■過去の旅

39:譲れない理由


 ハリエット達が図書室についたのは、太陽が傾き始めた頃だった。午後すぐに来ていれば席もまだ空いていただろうが、中途半端な時間に来てしまったばかりに、席は大分埋まっていた。

 NEWTやOWLに向けて根を詰める生徒が多い様子で、彼らの邪魔をしないよう、ハリエット達は小声でやり取りした。

「二つ席が空いてる所はないみたい」
「そうだね。談話室に戻る?」
「うーん……」

 ハリエットは返事を濁した。ハリーのいる所で勉強をするのは気まずい。何とか空いてる席はないかと奧へ奧へと進めば、窓際の日当たりの良いテーブルが一つ、まだ大部分が空席なのに気づいた。というよりも、六人掛けのテーブルに一人しか座っていない。端の席に腰掛けるのはレギュラス・ブラックただ一人だけなのに、他の席はガランと空いているのだ。

「あそこは?」
「ブラックの所?」

 ピーターは戸惑った声を上げた。

「駄目?」
「いや、駄目じゃないけど……。ブラックが嫌がるんじゃないかな。たぶん、それで他の人も座ってないんだよ」
「そうかしら?」

 むしろ、皆の方が遠慮して座らないのではないかと、普段の彼の様子を思い出してそう考えた。いつも人に囲まれているレギュラスは、かといって己のパーソナルスペースに人を寄せ付けない壁のようなものも感じられた。

「ピーターは話したことないの?」
「うん、接点ないからね……」

 明らかにシリウスという接点があるのに、ピーターはさもそんな選択肢は最初からないものとばかり口にした。それほどシリウスは普段からレギュラスの話はしないのだろうか。

 ハリエットは思いきってレギュラスの方へ近づいた。

「――レギュラス」

 第一声はちょっと緊張した。あの冒険の夜のことを共通の思い出のように考えているのは、もしかしたら自分だけかもしれないと。

「ここ、座ってもいい?」

 レギュラスは顔を上げ、静かにハリエット、ピーターを見た。そしてまた本へと視線を落とす。

「どうぞ」
「ありがとう。勉強を教えてもらうから、少し話したりもするんだけど、うるさかったらごめんなさい」

 ハリエットはピーターに目配せして笑った。レギュラスの邪魔はしたくなかったので、彼の斜め前に腰掛け、ピーターはその更に隣に腰を下ろした。

 今日の勉強会は、課題でちょっと躓いてしまった所を教えてもらうだけの簡単なものだ。ハリエットも最近ではようやくコツが分かってきて、通常の課題であればなんなくこなすことができるようになっていた。今では、大分前からお手上げ状態のハリーやロンに教えるまでに至っている――彼らが身を入れて学ぶかどうかは別にして。

 だからこそ、早々に勉強会を終えた後は、ハリエットもピーターも手持ち無沙汰になり、しばらく図書室で別の勉強をしていくことにした。

 OWLのための本を借りてくるというピーターに対し、ハリエットは手元の数占い学の教科書だけで何とか時間を潰せないかと思っていた。残念ながら、ハリエットはそこまで勤勉というわけではない。数占い学の課題という今日の目標を終えた以上、喜んで図書室に籠もりきりになるほど真面目ではないが――ピーターがいる。さすがに、勉強を教えてもらった身で、終わったからはいさようならというのはいくらなんでも無情だ。せめて三十分くらいは彼の勉強に付き合わなければ恩知らずというもの。もちろん、もしここで帰ったとしてもピーターは気にしないだろうし、ハリエットが心苦しく思うだけなのだろうが。

 月曜提出の課題という危機感から脱出したせいか、ハリエットは特にやる気を失った顔でパラパラ教科書をめくっていた。それにも飽きるとレギュラスの方を盗み見た。

 彼は、ハリエット達の勉強会にも集中を途切れさせることなく真剣な顔で新聞を読み込んでいた。何か世間話でもと思
ったが、そういう雰囲気ではない。がっかりして教科書に集中しようとすれば、不意に視線を上げたレギュラスと目が合う。

「これ読みますか?」
「えっ? いいの?」
「暇そうなので」

 うっと詰まり、ハリエットは苦笑いを浮かべて大人しく新聞を受け取った。

 レギュラスが読んでいたのは日刊予言者新聞だった。顔も名前も知らない男性二人が握手をし、こちらをにっこり見つめている写真が中央に鎮座していた。イギリスと外国の魔法大臣の会合という名目だったので、小難しそうなそこは軽く流し読みするだけにとどめてページを開く。――と、すぐに目についたのは、左手にポッカリと空いた穴だ。周囲の区切りから見るに、そこにも何らかの記事があったようだが、綺麗に切り取られている。レギュラスが切り取ったのだろうか。――一体何のために?

 ちょっと不思議に思ったが、深く考えることはせず、その部分は飛ばして右から読んでいく。日刊予言者新聞は何度か未来でも読んだことはあったが、それとは比べものにならないほど過去の新聞は暗い内容のものばかりだった。各地でマグルやマグル生まれの謎の不審死が続いていること、人攫いが横行していること、ついにとある魔法省の重鎮の家で闇の印が上がったこと――。

 闇の印?

 ハリエットは首を傾げた。聞き慣れない言葉だ。あまり良い意味でないことは分かる。その重鎮と家族は皆殺しにされていたというのだから。

 レギュラスに聞いてみようかとも思ったが、止めた。後でロンやハーマイオニーに聞けば済むことだ。何となくレギュラスに聞くのは躊躇われた。

 新聞を読み終えると、畳んでレギュラスに返した。

「新聞ありがとう」
「別に返さなくても良かったんですが。もう全部読んだので、処分するつもりでしたし」

 言いながら、レギュラスは新聞を脇に置いた。ハリエットは手慰みに教科書を開きながら尋ねた。

「レギュラスは選択授業何とってるの?」
「古代ルーン文字学と数占い学です」
「古代ルーン文字って難しい?」
「暗記が得意ならおすすめです。呪文の起源にも関わってくるので面白いですよ」
「起源ね……。魔法史ってあんまりそういう部分教えてもらえるわけじゃないから、そっちも面白そう」

 ピーターに教わっている手前、弱音を吐くことはしなかったが、できることなら古代ルーン文字学を選択したかったとハリエットは思った。とはいえ、それはそれで今のように壁にぶつかることももちろんあるのだろうが、隣の芝生は青いとはよく言ったものだ。

「私は数占い学と魔法生物飼育学よ」

 気を取り直し、ハリエットは対抗するように言った。確かに数占い学は苦手かもしれない。だが、ハリエットは魔法生物飼育学は優秀だった! そしてそれに比例するように、とても楽しい授業の数々だった!

「飼育学の方は本当におすすめよ。この前なんて、ユニコーン! ユニコーンを触ったの! とっても可愛かったわ!」
「はあ」
「来週は二フラーについて学ぶんですって。とっても楽しみ!」

 ケトルバーンの授業は、文句なしにとても楽しかった。魔法生物についての知識はハグリッド並みだし、話し方も引き込まれる。何より、魔法生物と触れ合うことのできる授業はハリエットの心を鷲掴みにした。残念ながら、ハグリッドの授業では、一回目のヒッポグリフの授業の後はずっとレタス食い虫の世話をするだけだったので、余計にケトルバーンの授業が輝いて見えたせいもある。

 ハリエットの勢いに押されてか、若干レギュラスは引き気味だ。

「動物が好きなんですか?」
「ええ。最近では犬が好き」
「それは……。ライオンは?」
「ライオンはグリフィンドールのシンボルだから」

 この前渡したS・P・E・Wの形のことを言っているのだろうか。

 そう当たりをつけて答えれば、やはりレギュラスはげんなりした顔をする。

「僕はスリザリンですが」
「あの時持っていたのがあれしかなかったの。それに、なかなか上手くできてたし」

 照れっとして答えれば、レギュラスは更に不可解な表情になる。

「アレはライオンには見えません」
「……そう?」
「もしかしたらマグルの言うライオンは違うのかと調べて見ましたが、そんなこともありませんでした」

 しれっとした顔でのたまうレギュラスに、ハリエットは唖然とした。ジェームズもシリウスもリーマスもピーターも、リリーだって似てるって言ってくれたのに! こんなことを言われるのはロンくらいだった。

 内心膨れていると、ピーターが戻ってきた。腕に重そうな参考書を抱えている。それと入れ替わりにレギュラスが立ち上がった。

「もう行くの?」
「本は読み終わったので」

 本を戻しに奧の方へ行くレギュラスをハリエットは見送った。彼が戻ってきて、そのまま図書室から出て行こうとするのを見て、ハリエットは反射的に立ち上がった。

「レギュラス」

 レギュラスとは、図書室を出た少し先で追い付いた。彼は階段を降りようとする所だった。

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 時間は取らせないわ、と前置きする。

「ドラコって分かるでしょ? ドラコ・マルフォイ。彼が――ええっと、最近授業に出てないのが気になって。何か知らない?」
「いいえ」

 レギュラスは即答した。

「彼は談話室にも滅多に上がってきませんから。食事の時間もずらしているようですし」
「そう……」

 ここ一週間ほど、ドラコはずっと授業を休んでいた。始めこそ体調を崩したのだろうと思っていたが、あまりにも長く顔を見ないので心配になってしまったのだ。クリスマス休暇明けからポツポツと休むことは多かったが、こうも顔を見ない日が何日も続くと不安になってくる。

「言伝でもしましょうか?」
「いいの?」

 思いも寄らない提案にハリエットは目を瞬かせた。しかしすぐに我に返り、頭を悩ませる。

「じゃあ――えっと……」
「ブラック弟君じゃないか〜!」

 ハリエットの真面目な思考を遮ったのはピーブズの間延びした口調だった。つい数日前の追いかけっこを思い出し、ハリエットとレギュラスはすぐに臨戦態勢に入る。

「この前は良くもやってくれたなあ。ブラック弟! 大人しい顔して、やっぱり血は争えんな!」

 レギュラスの整った顔が歪む。ピーブズはそれに気をよくしてはた迷惑な風を巻き起こした。窓ガラスがガタガタと揺れ、レギュラスの持っていた本がバサバサ辺りに散らばる。

「ピーブズ! 止めて!」

 長い赤毛が視界を邪魔して、このお騒がせポルターガイストに呪文をかけるどころではない。階段を上ってきた人までもがこの小さな嵐に巻き込まれるので、廊下は阿鼻叫喚だ。

「何やってるんだ!」

 誰かが叫んだ。

「血まみれ男爵を呼ぶぞ!」

 この一言は効いたらしく、ピーブズは震え上がって退散した。しかし、廊下はひどい有様だった。肖像画は倒れ、花瓶は割れ、誰かの持ち物と持ち物が混ざって散らばり。

「血まみれ男爵に報告案件だ、これは!」

 先ほどの頼もしい声はハッフルパフの監督生だったらしい。ブツブツ言いながら災難に遭った生徒の持ち物を拾ってあげている。

 ハリエットも傍らに落ちているノートを拾った。風の余韻でページはめくれ、とあるスクラップ記事が目についた。

 ――男が、こちらに向かって僅かに微笑んでいた。凹凸のはっきりしない蝋細工のような面立ちが不気味で、血走った目には冷徹な闇を感じる。これはあくまで写真だ。にもかかわらず、ハリエットはぶるりと身体が震えるのを感じた。

 どこかで会った――いや、見たことがあるような気のする男だ。どこで見たのだろう――。

 視線を滑らせたハリエットは凍り付いた。――ヴォルデモート卿。その名前を己が目が捉えたのだ。

 ヴォルデモート卿の名と共に、写真の下には短い概要文が書かれている。だが、ハリエットの目はその記事を滑るだけで、一向に内容は頭に入ってこなかった。ヴォルデモートから目が外せない。ようやくヴォルデモートが視界から外れたのは、レギュラスがノートを閉じ、持ち上げたときだった。

「そ――そ、その人……」

 例のあの人?

 掠れた声が問いかける。

 レギュラスは視線を逸らしたまま『はい』と答えた。ハリエットの頭は真っ白になった。

「その人のこと……尊敬しているの?」
「はい」

 またもレギュラスが答えた。ハリエットはフラフラと立ち上がった。

「でも――でも、その人は殺人者なのよ。人を殺してるの……」
「魔法界及びマグル界を統一するためには仕方のないことです」
「人を殺すことが?」

 ハリエットは信じられない思いで尋ねた。

「先に魔法使いを排斥したのはマグルだ」

 レギュラスはようやくハリエットを見た。その瞳には揺るぎない信念が宿っている。

「自分に力がないのを棚に上げ、僕達を妬み、恐れ、つるし上げにした。あなたも魔法史で習ったでしょう?」
「そ――れは、そうだけど、でも、先にやったのは向こうだからとか、そういうのじゃなくて。だって、そんなことを繰り返してたら一生終わらないわ! 私が言いたいのは――今、人を殺してまで支配する必要があるの? だって、マグルは何も知らない……私達がこうして魔法を使って暮らしていることを何も知らないのに……」
「なぜ僕達が神経を尖らせて身を隠さなくてはならないんです? いつまで僕達は窮屈な思いをしないといけないんです?」

 殺人を犯すことは仕方のないことだと、持論を以てして反論され、ハリエットは大いに狼狽えた。殺人は悪だと決めつけ、ハリエットはヴォルデモート側の考えを深く考えるようなことはしていなかった。そのことが今ひどく悔やまれる。自分の頭で考え、その結論に至ったレギュラスに比べ、自分の主張が空虚に思えて仕方なかったからだ。

「共存という選択肢を奪ったのはマグルだ」

 ハリエットを射貫くその目は、まるでハリエットに向かって言っているかのように冷たかった。

「あなたの考えを僕に押しつけるのは止めてください」

 そして、今度こそハリエットに向かって言い捨てると、レギュラスは残りの本を拾い、さっさと階段を降りていった。

 ――ひどく打ちのめされた気分だった。実際、呑まれてしまった。レギュラスの勢いに。

 だが、かといって、ハリエットは自分の考えが間違っているとは思わなかった。思いたくなかった。ハリエットにだって譲れない持論はある。絶対に許してはいけない理由はあるのだ。だって――。

「その人が、お父さんとお母さんを殺したのよ……」

 遺された側の悲しみを知っているから。だから、殺人は許せない。たとえどんな理由があっても。