■過去の旅

46:愛を告げる日


 めまぐるしくいろんなことが起こる日々に、季節の移ろいを感じる暇はほとんど無かった。その日も、談話室に降り立ったときにようやく今日が何の日か思い出したくらいだ。

 誰がしてくれたのか、ピンクのイルミネーションや薔薇、リボンで主張しすぎないほどに飾られている談話室。どこからか香ってくる甘い匂い――バレンタインデーである。

 丁度休みの日というのも相まって、談話室は朝から色めき立っている。カップルは男子から女子へと直接花やカードを渡している様が見受けられるし、そうでないものは、見るからに浮き足立った様子で意中の相手を見ていたりする。特に女子は女の子だけで集まって、クスクス笑って話をしている。

 色気よりも両親なハリエットとしてはちょっと置いてけぼりな気分だ。とはいえ、色気よりも勉強なハーマイオニーが友達なので、少し慰められたが。

 当のリリーの姿はなく、休日といえど規則正しい生活は彼女らしい。ジェームズの姿もなかったが、まだ朝食には行ってないだろうと見当はついた。男子部屋へと続く階段の方から騒がしい声が聞こえてきたからだ。

「だから朝食だけでも顔を出して欲しいんだって」
「また廊下をフンだらけにするつもりか?」

 聞き慣れない声だが、カラカラ笑うジェームズの声も聞こえるので、おそらくその場にいるのだろう。やがて降りてきたのは男子の監督生が二人とジェームズ、ピーター、そしていかにも不機嫌そうなシリウスだった。

 シリウスが現れただけで女子のクスクス笑いが大きくなった。いつもならおはようとすぐに声をかけにいく所だが、何だか妙に嫌な予感がしたのでそのまま五人が通り過ぎていくのを見守った。ジェームズだけがハリエットに気づいて「ハッピーバレンタイン!」といつもの笑顔で声をかけた。

「何かあったの?」

 そう間を置かずに降りてきたハリー、ロンにハリエットは尋ねた。

「見てれば分かるよ。部屋の前もすごかったんだ」
「あれ、シリウスのだったのね」

 本をパタンと閉じ、ハーマイオニーが腑に落ちた顔で呟いた。ハリエットはますます訳が分からない。

 だが、その疑問は声になる前に霧のように霧散した。ジェームズ達の後に続いて肖像画の穴から出ようとしたとき、十羽はゆうに超えるふくろうに襲われたからだ。

 突然塞がれた視界に動転しながらやっとのこと穴から降りると、うんざり顔のシリウスの周りにたくさんのふくろうが群がっているのが見えた。

「配達の時間まで待ってられないのか? なんてはた迷惑なふくろう達だ」
「羨ましい光景だねえ」

 まだ一日は始まったばかりだというのに、ふくろうに髪や身体を突かれ、シリウスは少しくたびれて見えた。ニヤニヤ笑うジェームズを睨みながら、まるで飼育係のようにシリウスは両手を広げてふくろうを追い払った。

「返事はない。いいか? 受け取るだけだ。ほら、さっさと住処に帰れ」
「一度は言ってみたい台詞だね――『受け取るだけだ!』」
「ジェームズ、いい加減にしろよ」

 茶々を入れるジェームズの相手をしつつ、シリウスは根気強くふくろうを捌いた。そのおかげか、一羽、また一羽と返事を諦めたふくろうが去って行き、数分後にはすっかりふくろうは姿を消していた。後に残ったのは、大量の羽毛と、そしてカードやら花やらプレゼントやらに埋もれた疲れた顔のシリウスだった。

 一つ息を吐き、シリウスが呪文と共に杖を振るえば、彼の腕からプレゼントが勝手に飛び出し、談話室の方へ消えていった。ハリーは目をぱちくりさせる。

「今の何?」
「お届け呪文。好きな場所に荷物を送れる」
「この日のためにシリウスは練習したんだ」
「ジェームズ、適当なこと言うな」

 ――ここまで来てようやくハリエットにも合点がいった。要するに、今日はバレンタイン。そういうことだ。

 学年一――いや、ホグワーツ一と言っても過言ではない程シリウスはハンサムだった。おまけに有名な魔法族の嫡男で、本人自身友情に厚く、悪戯心を忘れないユーモアのある男子と来た。

 彼の人気ぶりは、廊下をちょっと一緒に歩くだけで十二分によく知れた。すれ違う女子という女子に熱い目で見られ、微笑まれ、時には声をかけられ、更にはプレゼントを渡され。

 大広間に行くだけでこれほどまでの時間をかけたことなど今までに一度だってないだろう。それくらいシリウスの行く手は何度も遮られた。とはいえ、こんなのはまだ序の口だった。朝食を開始してしばらく、ふくろう便の時間がやって来ると、一目瞭然だった。大量のふくろうに埋もれ、一瞬シリウスの姿が見えなくなったのである。

「シリウスが溺れ死ぬぞ!」
「救出だ、救出!」

 グリフィンドールの同級生達は、妬みよりもいっそこの状況が面白いらしい。いつもクールに余裕ぶっているシリウスの、珍しく翻弄されるがままの姿がおかしいのだろう。

「こうなるから来たくなかったんだ」

 ふくろうの襲撃により、シリウスのオートミールは羽毛だらけになった。

「でも仕方ないだろう? 去年の二の舞はごめんだ」
「何があったの?」

 不思議そうにロンが尋ねた。シリウスをからかうのに忙しいジェームズの代わりに監督生が答えた。

「去年のバレンタインは、シリウスは寝室に引きこもってたんだ。でも、寮の前やら部屋の前やら窓の外やら、プレゼントを携えたふくろうがシリウスに会えるまで、もしくは何かしらの返事をもらえるまでずーっと居座るものだから、フンやら羽毛やら鳥臭いやらで僕達は散々な目に遭ってね。もちろんフィルチさんもカンカンさ」
「シリウスは理不尽にも罰則を受けたしね」

 気の毒そうにピーターが付け加えた。彼の視線の先では、吠えメールのように勝手に動き出したカードが、シリウスへの愛の言葉を紡いでいる光景が繰り広げられていた。シリウスは黙らせようと奮闘しているが、高度な呪文が使われているのか、苦戦している。「送り主はレイブンクローだな」とおかしそうにジェームズが批評を下した。

 モテるがあまり、今のところ弊害しか目にしていないので、ロンはすっかり同情の眼差しに変わっていた。

 だが、ついつい目立つシリウスに目がいきがちだが、ピーターにも時折ふらりとふくろうが現れ、カードやプレゼントを落としていっていた。シリウスほどとはいかないが、ジェームズにもたくさんのカードやプレゼントが届いている。

 シリウスとは違い、ジェームズは嬉しそうにプレゼントを受け取っているので、ハリエットは心がモヤモヤするのを感じた。知らず知らず、拗ねたように唇を尖らせ、コーンフレークをぐるぐるかき混ぜる。

 浮かない顔でコーンフレークを食べるハリエットは、ピーターが己を見ていることにも気づかなかった。代わりにハーマイオニーが気付き、分かりやす過ぎる友達の気持ちをせめてもと隠すために「ほら」と声をかけてハリエットの気を引いた。

「あなたにもふくろうが来てるわよ」
「……えっ?」

 ハリエットよりも先にロンが声を上げた。「まさか!」という顔をしている。

「シリウス宛てのふくろうが迷子になっただけじゃなくて?」
「ロン、あなた失礼にも程があるわ」

 ハーマイオニーの言うことは確かだった。一羽のふくろうがいつの間にかハリエットの傍をうろうろしていて、早くプレゼントを受け取ってくれないかとせっついている。

「だって……」

 ロンの声は、ふくろうの足から荷物を解いたハリエットの様子を眺めるうちに消えていった。その顔はまるで、今初めてハリエットが女の子であることに気づいたかのように驚愕している。

「開けないの?」
「開けるのか?」

 両手に乗るくらいの箱をマジマジと見ているハリエットに、ジェームズとシリウスが同時に言った。

「そりゃ開けないと。プレゼントなんだから」

 何を馬鹿なことを、という言葉をありありと表情に乗せるジェームズに、シリウスは信じられないという目を彼に向けた。

「ジェームズだって経験あるだろ? どんな呪いがかけられてるかも分からないのに開けるのか?」
「そりゃ、ハリエットは僕達と違うから。誰にも恨まれてないだろうし」

 ハリエットの顔が陰る。恨まれる心当たりはうんとあった。

 思い詰めた顔をするハリエットに、ジェームズは慌てた。

「シリウスの言葉なんて気にする必要ないよ。呪い付きのプレゼントをしてくる奴らなんてよっぽどの暇人なんだ。僕達はまあ、日々スリザリンと並々ならぬ争いをしているから、恨まれても当然というわけで……。シリウスは男の敵でもあるし」

 だから気にしなくて良いよ、とジェームズは再度言ったが、ハリエットの顔色は晴れない。ぬっと視界の外から手が伸びてきて、問題の小箱が奪い取られた。

「こういう時に便利なのが魔法さ。呪いをかけるのも、それを白日の下にさらすのも。まあ見てろ」

 ぶつぶつ言いながら、シリウスは立て続けに呪文を口にする。その大半がハリエットには知りもしないものだったが、途中からハーマイオニーの顔が興味深げなものへと変貌したことで、おそらく高度な呪文がいくつか混じっているのだろう。

 シリウスが黙ってもなお小箱は何の変化も見せなかった。ジェームズが歓声を上げた。

「ほら見ろ! 君はプレゼント不審になりすぎなんだよ。これは持ち主に返却だ」

 ハリエットの手元にまた小箱が戻ってきた。シリウスはちょっと不満そうだ。

「警戒するに越したことはないだろ。俺達から飛び火することだってあり得るし」
「ありがとう、二人とも」

 結果はどうあれ、心配してくれるその気持ちが嬉しかった。まるでお兄さんみたいだとハリエットは思った。本物の兄は、トーストをかじりながら、まるで人ごとのように三人の様子を眺めているだけだが、もしかしたらロンのようにハリエットが女の子だということに対して現実逃避しているだけかもしれない。

 シリウスが大袈裟に小箱を警戒したので、どうしてだか皆がハリエットの開封を見守る流れになってしまった。ハリエットは大いに緊張しながらリボンを解いた。中から現れたのは――茶色の、犬。

 箱から出した瞬間テーブルを駆け回る姿に皆は呆気にとられた。フルーツの乗った皿をひっくり返し、ハリエットに向かって吠え、かと思えば自分の尻尾を追い掛けてぐるぐる回ったりする。やがて誰かがプッと噴き出した。

「なんて『カワイイ』プレゼントだ?」
「これは――たぶん、本気ね」
「でも、女心は分かってない」
「いや、ある意味分かってる」

 それぞれが勝手に批評を下す中、ハリエットはそうっと右手を差しだした。シリウスの匂いを嗅ぎ、彼に向かって激しく吠えていた犬は、ぴくりと反応してハリエットの元に戻ってきた。舌を出してハリエットの手を舐めるが、人肌の温度にチョコが溶け、ハリエットの手にべっとりついた。

 犬はやがて、自分の住処である小箱に戻り、頭を突っ込んだ。しばらくゴソゴソした後、口にいくつかのチョコをくわえて戻ってきた。まるで獲物を差し出す猫のように誇らしげな様子を見せる犬に、ハリエットはつい「ありがとう」と言った。

 犬型チョコは、それからもしばらくテーブルの上を拠点に活動していたが、やがて「ワンワン」という鳴き声が「グォングォン」という不気味な声に変化していき、動き方もトロールのように愚鈍になった。最後にはコーンフレークに顔を突っ込んだままの状態で停止した。粗相をしたかのように犬の下に溶けたチョコレートが水たまりを作っているのがなんとも言えない哀愁を漂わせている。

「――っ」

 笑ってはいけないとは分かっているようだが、ジェームズの口元はヒクヒク動いている。ロンはもはや隠しきれない様子で肩が上下している。

「――もうちょっと魔法の継続ができれば良かったな」

 シリウスが冷静に言った。それがいよいよツボにはまったのか、ロンがクッと笑いを零した。

「でも可愛かったよ」

 ちょっと笑いながら、しかし居たたまれない様子でハリーがフォローした。

「ハリエットもこういうの好きでしょ?」
「ええ――可愛いと思う」

 本当は、開けるのが少し怖かった。シリウスの呪文を以てしても暴けなかった呪いが飛び出してくるのではと。

 だが、中から現れたのは。

 ――犬が好きだなんて誰から聞いたのだろう。ただのチョコレートじゃない、こんな面白い仕掛けのあるプレゼントをする悪戯心。

 ハリエットにとっては全てが嬉しかった。そのまま犬がくれたチョコを食べようとしたら、シリウスが腕を伸ばしてその手を止めた。

「まさか、食べるのか?」
「そりゃ食べないと。チョコなんだから」

 ハリエットの代わりにジェームズが答えた。シリウスはジェームズを無視した。

「君達はまだ魔法界の怖さが分かってない。いくらチョコとは言え、中にどんなものを混ぜられてるか分からないし、愛の妙薬っていうバレンタインに付きものの魔法薬もある。身を守る一番の方法は、今まさに目の前に出てきた料理以外口にしないことだ」

 シリウスの言葉を体現するかのように、空になった目の前の皿にフルーツが現れた。あまりのタイミングの良さにハリーは噴き出したが、シリウスは笑わなかった。

「一年生の頃に引っかかったことがあるからトラウマなんだ」

 ジェームズが囁いた。

「嗚呼、我らがまだ穢れなき一年生だった頃――パッドフットだって女の子みたいに可愛いかったのに、バレンタインを機に、一気に女性不信になって――」
「いらないことを言うな」

 シリウスはジェームズを睨んだ。

「お前、今日はいやにからかってくるな――」

 シリウスの注意はジェームズへと向けられたようだが、ハリエットは、彼の忠告通りチョコレートを食べることは諦めた。心配してくれる気持ちは有り難かったし、やはりまだちょっと「知らない人」ということに対して抵抗感もあったからだ。

「まあ、何はともあれ、変な呪いがかかってなくて良かった」

 ハリエットが小箱へチョコレートを片付けているのを見ながらシリウスが言った。彼の後ろでは、吠えメールならぬ歌うメールが、片思いを綴ったラブソングを見事な歌唱力で披露していた。

 それからもシリウスへ向けたふくろうの襲撃は細々と続いたが、何とか無事に食事を終え、談話室へ帰還するに至った。その道中、みながみな突撃を仕掛ける女の子達の対応するのに忙しく、ピーターが肩を落として落ち込んでいたことには誰も気づかなかった。