■過去の旅

37:優等生の大冒険


「モリアーレ」

 囁くような呪文に、ハリエットはそれがどういう効果のあるものなのかも考える暇は無かった。ただ、まるで無重力空間にいるような不思議な感覚と共に地面に足がつき、助かったとひとまずはそれを思った。だが、こんな状況に至らしめた張本人のレギュラスは、ハリエットに休む暇を与えることなくグイグイ腕を引っ張り、近くの植え込みに屈み込ませる。ハリエットは抵抗する力もなくレギュラスの隣に収まった。

 上では、丁度バートラムがバルコニーの手すりを蹴りつける音が響いていた。

「くそっ、どこ行った!」

 手すりからぐいっと身を乗り出すバートラムに、ハリエットは反射的に縮こまった。それとは対照的に、レギュラスは飄々した態度で上を見上げている。

 やがてスラグホーンがバートラムを回収し、辺りは静かになった。ローブの土を叩きながらレギュラスは立ち上がった。

「言いたいなら言って良いですよ」
「え――」

 一瞬戸惑ったハリエットだが、すぐに彼が何を指しているのかに気づいた。

「言わないわ!」

 ハリエットは思わず立ち上がった。決して怒っているわけではないが、気持ちを込めるあまり、つい声が大きくなった。

「あなたの行動は間違ってない。私、言わないわ。このバッジに誓って」

 ハリエットは己の胸元に手を添えた。レギュラスは素直にそこを見つめ――ポカンとした。

「反吐……」
「スピューじゃないわ、エス・ピー・イー・ダブリューよ。しもべ妖精福祉振興協会」
「聞いたことありません」
「ハーマイオニーが作ったの。……あ、いえ、作ったというか、そういう団体があればっていうか……。と、とにかく、しもべ妖精の待遇改善を目指すための団体なの」

 ハリエットはちょっと興奮していた。きっとあの場のほとんどが、バートラムのあの行為を不快に思っていた。だが、スラグホーンですらどうことを収めようかと迷いあぐねている間に、誰よりも早く咄嗟に行動したのはレギュラスだった。彼が、しもべ妖精のために一番に杖を抜いたのだ。誰にでもできる行動ではない。

「私、感動したの、あなたの行動に。だから、絶対に言わない」

 レギュラスの顔は引きつっていた。感動、とまで言い切るのは、些か誇張しすぎただろうか?

「……はあ、まあ、とにかく言わないなら言わないで良いです。巻き込んですみませんでした。僕はもう行きます」
「――あっ!」

 折角このままS・P・E・Wの活動目的までに言及しようと思っていたら、レギュラスはそんなこと興味もないとばかりさっと身を翻して歩き出してしまった。ハリエットは慌ててその後を追う。

「ブラックはこの後どうするの? パーティーに戻るの?」
「この状況で戻ったら悪目立ちするでしょう。折角逃げ出した意味がなくなります。もう帰るつもりですよ」
「そう……。じゃあ私も帰ろうかな」

 もっとレギュラスと話してみたかったが、そんなことも言い出せず、玄関ホールまで来た時、ニャア、とどこからか高い鳴き声がした。

 動物の鳴き声には敏感に反応するハリエットは、すぐに耳をそばだてた。すぐ目の前の階段をとことこ上ってきたのはフィルチの飼い猫だった。

「ミセス・ノリスだわ。こんばんは」

 呑気に挨拶するハリエットを余所に、レギュラスは身構えた。

「なんて間の悪い……。管理人を呼ばれるかもしれません」
「フィルチさんを? 大丈夫。話したら分かってくれると思うわ」

 落ち着きなく辺りに視線を配るレギュラスに待ったをかけ、ハリエットはミセス・ノリスの前にしゃがみ込んでにっこり笑った。

「ミセス・ノリス、私達、もう寮に帰る所なの。校内を探険するつもりも、悪戯をするつもりもないわ。見逃してくれい?」
「なんて幸せな頭をしてるんですか」

 レギュラスは思わず言わないではいられなかった。

 猫が人間の言葉を理解するわけがないし、仮に理解したとして、フィルチの良いなりの彼女が言うことを聞いてくれるわけもない。

 案の定、ミセス・ノリスは馬鹿にしたように短く鳴き、勢いよく階段を駆け下りた。レギュラスはパッと顔色を変える。

「だから言ったんですよ! さっさと逃げれば良かった!」
「でっ、でも、あの子なら話せば分かってくれると思って――」

 言いながら、ハリエットはようやく思い出した。秘密の部屋を通して仲良くなった気になっていたミセス・ノリスは未来での話で、この時代のミセス・ノリスはまだ初対面だったと。

 慌てふためいている間にも地下からドタドタと騒がしい足音が響いてくる。十中八九フィルチだ。レギュラスはそのま階段を駆け上り、ハリエットも慌てて後を追った。

 レギュラスは、どんどん階段を上っていった。そろそろ適当な所で空き教室に隠れれば良いのに、とハリエットは思ったが、その頃にはすっかり息が上がっていて、声をかける余裕など微塵もなかった。ようやくレギュラスが止まったとき、ハリエットは助かったと想ったくらいだ。

「この先は一人で行けるでしょう?」
「えっ――な、何が?」

 振り返ったレギュラスは涼しい顔をしている。ハリエットは男女の体力の差を痛感した。

「グリフィンドール寮はこの辺りにあるんでしょう? さようなら」

 素っ気なく言い放ち、去って行こうとするレギュラスに、ハリエットは慌てて声をかけた。

「ま、待って! ブラックはどうするの? 下からフィルチさんが追い掛けてきてるのよ」
「適当に隠れながらやり過ごします。ここまで来れば、夜中廊下を歩いていた生徒はグリフィンドール生で、寮に逃げ込んだんだと思ってくれるでしょう」

 確かに、とハリエットは納得しかけるも、やっぱり素直には頷けない。まるで、自分をここまで送ってくれたかのようなレギュラスの態度に――おそらく彼は認めないだろうが――ハリエットは恩を感じていた。

「でも、それでも心配だわ。フィルチさんをやり過ごす間、グリフィンドールで時間を潰すのはどうかしら? ハリー達の寝室に隠れていれば良いと思うの。この時間なら談話室にほとんど人はいないだろうし、ローブを脱げば誰もあなたが他寮生だとは思わないわ」
「スリザリンがグリフィンドールに?」

 レギュラスはハリエットに向き直った。

「バレたらただでは済まないことはあなたも分かっているでしょう? どちらにとっても、良い案とは思えません」
「でも――」
「おっ、おっ、おっ?」

 突然、ワクワクを隠しきれないと言った声が響いた。

「夜中に校内を彷徨く生徒発見〜!」

 ハリエットとレギュラスはサーッと血の気を失った。一番見つかったら厄介な者に見つかってしまった!

「深夜のデートだ! グリフィンドールとスリザリン! お忍びデートか〜い?」

 ケラケラと笑いながら二人の間を飛び回るポルターガイスト。レギュラスは険しい顔で走り出し、ハリエットも必死にその後を追った。

「ほ、本当にごめんね! 私が引き留めなければ――」
「どうしてあなたもついてくるんですか!」
「だって放っておけないわ!」

 本気で走っても、ポルターガイストのピーブズは撒けない。ケタケタ笑いながら、こちらを嘲笑うかのように一定の間隔を開けてついてくる。

「うーん、男の方は見たことあるぞ。知ってるぞ。名前も黒ければ、髪も黒い。ブラック、レ――」
「シレンシオ」

 突然立ち止まったかと思えば、レギュラスは黙らせ呪文をピーブズに放った。ピーブズはピタリと口を閉じた。

「オブスクーロ、インカーセラス」

 突然現れた黒の目隠しがピーブズの視界を覆い、ロープが彼の胴体にきつく巻き付いた。ピーブズはもがもがと抵抗したが、完璧に作用した魔法はそれだけでは何の綻びも出なかった。

 息つく暇も無い呪文の乱用に、ハリエットはポカンと口を開けたままだった。ちらりと目だけでレギュラスを窺う。

「あ、あの……ブラック……。校内で魔法は使用しちゃいけないって」
「この期に及んで何を言ってるんです?」

 レギュラスは呆れた目でハリエットを見つめ返した。

「それに、二度も三度も同じことです。バレなければ」
「……私、あなたのこと優等生だと思ってた」

 冷静沈着で、シリウス達とはいつも違った意味で人に囲まれているレギュラス。だが、それに奢った様子はなく、落ち着いて接しているように見えたのが第一印象だったのに。スリザリンの監督生になるのはきっと彼だろうとも思っていた。

「それはどうも」

 皮肉と受け取ったのか、レギュラスはにこりともせずにそのまま歩き出した。廊下にはガチガチに縛られたピーブズを放ったままだ。

「ま、待って。私この先に抜け道があるの知ってるの。そこから行った方が――」
「見つけたぞ、生徒二人!」

 ハリエットの声を遮り、フィルチが高々に叫んだ。レギュラスが杖を抜くよりも、ハリエットが振り返る方が早かった。自分だけならまだ良い――不可抗力とは言え、今まで山ほど校則を破った経験があるのだから――だが、レギュラスを巻き込むのは申し訳なかった。彼は、シリウスとは違って優等生だ。たとえ、夜中にスラグホーンの部屋から飛び降り、ピーブズに立て続けに魔法を放ったとしても――。

「オブスクーロ!」

 目隠しの呪文は使ったことはなかったが、うまく作用した。ハリエットはくるりと身を翻し、レギュラスの腕を掴んで近くの甲冑の裏の抜け道に飛び込んだ。

「頭気をつけて。天井が低いから」
「…………」

 返事はなかったが、彼がついてきているのは気配で分かった。四つん這いに進みながら、ちょっと開けた場所まで来ると、体勢を変える。

「ここからは下り坂になってるから、滑り落ちた方が良いわ」

 忍びの地図で抜け道の存在を知ったハリエットだが、元の時代ではあまり使う用途がなかった。だが、それが過去に来てからはどうだ。マグル生まれだからと、グリフィンドールだからと向けられる杖から逃れるため、すっかりホグワーツ城のあちこちにある抜け道の常連となっていた。

 あっという間に下り坂を終え、ハリエット達は肖像画の立ち並ぶ廊下に出た。辺りを窺いながら、ひとまずは近くの空き教室に逃げ込み、ローブについた埃を払う。

「……あんな抜け道があったんですね」

 廊下の様子を窺いながらポツリとレギュラスが言った。

「教えてもらったの」

 ハリエットの返答に、レギュラスはなぜか寂しそうな顔をした。ハリエットが瞬きをするうちに元の顔に戻っており、もしかして見間違いだったのかとハリエットは困惑した。

「後を追われている様子はないみたいですね。では、僕はこれで」

 レギュラスは扉に手をかけ、さっさと行ってしまおうとした。仮にも夜の大冒険をした仲間に大した挨拶もなく。

 ハリエットは思わず呼び止めていた。

「ちょっと待って」

 なぜそんなことをしようと思ったかは分からない。だが、今夜は彼が一番これ・・に相応しいような気がして。

「はい、これ」

 レギュラスは、差し出されたものをマジマジと見つめていた。珍しくその顔には困惑が見て取れる。

 ハリエットの手の中にあるのは金色のバッジだ。妙にトゲトゲしている。その形は、どう見ても――。

「……星?」
「ライオン」
「…………」

 ハリエットの堂々とした返答に、レギュラスは改めてバッジを見た。――やはり、どう贔屓目に言っても、星にしか見えない。どこがライオンだというのだろう? もしかして、マグル界のライオンは、魔法界のライオンと形状が異なるのだろうか――。

 困惑しながら思考するレギュラスの表情は真面目そのもので、ハリエットは堪えきれずにまたクスクス笑った。

「別に、付けて欲しいって言ってる訳じゃないのよ。でも、私達は同志じゃないかって思うの。しもべ妖精が理不尽に虐げられるのは見過ごせない同志」

 あんまり静かに見つめられたままなので、ハリエットは焦れてレギュラスの手にバッジを押しつけた。強引なのは百も承知で、ハリエットは文句を言われる前に退散することにした。

「フィルチさんも追い掛けてこないみたいだし、私、もう行くわ。――じゃあね、レギュラス」

 小さく笑って、ハリエットは慌てたように教室を出て行った。ピシャリと扉が閉まる音が響き、ようやく我に返ってレギュラスも手の中のバッジを見下ろす。

 S・P・E・W――反吐とも呼べるその文字がやけに自己主張している。おまけにその形状は、星だと言えばまだ面影が残っているのに、彼女はライオンだと言い張る。

「は……」

 『反吐』のバッジを胸元に煌めかせ、飄々として校内を闊歩する己の姿を想像してしまい、レギュラスはおかしくなって思わず笑ってしまっていた。