■過去の旅

44:真意


 消灯一時間前であることを、暖炉の上の大きなヴィンテージの時計が音を鳴らして知らせた。しばらく前から一ページも進んでいない本を閉じ、ジェームズは立ち上がった。

「探しに行くのか?」
「嫌な予感がするんだ」

 シリウスの問いに、ジェームズはすぐに切り返す。

「たぶん――マルフォイの所に行ったんじゃないかな」
「まさか!」

 シリウスは笑い飛ばした。

「なんでわざわざ嫌いな奴の所に行く?」
「分からないけど……。でも、そうじゃないと、透明マントなんて使わない。ハリエットは禁止されてる所に行くような子じゃないし」

 寝室から忍びの地図を持ってきていつもの合言葉を囁くと、シリウスも横から覗き込んだ。何もなかった羊皮紙にみるみる克明な地図が書き込まれる。

「――やっぱり」

 念のためにと持ってきたマフラーを巻いた後、ジェームズは地図を畳んだ。

「ちょっと行ってくる」
「俺も行く」

 当たり前のように杖を準備するシリウスを見てジェームズは慌てた。

「いや、大丈夫。何も決闘に行くわけじゃないんだ。ちょっと様子を見てくるだけで」
「決闘になるかも知れないだろう? お前が負けるって言いたいわけじゃないけど、ハリエットもいるし」
「でも、わざわざハリエットから会いに行ったんだ。何か話したい理由があったんだよ。心配なことに変わりはないから、迎えに行こうと思ってるんだけど……」

 ――お節介かな。

 最後に、ジェームズは自信がなさそうに付け加えた。

 だが、どうしてもハリエットの泣き顔が頭から離れないのだ。今でも胸がざわついて仕方がない。リリーが泣いているかのように見えるからだろうか――いや、それとは少し違う気がする。

 ドラコの側にいれば、また彼女があんな顔をして泣くような気がしてならない。ハリエットはドラコと友達だと言うが、傷ついてまで側にいる必要があるだろうか? ピーターの件で、一旦距離を置こうとジェームズが言い出したように――自分や誰かが傷つくのなら離れれば良いのに。どうしてハリエットはあそこまでドラコのことを気にするのだろう。

「別にそうは思わないけど」

 シリウスは何か言いたげな顔をしていた。だが、これ以上足踏みしていても仕方がないと思い、ジェームズは談話室を出た。

 ハリエットは、ドラコと共に城裏にいるようだった。滅多に人が立ち入らない場所だ。それに今の季節、誰がわざわざそんな場所へ行こうというのか。

 話をするにしても、近くの空き教室で良かったはずだ。鍵をかければよっぽどのことがない限り内密の話もできる。わざわざ城裏まで足を延ばす理由がジェームズにはよく分からなかった。

 自然と早足になる中、ハリエットの後ろ姿を見つけて思わずホッとしたのは当然のことだった。いくらわざわざハリエットから会いに行ったからといって、相手の方に害意がないとは限らない。

 二人は言葉を交わしていなかった。風が吹く音が鮮明に聞こえる中、草を踏む音はよく響いたらしい。パッと二人同時に振り向いた。

 ハリエットは泣き腫らした顔をしていた。どちらも杖は握っていない。少なくともただの話し合いだったようだが、それでもこの場面を見て黙っていられるジェームズではない――はずだった。

 見たところハリエットに怪我はなく、杖も握っていないので、さすがにジェームズも下級生相手に呪いをかけることはしない。だが、ハリエットが彼に何か言われただろうことは明白で、文句の一つや二つ、言いたくなるのも仕方がないのだが、ジェームズにそんな考えは湧いてこなかった。ただ、今にもまた泣き出しそうになっているハリエットにつられて胸が締め付けられた。どうしてそんな表情をしているのか、彼女はきっと教えてくれないのだろう。夕方、ハリーやロン、ハーマイオニーに尋ねても、喧嘩の理由は教えてくれなかった。

 ――そういえば。

 こんな時にジェームズは余計なことに思い至った。

 彼らは、自分達のことについてあまり教えてくれない。ジェームズ達に悪戯や魔法のことはたくさん尋ねてくるのに、マグル界でどう過ごしていたとか、家族がどうだとかはほとんど口を開かないのだ。

 心を開いてくれていない。

 そんな印象が心にポツリと落ちてきた。きっと誰よりも自分達は彼らと仲良くしている。事実、自意識過剰でもなく、慕ってくれている。にもかかわらず、心は開いてくれていない。

「帰ろう」

 ――余計な考えは頭から捨て去り、ジェームズは言った。ハリエットは困惑した様子だったが、やがてジェームズの方へ来てくれた。並んで歩きたかったが、ジェームズがどんなに歩みを緩めても、ハリエットは半歩後ろを歩いた。角を曲がり、温室が見えてきた所でジェームズは前を向いたまま言った。

「僕とちょっと夜の散歩しない?」
「え?」
「折角の綺麗な月だ。このまま帰るのはもったいなくない?」
「でも……もうすぐ消灯時間になるわ」
「だからだよ」

 このまま律儀に寮へ戻ろうとしても、フィルチはめざとく自分達のことを見つけるだろう。それならば帰る時間をずらした方が逆に見つかりにくいというもの。――とはいえ、それはすべて建前だ。

「クリスマスプレゼントに箒を買ってもらったんだ。ニンバス一九八〇! 最新型さ! 後ろに乗ってみたくない?」

 ハリエットの返事を聞く前に、ジェームズは高々と腕を伸ばし、「アクシオ!」と叫んだ。ハリエットが目を丸くする中、まるで風のようにサーッと現れ、ジェームズの前でピタリと制止したのは素晴らしく立派な箒だ。月明かりに照らされてピカピカ光っている。

「どう?」
「……乗りたい」

 ハリエットがちょっと笑ったので、ジェームズは嬉しくなった。箒に跨いでハリエットにも乗るよう促したが、すんでの所でくるりと振り返る。

「空は寒いから」

 マフラーしか巻いてこなかったことをジェームズは今ようやく後悔した。だが、ないよりもはマシだろうとハリエットの首にぐるぐる巻いた。

「あ、ありがとう……」
「透明マントを羽織ると良いよ。少しマシになると思う」
「でも、ジェームズの後ろに首だけが乗っかることになるわ」
「わざわざ誰も外は見ないよ。それに暗いから大丈夫」
「…………」

 それでも、その光景を想像してハリエットはマントを被るのを止めた。夜のホグワーツを箒で散歩するだなんてちょっとロマンチックだと思ったのに、自分が首だけの時点で台無しになってしまう。

 そういえば似たようなやり取りをどこかでしたな、と思ってハリエットは暗い顔になった。ドラコのことを思い出したからだ。

 そのことには触れず、ジェームズはハリエットを後ろに乗せた。合図と共に箒がふわりと浮上する。ハリエットはギュッとジェームズのお腹に腕を回した。

 彼の背中は、とても温かく、そして広かった。ハリーの後ろに掴まり、バックビークに乗って空を飛んだこともあったが、それよりもジェームズの方が随分大きく感じられた。冷たい風に体温を奪われ、暖を求めたハリエットは更にジェームズの背中にピトリとひっついた。

「星が綺麗だよ」

 吹き荒ぶ風に負けないようにジェームズがちょっと大きな声を出した。

「ホグワーツ城も綺麗」

 ハリエットも負けじと声を出した。

「どこか行きたい所ある?」
「……クィディッチ競技場」

 少し悩んでハリエットは答えた。よし来たとジェームズはすぐに方向転換した。

 ただ競技場に行くだけなのに、ジェームズは無駄にホグワーツ城に近づいて空を飛ぶので、ハリエットは冷や冷やさせられた。今まさにフィルチやら教師やらが不意に窓に目を向け、堂々と校則を破っているポッター二名を見つけるのではないかと気が気でなかった。

 ハリエットの祈りが通じたのか――おそらくジェームズの強運だろう――第三者に見つかることなく二人は競技場にたどり着いた。ホグワーツ城から漏れる灯りが遠ざかったので、月明かりのみでしか照らされず、全貌を見るには少し心許ない明るさだった。しかし、それでも目が慣れてくるとハリエットは感嘆の息を漏らす。競技場の中央――まさに、選手達がクァッフルを追い、ブラッジャーを避け、スニッチを探す場所だった。こんなにも観客席が遠い。観戦しているときは気にならなかったが、高さだって相当なものだ。暗さも相まって、下を見るとまるで底なしの闇がハリエット達を今にも呑み込んでしまいそうだった。

「圧巻だわ」
「いつもは観客席だからね」

 笑いながら、ジェームズはゆっくり競技場を一周した。

「ここにスニッチがあれば体験させてあげられるのに」
「ううん、これで充分だわ」

 それこそ、スニッチを追う速度で空を飛ばれたら、ハリエットは一生箒に乗れなくなってしまう。

「そうだ、ホグズミードに行ってみる?」

 前を向いたままジェームズが尋ねた。

「さすがに空を飛んだままっていうのは無理だろうけど、抜け道があるんだ。三本の箒で一杯引っかけよう」
「……ううん、大丈夫」
「身体も温まるよ」
「夜のお散歩はこれで充分。ジェームズ、ありがとう」

 ジェームズは返事をしなかった。だが、無視されたのではない。何かを躊躇っているのがハリエットには分かった。

「今日言ったことは本当だよ」

 少しの間を置いてジェームズが小さな声で言った。何に憚ってか、注意深く耳を傾けなければ聞き取れないほどの声量だった。

「僕達の助けが必要ならいつでも言って欲しいってこと。君達は突然魔法界に来たわけで、気がかりなことや、不安なこともたくさんあると思う。でも、そんなときに力を貸せるのが僕達でありたいと思ってる」
「…………」
「ほら、僕達――友達だから」

 友達、友達――。

 月を仰ぐようにして首を伸ばせば、身を切るような冷たい風が今まで温められていた首を襲った。冷風が襟元から身体中に巡り、そして最後には頭にまで行き渡り、ハリエットの思考をクリアにしていく。どこかふわふわした心地になっていた思考が一気に現実に突き落とされたようだ。

 ――友達なんかに収まりたくない。娘だと明かせば、二人は喜んでくれるだろうか? 友達としてじゃない。娘として名前を呼んで欲しかった。ハリエットには、リリーが泣き叫ぶようにして口にした己の名の記憶しかない。娘だと言えば、お父さんはどんな風に名前を呼んでくれるだろう? お母さんはどんな風に笑いかけてくれる? もっと、もっと――。

『突然起きた「奇跡」に、もっと、もっとと思うことは後ろめたいことではない』

 ダンブルドアの言葉が不意に頭に蘇った。

 ああ、彼は、どうしてハリエットの思いを簡単に見抜いてしまうのだろう。

 もっと、もっとと渇望する自分自身を恥ずかしく思い、どうあっても手に入れられないことに絶望し、疲れ――果ては、過去になんて来たくなかった

 反射的に飛び出したその言葉――それが自分の本心だったのだと思ったとき、ハリエットは戦慄した。ジェームズにもリリーにも顔向けができないと思った。だって、なんて親不孝だろう。折角二人に会える機会を、まるで突然自分の身に降りかかってきた不幸のように考えていたなんて。

「うわっ! ハリエット、あれ見て、ユニコーンだ! 駄目元で来てみたけど、まさか会えるなんて!」

 いつの間にか、箒は禁じられた森上空にあった。ジェームズが指差す方には、闇の中で薄ら光る純白の馬がいた。スーッと滑るように近づいたジェームズだが、ユニコーンは十メートルも近づかないうちにさっさと森の奥へと逃げてしまった。

「見た? 見た? ユニコーンは滅多に人の前に姿を現さないんだ! 見られただけでも運が良いんだよ!」

 この前授業で触ったばかりというのは内緒にして、ハリエットは小さく笑った。

「ええ、とっても綺麗」
「このままちょっと森を散策しようか。もしかしたらまた会えるかもしれない!」

 杖先に灯りを点し、一生懸命ジェームズは上空から森を散策するが、ユニコーンどころか、魔法生物の一頭も見当たらない。

 うんうん唸るジェームズの背中で、ハリエットは暖を求めるように更に彼にくっついた。

「もういいの」

 囁くように言った言葉は、ジェームズの耳には届いていないだろう。

 ――きっとハリエットは、この日のことをいつまでも覚えているだろう。いや、今日だけではない。これまでジェームズ達と過ごしてきた奇跡のような日々。

「こうしているだけで幸せ……」

 ――ここに来てよかった。

 胸に溢れてくる想いに、ハリエットは心から安堵した。親不孝ではなかった。苦しいことも悲しいこともあった。だが、決してそれだけではなかった。ハリエットは、確かにここに来て良かったと思っている。

 たとえ未来を変えることができなくても。

 ハリエットの中に両親の思い出ができた。誰に壊されることもない、ハリエットだけの思い出。

『その哀しみは、君だけのものじゃ』

 ダンブルドアは今この場にいない。だが、あの時ダンブルドアが言いたかっただろう言葉が蘇るかのようだった。

『他の人と比べてはいけない』
『哀しみを押し殺してはいけない』
『君は、君だけのために泣いていいのじゃ』

 未来に戻った時、そこにもう父と母はいない。なりふり構わず動けば助けることができるのに、ハリエットはそれをしない。何もしないことを選択させられるなんて、この世はなんて無情なのだろう。

 でも、ハリエットは覚えているだろう。この広く温かい背中を。父の背中を。

「お父さん……」

 小さな、本当に小さな声を真冬の風が浚っていった。更に父の背中に顔を押しつけ、まるでここに自分がいた証を遺すかのようにハリエットはローブに涙を吸い込ませた。