■過去の旅

36:杖を抜いたのは


 シリウスの悪戯の日から数日が経過した。図らずしてジェームズ達との仲直りのきっかけとなった出来事は、ハリー達との間にそれほど禍根は残さなかった。シリウスがスネイプに対して行ったたちの悪い悪戯に関しては、思う所は多々あったが、ジェームズに何か言われたのか、シリウスはその後しばらく落ち込んだ様子だったし、リーマスもそれほど怒った様子はなかったので、自分達が口を出すことではないとだんまりを決め込んだ。

 ピーターに対しては、ハリー含む皆が態度を改めた。あからさまに避けたり無視をしたりすることはなく、できる限りジェームズ達と同じように交流しようと努力している。ただ、相変わらず彼に対する複雑な感情は健在なため、どうにもぎこちない態度になってしまうが、許容範囲内だろう。

 仲直りにより、気分が急上昇したハリエットは、久しぶりにスラグホーンからの招待も受けた。リリーからの情報により、今回のクラブは、なかなか豪勢なものが開かれると聞き及んでいたせいもある。何でも、今回のスラグ・クラブは、半年後に行われるN・E・W・T試験に向け、本気で勉学に取り組み始める七年生を送り出すパーティーらしい。

 卒業後の進路は、何も試験の結果だけで全てが決まるわけではない。コネだって充分将来の決め手になり得る。そういうことを十二分によく知っているスラグホーンは、未来ある若者のために、少しでも足がかりとなる術を持たせるために、こういった場を毎年設けているのだ。そのことは生徒側も承知の上で、この時ばかりは、足が遠のきがちだった七年生も全員出揃う。スラグホーンと言えば、その人脈は魔法界でも群を抜いており、当然外部からの招待客は豪華な人材ばかりなのだから。

 クリスマス・パーティー以来の人の多さに、スラグホーンの部屋は拡張魔法で大きく広げられ、しもべ妖精の給仕も用意された。

 スラグ・クラブ参加者には、これまであらかた語り尽くしている部分があったため、今ではすっかり目新しさを失っていたが、今回はまた一段とハーマイオニーの興味を引く出来事があった。ハーマイオニーが、再三クラブ参加者にしもべ妖精についての談議を持ちかけるため、ついにスラグホーンの心を動かし、なんと、現屋敷しもべ妖精転勤室に勤めている人が一人参加するというのだ。話し合うばかりで、実際のしもべ妖精の現状についてはホグワーツや生徒から聞くしか知り得ることができなかったため、ハーマイオニーは興奮気味だ。それこそ、パーティー開始早々にハリエットを置いてけぼりにする勢いである。

 しもべ妖精のことはハーマイオニーに任せ、ハリエットはその間スラグ・クラブで顔見知りになった七年生に挨拶回りをすることにした。ハッフルパフやレイブンクロー等、寮も学年も違うとなると、なかなか顔を合わせる機会がないのだ。

 挨拶が終わると、ハリエットは隅の方に移動した。今日のパーティーは、いつも以上に格式ばっており、ちょっとだけ気後れしてしまったのだ。少し離れた場所から、リリーの花が咲き綻ぶような笑みを見ているだけで幸せだ。

 まるで好きな人を見つめるかのようにリリーに熱視線を送っていたハリエットだが、リリーの行く先行く先に視線をずらしていると、エイブリーの姿を見つけて急速にその浮かれた気持ちがしぼんだ。彼もスラグ・クラブのメンバーだったのだろうか。それとも誰かのパートナーなのか。

 グラスを片手に、彼はバーティ・クラウチと話していた。エイブリーに気づかれたくなくて、ハリエットはコソコソと彼に見つかりにくい場所に移動した。グリフィンドールであれだけ噂になっているのだから、エイブリーももちろんスネイプとシリウス、そしてジェームズの噂を耳にしたことだろう。

 ハリーやこの前の一件を経て、すっかりエイブリーやマルシベールが苦手になったハリエットは、油断なく彼を見つめながらそろそろ後ずさりし――何か小さいものにぶつかった。

「わっ!」
「もっ、申し訳ございません!」

 ひんやりとした冷たいものが膝にかかり、ハリエットは目を白黒させた。思わずと下を見れば、小さなしもべ妖精が目をうるうるさせて震えている。

「魔女様のローブを汚してしまった! あたしが! あたしは悪い子!」

 しもべ妖精が突然地面に膝をついたとき、ハリエットが咄嗟に彼女の腕を引いたのは素晴らしい反射神経だった。きっと、二年生の時にドビーの困った癖と遭遇していなかったら、今頃この妖精の額は真っ赤になっていたことだろう――。

「ち、違うわ。私が悪いの。よそ見をしていたから……」
「魔女様があたしに謝罪なさる必要はございません! あたしが悪いんです!」

 しもべ妖精は信じられない力でハリエットの腕を振りほどこうとした。振りほどいたが最後、きっと彼女は全力で己の頭をかち割ろうとするのだろう。ハリエットも踏ん張った。

「ああ……お願い。あなたは悪くないのよ。こんなことは止めて」
「あたしが悪いんです!」
「彼女のローブはどこも汚れてはいませんよ」

 上から涼やかな声が降ってきた。ハリエットとしもべ妖精は同時にきょとんとして顔を上げた。そこに立っていたのは、シリウス――ではなく、レギュラス・ブラック。兄によく似た顔は表情に乏しく、二人のことを見下ろしていた。

「どこも汚れてないでしょう?」

 もう一度レギュラスが言った。ポカンとした顔のまま見下ろせば、確かにローブはどこも汚れていなかった。冷たい感触はあったのに、綺麗なままだ。

「それよりも、新しいグラスを持ってきてくれますか? 僕と彼女に。喉が渇きました」
「もっ、もちろんでございます!」

 ぴょんと立ち上がり、しもべ妖精は光の速さでグラスを二つ持ってきた。ありがとう、と礼を述べれば、しもべ妖精は先ほどの出来事はすっかり忘れてしまったようで、満面の笑みで『パーティーをお楽しみください!』と叫んで去って行った。

 ハリエットの視線には気づいてるだろうに、レギュラスはそのまま何食わぬ顔でバルコニーの方へ向かった。ハリエットもその後を追う。

「ブラック、さっきはありがとう。助けてくれて」

 呪文の効いていない外は冷え冷えとして寒かった。長くはいられないだろうに、なぜわざわざレギュラスはこんな所まで来たのだろうとハリエットはぼんやり思った。

「別に助けたつもりはありませんよ。パーティーの空気が悪くなると思って」

 ローブを綺麗にしてくれたのもきっと彼なのだろう。シリウスの言う通り、彼はやはりしもべ妖精に対して優しいのだ。

「しもべ妖精との接し方が分かってるのね」
「家に一人、生まれた時から仕えているしもべ妖精がいますから」

 レギュラスの口調は堅苦しい。だが、響きは優しかった。ただそれだけで、彼のしもべ妖精に対する扱いが見て取れるようで。

「きっと仲が良いんでしょうね」

 微笑ましく言えば、レギュラスが意外そうに視線だけハリエットに向けた。

「他の人達にも、そういう考えが浸透すれば良いのに。ホグワーツの生徒としもべ妖精の関係は良好だと思わない? お腹が空いたら厨房に行って食べ物を分けてもらったり、掃除をしてもらったり。魔法界全体にも、ホグワーツみたいな関係性が広まったら良いのに」
「そうでしょうか」

 また前を向いてレギュラスは切り返した。

「ホグワーツとはいえ、先生方の目があるから優しくしているだけで、彼らに対する心情は似たり寄ったりだと思います。そう簡単に魔法界に根付いた考えは覆りません」

 断言したレギュラスに呼応するように、ガシャンと何かが割れる音が響いた。

「おい、何やってるんだ!」

 和やかな空気を切り裂いたのは怒りに満ちた怒号だった。ハリエット含む皆の視線が現場へと向けられる。

 会場の隅で、男子生徒が一人のしもべ妖精を見下ろしていた。しもべ妖精は――先ほどハリエットとぶつかった子だ――ぶるぶる震えながら地面に膝をついている。

「靴がベトベトじゃないか! どうしてくれる! 新品だったのに!」
「申し訳ございません!」
「謝れば良いと思ってるのか!?」
「まあまあバートラム、お客様もいるんだ。落ち着きなさい」

 詰め寄る生徒に、おろおろしながらスラグホーンが宥めた。それでもバートラムの怒りは冷めやらない様子で、そこへキリリと凜々しい顔でハーマイオニーが歩み寄った。

「私、見てたわ。あなたがこの子にぶつかったんでしょう」
「それがどうしたって言うんだ!」
「開き直るつもり? あなたがこの子に謝るべきだわ!」
「穢れた血が!」

 小さく吐き捨てた声はハーマイオニーにしか聞こえなかった。更に表情が険しくなるハーマイオニーを押しのけ、バートラムはしもべ妖精を尊大な態度で見下ろした。

「こんな時どうすれば良いのか、わざわざ俺が説明しないと分からないのか!?」
「――っ」

 しもべ妖精は目を見開き――そして、すぐさま地面に頭を打ち付け始めた。

「あたしは悪い子です! 魔法使い様の靴を汚してしまった! あたしは悪い子!」
「止めて! あなたは悪くないのよ! こんなことしなくてもいいの!」

 まるでさっきの自分を見ているようだとハリエットは思った。ハーマイオニーは必死にしもべ妖精の腕を引っ張るが、一度たがが外れた妖精の勢いを止めることはできない。

 しもべ妖精が地面に頭を打ち付ける度、バタービールの水しぶきが上がる。それほど勢いが良かった。しぶきがかかったわけでもないのにバートラムは顔を顰めた。

「汚ないな……。もういい」

 お前、あっちに行けよ――。

 バートラムが右足を引くのが、やけにスローモーションに見えた。誰かがあっと叫び、ハリエットも思わずと息をのんだ。

 だが、最悪の事態は起こらなかった。気がついたときには、バートラムは壁に背中から激突して茫然としていたし、しもべ妖精の方は、ハーマイオニーに保護され、エピスキーをかけられていた。あまりに一瞬の出来事だ。周囲の人々は何が何だか分からないと言った顔だが、ハリエットはすぐに状況を理解できた。なんと言っても、バートラムの胸を打った紅の閃光は、紛れもなくハリエットのすぐ隣から放たれたものだったからだ。

 呪文が直撃した当人もそのことにはすぐに気づいたようで、呆気にとられた表情とは一転、すぐさま怒りの表情を浮かべ、杖を突きつけながらコツコツと窓際へと近づいてきた。

「よくもやってくれたな? 姿を現せ!」

 ハリエットはおろおろとレギュラスを見た。バートラムは明らかに年上に見えた。それもスリザリンの。謝ったとしても簡単に許してくれるとは思えない。きっとレギュラスの寮内での待遇は悪くなってしまうだろう。それなら、自分が名乗りを上げた方が良いかもともハリエットは考えた。学年も寮も違う相手ならば、ちょっとくらい恨みを買った所で、それほど支障はきたさないだろう――。

 ちらりとレギュラスも横目でハリエットを見た。僅かに眉間に皺が寄っている。はあ、と薄い唇が短く息を吐き出す。

 事態が急転したのは、ハリエットが瞬きをするほんの僅かな時間だった。ガシッと腰を掴まれ、仰向けに体勢を崩されたと思ったら――腰に何かが当たるのを感じた。バルコニーの手すりだった。

「〜〜っ!」

 驚きのあまり声が出なかったのは不幸中の幸いだったかもしれない。声を上げて誰かに目撃されることも、迂闊に口を開けて舌を噛むこともなかった。その代わり、バルコニーから身を投げ出され、勢いよく宙を落下していく恐怖心ばかりを味わっていた。