■過去の旅
58:思い出を胸に
音が変わった。景色が止まり、眩んでいた目も次第に正常を取り戻す。最初に認識できたのは、ぼんやりとした室内の様子だった。時を移動する前と同じように校長室のど真ん中に立ち尽くしていた。唯一違うのは、この部屋のどこにもダンブルドアがいないということだ。
「帰って来れたの?」
第一声はハーマイオニーだ。キョロキョロ辺りを見回すだけに留めて、しかし金の鎖からは出ようとはしない。
「ダンブルドア先生はどこに?」
「部屋を出よう」
一番に鎖から出てハリーが言った。
「でも、もし元の時代じゃなかったら? ここに私達がいるかもしれないのよ」
「出てみなくちゃ分からないよ。それともダンブルドアをいつまでも待ってるって言うの?」
早口でハリーは続ける。
「てっとり早い方法がある――リーマスの部屋へ行くんだ。DAの教師は毎年替わる。それで今がいつか分かるし――僕達のことを知ってるかどうかも、分かる」
ハリエットは息を飲んだ。ハリーも自分と同じ気持ちなのだということが分かって複雑な気持ちになる。――いくらダンブルドアに何度も論理的に説明されたとはいえ、本当に受け入れたかと聞かれるとそれは否。ハリエットは、まだ一抹の希望を胸に抱いていた。ルーピン先生が、自分達のよく知るリーマスなのではないかと。
じっとしていられず、四人は校長室を飛び出した。ドラコの戸惑った声が後ろから小さく聞こえたが、誰も振り返らなかった。
ちらほら見える生徒の中には顔見知りもいた。元いた時代とそう遠く離れていないようでホッとしたのも束の間、ハリエットの今の目的はそこではない。
「リーマス!」
騒々しく部屋に飛び込んできた四人にルーピンは目を白黒させた。
「ど、どうしたんだ、皆して……まさか、もうダンブルドアに聞いたのかい?」
彼はどうしてだか荷造りをしている最中だった。決して大きくはないトランクに少ない荷物を詰めている。
「僕達のこと、覚えてる!?」
詰め寄るハリーに、ルーピンは困惑するばかりだった。
「そりゃあ覚えてるよ……。昨日は本当に悪かったね。怖い思いをさせてしまった」
「そんなことじゃなくて!」
怒鳴るようにハリーが叫んだ。
「あなたが五年生の頃! 僕達がやって来た! 一緒に悪戯をした!」
「悪戯……? 悪いけど、何のことだかさっぱり分からないな……。私が五年生の頃? どうして君達がやって来るって?」
「編入生はいませんでしたか?」
ハリエットが小さな声で尋ねた。
「五人の編入生……」
「編入生がいたら珍しくて覚えてるはずだよ。私が在学中に編入生はいなかった」
きっぱりルーピンが言い切り、ハリーは魂が抜けたかのように固まった。そんな彼を見て、ルーピンはすぐに心配そうな顔になった。
「もしかして、昨夜の吸魂鬼の影響で頭が混乱しているのかもしれない。そもそも、君達は入院していると聞いたよ。どうしてここに? 私の見送りに来てくれるのは有り難いが、早く医務室に戻るんだ」
「見送りって?」
ハーマイオニーが不思議そうに尋ねた。
「聞いてないのかい? 私は今日付で辞職するんだ」
「なぜですか!?」
一斉にロンとハーマイオニーが詰め寄った。
「どうしてリーマスが――」
「スネイプ先生が、朝食の席でポロッと零してしまったんだ。私が人狼で、危うく生徒を傷つける所だったと……」
「でも、あの時は仕方なかった! シリウスのことがあったから――」
「私はそうは思わないよ。昨夜、誰のことを噛まずに済んだのは幸運だった……。こんなことは二度と起こしてはならない」
ルーピンは自分を責めるように険しい表情をしていたが、しばらくしてふっとその険が和らいだ。
「ハリー、ダンブルドア先生から聞いたよ。君の守護霊が皆の命を救ったと。素晴らしいことだ。君のパトローナスは何になった?」
「牡鹿です」
ぼんやりとした様子でハリーが答えた。
「牡鹿か。不思議な縁だね。君のお父さんはいつも牡鹿に変身した。だから私たちはプロングズと呼んでいたんだよ」
「知ってます」
「シリウスから聞いたのかい?」
不思議そうに尋ね、ルーピンは思い出したように引き出しを開け、中から銀色の布を取り出した。
「昨夜叫びの屋敷からマントを持ってきた。それとこれも」
ルーピンが差しだしたのは、透明マントと忍びの地図だった。――本来であれば、父から直接プレゼントされたはずのマントと、得意げに使い方を説明されたはずの地図――。
「私はもう君たちの先生ではない。だからこれを返しても別に後ろめたい気持ちはないし、君達なら良い使い道を見つけることだろう。ジェームズだって、自分の子供が秘密の抜け道を一つも知らずに過ごしたなんてことになったら大いに嘆いたはずだ」
「想像がつきます」
力なく笑って言うハリーに、ルーピンは何か言いたげな顔をしたが、彼が口を開くよりも先にノックの音が響いた。
「リーマス、門の所に馬車が来ておる」
ダンブルドアだ。中にハリー達がいるのを見ても驚いた様子はない。
「ありがとうございます。……さあ、私はもう行かないと。皆、ありがとう。君達の先生になれて嬉しかったよ。またいつかきっと会える」
「先生、今までありがとうございました」
「またお会いできる日を楽しみにしています、リ――ルーピン先生」
「ありがとう。――ああ、校長、お見送り頂かなくて結構です。お気持ちだけで」
出て行こうとするダンブルドアを押し止め、ルーピンはトランクを抱えて部屋を出て行った。ロンとハーマイオニーが慌ててお見送りに行こうとその後を走ってついていく。
部屋には、ハリーとハリエット、ダンブルドアだけが残されていた。ダンブルドアは、項垂れる二人を静かに見つめる。
「ポピーから、突然君達がいなくなったという報告を受けておった。医務室を抜け出したんだと彼女は怒っておったが……その様子を見るに、どうやら違うようじゃのう」
「過去を遡っていたんです……十九年」
「途方もない年数じゃのう」
「僕達――過去のあなたに会いました。過去のあなたが逆転時計を直して、僕達をここまで戻してくれたんです。それまでの間……そこで半年以上暮らしていました。ジェームズも、リリーも生きてた……」
「君のその思い出がまやかしだったなどとは言わん」
ダンブルドアの努めて冷静な声に、ハリーはハッと息をのんだ。
「じゃが、未来は変わらなかった――いや、枝分かれしたと言うべきか」
「……過去のあなたも、同じことを言っていました。僕達が何をしようと未来に影響はしないと」
ハリーの切なる声に、ハリエットは胸が押しつぶされそうになるのを感じた。
「覚悟はしていたんです。僕達は、ペティグリューをどうにかできる立場にあったけど、それをしなかった。父さん達に何も忠告できなかったんです」
「……それをしていたら、今頃君達はここにいなかったじゃろう」
「分かっています」
ダンブルドアはそれ以上何も言わなかった。「疲れただろうから早く身体を休めるように」とだけ残し、部屋を出て行った。
しばらく、何をするやる気も出て来なかった。つい先ほどジェームズ達と別れたばかりなのに、その思い出がもう遠い記憶のようだ。
「……行こう、ハリエット」
ようやくハリーが声をかけるが、ハリエットは動かない。動けない。
しばらく迷った後、ハリーは妹の肩に手を乗せた。
「父さんのアニメーガスは、僕の守護霊にそっくりだったよ」
「…………」
「ハリエットが寂しいと思うとき、いつでも守護霊を出すよ」
その声は、ジェームズに似ているようで、似ていなかった。だが、その言い回しはまるでジェームズのようで。
『ハリエット? 良い名前だね』
『僕達がいなくて寂しかったかい?』
『ちょっと夜の散歩しない?』
『エバンズがチョコを受け取ってくれた』
『僕も君達のこと大好きだから』
ジェームズの柔らかい声がハリエットの頭の中でぐるぐる回っている。今は鮮明に覚えているこの声も、言葉も、いつかは薄れていくものなのだろうか――。
胸元に熱さを感じて、ハリエットは無意識のうちにシャツを鷲掴んだ。手に当たったのは、ギザギザの感触。――S・P・E・Wのバッジだ。悩んで形を決めて、試行錯誤して魔法をかけて。
何てことないこんなバッジにすらいろんな思い出が詰まっていて、ハリエットは堪えきれずに泣き出してしまった。
「うっ――うううっ……」
声を押し殺すようにして泣けば、その中にもう一つ嗚咽が交じる。ハリーとハリエットは、互いを支えるように抱きしめながら思い出に浸った。