■過去の旅

34:変えられない未来


 医務室を後にしてすぐ、ハリー達の後を追うようにしてマクゴナガルも出てきた。

「二人とも、朝食の前に少しお時間よろしいですか? ダンブルドア校長先生がお呼びです」
「僕達に?」
「ええ、昨夜のことで。校長室までの行き方は分かりますか?」
「はい、大丈夫です」
「合言葉は魔女鍋スポンジケーキです」

 戸惑いつつも頷き、そのままハリー達は校長室へ向かった。リーマスのことを周りに漏らさないよう口止めをされるのだろうか。

 校長室に入ると、ダンブルドアは椅子に座り、茶を飲んでいた。ハリー達と視線を交わすと、青い目を細める。

「おはようございます」
「おはよう。朝食前に悪かったのう。お茶はどうかね?」
「いただきます」

 ダンブルドアが杖を一振りし、ティーカップが二組現れた。細く立ち上る芳しい香りの湯気に頬を緩ませ、一口飲むと腹の底がホッと温まった。いつの間にか魔女鍋スポンジケーキも一切れ皿の上にちょこんと乗っかっている。有り難く頂戴した。

「さて、お腹も空かせていることじゃろうから、短く済ませようと思う。君達は、リーマス・ルーピンの体質について知っていたのじゃな?」
「はい。ルーピン先生は隠していましたが、ある日、不可抗力で知ってしまって……」
「普段の君達の様子を知っているからこそ、念を押すのも失礼な話じゃろうが……彼の秘密については口を閉ざしてくれるかのう?」
「もちろんです!」

 ハリーは力強く頷いた。

「僕達、決して口外しません。むしろ……あの、スネイプは大丈夫でしょうか?」

 スネイプは、未来でシリウスを逃してしまった腹いせとして、人狼のことを漏らしていた。ここでも同じようなことが起こらないとも限らない――。

「それは大丈夫じゃろう。リーマスの秘密は、彼の学校生活にも深く関わってくる。セブルスは、周りに漏らさないことを約束してくれた」
「なら良いんですが……」
「最後に、もう一つ確認したいことがある」

 そう前置きしたダンブルドアは、先ほどと少し様子が違って見えた。どこか困っているようにも見えたのだ。

「造血薬の材料が足りず、ジェームズ・ポッターの輸血をどうしようかとポピーが困り果てていたとき、君達二人が献血の申し出をしたというのは事実じゃろうか?」
「……はい、事実です」

 ハリーは不安そうにダンブルドアを見上げた。

「何か、まずかったでしょうか?」
「……分からない」

 ダンブルドアからの返答は、彼にしては歯切れの悪い物だった。ハリーはますます居心地が悪くなる。

「それは……なぜ?」
「本来君達はこの時代にいるべき存在ではない。その君達が、一人の命を救ったとなれば――」
「でも、父さんはこんな所で死にはしない!」

 ハリーは思わず叫んだ。

「僕達を守って死ぬんです。こんな所で死んでしまったら、僕達は生まれなくなってしまいます!」

 まるで、父を助けたことが間違ったことだったと言われているようで。

 ハリーは我慢ならなかった。

「そもそも、シリウスの話では父さんがこんな大怪我をするなんてなかった! 僕達のせいでこんなことになったのなら、僕達がジェームズを助けないと!」

 ダンブルドアは一瞬固まり、そして全て分かっているという風に深く何度も頷いた。

「落ち着くのじゃ。なにも、わしはジェームズが死ぬべきだったと言っているわけではない。君達が助けずとも、他の人の血で彼は助かったのだと言っているのじゃ」
「結局助かるのであれば、誰が助けても一緒です! 僕は、少なくとも僕は嬉しかった……。父さんを助けることができて」

 ハリーの気持ちは、ハリエットにも痛いほどよく分かった。父と母は、自分達を守って死んでいったのだ。当時はたったの一歳。ハリエット達は、何の恩返しもできないまま、両親と永遠の別れを経験せざるを得なかった。

 だが、今はどうだ。

 たとえ、自分達がいなくても他の誰かの血が父を助けただろう。でも、それでも役に立ったのだと実感できた。そのことでどれだけ心が晴れやかになったか。

「未来が変わってしまうことを、わしは恐れている」
「どうして未来は変えちゃいけないんですか?」

 ハリーはすぐに切り返した。

「僕は……僕は、ダンブルドア先生を信頼していました。未来で。だから、過去のあなたも信頼しています。他の誰よりも。……あなたに、全てを話してはいけないでしょうか? 未来で起こった――これから起こる全てのことを」

 一旦言葉を切り、ハリーは言い訳するかのようにまくし立てた。

「誰に彼にでも言うわけじゃない。あなただから言うんです。あなたに全てを話せば、未来に待ち受けてる悪いことも、全て良い方向に変わるんじゃないかって思うんです。それだけの力があなたにはあるはずです」
「わしに話したからと言って、わしが君の望む通りに動くとどうして言えよう」
「人を助けるために動くだけです!」

 思いのほか鋭い声が響き、ハリー自身驚いているようだった。ハッとしたように口を噤み、そして。

「あなたなら助けられるはずです……。死んでしまうはずの人だって、あなたなら」

 懇願に近いハリーの言葉にも、ダンブルドアは長いこと何も言わなかった。先に折れたのはハリーの方だ。

「……だったら、どうして逆転時計なんてものがあるんですか? 先生は、僕らに直接言葉にはしなかったけど、逆転時計を使ってある人を救えと言いました。未来を変えたんです。ある人の命を救ったんです。それだって、未来を変えるような出来事だったのに、どうして」
「救うという言葉にも、様々な意味が含まれておる。現に、救うというのはどういうものだったのかね? 既に死んでしまったはずの人を――目の前で殺された人をすんでの所で救ったのか、これから殺されるかもしれない人を救ったのか」
「……後者です」

 ハリーは力なく答えた。この後の説明を聞かなくても彼の言わんとすることが分かるような気がした。

「わしが考えるに、ハリー、君達が変えた過去は、既に未来の中に組み込まれていたものだったのじゃ。それとは逆に、君が今変えたい未来というのは、もう既に起こってしまった出来事じゃ」

 丁寧に説明されても、それでもハリーは諦めがつかなかった。どうしても感情が追いつかない。

「未来を変えることが禁忌だとは思えません。倫理的に駄目だというのは分かります。でも、人の命以上に、倫理が問われるものがあるでしょうか?」
「未来を変えることで、確かに救われる命はあるじゃろう。じゃが、失われる命もまたあるやもしれぬ。それを思うと、安易に未来を歪めることはできんのじゃ」
「どうして……どうして……」

 ハリーの声は掠れていた。胸がギュッと押しつぶされそうになり、ハリエットは彼のローブを握りしめた。

「父さんと母さんが生き残ったからって、他の誰が死ぬと言うんですか……二人は、誰も殺したりしない。むしろ、たくさんの人の命を救う側なのに」

 ハロウィーンのあの夜、もしも二人が生き残れば、騎士団員として、それはめざましい活躍をするのだろう。首席で、誰よりも正義感に溢れた二人だ。きっと、たくさんの人を救うことができるのに。

「未来が変わることで、それが全て良い方向に変わると誰が自信を持って言えよう」
「…………」

 それを言われてしまえば、もう返す言葉もない。

 ハリーは撃沈し、ひどく項垂れたままその場に立っていた。


*****


 ハリー達二人が出て行った後も、シリウスとリーマスは無言だった。気を利かせてか、マダム・ポンフリーは奧の私室に引っ込んでしまった。これで心置きなく話せる状況ではあるが――。

「……ごめん」

 シリウスには贖罪の仕方が分からなかった。もしかしたら、自分が何に対して謝っているのかもよく分かっていなかったかもしれない。リーマスの返答は、それをシリウスに痛感させた。

「僕が何を一番怖がってるか分かるかい?」

 リーマスは決して怒っていなかった。その代わりシリウスはいっそ苦しくなるほどの哀愁を肌で感じていた。

「ヒトを噛むことだよ。ヒトを噛んで、僕と同じ苦しみを背負わせることになるのが何よりも恐ろしい。僕は何度もグレイバッグを呪った。なのに、自分が誰かのその原因になるなんて耐えられない……」

 カーテンが揺れた気がした。だが、どこか遠くをぼんやり見つめているリーマスには知り得もしないことだった。

「君達がアニメーガスになって僕の目の前に現れたときはとても嬉しかった。君達を傷つけてしまうかもしれないっていう恐怖もあったけど、噛みたいという衝動は起こらなかったんだ。初めてだったよ。その日は――いや、それからもずっと、君達は傍にいてくれて、そのおかげで、ヒトを噛みたいという衝動も、不思議と薄れてきて。苦痛もしがらみもない中、校庭を走り回ることがどんなに晴れやかだったか――」

 リーマスは目を伏せた。そのせいで、声色までもが暗く落とされる。

「でも、駄目なんだよ。例え動物であったとしても、僕は野蛮な狼人間だ。噛みたい衝動は起こらなくても、爪で君達を傷つけることはできる。苛立った衝動で万一にも君達を噛むことだってあり得る。僕は、君達と一緒にいて良い存在じゃないんだよ」
「何だって?」

 シャーッとカーテンを開け放ち、そこに仁王立ちするはジェームズ・ポッター。彼の後ろから後光のように差す太陽光が眩しかったが、それ以上になぜ彼がこんな所にいるのが理解が追いつかない。

「じぇ、ジェームズ?」
「お前――怪我は!」
「マダム・ポンフリーの手にかかればあんなの大したことないよ。今までだってどんな大怪我でも次の日にはピンピンしてたんだから」
「だからって――」
「傷は? 痛まない?」

 ベッドの上からリーマスが心配そうに声をかける。ジェームズはゆっくりリーマスへと歩み寄る。

「だから大丈夫だって。僕を重病人か何かみたいに言わないでくれ。リーマスの全力のじゃれつきに応えられなくて申し訳なかった。次はあんなことにはならないから大丈夫」

 ジェームズのおどけた口調に、むしろリーマスは表情を強ばらせた。

「二度目があって堪るものか。もうあんな思いをするのはごめんだ。今後叫びの屋敷には来ないでくれ」
「リーマス、そんなこと言うなよ。今までだって大丈夫だったんだ。もう二度とあんなことにはならない」

 焦ったようにシリウスは言いつのるが、リーマスは頑として首を縦に振らない。ジェームズは短く息を吐き出した。

「分かった」

 何を、という顔でシリウスがジェームズを見た。ジェームズはリーマスを見据えたままだ。

「君がそう言うなら仕方ない。だって、アニメーガスはもともと君のために習得した魔法だ。君がいらないというのなら、もう用済みだね」

 シリウスは何も言うことができなかった。ジェームズの言う通りだった。リーマスが嫌がることを続けることはできない――彼の真意がどうであれ。

「これからダンブルドアの所に行ってくる」

 親友の言動の意図が読めず、リーマスは一瞬ポカンとした。

「……ジェームズ?」
「アニメーガスのことを打ち明けてくる。そもそも、狼人間をヒトの姿で撃退したっていうのだって白々しい話だ。不審には思われてるはず。アニメーガスのことを説明すれば、一発で納得するだろうね」
「な――な、何言ってるんだ! そんなことをしたら、君は退学になる! いくらダンブルドアだからって許してはくれない! もしかしたら、アズカバンに行くことだってあり得るんだ!」
「君がアニメーガスをいらないんだって言うのなら仕方ないよ。もともとこうなるかもしれないことは覚悟してた。変に誤魔化して、ズルズル君達のことまでバレるよりは、僕一人でけじめをつけた方が」
「ジェームズ、俺も行く」
「なっ――」

 リーマスは驚愕に目を見開いてシリウスを見た。リーマスが止める間もなく、彼は覚悟を決めた顔をしていた。

 リーマスも、何もジェームズが本気だとは思っていない。彼のこの言動が、自分を説得するためだというのも分かっている――もちろん、状況によれば彼はダンブルドアに打ち明けることも厭わないほど友情に厚い人物だと言うことは知っている――だが、この場合は。

 シリウスの方が本気だったことが問題だ。本来であれば、シリウスがいち早くジェームズの意図に気付き、理解した上で乗っかるのが通例だが、今のシリウスは本気だ。本気でジェームズの後に続こうとしている。

 どうする、という顔でジェームズがリーマスを見た。リーマスは、早々に白旗を上げるほかなかった。昔からジェームズには敵わない。行動力も、頭の回転の速さも。

「もう止めてくれ……。僕が悪かった。僕が嘘をついたんだ。心にもないことを言った。また君達を傷つけるかもしれない……その恐怖はある。きっとこの先も消えないだろう。でも、僕は知ってしまった。苦痛も孤独も感じない夜を」
「リーマス……」
「僕は、自分でも思ってる以上に君達のことを楽しみにしていたみたいだ……」

 リーマスは泣き笑いのようにくしゃくしゃに微笑んだ。

「また、満月の夜、君達のことを待っていてもいいかな?」
「――もちろんだ。嬉しさのあまりムーニーがじゃれかかってきても対応できるように、禁じられた森の動物を相手に特訓した方が良いかな?」

 ヘラヘラとジェームズが笑い、リーマスも思わずと小さく笑みを零す。リーマスが口を開いたが、それよりも先に雷でも落ちたかと聞き紛う声が響き渡る。

「ジェームズ・ポッター!!」
「――っ!」
「怪我人が何をうろちょろしてるんです! 早くベッドに戻りなさい!」

 振り返った先には、眉を吊り上げたマダム・ポンフリー。減点など怖くないジェームズ・ポッターも、さすがに怪我人の今は彼女が恐ろしい人物に見えて仕方がない。医務室の支配者である彼女の前で悠長に歓談に耽る豪胆さは持ち合わせてはおらず、しぶしぶシリウスに目配せした。

「シリウス、肩を貸してくれ。ベッドまで」
「ああ」

 マダム・ポンフリーの厳しい監視の中、ジェームズはよたよたと己のベッドに戻った。まるで母親のように彼に毛布を掛けてやるシリウスの腕を引き、その耳に囁く。

「リーマスは君を許すだろう」
「…………」
「自分のことよりも、友情が壊れることの方が恐怖に違いないから。だから僕が言う。――君は、リーマスに一生癒えない傷を負わせる所だったんだって」
「……分かってる」
「分かってない」

 ジェームズは無意識に腕に力を込めた。

「スネイプに痛い目を見せたいのなら、自分の手でやるべきだった。リーマスは何の関係もない。今回のことで、また更に人狼の自分が嫌になったはずだ」
「さあ、薬の時間ですよ。あなたはもう行って」

 答える暇も無いうちに、シリウスはマダム・ポンフリーにカーテンの外に追いやられた。項垂れながらも向かった先はリーマスの所で。

「リーマス……悪かった」

 途方に暮れた顔で謝罪を口にするシリウスに、リーマスも困った顔を見せた。

「謝るのは僕にじゃないよ。もう少しでスネイプもジェームズも、ハリエット達だって死にそうになったんだ、僕のせいで」
「…………」

 シリウスは声もなくリーマスを見つめた。――分かっていたはずだったのにリーマスがこんな考え方をすることくらい。『自分』の優先順位が何よりも低いことくらい。

 こんな言い方をさせてしまったのは、紛れもなく自分だ。

 今更ながらジェームズの言葉が己の心の奥深くまで染みこんでいく。

 シリウスは情けなくなってまた俯く。

「ごめん、本当にごめん」
「だから言ったじゃないか、謝るのは僕じゃないって」
「違わない。俺が一番傷つけたのはリーマスだと思ってるから。……本当にごめん」
「全く……」

 思わずとリーマスは零していた。

「君はやっぱりずるいなあ」

 ホグワーツに入学して、初めて友を得たというのは、シリウスもリーマスも同じことだ。だからこそ、友情を、友達を大切に思っているのは彼もリーマスも同じだ。違うのは、友情が壊れることを恐怖するあまり、リーマスは臆病になり、一歩踏み出せずにいること。素直に自分の思っていることを口にできないこと。

 シリウスはその逆だ。友情に厚いことに変わりはないが、かといって彼が臆することはない。人によっては、単に傲慢なだけだと言われることもあるかもしれない。だが、人の顔色を窺わず、自分を曲げないその強さはリーマスの憧れでもあった。

 家の教えに真っ向から対抗し、自分を貫く強固な意志は、シリウスの軸となる部分だ。ただ、それだって時に彼は曲げることもある。なりふり構わずに動ける男だ。そういう所を、リーマスは好いていた。憧れていた。己を律し、いつも一歩引いた所で状況を見極めつつも、大事な所で一歩踏み出せない臆病な自分には決して真似できないもので。

「もういいよ」

 リーマスは微笑んでシリウスを見上げた。

「シリウスの気持ちはよく分かった。謝罪は大丈夫。たぶんスネイプも謝罪はいらないって言うだろう」

 スネイプのことは頭になかったのか、シリウスは素直に顔を顰めた。殊勝な表情でスネイプに頭を下げる自分を想像したのだろう。本当に分かりやすい友人だ。

「でも、せめてロンとハリエットのアフターケアだけはしてあげて。今回のことで魔法界を嫌いになったらもったいない」
「ああ、もちろん」
「学年も違うし、もし僕のことが怖いって言うのなら、できるだけ姿を見せないようにすることもできる。さり気なく今後僕がどうしたら良いのか聞いてくれたら助かる」
「リーマス……」

 シリウスはパクパク口を開けたり閉じたりしたが、結局何も言うことができず、小さく頷いた。