■過去の旅

40:ありのままの事実


 授業が始まるギリギリの時間に教室に滑り込んできたドラコを見て、ハリエットは思わず立ち上がりそうになるのを堪えた。バタバタと無意味に慌てふためくハリエットには気づかない様子で、面白くなさそうな顔で入り口から一番近い席に一人で座る。

 視線が合わないかとハリエットは後ろを向いていたが、彼は俯いたままでちっとも気づかない。やがて授業が始まり、ハリエットは否応なく前を向かざるをえなかった。

 授業中、ハリエットは終始ソワソワしていたが、幸いなことにスラグホーンから見咎められることはなかった。ハーマイオニーとレギュラスの素晴らしい魔法薬の出来を絶賛するのに忙しかったからだ。

 ようやく授業が終わると、ハリエットは大慌てで片付けを始めた。大鍋を洗い、材料を棚に戻し、スラグホーンの大袈裟とも言えるお褒めの言葉をいなし。

 だが、席に戻ってくる頃には、もうドラコは鞄を持って教室を出る所で、ハリエットも同じく鞄をむんずと掴み、教室を飛び出した。

「ハリエット?」

 いつにない忙しい妹にハリーが不思議そうに名を呼ぶのが聞こえたが、ハリエットは止まらなかった。

 ドラコの姿はすぐに見つかった。だが、彼はもうスリザリン寮へ入ろうとしている所だった。ハリエットは一層足を速め、彼の腕を掴むと、少々強引だが引きずるようにして廊下まで引っ張る。

「何するんだ」
「ちょっと話があるの」

 ドラコの声を聞くのは随分久しぶりだ、とハリエットは思った。だが、足を止めることなくひとまずはスリザリン寮から離れる。

「話ならここで良いだろう」
「他の人に見られたくないから」

 グリフィンドール生であり、マグル生まれであり、その上スリザリンに特に良いように思われていないハリエットと話しているのを見られたら、ドラコの寮での立場が悪くなる。

 それを危惧しての行動だったが、ドラコは不快に感じたのか、ハリエットの腕を振り払った。

「君の都合に振り回されたくない。話ならここで聞く」

 強い口調にハリエットは狼狽えた。おどおどしながら窺うようにドラコを見上げる。

「あの……私心配で。大丈夫? ずっと休んでたでしょう? 風邪でも引いてたの?」

 ドラコを探しに一度医務室にも行ったことはあるが、マダム・ポンフリー曰く彼は一度も現れてないという。

 いよいよ寝込んでいるのかもしれないとホグワーツのふくろうを借りて昨日お見舞いのカードも送っていたのだが、返事はなかった。ハリエットの心配が頂点に達するのも無理はない。

「問題ない」

 それなのに、ドラコの返事は随分と素っ気なかった。ハリエットはへにゃりと眉を下げる。

「でも……それじゃあどうして授業を休んだの?」
「同じ授業を受けたことがあるのに、どうして二度目も出ないといけない?」
「それはそうだけど……。でも、元気ならせめて返信はして欲しかったわ。とっても心配したのよ」

 ハリエットが言い切る前にドラコは鼻で笑った。あまりに態度が悪い。だが、怒りよりも困惑が勝り、ハリエットはますます困った顔をした。どうしてこんなにも彼が不機嫌なのか、その原因がハリエットには検討もつかなかった。

「心配か。それにしては随分と毎日楽しそうに過ごしてるじゃないか。僕は君達のせいでこんな大迷惑を被ってるっていうのに」
「それは……申し訳ないと思ってるわ」

 目を逸らして答えるハリエットにドラコが詰め寄った。怒りのあまり語気が荒い。

「何をだ? どこがだ? いつ未来に帰れるかも分からないのに! お前達は! ずっと楽しそうにしてる! そんなにここが楽しいのなら、お前達だけ残れば良い!」

 核心を突かれ、ハリエットはとうとう何も言えなくなった。ここでの生活を楽しく思っているのは事実だ。ここにいたらいけないことは分かっている。だが、もし逆転時計が修復不可能で、このままここに留まれと言われても、ハリエットは喜んで受け入れるだろう――。

「――そんな奴放っておけよ」

 ドラコに負けず劣らず不機嫌そうな声が後ろから飛んできた。振り返った先にはロンがいて、その隣にはハリー、ハーマイオニーもいる。

「ホームシックにかかって拗ねてるんだ。マルフォイにとっては授業に出るよりも寮に引きこもってる方が魅力的だったんだろう」
「お前達はくだらない悪戯の方が魅力的みたいだな」

 ロンとドラコが睨み合う。ドラコは嘲笑うように口角を上げた。

「そうだろう、そうだろうな。だって父親と一緒なんだから。早く戻らなくて良いのか? 家族ごっこの続きをしないと」

 いけないんだろう?

 みなまで言い切る前に、ハリーが杖を抜いた。ロンもカンカンになって杖を持ったまま数歩前に出た。

「黙れ!」
「図星で怒ったのか? ベタベタベタベタ、見ていて吐き気がする」
「黙れって言ってるだろ!」

 叫ぶハリーに、ドラコは挑発するように顎を上げた。

「庭小人みたいにホイホイどこにでも顔を突っ込んで。聞いたぞ。暴れ柳にお前達も行ったんだってな。一体何がしたかったんだ? スネイプ先生を救って父親達ともっと仲良くなろうって?」
「お前に何が分かる!」

 ドラコは囁くような低い声だが、頭に血が上ったハリーの怒声は周囲の注意を大いに引きつけた。

「分かるさ。どうせ未来を変えようとでも思ってるんだろう? 父親と母親の命を救ってやろうって思ってるんだ」
「――っ!」

 思ってないとは、ハリーもハリエットも口にできなかった。そうできたらといつも思っているからだ。でも、そんなことしてはならないということは理解している。だから必死に理性で抑えているのに――ドラコは、何も分かっていない。

 ハリエットは悲しみに押しつぶされそうになった。

 私達がそれを口にするということは――両親を見殺しにすると言い切ると同義なのに。

「マルフォイ……本当にいい加減にしろよ」

 ロンは怒りで顔を真っ赤にしながらドラコに杖を突きつけた。すぐ側で見ていたからこそ、ロンはハリーの葛藤と苦しみをよく理解していた。何も知らないドラコの軽薄な推測が今まさにハリー達を苦しめていることに気づかない訳がない。

「お前達は良いさ」

 ドラコは視線をロンに移した。

「二人の親が生きようが死ぬまいが、影響なんてほとんどないんだから。むしろ仲良く応援してる立場って訳だ」
「――私達は、未来を変えようなんて思ってないわ」

 一番重い台詞をハーマイオニーが口にした。

「暴れ柳の件は、本当に不可抗力だったの。私達も反省してる」
「――はっ、どうだか」
「未来から来た者同士、あなたにだって私達に文句を言う権利はあるわ。未来を変えようなんてことはするなって。――でも、だからって、こんな風に悪意の固まりで傷つけるようなことを言うのは許せない。二人がどんな気持ちかも分からないのに、憶測だけでものを言うのは止めて!」
「違うな」

 不意にロンが呟いた。杖はドラコの胸元へ突きつけたままだ。

「こいつは未来の心配をしてるんじゃない。自分の両親のことを心配してるんだ」
「何だと?」

 ドラコがロンを睨み付けた。今度はロンが鼻で笑う。

「ジェームズとリリーが生き残ったら、もしかしたら未来が変わってしまうかもしれないから――死喰い人の父親が投獄されるかもしれないから」

 ハリエットはハッとしてドラコを見た。死喰い人? ドラコの父親が?

「服従の呪文で操られてただけだって言い訳をしてルシウス・マルフォイはアズカバン行きを逃れてたってパパが言ってたけど、事実だろう? だから未来の心配をしてるんだ」
「ロン・ウィーズリー」

 ドラコは地の底を這うような冷え冷えとした声を出した。

「血を裏切る者が父上を侮辱するな。言い訳? アズカバンだと? 父上はそんな穢らわしい場所へ押し込められるような人じゃない! 誰かと違って!」

 ハリーの杖から閃光が迸り、ドラコの胸を打った。ドラコはすぐ後ろにあった壁に激突し、苦しそうに呻く。だが、その表情はどこか楽しそうに歪んでもいた。見ようによっては泣きそうにも見える表情だった。壁にもたれながら、ドラコは天を仰いだ。

「シリウスは冤罪だ。無実だ。お前の父親と一緒にするな!」
「ああ、もちろん一緒じゃないな。親友に裏切られた男。笑えるな。お前達はそれを知っているのに、どうして奴と仲良しごっこをしてるんだ? ピーター・ペティグリューと。ああ、そうか。油断した所を寝首をかいてやろうって? 大いに結構。お前達の考えは僕には想像もつかない」
「未来を変えるつもりはないって言ってるでしょう!!」

 ハーマイオニーまでもが金切り声で叫んだ。ドラコは失笑した。

「それなら、いつまで友達ごっこを続けるんだ? どうせ死ぬのに――」

 爆発するほどの怒りがハリーを襲い、その激情のまま彼はドラコに殴りかかった。ドラコもすぐに顔を真っ赤に染め上げて応戦する。誰かが誰かを呼ぶ声がした。

 鈍い音が辺りに響き渡る。ロンもハリーの加勢で殴り合いに加わった。二対一だが、その場の誰もそんなことには頓着していなかった。ただ腹の底から湧き上がる怒りの赴くまま拳を振るう。

「な、何してるんだ!」

 地下牢教室から慌ててスラグホーンが飛び出してきた。近くの生徒が彼を呼んできたのだろう。スラグホーンは慌てた様子で杖を振るい、三人を引き剥がした。

「一体何があったんだ! ハーマイオニー、説明できるかね?」

 未だ荒々しく呼吸する男の子三人と、茫然と立ち尽くすハリエット。この中で唯一まだ冷静で、スラグホーンにとって信頼の置けるハーマイオニーに白羽の矢が立った。

 ハーマイオニーは肩を揺らし、口ごもった。

「そ、それは……あの。ちょっと言い合いになってしまって」
「言い争い? 何についてかね?」
「それは……」

 目を泳がせるハーマイオニーを見て、スラグホーンは次にハリエットに目を向けた。今度はハリエットが怯えたようによたよたと後ずさる。

「ハリエット?」

 背中に感じた温かさは、思わずホッと息つける人肌の温度だった。だが、その声は今一番聞きたくない人のもので。

「大丈夫かい? 何があったんだ?」

 ジェームズは心配そうに、しかし厳しい目でドラコ達の方を見ている。彼の後ろにはシリウス、リーマス、ピーターもいた。皆一様に心配そうにこちらを見ている。ハリエットと同じ瞳の色が、再びハリエットを見据えた。

「大丈夫?」

 ハリエットは大きく肩を揺らし、またも後ずさった。ジェームズから逃れるように。

 どうせ死ぬのに――。

 ドラコの声が頭の中で響く。嫌味でも悪口でもない、ただ事実だけをそのまま述べた彼の言葉は、何よりもハリエットの胸を抉った。

 どうせ死ぬのに。

 どうせ死ぬのに。

 ポタリと涙が落ちた後は、せきを切ったように後から後から涙が溢れてきた。くしゃくしゃに顔を歪め、そしてそれを両手で隠したはいいが、込み上げてくる嗚咽は消せない。ハリエットは身を翻して駆け出した。

「ハリエット!」

 ジェームズの呼び声に、ハリエットは決して振り返らず、足も緩めず、そのまま走り去った。