■過去の旅

33:繋がる血


 屋敷から狼人間の遠吠えと衝撃音が響くたび、ハリエットは身を切られるような思いで固く手を握った。

 ジェームズが――父が、死なないとは限らない。狼人間は、今かなり興奮状態にある。いくら動物は噛まないからといって、自分を妨害してくる牡鹿を攻撃しないとも限らないのだ。もし――もしも、父が死んでしまったら。

「……ハリエット、気持ちは分かるけど、少しでも離れないと……。僕達の匂いがリーマスを刺激しないとも限らない」

 ハリエットは項垂れたまま立ち上がった。今にも泣き出しそうな顔で屋敷の方を見上げるが、ロンに背を押され、とぼとぼと歩き出す。

 それと同時に、スネイプも立ち上がった。杖を握り直し、坂へ向かって歩き出したのを見て、思わずハリエットは駆け寄ってその腕を掴んだ。

「どこに行くつもり?」
「奴に借りを作ったままなのは嫌だ」
「駄目よ!」

 ハリエットは決してスネイプの手を離さなかった。ここで彼を行かせるわけにはいかない。ジェームズはアニメーガスだが、スネイプは違う。余計に狼人間を刺激することになりかねない。

「絶対に行っちゃ駄目……。私達と来て!」
「一人であんなのと戦って生きて帰れると思うのか?」
「スネイプ!」

 ハリエットは唇を噛みしめ、ロンも慌てて反対側の腕を掴んだ。

「僕達だって心配だよ……。でも、今はジェームズに任せるしかないんだ。一緒に来て」

 それでもスネイプは動かなかった。膠着状態が続く。それが破られたのは、トンネルの奧から反響して聞こえてくる走る音だった。

「ロン、ハリエット!」

 杖灯りにぼうっと浮かび上がったのは、ハリー、ハーマイオニー、そしてマクゴナガルの顔だった。ハリーは腕を固定したままだったが、頓着もせずハリエットに詰め寄った。

「怪我はない!? ジェームズは!?」
「上で……リーマスと……」
「あなた達はこのままホグワーツへ戻りなさい」

 マクゴナガルは杖を構え、斜め上にポッカリと空く穴を見据えた。

「ポッターは私が連れて帰ります」
「先生……」

 マクゴナガルが坂を上り始めるのと、穴から何か重たいものが転がり落ちてくるのはほぼ同時だった。

 あっと誰しもが声を上げ、為す術もなくジェームズが血だらけで落ちてくるのを見つめていた。

「ジェームズっ!」

 ハリーは金縛りから抜け出し、すんでの所でジェームズの身体を抱き留めた。ローブはぐっしょりと血で濡れ、どす黒い色になっている。マクゴナガルが駆け下りてきて、慌ててエピスキーをかけるが、気休めにしかならない。

 ジェームズの血が坂道に細長い川を作っていた。それほど大量の血が刻々と失われているのだ。

「見たところ噛み傷はないようですが……急いで医務室へ連れて行かなければ」

 マクゴナガルが杖を振って担架を出した。ロン達は何を言うでもなく道を空けた。

「スネイプ、ポッターを頼みますよ。私は……屋敷の、ルーピンの様子を見てきます」

 マクゴナガルは言葉を濁そうとして、結局諦めた。ハーマイオニーが涙で濡れた顔を上げる。

「でも、お一人じゃ危険じゃ……」
「私はアニメーガスです。ミス・グレンジャー。狼人間は、よほどの理由がない限りは動物には危害を加えません。心配には及びませんよ」

 言い終えると、マクゴナガルは素早く猫に変身した。そのまま身軽に坂を駆け上っていく。

 トンネルは、果てしなく長く感じられた。誰もが口を閉ざし、気遣わしげにジェームズを見る。ジェームズは意識がなかった。真っ白い顔がぼんやりと暗闇に浮かぶ様に、どうしても嫌な想像が頭を過ぎる。

 やっとの思いでトンネルを抜け、五人は医務室に駆け込んだ。寝ぼけ眼のマダム・ポンフリーは、ジェームズの惨状を見るなり悲鳴を上げた。

「一体何をしたらそんなことになるんです! 早くこちらに寝かせてください!」

 ジェームズは寝台に横たえられ、マダム・ポンフリーの杖一振りによってローブとシャツが裂かれた。あちこち切り傷ができていたが、一番ひどかったのは脇腹だ。抉れるようにして肉が切り裂かれている。

「ひどい……」
「困ったわ」

 傷口にハナハッカ・エキスを垂らしながら、マダム・ポンフリーはブツブツと呟いた。

「造血薬の材料が足りない」
「どこに行けばありますか?」

 反射的にハリーが訊いた。マダム・ポンフリーは小さく首を振る。

「店まで行かないと手に入らないでしょう。明日買いに行く予定だったんです。ここ最近やけに切り傷をこさえる生徒が多くて……」
「ジェームズはどうなるんですか!?」
「造血薬を飲めば一発で血は事足りるでしょう。でも、それができないとなると、同じ血液型の子からいくらか血を提供してもらうことになります」
「僕、同じ血液型です」
「私も」

 ハリーとハリエットが一番に名乗りを上げた。マダム・ポンフリーはハナハッカ・エキスの瓶に蓋を閉めながら言った。

「では、二人とも隣のベッドに横になってください。念のため身体と血液の様子を見ます」

 ハリーとハリエットはジェームズを挟むように両側のベッドに横になり、マダム・ポンフリーから簡単な質疑応答を受けた。今はもうピンピンしているとはいえ、ハリーも一応怪我人で、そんな彼から血をもらうことに、マダム・ポンフリーは抵抗があったようだが、背に腹はかえられず、きっちりギリギリまで血をジェームズに分け与えた。

 幾分か血色が戻ってきたジェームズに皆の視線がまた戻ってきたとき、唐突に医務室の扉が開いた。勢いが良すぎてガタンと音が鳴り響く。

「医務室まで血が……誰か怪我したの?」

 入ってきたのはシリウスとピーターだ。特に顔色が悪いのはシリウスだ。自分のしかけた悪戯がこのおびただしい量の血に関係があるのではと思い至った顔だ。

 ロンが道を空けると、シリウスとピーターは血相を変えてベッドに近寄った。

「ジェームズ!」
「死にませんよね?」

 ピーターがマダム・ポンフリーに勢い込んで尋ねた。

「死にませんよ。同じ血液型の子から輸血はしました。一日安静にしていれば明日にはピンピンしていることでしょう」
「一体何があったんですか?」
「なんでジェームズが……」
「ジェームズは、暴れ柳に向かった私達を助けに来てくれたの」

 シリウスの思わずといった呟きに反応したのはハリエットだった。

「スネイプは、あなたの言葉を鵜呑みにして叫びの屋敷まで行ったの」

 シリウスが困惑してスネイプを見れば、彼はジロリと睨み返す。シリウスはまたハリエットに視線を戻した。

「ハリエット、血が……」
「リーマスの血よ」

 シリウスはハンカチを差し出したが、ハリエットはどうしても受け取る気になれず、ローブの裾でおざなりに頬を擦るだけに留めた。

「リーマスは?」

 ハッとしたシリウスがそう尋ねた途端、医務室の扉が開いた。疲れた様子でマクゴナガルが入ってくる。

「ルーピンは無事ですよ」

 短くもよく分かるその一言に、皆はホッと胸をなで下ろした。マクゴナガルはジェームズの様子を見にベッドまで近づいた。

「ポピー、明け方、ハナハッカ・エキスを持って叫びの屋敷へ行ってもらえますか? ルーピンは、一人で動けない可能性が……」
「もちろんですよ」
「俺も行きます。行かせてください」

 割って入ったシリウスに、マクゴナガルはしばし逡巡した。

「……良いでしょう。ですが、一人で行くことは許しません。早朝医務室に来てポンフリー先生の指示を仰ぐのです」
「はい」
「他に怪我をした人は?」

 マダム・ポンフリーはぐるりと見回した。誰も応えない。

「さあ、怪我人以外は寮にお戻りなさい。今日はもうゆっくり休むんです」
「でも、あの……」
「戻りなさい」

 マダム・ポンフリーは再度言った。ようやくロン達は徐に動き始める。

「ブラック、スネイプ」

 マクゴナガルの小さな声は、思いのほか医務室に響いた。

「あなた達に、ダンブルドア先生からお話があります。ふくろう便を送りました。もうすぐお戻りになるでしょう。一緒に校長室まで、よろしいですか?」
「……はい」

 シリウスとスネイプは、マクゴナガルと共に医務室を出て行った。ロンとハーマイオニーは、後ろ髪引かれる様子で最後までハリーとハリエット、そしてジェームズの方を見ていたが、やがてマダム・ポンフリーに強制的にその視界を遮られ、しずしずと出て行った。

「ホットミルクです。今日はもう眠りなさい」

 優しい声でマダム・ポンフリーはマグカップを二つ、ハリーとハリエットに差し出した。

「あの、ジェームズは……」
「あなた達のおかげで、大分顔色も良くなりました。傷口ももう治りかけです。明日になったらまた騒がしく校内を走り回れますよ」

 冗談めいたマダム・ポンフリーに僅かに笑みを返し、ハリエットはジェームズを見た。そこから見える横顔は、確かに血色付いているようにも見える。ハリエットは冷ましながらミルクを飲み干すと、力を抜いてベッドに横になった。


*****


 カーテンの隙間から差し込む光が顔にかかり、ハリエットは身じろぎをして目を覚ました。重たい頭でしばしぼうっと思案した後、突然覚醒したかのようにベッドから起き上がる。隣を向けば、目を丸くしたハリーと目が合った。

「おはよう……」
「ジェームズは?」
「まだ目は覚まさない。でも、具合は良さそうだ」

 ハリーは先に起きていたようだ。ベッドに腰掛け、落ち着かない様子で杖を弄っている。ハリエットもジェームズのローブを畳んだり、彼の顔をタオルで拭ったりと、そわそわと何かしら動いていた。ノックの音がしたときには、何も悪いことはしていないのに、ビクリと肩を揺らした。

「おはようございます」
「おはようございます。ポッターの様子はどうですか?」

 入ってきたのはマクゴナガルだった。昨夜は寝間着姿だったが、もうきちんと着替えている。

「たぶん良いです。でも、まだ目を覚まさなくて」
「そうですか……」

 マクゴナガルは閉めきられたカーテンを開け、ハリー達の前に立った。

「今からポピーがルーピンを連れてきます。あなた達は、ルーピンが人狼だということを知っていて、かつその秘密も守ってくれると――その気持ちは、今も変わりませんか?」
「はい、もちろんです」

 ハリーとハリエットは同時に頷いた。マクゴナガルは躊躇いがちに頷く。

「その気持ちに感謝します。では、これはご存じですか? 人狼は、狼人間に変身している間も、その記憶を保持していることは」
「はい」
「ルーピンは、昨夜のことを全て覚えています」

 沈痛な表情で、マクゴナガルは言い切った。

「そのショックは私には計り知れません……。友人を襲い、あまつさえ自らの手で切り裂いた事実……。満月明けということもあって、ルーピンはかなり憔悴しています」

 マクゴナガルは無意識のうちに窓に目をやった。その方向には暴れ柳がある。

「秘密を守ることと、人狼のルーピンに恐怖を感じないこと……それは同義ではないでしょう。まだ昨日の今日です。もし……あなた達の心の準備が整っていないのであれば……ルーピンには会わない方が良いと思います。あなた達とルーピン、どちらのためにも」
「僕達、リーマスが怖いんじゃありません」

 ハリーはきっぱりと言った。

「リーマスは大切な友達です。恩師でもある……。ちょっと厄介な持病があるからって、僕達がリーマスを怖がる理由にはなりません」
「私達もリーマスの様子が見たいんです。昨日、魔法でかなり応戦してしまって……」
「……分かりました。ただ、ルーピンの方があなた達を拒絶するかもしれません。その時は、どうか、しばらく見守ってあげてください」
「はい」

 その後、マクゴナガルに昨夜の詳細を説明していると、マダム・ポンフリーとシリウス、そしてリーマスがやって来た。シリウスに支えられるようにして歩くリーマスの顔色はかなり悪い。顔の傷もまた新たに増えている。

 ハリーとハリエットは同時に立ち上がった。

「リーマス――」
「ルーピンは、少し気分が悪いそうです」

 マダム・ポンフリーが優しくハリー達の声を遮った。リーマスは、青白い顔で頑なにこちらを見なかった。苦しそうに顔を歪めながら床の一点を見つめている。

「あちらのベッドに寝かせます。いいですね?」

 言外に、少し一人にさせてあげてくれと言われ、ハリー達はそれ以上近寄ることはできなかった。また力なくベッドに座り込む。

「リーマスは大丈夫ですか?」

 マダム・ポンフリーが戻ってきたときに、ハリエットが小声で尋ねた。

「ええ……。傷跡は多少残ってしまいますが、身体に別状はありません。ただ……あなた達や、ポッターのことを気にしているらしく……」

 ハリエットは気がかりにリーマスのベッドの方を見た。今すぐに、リーマスのことは怖くなんかないと、今まで通り友達でいて欲しいと言いに行きたくて堪らない。だが、自分のちょっとした言動がリーマスの琴線に触れてしまうのではないかと思うと、なかなか行動に移せない。しばらく一人にしてあげることが何よりの解決方法なのだろうか?

「さあ、あなた達も、身体に異常はありませんね? そろそろ皆が大広間に向かう頃でしょう。寮へお戻りなさい」
「でも、ジェームズが……」
「ポッターにはいつから下級生の保護者ができたんでしょう。安心なさいな。今日の夜には拍子抜けするくらい元気な姿が見られますよ」

 こうまで言われては、いつまでも駄々をこねるように留まることはできない。渋々二人が立ち上がり、未練たらたらで医務室を後にした。