げ、その隣のメリーという名の少女は、クスクスを通り越し、もはやお腹を抱えて笑っていた。
「自己紹介はしたけど、また忘れていただいて結構よ。むしろ忘れて。もう話しかけて来ないでくれると有り難いわ」
少女はシッシと手で振り払う仕草をした。
「さあ、名前が分かったんだからどこかへ行ってちょうだい。私はあなたと違って忙しいんですからね。メリー、行くわよ」
今後こそ、彼女はハリーに見向きもせず言ってしまった。ハリーは顎が外れそうなほど口を開けたままだった。
そんな彼が気の毒に思ったのか、通り過ぎるとき、メリーがハリーに囁いた。
「押して駄目なら引いてみろって思ったんでしょうけど、火に油よ? 別の案を考えなさいな」
じゃあね、と軽快に笑うメリーの声が、ハリーの頭の中に何度もこだました。