■過去の旅
29:譲れないもの
今日はジェームズ達からホグワーツの抜け道を習うのだと嬉しそうに話していたことも相まって、ハリーとロンの姿を見かけないのは当然のことだとハリエットは気にしなかった。だが、夕食の席にも見当たらないのはさすがに気にかかる。
何かあったのかしらとハーマイオニーに問えば、事も無げに『食事も気にならないほど悪戯計画に夢中になってるんじゃない?』と返ってくる。ハリエットはそれで納得したが、やがてジェームズ達が大広間に姿を現したのを見て考えを改める。過去に来てから、課題なんて二の次のハリー達が、ジェームズ達との夕食を差し置いてでも他に興味のあることが出てくる訳がない。
次第に近づいてくる四人組を、ハリエットはじっと見つめた。だが、なかなか視線が合わない。いつもならば、敏感に自分に突き刺さる視線を感じ取ってジェームズが何かしらの反応を返してくれるのに。
代わりにリーマスと目が合って、弱々しい笑みを返される。ハリエットは思わず口を開いた。
「ハリーとロンは一緒じゃないの?」
「……ああ、たぶん寝室にいるかも」
「もうご飯は食べたの?」
「まだ……だとは思うけど」
言葉尻を濁され、ハリエットはもっと聞きたくなったが、早足のジェームズ達を追い掛けてリーマスは行ってしまった。ハリエットとハーマイオニーは顔を見合わせる。
「どうしたのかしら?」
「喧嘩でもした?」
「喧嘩!?」
ハリエットはおっかなびっくりに聞き返した。
「まさか――ジェームズ達と!?」
「分からないけど……様子、変じゃなかった?」
「…………」
違和感は確かにあった。何だか怖くなって、ハリエットは早々に食事を終えることにした。念のためハリーとロン用にチキンやパイを包み、ハーマイオニーが食べ終えると同時に席を立った。
夕食を終えるには早すぎる時間のためか、談話室にはほとんど生徒がいなかった。もちろんハリーとロンの姿もない。二人はそのまま男子部屋へ続く階段を上り、一つの部屋の前で控えめにノックをした。
「誰?」
「私達よ」
「入って」
薄暗い寝室にはハリー達しかいなかった。同室の三年生は出払っているらしい。とはいえ、あくまで推測でしかない。誰か一人は頭から毛布を被り、こんもりとベッドの上を盛り上げていて、その傍にはロンが立っているのみだったのだから。
「何かあったの? ハリー、体調でも悪いの?」
「……体調は悪くないよ。でも、その」
ロンはちらりとベッドを見る。反応がないのを見て、渋々口を開いた。
「ジェームズ達と喧嘩した」
「何があったの?」
ハーマイオニーが鋭く切り込む。
「ジェームズとシリウスがスネイプをいじめてたんだ。それをハリーが怒って……」
「それで喧嘩したの?」
「それだけじゃない。二人は、僕達だってペティグリューへの態度が悪いって口論になったんだ。僕達が態度を改める気がないのが分かると、そのまま怒って行っちゃって……」
「…………」
気まずい沈黙が漂う。こうなる可能性を感じてはいたが、実際にそうなるとは、誰も想像していなかった。四人のピーターへの態度は、明らかに不自然だ。当事者であれば誰だってすぐに気付くほどで。
盛り上がったベッドから反応はない。ただ、息を詰めたような緊張感から鑑みるに、起きてはいるだろう。
「……でも、それは仕方のないことだわ」
ハーマイオニーが毅然として言い切った。
「ペティグリューと仲良くなれなんて、到底無理な話だもの。あなたは悪くないわ、ハリー」
「でも、向こうからして見れば、僕達が悪者だ」
くぐもった声でハリーが返した。
「全部打ち明けることができたら良いのに。なんでまたあいつのせいでこんな苦しい思いをしないといけないんだ」
だが、どうすれば良いのだろう――ハリエットは頭を悩ませた。ピーターと親密になるなど、ハーマイオニーの言う通り到底無理な話だろう。特にハリーは。意外とカッとなりやすい所のあるハリーは、ピーターを前にして平静にしていられた今までの方が奇跡に近かったのだ。今回のことで更に彼への憎しみが募っただろうことは想像に容易い。
結局何の結論も出ないままハリエットは寝室を後にした。暗い感情だけが泥のように腹の底に残っている。ハリエットは、まだ直接的にジェームズと喧嘩をした訳ではない。だが、兄のハリーが喧嘩をしたというのなら、同じ分だけハリエットにもショックが押し寄せてくるのは当然だった。
ハーマイオニーと共に寝室を出ると、丁度誰かが階段を上ってくる音が聞こえて、二人は横にずれた。だが、暗がりで浮かび上がった顔に思わず閉口する。タイミングが良いのか悪いのか、彼はジェームズだったのだ。
ジェームズはちらりとハリー達の寝室に目をやった後、迷いあぐねるようにたたらを踏んだ。
「あー……今日あったこと、ハリーから聞いた?」
ハーマイオニーが答えようとしたが、ハリエットがそれを制した。
「聞いたわ」
「君と同じことをハリーにも言われたよ。僕たちがやってることは普通じゃないって」
「私も同じ気持ちよ」
わざわざ口にしなくても良かったのに、ハリエットはハリーの擁護を止められなかった。中立の立場でいればいいのに、ハリーを孤独にはできなかった。
「分かった。じゃあもう一つ聞くけど、ピーターのことはどう思ってる?」
ハリエットは身を強ばらせた。ハーマイオニーが息を呑む音すら鮮明に聞こえる。
「ピーターには言わないよ。でも、正直に言って欲しい」
俯いたまま、ハリエットも、ハーマイオニーすら答えなかった。ジェームズは焦れて一歩近づく。
「ハーマイオニーは?」
「……私は……私もハリーと一緒よ」
小さく紡がれた言葉に、ジェームズは僅かに顔を強ばらせただけだった。
「ハリエットは?」
「君も、ピーターは嫌い?」
「……分からない……」
重苦しい吐息と共に出てきたのは、何とも頼りない言葉。だが、事実だった。分からないのだ。怒りよりも先に悲しみが込み上げてきて、ピーターのことを嫌っているかは分からない。だって、未来のピーターと過去のピーターは別人だ。まだここのピーターは、何も悪いことをしていない。普通の、ちょっと臆病なただの学生なのだ。
だが、ハリエットのこの複雑な思いはもちろんジェームズには届かない。彼は詰めていた息を吐き出した。
「……分かった」
思っていた以上に低いその声は、今までハリエットは一度だって聞いたことのないくらい怖く聞こえて。
鼻の奥がツンとしてきて、ハリエットが鼻をすすれば、ジェームズがハッとして目を見開いた。
「ごめん、怖がらせるつもりはなかったけど……ちょっと君達の考えが聞きたかっただけなんだ。これで僕の話はおしまいだ。ハリー達にも言ったけど、僕はピーターとも仲良くして欲しかったけど、それが無理なら……」
「今のままじゃだめなの?」
両手を握りしめ、ハリエットはジェームズを見上げた。
「もうジェームズと話しちゃだめなの? 私達が、もう少し態度を改めれば――」
「でも、嫌いなんだろう?」
ハリエットはピタリと口を閉ざした。
「ピーターはどう思うと思う? 自分だけが君達から嫌われてて、良い気持ちがするかい?」
「…………」
力なくハリエットは項垂れた。答えは分かり切っていた。
*****
それからの四人は非常に静かだった。特にハリーとハリエットに関してはまるで抜け殻だ。生気が抜けたようにぼうっと日々を送る毎日。授業なんて全く身が入らず、先生に減点されてばかりだ。
二人にとって唯一の救いは、せめて挨拶だけは普通にしてもらえることだ。始め、太った婦人の肖像画の前でばったりジェームズと遭遇したとき、ハリエットは動揺で息が止まった。嫌な汗が噴き出し、行き場のない視線をうろつかせる。
挨拶をしたいが、もし無視されたらと思うと、勇気が出ない。できることならば、挨拶を皮切りにまたいつものように他愛もない話ができれば――。
ぐるぐるとそんなことを考えている最中、『おはよう』と小さく挨拶され、ハリエットがどれだけ安堵したことか、きっとジェームズは知らないだろう。ただ――それだけだった。軽口を叩かれることも、自慢話をされることもない。そのまますれ違った。本当にただの同寮生としての扱いになってしまったのだ。
ハリエットはこれがショックでならなかった。過去に戻れただけでも、父や母と友達になれただけでも幸せ者だと思わねばならないのに、降って湧いた幸福に、いつの間にか、もっともっとという欲が抑えられなくなってしまったのだ。
だが、それはそうとしても、嫌われるのは辛かった。友達じゃなくてもいい。交流がなくてもいい。嫌われてさえいなければ、そんなの、いくらでも我慢できる。嫌われるのは、軽蔑されるのは、何よりもひどくハリエットの気持ちを沈み込ませた。
「四人と、何かあったの?」
談話室でジェームズ達と鉢合わせすることを恐れ、ハリー達四人は、このところ全く談話室に姿を見せない。彼らと悪戯仕掛人との間に流れるギクシャクとした空気は誰が見ても明らかで、ついに心配が限界に達したリリーは、夕食の席、辺りを憚るようにして声をかけた。
「あー……」
誰を指しているかはすぐに分かった。どう答えたものか、ハーマイオニーは一瞬悩んだが、ハリー達に答えさせるまいとすぐに口を開いた。
「軽く喧嘩しちゃったの」
「喧嘩? どうせあの人達が何かやらかしたんじゃない?」
気まずそうにロンとハーマイオニーは目配せする。一瞬空いた間に、ハリエットが力なく答える。
「私達が悪いの……」
「僕達は悪くない!」
反射的に叫んだハリーの声に空気が震える。リリーは驚いたように息をのんだ。
「――そう、そうね。何があったのかは分からないけど、あなた達は悪くないと思う。良い子なのは私がよく知ってるもの」
事の次第を話してくれるのをリリーが待っているのは分かった。だが、事情が事情なだけに言えない。
「でも、ジェームズが悪いわけでもない……」
ハリーが零した。ハリーが意固地になっているのはハリエットにもよく分かった。本当はハリエット以上にこの状況に気に病んでいるはずなのに、自分が言い出したことが喧嘩のきっかけになってしまっただけに、引っ込みがつかなくなっているのだ。
「普通に話したいだけなのに……」
ポツリとハリエットが呟いた言葉は、リリーの胸を打った。だが、かける言葉が見つからない。言葉を探して視線を彷徨わせるうちに、目の端で悪戯仕掛人の四人が丁度大広間を出て行く所を目撃したリリーは視線を元に戻した。
「気に病むことはないわ。少し冷却期間をおけば良いと思う。もしあの人達がひどいことを言うようならいつでも私に言うのよ」
「ありがとう」
一番落ち込んでる様子のハリーの肩を叩き、リリーは気遣わしげに立ち上がった。そうして足早に悪戯仕掛人の後を追う。
談話室には、四人の姿はなかった。ハリー達と同様、最近四人は談話室でゆっくりする姿を見かけない。リリーは躊躇いもなく男子用の寝室へと続く階段を上った。
目的の寝室のドアをノックすれば、リーマスの『どうぞ』という声が返ってくる。リリーは勢いよくドアを開いた。
「エッ、エバンズ!?」
男同士だと、ノックをする人の方が珍しく、一体誰だと皆が注目した先にはリリー・エバンズ。ジェームズはギョッとして雑誌を取り落とした。
「こ、こんな所に一体どうして――あっ、ちょっと待った! 今片付けるから――」
あわあわとジェームズはベッドの上を片付け始める。ようやく一人分座れるだけの余裕を作ると、さあどうぞと言わんばかりに両手で指し示したが、リリーはすげなく首を振った。
「いいわ、話をするだけだから」
意志を持ったリリーの瞳に、ジェームスはすぐに大人しくなった。髪をくしゃくしゃとかき上げ、力なくベッドに座る。
「……なんだい?」
「私が言いたいこと分かるでしょう? 四人のことよ」
「そんなことだろうとは思ったけど」
ジェームズは躊躇いがちに言った。
「エバンズ、悪いけど、これは僕達の問題だ」
「私だってそれは分かってるわ。監督生だからって、何でも首を突っ込んで良いわけじゃないってことくらい。……でも、見ていられないのよ。あなた達も、あの子達のことが嫌いになったわけじゃないんでしょう?」
「それはそうだけど……互いに譲れないものがあるんだよ」
「ちょっとくらい譲歩することはできないの? あなた達が大人になるべきよ」
ジェームズはしばらく思案している様子だった。シリウスやリーマス、ピーターはそれを見守るだけで何も言わない。リーダーの結論を待っているようにも見える。
先に痺れを切らしたのはリリーの方だった。
「別に私は良いのよ。あなた達は悪戯ばっかりで、悪い影響しか与えないし……。ハリーとロンも毒されてきてるし、少しくらい離れるのは悪いことじゃないとも思う」
「ひどい言い草じゃないか」
「事実でしょう?」
シリウスの言葉に、リリーは真面目な顔で返した。
「でも、本当に今のままでいいの? 私は――とてももったいないことだと思うわ」
悪戯仕掛人は、寮の垣根を越え――スリザリンは除くが――皆と仲が良い。だが、ハリーとロン以上に仲の良い後輩ができたことはかつてあっただろうか。始めは、顔がそっくりだということからの親近感、興味だったのかもしれない。だが、二人が自分達に向けてくる真っ直ぐな好意と純粋な尊敬は、くすぐったくて、時々気恥ずかしくて、でも素直に言えば嬉しいもので。
もったいない、というリリーの言葉が身にしみて実感される。確かに、折角ここまで仲良くなれたのに、このまま絶縁というのはもったいない。だが、ピーターとの友情を蔑ろにしてまで育まないといけない友情だろうか?
そう思うと、やはりジェームズは態度を軟化させることはできなかった。