■過去の旅

43:心の内


 校長室を出る頃には、もうすっかり太陽が傾き始めていた。ちらほらと大広間へ向かう生徒の姿が見られる中、あまり食欲が湧かなかったハリエットはそのまま寮へ戻った。

 談話室に入ると、ソファに座っていたジェームズとすぐに目が合った。彼はパッと立ち上がってあっという間に駆け寄ってきた。

「ハリエット!」

 声をかけたらかけたで、なんと言ったものか、ジェームズは考えあぐねているようだった。

「ハリエット……あー……大丈夫?」
「大丈夫よ。心配かけてごめんなさい。本当に大したことないの。ちょっと喧嘩しちゃっただけで」

 ハリーもきっと誤魔化したに違いない。ジェームズはそれでも納得がいかない顔をしている。

 シリウス達三人も徐に寄ってきた。ハリエットを見る目がいつもより気遣わしげだ。それがハリエットは逆に申し訳なくなってくる。

 校長室からここまで、心の整理はついたはずだった。だが、まだジェームズ達を前にすると心がざわつく。ハリエットは早々に立ち去ろうとしたが、ジェームズが立ちはだかった。

「ハリエット!」
「な……なに?」
「心配する気持ちは本当だよ。何があったとかは聞かない。でも、何か……僕達の助けが必要なら、いつでも言って。誰かに仕返ししてやりたいとか、悪戯してやりたいとか、ちょっと不幸な目に遭って欲しいとか……。とにかく、そういうのがあるのなら相談して。気にせず」

 目頭が熱くなって、ハリエットは俯いたまま頷いた。

「ありがとう。本当に。その気持ちはとっても嬉しい」
「ハリエットが頷くだけであのスリザリンの坊ちゃんはクソ爆弾に塗れることになる」

 ジェームズが折角ぼかしたのに――あまりぼかしきれていなかったが――シリウスがそれを台無しにした。リーマスが彼の脇腹を小突いた。

「悩み相談でも何でもいいよ。ジェームズがあてにならないと思ったら、僕やリリーでも」
「どういう意味だい?」

 いつもと変わらない空気を演じてくれる四人に、ハリエットはようやく木を取り戻していた。次に顔を上げたときには、涙は引っ込んでいた。

「気持ちは嬉しいけど、でも、今回のことはお互い様なの」

 ハリエットはきっぱり言った。確かに、ドラコはハリーやハリエットの一番痛い所を突いた。わざと意地悪な言い方もされた。だが、ハリエット達も彼を一人にしてしまった。過去に、スリザリンに、一人きり。寮が違うからなんて言い訳はできない。未来が変わってしまうかもという不安を、彼一人だけで味わわせてしまった。ハリエットとて、今回のことでこれだけ翻弄されているのに、どうにかなってしまわないのは、ハリーやロン、ハーマイオニー、何よりジェームズ達がいてくれたからなのに。

「それでね、今思ったんだけど……もしできたらで良いんだけど……」
「何でも言って!」
「透明マントを貸して欲しいの」

 コソコソと囁けば、ジェームズは「そんなこと?」と目を丸くした。そして次の瞬間には階段を駆け上がっていく。

 ハリエットは少々呆気にとられた。彼なら貸してくれるだろうとは思っていた。だが、透明マントは大切なポッター家の家宝だ。もう少し……躊躇というものがあると思っていたのだが。何に使うのかとか、フィルチに取り上げられないようにだとか。

「はい」

 何も言わず差し出される銀色の布を、ハリエットは恐る恐る受け取った。

「ありがとう……」
「忍びの地図はいる?」
「だ、大丈夫」
「クソ爆弾はいるか?」
「大丈夫」
「チョコレートは?」
「だ、いじょうぶ……?」

 矢継ぎ早に繰り出される提案におろおろと答えていれば、やがてシリウスが噴き出した。困惑の目を彼に向ければ、『気にしなくて大丈夫だから』とリーマスにやんわり言われる。

「じゃあ。みんな、ありがとう――」
「ハリエット!」

 談話室を出て行こうとハリエットが頭を下げたとき、不意にピーターが声を上げた。皆が驚いたように彼を見る。ハリエットもその中の一人だ。

「一人で抱え込んじゃ駄目だよ……。僕も相談に乗るから」

 思い詰めたような顔だ。彼は、きっとまだハリエットの事情を内緒にしてくれているのだろう。だからこそのこの言葉だ。

「ありがとう、ピーター」

 小さく笑って、ハリエットは今度こそ談話室を出た。透明マントを被り、向かう場所はもう決まっていた。


*****


 大広間からぞろぞろ出てくる生徒の波を見て、早速忍びの地図も貸してもらえば良かったと思わないではいられなかった。

 ――それに、もしかしたら先ほどの喧嘩で罰則を受けている可能性だってある。

 だが、玄関ホールでそう待ちぼうけすることなく彼の姿は見つかった。話ながらダラダラ歩く生徒の隙間を迷惑そうな顔をしながら通り抜けている。彼が人の波を縫って出てきた瞬間を狙い、ハリエットはドラコの腕を掴んだ。何もない所からの突然の圧迫感に、ドラコはギョッとした。

「なっ――」
「私よ。ハリエット。ちょっとついて来て欲しいの」

 有無を言わせずハリエットはドラコを引き連れ外に出る。向かったのは城裏だ。未来でも人気のないこの場所は、過去でも同じように誰も寄りつかない場所だった。

「まだ何か用があるのか? 僕は君達のせいで罰則を受けたんだ」

 ドラコに抵抗の色は見られなかった。相手がハリエットだとはいえ、透明なので、少々気後れしているようにも見える。

 城裏につくと、ハリエットはようやくマントを脱いだ。まだ外は風が冷たかった。もちろんドラコに外に出掛ける予定はなかったので、防寒具は何も持っていなかった。彼がぶるりと身体を震わせたのを見て、せめてもと透明マントを差し出したが、「いらない」とすげなく断られる。

「僕は君達と違って暇じゃない」
「ええ、分かってる。だから単刀直入に言うわ。ダンブルドア先生に会いに行ったの。逆転時計のことを聞いてきた」

 息を呑み、ドラコは目だけでハリエットを見てきた。

「夏休みに入る前には帰れるって」
「…………」

 ドラコの顔に、喜びの色は見て取れなかった。こういうときに限って表情が読みにくい。ハリエットは早口で言った。

「ハーマイオニーも言ってたように、私達は未来を変えるつもりはないわ。暴れ柳の件は、本当に不可抗力なの。スネイプ先生が暴れ柳に行くのが見えて、最初はお父さんが助けてくれるだろうって思っていたの。でも、その時お父さんはハリーのお見舞いに行ってたことを思い出して……未来が変わってしまうかと思った。もしかしたら――スネイプ先生が死んでしまうかと思った。だから行ったの。未来を変えないために」

 ドラコに分かって欲しい。理解して欲しい――その一心で語るハリエットの身体は火照っていた。

「ドラコの心配は最もよ。でも、ダンブルドア先生は仰ってた。私達の未来は変わらないって。もともと私達が持ってる逆転時計には制限があるの。だから、私達がここで何をしたとしても、未来は決して変わらない。私達が過去に来て、こうしてお父さん達と時間を共有したことは――誰も知らないの。なかったことにされるの」

 余計なことを言い過ぎてしまった、とハリエットは口を噤んだ。だがドラコは気にしなかった。

「ここの人達はどうなるんだ? 君達が介入したことで、過去は変わった。僕達の未来は変わらなくても、今この時を生きる人達の未来は変わったはずだ。それとも、なかったことにされるのか?」
「ダンブルドア先生は、枝分かれする可能性があるって仰ってたわ」
「…………」

 難しい顔でドラコは黙り込んだ。

「君達が何をしたとしても、僕達の・・・未来は変わらない」
「……そう」
「なら、ここでは何をしたって良いってことか?」

 ドラコの言いたいことが分からなくてハリエットはマジマジと彼を見た。

「どういうこと?」
「未来が変わらないのなら、ここがどうなっても僕の知ったことじゃない。君達の好きなようにすればいい。それこそ、父親と母親を助ければ良い。全てを暴露して」

 ハリエットは唖然としてドラコを見つめた。彼の口調は素っ気ない。言葉の通り、勝手にしろという口調だ。でも、それはまさに。

「お前達の父親のせいで――ああ、そうだ、癪だが、ウィーズリーの言う通り、父上は不幸な目に遭うだろう。でも、別にここで接点があったわけじゃないし――もちろん気分は悪いが――別に、良い。僕の本当の父上は無事なんだし」

 ハリエットにはだんだん分かってきた。揺れたように動く瞳も、焦っているかのように早口になる口調も。

「君にとっての両親は一人しかいないんだから――それなら、最後に残ったここの二人を助ければ良い」

 これが彼なりの贖罪だと、誠意の気持ちなのだと感じたのは、ハリエットが、少なからず彼と決して短くない間交流してきていたからだろうか。

 彼には、きっとそんなつもりはない。でも、ハリエットには分かる。あんなに取り乱すくらい両親のことを大切に思っていたのだ。ハリエットの気持ちも、おそらく彼だって分からないではなかったはずで――それなのに。

「駄目なの」

 ハリエットからはストンと表情が抜け落ちていた。

「駄目なのよ。未来を変えてしまったら、今度は私達が未来に戻れなくなる可能性が出てくる。ダンブルドア先生は、できる限り過去を変えない方向で生活しなさいって」

 ドラコは眉間に皺を寄せたまま黙り込んだ。気まずい雰囲気を感じる。

 ――なぜ? なぜあなたが今更そんな顔をするの?

「お父さんとお母さんは、ここでも死なないといけない」

 てっきり、彼は分からないのだと思っていた。ハリエット達の気持ちも分からないで、いつものように勢いに任せて言ってしまったのだと、そう思っていたのに。

「シリウスもアズカバンに入らないといけない。ピーターだって――彼だって、裏切るの。でも、あなたにとっては関係ないかしら。だって、私の両親が生きようと死ぬまいと関係ないんだから。あなたの本当のお父さんには影響しないんだから――」

 こんな嫌味な言い方をするつもりではなかった。それなのにハリエットは止められない。

 分かっていたのなら――両親を大切に思う気持ちがドラコにあるのなら、そしてそれが、同じくハリエットにだってあることを彼が分かっていたのなら、あの一言だけは言わないで欲しかった。

 事実だ。そう、確かに事実だ。でもそれがどれだけハリエットを傷つけたか彼は知らないだろう。それがどれだけハリエットを虚しい気持ちにさせたか分からないだろう!
『あら、でもそこは短所でもあると私は思ってるわ。傷つけられることに慣れてしまって、自分の感情に気づけないんじゃないかって心配でもあるの』

 ハーマイオニーの言葉は事実だった。ハリエットは、自分の心の悲しみに蓋をしているだけだった。そのせいで、自分が本当はどう思っているか、それすらも分からなくなっていた――。

「本当は、過去になんて来たくなかった!」

 勢いに任せて出てきた言葉が、同時にハリエットの心をも傷つけていた。でももう止められない。

「だって、どうせ死ぬんだから――」

 ドラコがハッと息をのみ顔を上げた。その時初めて目と目が合ったが、ドラコは視線を外すことができなかった。今までにない悲しみ――いや、怒りだろうか――に覆われた瞳を見て、目を逸らすことができなかった。

「どうせ誰も覚えてない! どうせ未来は変えられない! だったら来たくなんてなかった! こんな奇跡なんていらなかった!」

 溢れ出る涙をハリエットは止められなかった。激しく怒り、そして心の底から悲しかった。

「今のピーターは何も悪いことはしてない! ただのお父さん達の友達! だから仲良くすべきだと思った! なのにどうして私が責められるの? 私だって苦しいのに! ピーターの良い所を見つける度に苦しくなる! どうせ裏切り者になるんだったら、最初から悪い人だったら良かったのに! それだったら、こんなに苦しむことはなかったのに!」

 息継ぎのタイミングが分からなくなって、ハリエットはシャツの胸元を握りしめた。シャツ越しに爪が肌に食い込み、ヒリヒリと痛んだが、感覚が麻痺していた。

「ピーターが悪者じゃないのなら誰を恨めば良いの!? ヴォルデモート!? ヴォルデモート――ああ、そうよ。レギュラス・ブラック! いい人だと思ったのに! 友達になれると思ったのに! よりによってどうしてヴォルデモートを尊敬しているの!? 人殺し! あの人はお父さんとお母さんを殺したのに! みんな、何も知らない!!」

 声の限りに叫んでいた言葉は、次第に萎んでいった。

「何も知らないのに、私を責めてくる……」

 ハリーだって、ロンだって、ジェームズだってシリウスだって。

 ピーターと仲良くしたらハリーになじられ、ピーターを蔑ろにしたらジェームズに非難され。

 レギュラスと仲良くなりたいと思ったら、彼はヴォルデモートに心酔していた。

「もう、疲れた……」

 一喜一憂することにハリエットは疲れていた。自分達がここでどう過ごそうが、未来は変わらず、そして変えられず。

 どうせ、どうせ、どうせ――!

 楽しいことも辛いこともたくさんあったのに、その一言で全てが瓦解する気がした。無意識のうちに目を向けないようにしていたことが、白日の下にさらされた。

「ごめん」

 掠れたようなドラコの声が風に乗って聞こえてきた。もしかしたら、慟哭の最中、彼はずっと謝罪を口にしていたのかも知れない。でも、そんなこと知らない。彼の放った一言はもう取り消せない。

「どうせ死ぬからって、なに……?」

 震える声でハリエットは尋ねた。

「どうせ死ぬなら仲良くしちゃいけないの? お父さんとお母さんが何を好きで、どんなことを考えて、どんな風に笑うか、知りたいと思うのは駄目なことなの?」

 月明かりよりも儚いその声は、弱々しくドラコの耳に届いた。もう一度「ごめん」という声がハリエットの耳に飛び込んできたが、ハリエットは返事をしなかった。