■過去の旅

07:賑やかな朝


 ハリエットが目を覚ましてからしばらく。

 見慣れた天井に、違和感のない匂い、懐かしい肌触りの毛布。

 全てがホグワーツグリフィンドール女子寮のものだ。だが、ここはハリエットがいるべき場所ではない。正確に言えば、正しい『時』ではない。二十年あまりの時を遡った過去のものだ。

 思えば、昨日はあまりに目まぐるしい一日だった。叫びの屋敷で真相を聞き、狼人間と戦い、逆転時計で過去に戻ってシリウスを救い、そして再び二十年もの過去の世界へ――。

 ひょっとしたら、昨日のことは全部夢だったのかもしれないとも思うが、しかし、スッと視線をずらせば、誰もいないベッドが二つと、こんもり盛り上がったベッドが一つ。いつもは己のベッドのすぐ側にあるはずのトランクが今はなく、更に言えば、この寝室全体もものが全くなく、ガランとしている。

 ハリエット達は、丁度空き室だった四人部屋を宛てられていた。突然過去へ来たのだから私物はなく、身一つだ。

 だが、逆にそれが好転したこともある。シャワーを浴びた後、リリーから服を貸してもらえたのだ。ただのワンピース型の寝間着だったが、母のものだと思うと途端にむず痒くなる。おまけに、何だか良い匂いもする。

 自分が少し危ない方向へ進みかけていることにも気づかずに、ハリエットは昨夜上機嫌で眠りについたのだ。

 ハーマイオニーのベッドで何かがもぞりと動き、やがて彼女は伸びをして起き出した。ハリエットもベッドから抜け出し、制服に着替えた。談話室に行けばリリーもジェームズもいるのだから、寝間着に喜んでいるばかりではもったいない。

 ハーマイオニーと連れだって階段を降りると、ソファから少女が立ち上がり、笑みを浮かべた。

「おはよう、二人とも」

 心積もりをしていなかったハリエットは驚いて一瞬固まってしまった。何度見ても慣れない光景だ。自分そっくりの母親がすぐ目の前にいるというのは。

「大広間まで一緒に行こうと思って待っていたの。ホグワーツは迷路よ。絶対に迷うから、最初は誰かと一緒に行き来した方が良いと思うわ。突然消える階段に、なかなか開けてくれないドアもあるから気をつけて」
「ありがとう……」

 ポッと頬を赤らめて、ハリエットはもごもごお礼を言った。リリーの優しさに勘当している所だった。

「どうする? ハリー達の事も待つ? たぶん、ハリー達はポッターが案内すると思うけど……」

 言外に、『私はポッターと一緒に行きたくない』と表情が語っていた。理想としては、リリーとジェームズ、そして隣にはハリーという絵面で仲良く大広間まで行きたい所だが、この様子では絶対に無理だろう。ハリエットは渋々頷いた。

「まだ寝てるかもしれないし、大丈夫。大広間に連れて行ってくれる?」
「ええ、もちろん」

 そうして三人で肖像画の穴まで歩きかけたが、その途中、男子寮へと続く階段から、一人の少年が降りてきた。いくつか顔に傷のある、どこかやつれた様子の少年だ。

「おはよう、リーマス」
「リリー、おはよう」

 リリーの口から飛び出した名前に、ハリエットは思わずすぐ側のハーマイオニーのローブを引っ張った。ハーマイオニーも興奮したようにハリエットの身体を意味もなく叩く。

「驚いた。ジェームズが、下に行けばびっくりすることがあるよって言うから楽しみにしてたんだけど……」
「言うまでもなくハリエットのことね」

 リリーは呆れたようにため息をついた。

「リリーの妹じゃないんだよね? 驚いたな。本当にそっくりだ」
「ハリエット・ポッターです。よろしく――お願いします」
「ポッター? 君、ポッターって言った?」
「ポッターとは何の関係もないわよ」

 リリーが先を見越して答えた。

「ハリエットはマグル生まれなの。ポッターはマグルに多い名字だし、たまたま一緒なのよ」
「驚いたな、まさかこんな偶然があるなんて――あっ、僕はリーマス・ルーピン。五年生で監督生をしてるから、もし何か困ったことがあったら、いつでも相談して」
「ありがとうございます。ハーマイオニー・グレンジャーです。ルーピンせん――あっ、よろしくお願いします!」
「どうして二人とも敬語?」

 ルーピンは困ったようにリリーを見た。リリーもまた不思議そうに肩をすくめる。

「気を楽にして欲しいな。同じ寮なんだから、家族みたいなものだし」
「そうよ。リーマスはあの問題児二人の仲間ではあるけど、常識人なの。だから安心して欲しいわ」
「その紹介の仕方には悪意を感じるけど……」

 ルーピンはもの言いたげにリリーを見たが、リリーは素知らぬふりをした。

「いやはや、珍しくリーマスの驚いた顔を見ただけで、今日はもう満足だよ。お腹一杯だ」

 階段の陰から見守っていたジェームズが、ニコニコしながら降りてきた。すぐ後ろには眠そうなシリウスもいる。

「おはよう、エバンズ。ハリエットにハーマイオニーも。三人が揃うと、談話室がパッと華やぐね」
「毎日毎日同じようなことを言ってよく飽きないわね。ハリーとロンはまだ寝てるの?」

 返ってきた言葉にジェームズはパチパチと瞬きをし、そして。

「え、エバンズか僕に挨拶を返してくれた……!」

 感動に打ち震えた。厳密に言えばリリーの言葉は挨拶ではなかったが、この様子では、今までろくに会話が成立したこともなかったのだろう。ハリエットは何だか父が不憫に思えた。

「ブラック、ハリーは?」

 リリーはジェームズを無視し、シリウスに顔を向けた。シリウスは緩慢とした動作で首を捻る。

「ノックした時返事はあったから、もうすぐ来るんじゃないか?」
「適当ね。あなた達、二人を大広間まで連れて行ってくれるの? そうじゃないのなら、私が連れて行くけど」
「皆で一緒に行けば良いじゃないか! ハリエットも、ハリーと一緒に行きたいよね?」

 ジェームズが突然期待を込めた目でハリエットを見てきた。ハリエットはうっと詰まってハーマイオニーを見た。ハーマイオニーは、この複雑な状況を一瞬で解決した。

「初めての場所で少し不安だし、できればハリー達と一緒に行きたいわ。もしリリーが嫌じゃなかったら、だけど……」

 こんな風に言われては、リリーも断ることができず、首を縦に振った。どうせ大広間で嫌でも一緒になるのだ。ここで回避しても一緒だろうと諦めたのである。

 やがてハリーがやって来た。欠伸を連発しているロンも一緒だ。

「おはよう……」

 ハリーは気恥ずかしそうに挨拶をした。おそらく昨夜は髪を乾かさずに寝たのだろう。くしゃくしゃな頭が、今日はいつも以上に爆発している。ハリーは必死に髪を撫でつけていたが、大した成果は出ていなかった。

「うわあ、びっくり。えっ、ジェームズ?」

 ルーピンは困惑した表情で、ハリーとジェームズとを見比べた。なぜかジェームズが得意げに胸を張る。

「驚いただろう? 頑固な黒髪までもがそっくりだ!」

 ジェームズは人好きのする笑みでハリーの頭をわしゃわしゃ撫でた。折角少しはマシになった髪を台無しにされ、怒るかと思いきや――ハリーは心底嬉しそうな顔をしていた。おそらく、初めて自分の言うことを聞かない毛髪が大好きになった瞬間なのだろう。

 調子に乗ったジェームズは、まるで旧知の仲のようにハリーとハリエットを自分の方に引き寄せた。

「しかしまだだ、驚くなかれ、なんとこのハリー・ポッター君とハリエット・ポッターさんは双子なのだよ!」
「ええっ!」

 あまりにも素直に驚くルーピンに、ジェームズはもう有頂天だ。鼻をヒクヒクと膨らませ、身体は反り返りそうだ。

「信じられないね。こうなると、リリーもただのマグル生まれじゃないのかも。ポッター家の傍系がマグルと結婚した子孫とか――」
「冗談でもそういうこと言うの止めて」

 リリーは真顔で嫌がった。リーマスはピタリとその口を閉じた。

「早く大広間に行きましょ。私、もう疲れたわ」
「ごめんね……もしかして待たせちゃった? ロンがなかなか起きなくて――」
「ハリーだって長いこと鏡の前から動かなかったじゃないか!」
「だって――」

 父さんや母さんがいるのに、だらしない格好で出るわけにいかないじゃないか!

 思わずそう言ってしまいそうになるのを、ハリーはぐっと堪えた。

 ジェームズにはないその年相応で可愛らしい反応に、リリーはなぜだか母性本能をくすぐられた。

 気づけば、落ち着かせるようにポンポンとハリーの頭を撫でていた。ハリーはポカンとし、すぐに顔を赤くした。ドギマギと視線をあちこちに這わせる。

 一方のジェームズは大顰蹙だ。しかしすんでのところで察知したリーマスが、慌てて彼の口を塞ぐ。これ以上騒ぎ立てれば、本格的にリリーに嫌われてしまうと思った。

 赤面してあわあわするハリーに、ハッと我に返って恥ずかしそうにするリリー、ハリーを羨ましそうに見るハリエットとジェームズ、そして彼の口を抑えるリーマス。

 混沌とした状況の中、バタバタと騒がしい音を立てて階段を降りてくる者が一人。

 寝癖をそのままに、ローブを引っ掛けながら談話室に飛び込んできた、彼は――。

「どうして起こしてくれなかったんだよ! 危うく朝食を食べ損ねる所だったじゃないか!」
「ピーター!」

 ジェームズがパッと笑みを浮かべ、彼を迎え入れた。ピーターはゼイゼイ肩で息をしながら膝に手をついた。

 ピーター・ペティグリューの登場に、ハリー達は一様にサッと表情を暗くした。

「何度起こしても起きなかったのは君だろう? たまには遅刻するのも良い薬になると思ってね」
「でもっ……!」

 なおも言い募ろうとしたピーターは、目を丸くして固まって。彼の目は、ジェームズを通り越し、リリーの隣にいるハリーを捉えていた。

「あれ……? 僕はまだ夢を見てるのかな? ジェームズが二人いる」
「ここまで来るとちょっと聞き飽きてきたな。彼はハリー・ポッター。昨日晴れてホグワーツに編入してきたんだ。僕と同じ名字だけど、親戚じゃない。ポッターはマグルに多い名字だから」

 一息に説明され、ピーターは理解するのに時間がかかったようで、しばし固まったままだった。ジェームズに促され、ようやく我に返る。

「よろしくね! 僕はピーター・ペティグリュー!」

 ピーターはサッと右手を差し出した。その顔は、ひとえに親友そっくりの子に会えて嬉しいという喜びで満ちあふれている。

 だが、ハリーは唇を結んだまま、その場から動かない。ロンやハーマイオニーまでもが表情を強ばらせているので、何とも言えない空気が漂う。

 居たたまれなくて、気づけばハリエットは飛び出していた。

「……よろしく。私はハリエット・ポッターよ」

 己の代わりに握手をした妹を見て、ハリーは驚愕の表情になった。非難の色すら垣間見える。だが、ハリーの表情の変化は、誰にも気取られなかった。ピーターが裏返った声で仰天したからだ。

「ウワッ! 今度はエバンズにそっくりな子だ! どうなってるの?」
「彼女はハリエット・ポッター。ハリーの双子の妹だよ。彼女もエバンズとは関係ない」
「はあ……」

 あまりにたくさんの情報が飛び込んできて、ピーターはしばししまりのない表情で立ち尽くしていた。

「さあ、紹介も終わった所で、本当にもう行きましょ。折角の初日なのに、ハリー達が朝食を食べ損ねたら可哀想だわ」
「そうだね。行こうか、皆! 僕についてくるんだ!」

 リリーと一緒に大広間に行けるという、ただそれだけの出来事に、ジェームズは有頂天にも肖像画へ向かった。まだ一日は始まったばかりなのに、ハリエットは何だかお腹いっぱいの気分だった。