■番外編 ***が死んだ世界で

04:作られた家族



ハリエットの拉致が防がれた時間軸 死の秘宝『最期の戦い』後
*r-15表現があります*


 ホグワーツの戦いが収束した後、ヴォルデモートと死喰い人は、とある屋敷に姿くらましをした。ドラコに連れられたハリエットもその一員だ。この世から消えてしまいそうな程影を薄くしていた彼女に、一体その場の何人が彼女の存在に気づいたかも分からない。

 ヴォルデモートは、今宵の勝利に酔いしれ、長々と死喰い人達の活躍を湛え、その労をねぎらった。だが、その中にマルフォイ家は含まれない。ルシウスは堪らずといった様子で声を上げた。

「我が君……小娘はいかようにいたしましょう」
「ルシウス、俺様に同じことを二度言わせるな。褒美としてドラコにくれてやると言っただろう」
「ですが……」

 ルシウスは明らかに困惑していた。ここにヴォルデモートがいなければ、思い切り顔を顰め、不快感を示していた所だろう。

 それからも、マルフォイ家は、まるでこの場にいないかのように扱われた。褒美を与えられる死喰い人も、地位を与えられる死喰い人もいる。そんな中で、マルフォイ家だけが、ちっぽけな小娘一人を褒美として与えられたのみだった。

 魔法省での地位を欲していたルシウスは、自分の思い通りにならなかったことを、己の屋敷に戻ってきたときに嘆き、そして当たり散らした。

「全てはハリー・ポッター……あいつのせいだ。あいつのせいで任務は失敗し、我がマルフォイ家の信用は地に落ちた。人攫いに捕まったときも、後もう少しで捕らえられる所だったのに、まんまと逃げ出され、私達は――」

 ルシウスは血走った目でハリエットを睨み付けた。

「私達は、あのお方に磔の呪文をかけられた。全く忌々しいことだ。その元凶がこの場にいるとは。こんな小娘を与えられても、扱いに困るだけだ。ドラコ、早く処分しろ」

 彼の言葉を受けても、ハリエットは身じろぎ一つしなかった。ドラコがルシウスの前まで進み出る。

「ですが、父上。闇の帝王は彼女を殺しませんでした。利用価値があると思われたからではないでしょうか。もしそうだとして、早々に僕たちが彼女を――処分したと知れたら、あのお方は」
「…………」

 ルシウスは苛立ったようにその場を歩き回った。落ち着きなく杖を出したりしまったりしながら、ハリエットを睨み付ける。

「トニー!」

 突然彼が叫んだ、と思ったら、バシッと音がしてしもべ妖精が姿を現した。おどおどと視線を彷徨わせながら、彼女はルシウスにペコペコ頭を下げた。

「な、何かトニーにご用でいらっしゃいましたか?」
「小娘を地下牢に閉じ込めておけ。お前が世話をするんだ。決して私達の目につかないように」
「しょ、承知いたしました……」

 ハリエットは、トニーによって速やかに地下牢に移された。日も差さず、ジメジメした場所だったが、ハリエットはむしろそれで良かった。このまま、人知れずこの場で死ねたらと心から願った。それが今のハリエットの、唯一の望みだった。

 だがトニーは、生きる気力をなくしているハリエットに対し、食事も、お風呂も、着替えも全て甲斐甲斐しくお世話した。

 気を遣ってか、彼女はたくさん話しかけてくれたが、ハリエットはそのどれも満足に反応できずにいた。マルフォイ邸に来て何日が経過したのか、それすらも分からないし、思考する力を失っていた。眠りにつくほんの僅かな間だけ、ハリエットは我に返り、涙する。ハリーやシリウスに、この世を去ったたくさんの人々に、消息不明の親友達に、胸が張り裂けそうになる。

 ハリエットの浅い眠りは、荒い呼吸で妨げられた。顔に当たる生暖かい吐息に薄目を開ければ、誰かがハリエットの顔を覗き込んでいる。反射的に悲鳴が出そうになったが、すぐにゴツゴツした毛深い手がハリエットの口を押さえる。

「堪らねえ匂いだ……」

 ハリエットの首元に顔を埋めながら、男は呟いた。聞いたことのある声だった。――グレイバックだ。

「ルシウスは毎日愚痴ってるぜ。お前をどうしてやろうかって。それで――俺たちゃ一つ取引をしたんだ。殺しさえしなけりゃ、何をしてもいいってよ。ああ、堪らねえ」

 グレイバックは音を立ててハリエットの首筋にしゃぶりついた。まだ痛みはない。だが、あまりの嫌悪感にハリエットは顔を歪める。

「ほら、命乞いをしてみろよ。俺は魔法使いどもの絶望の表情が好きなんだ。差別していた側が、差別される側に回る……どんな気持ちなんだろうな?」

 何もかも覆いつくすような暗闇の中、ハリエットの白い肌がぼんやりと浮かび上がる。

 グレイバックは恍惚とした表情でその細い首を撫でた。

「ただ噛むだけならもったいねえ。俺は焦らされるのも好きでねえ。どこを噛んで欲しい? 首は最後に取っておいてやる。腕か、脚か――」
「やるなら早くやって」

 ハリエットは囁いた。

「中途半端に生かさないで。やるなら殺して」

 グレイバックは、ガツンと衝撃を受けた顔をした。別段おかしくもなんともなかったが、ハリエットは口角を上げていた。

「どうしたの? 怖じ気づいた?」

 グレイバックの顔に血が上り、彼はハリエットに馬乗りになった。

「調子に乗るんじゃねえぞ……俺はお前を殺すことだってできる」
「じゃあそうして」

 ハリエットが呟くと同時に、グレイバックはカッと口を開いた。研ぎ澄まされた牙が暗闇に浮かび上がる。

「何をしている!」

 眩しい閃光が瞬き、グレイバックが吹き飛ばされた。彼は咳き込みながら立ち上がり、すぐに杖灯りを点し、侵入者に向ける。――地下牢へ降りてきたのは、ドラコ・マルフォイだった。

「グレイバック――これは僕の褒美だ。勝手に触れることは許さない」

 ハリエットの前に立ちはだかり、ドラコが言い放つ。ハリエットは冷たい石床に転がったまま、微動だにしなかった。

「何を言った所で、俺はルシウスと取引をしたんだ。お坊ちゃんは上でおねんねしてな」
「父上は何か勘違いしてらっしゃるようだ。これは僕のものだ。今日は出直せ」
「お前達の権力も地に落ちた。俺に命令するのは止めてもらおう」

 睨み合いが続く。このまま牽制が続くかと思いきや、杖灯りを点し、またしても誰かが階段を降りてきた。ぼうっとした灯りに浮き上がるのは、ナルシッサの青白い顔だ。

「――グレイバック。私の屋敷で乱暴な振る舞いは許しません」

 彼女は威厳のある声で言った。しかし狼人間は気にした風もなく鼻で笑う。

「だがなあ、ナルシッサさんよ。俺はあんたの夫に頼まれて――」
「お金ですか? それならば、後でしもべ妖精に持って行かせます。今日の所はお帰りを」
「そういう問題じゃねえんだよ」
「ならば、私がルシウスに言って、その取引とやらを止めさせます。私はあなたの横暴が気に入りません。無理矢理にでも止めさせます」

 ナルシッサの顔は迫力があった。グレイバックは小さく舌打ちする。ルシウスが簡単に手のひらを返す様が思い浮かんだからだ。

「今日の昼までに俺の家に金を持ってこい。額が気に入らなければ、お前達の首を噛んでやるからな」
「早くお行きなさい」

 再度ナルシッサが言った。グレイバックは今にも呪いをかけそうな顔で地下牢から出て行った。彼の足音が消え去り、ようやくナルシッサは詰めていた息を吐き出す。

「母上……」
「トニー」

 息子の声を無視し、ナルシッサはしもべ妖精を呼んだ。

「は、はい。奥様、トニーにご用でいらっしゃいますか?」
「彼女の世話をなさい」

 それだけ言うと、ナルシッサは杖灯りと共に再び階段を上った。ドラコはハリエットの方を気にしながらも、母親の後を追う。

「母上、ありがとうございました」
「力をつけなさい」

 振り返りもせずナルシッサは言った。

「私達は、いつあの方に見放されるか分からないわ。今のこの魔法界を生き延びるため、力を付けるの。――そうすれば、家族を守れるわ」
「…………」

 灯りを消し、ナルシッサはドアノブに手をかける。躊躇ったようにしばし口を開け閉めする。

「……あの子は二階の奥の部屋に移すわ。地下はもうすぐ尋問のための場所になるから」

 ドラコは一瞬足を止め、そして。

「……ありがとうございます」

 もう一度礼を述べた。


*****


 黒いローブをはためかせながら、二人の男が足早に魔法省のアトリウムを横切っていた。周囲の人々は、皆二人に向かって――いや、プラチナブロンドの、端正な顔立ちをした男に向かって頭を下げる。

「魔法法執行部部長補佐就任おめでとうございます」

 黒髪の男は媚びへつらうようにして言った。

「何でも異例のスピード出世だとか。さすがはミスター・ルシウス・マルフォイのご長男でいらっしゃる」
「用件は何だ。私は忙しい」

 ドラコ・マルフォイは、素っ気なく言い放った。男は慌てて早口で言う。

「実は二つ程お話がございまして。ミスター・マルフォイもそろそろ良縁をと周りからお声がけされることと思いますが、私の所にも、不肖ではありますが、娘がおりまして……」

 男は愛想笑いを浮かべながらドラコを見る。ドラコは一瞥も彼に向けなかった。

「丁度ミスター・マルフォイの二つ下の娘でして。親の欲目と言われればそれまでですが、これがなかなか器量も良く、ぜひ一度お会いして頂けましたら、お気に召して頂けるのではと」
「そういう話は全て断っている。今は結婚は考えていない。話はそれだけか?」

 ばっさりと切り捨てられ、男は茫然としたが、すぐに気を取り直す。

「娘については、ご興味がございましたら、また……。ミスター・マルフォイにはもう一つご相談があるのです。もうすぐヴォルデモートの日だというのはお分かりでしょう? ですが、生憎と贄となる穢れた血の調達が芳しくなく……マグルを浚うのも良いですが、あまりにもありきたりです。ミスター・マルフォイのご出世のお祝いもあわせて、その」
「何が言いたい。はっきり言え」

 ドラコのオフィスまでもうすぐだ。それまでに話を終わらせなければ、と男は慌てた。

「ハリー・ポッターの妹をお借りしたいのです!」
「……なに?」

 足を止め、地を這うような声でドラコは聞き返した。男はそれに気づかず、口早にまくし立てる。

「我々皆、代わり映えのない人選に飽き飽きしています。確かに、穢れた血やマグルが痛めつけられるのを見ているのは胸がすきますが……退屈です。何か刺激が欲しい。そこでハリー・ポッターの妹の登場です。一気に観客が沸き立つことでしょう。グレンジャーが我々に対する抵抗勢力を築きつつある今、奴の親友でもある娘を痛めつければ、その勢いも――」
「――失せろ」

 男は、パチパチと瞬きをした。己に向けた言葉の意味が分からなかった。

 ドラコはギロリと男を睨み付けた。そのことでようやく男は事態の不味さを悟った。

「聞こえなかったのか? 失せろ! もう二度とその吐き気のする顔を見せるな!」
「ひっ!」

 喉の奥で悲鳴を上げながら、男はよろよろと後ずさり、そして駆け出した。ドラコはそれでも激情を押さえつけられず、扉を蹴りつけた。聞かされた内容に、腸が煮えくりかえりそうだった。


*****


 プラチナブロンドの頭が二つ、マルフォイ邸の居間で向かい合うように座っていた。皺が目立ってきた男は苛立ったように指でテーブルを叩き、もう一人の男は、背筋を伸ばして真っ直ぐ父を見つめている。

「――あの女と結婚するだと!?」

 感情を堪えながらも、しかし殺し切れていない怒りの声が居間に響き渡る。

「お前は自分が何を言っているのか分かっているのか!? あの女は――あの女は!」
「闇の帝王は、彼女の扱いに困ってらっしゃいます」

 ドラコは静かに言った。

「ハリー・ポッターの妹を殺せば、魔法界の、今は大人しくしている反ヴォルデモート派を立ち上がらせることになりかねない。――彼女は、彼らの命を救ったから……だからこそ、彼女がヴォルデモートに従っている間は大人しくしているんです。その関係を、帝王は歯がゆく思われながらも、断ち切ることができずにいらっしゃいます」

 ルシウスは苛立ちながら頭をかき回した。彼もまた、己の屋敷に軟禁しているハリー・ポッターの妹の扱いに困っていたのは事実だった。

「彼女を殺せないのであれば、こちら側に引き込めば良いのです。彼女が純血のマルフォイ家嫡男と結婚すれば、彼らはどう思うでしょう? 裏切られたと思うか……もしくは、もう希望は持てないのだと諦めるか」

 ドラコの言うことにも一理あった。だが、ルシウスはそれでも承諾できない。代々続いてきたマルフォイ家の高貴な純血が、ハリー・ポッターの妹などと婚姻を結ぶことで永遠に失われてしまうのだ――。

「彼女は半純血です。ですが、秘密の部屋を開いた継承者でもあります。そして兄はパーセルマウスだった……それならば、彼女もまたサラザール・スリザリンの血を引いているはずです」

 偉大な創立者の名は、ルシウスに確かに響いた。刮目し、その唇を震わせ、声を押し出す。

「あのお方がどう思われるか……」
「もうお許しは頂いています」

 その時初めてルシウスはドラコの顔を見た。いつの間にか、己の息子は立派な男になっていた。

「ハリー・ポッターの妹……彼女をマルフォイ家に引き込むことで、ご自分の治世はより確固たるものになり得るとお考えです」

 長い間ルシウスは動かなかった。だが、日が沈む前に、彼は小さく頷いた。


*****


 マルフォイ邸二階の一番奥の部屋。

 そこには普段滅多に人は立ち入らない。時折しもべ妖精が姿現しで直接訪れるのみだ。

 その部屋には、妙齢の女性が一人住むくらいで、別段何か変わったものがあるわけではない。にもかかわらず、屋敷に住む人々はまるで禁忌かのようにその部屋のことと、女性のことは口にはしない。

 だが、その日は違った。家に戻ってくるなり、その屋敷の嫡男は足早に真っ直ぐその部屋へ向かった。しもべ妖精が鞄を預かろうとするも、その声すら耳に届いていない様子だ。

 部屋にたどり着き、男は拳を握る。一度ノックをしかけたが――躊躇った後、止める。いきなり扉を開けた。

 赤毛の女性は、驚いた顔で振り返った。もう何年も固く閉ざされていた扉がいきなり開いたことに、驚きを隠せずにいた。

 ハリエットとドラコは、しばし見つめ合った。一言では表せない、様々な感情が行き交う。

「私の部屋に移れ」

 己の口から感情が溢れ出る前に、ドラコは早口に言った。そして部屋の隅で食事の準備をしていたしもべ妖精に目を向ける。

「トニー、後で彼女の荷物を全て私の部屋へ」
「勝手なことは止めて」

 ハリエットは思わず立ち上がっていた。

「一体何のために?」

 目を伏せ、ドラコはハリエットの視線を受け流した。答えは用意していたはずなのに、ただ質問に答えるだけなのに、喉が張り付いて言葉が出ない。

「……三ヶ月後、君は私の妻になる」

 ようやく絞り出された返答に、ハリエットはしばし固まっていた。ドラコは彼女の目を見ることができなかった。

「……どういうこと? 誰が決めたの、そんなこと?」
「…………」

 ドラコは動揺していた。だが、それを顔や仕草に出さないだけの技術は、この数年で完璧に会得していた。今では閉心術でさえお手の物だ。ドラコは、誰にも想いを気取られてはいけなかった。

「闇の帝王だ」

 君でさえも。


*****


 祝い酒だと傾けられるワインボトルを、ドラコは一つも断らずに全て頂戴した。酔いに溺れていれば、この後屋敷に戻っても、怖いものなど一つもないと思えた。にもかかわらず、度数が高いはずのワインは、一向にドラコを酔わせてはくれない。

 早く帰らないといけないんじゃないかと下卑た笑みを浮かべる男達を愛想笑いで誤魔化し、深夜を過ぎるまでドラコは居座った。だが、そろそろお開きという雰囲気が流れ、渋々腰を上げるほかなかった。僅かによろつく足で――そのくせ、頭は嫌味な程はっきりしている――ドラコは暖炉に身を屈め、ウィルトシャーへと姿を消した。

 マルフォイ邸の、居間の暖炉からもたつきながら出ると、しもべ妖精が出迎えた。魔法で灰を落とし、水の入ったグラスを渡そうとするが、ドラコは断った。そのままよろよろと自室へ向かう。

 ノックもせずに扉を開くと、一番に純白のネグリジェが視界に飛び込んできた。ついで、真っ直ぐで艶やかな赤毛も。

 その鮮やかなまでのコントラストは、今のドラコにとって目に毒だった。今朝から昼にかけて、まさに彼女の白いドレス姿をすぐ隣で見たばかりだというのに、まさか夜になってもなお側で見ることになるとは思いも寄らなかった。

 彼女は起きていた。こちらに背を向け、ベッドに腰掛けている。ドラコの帰宅には気づいたようだが、こちらを振り向きもしない。

 酒の匂いをまき散らしながら、ドラコはゆっくり彼女に近づいた。

 ――今この時間まで起きているのは、彼女の自己責任だ。そしてそれが、彼女の決心でもあるのだろう。

「夫婦になったからには――何をすべきか分かっているな?」

 ハリエットは答えない。ドラコはスプリングを軋ませながら、ベッドに腰を下ろした。

「君はマルフォイ家の跡継ぎを産む必要がある……そうしなければ」

 ドラコは小さな声で何か付け足したが、ハリエットの耳には届かなかった。

 驚かせないように、ドラコはあくまでゆっくり事に及ぶつもりではあった。だが、決してこちらを見もしないハリエットに、ドラコが焦れた。何も言わなくて良い。ただ彼女の瞳に己が映ることを切望した。

 突然身体ごと振り向かされ、ハリエットは驚いたように顔を上げた。目と目が合うだけで、ドラコは歓喜に打ち震えた。すぐに視線は逸らされたが、構わない。ドラコはハリエットの身体を抱き寄せ、その僅かに震える唇にキスを落とした。

 触れ合っていた時間は、ほんの僅かだっただろう。離れる時、殴られると思っていたドラコは、何の衝撃もなかったことに驚きを隠せなかった。

 泣いたり、喚いたり、せめて罵られるくらいはあるだろうと覚悟していたが、彼女は何の反応も返さなかった。

 ハリエットは、まるで何かに耐えるようにギュッと目を瞑っていた。早くこの時間が過ぎ去ることを祈っているのだろう。

 そう思うと、むしろ早く終わらせた方が彼女のためなんじゃないかとドラコは思った。

 この行為に愛はない。一方通行だ。少なくとも彼女はドラコ・マルフォイに触れられることを嫌悪しているはずだ。力を以てして己を蹂躙する男に、おそらくはもう友情ですら塵程も残っていないはず――。

 ハリエットをベッドの上に組み敷き、見下ろした。もう一度キスをしようと顔を近づけたが、止めた。

 この行為に愛があってはいけないが、目的はある。ドラコは決して愛を見せてはいけないが、目的は遂行しなければならない。

 ドラコはハリエットの身体に手を伸ばし、触れた。彼女は一層目を強く瞑り、身体を強ばらせる。ドラコは気にしない振りをして、そのまま黙ってネグリジェの裾をたくし上げた。

 ――あれほど胸を焦がしていた彼女が手に入るのに、ドラコは今、途方もない悲しみに暮れていた。


*****


 マルフォイ邸には、日当たりの良い大きな庭がある。季節によって咲く花々も豊富で、見ているだけでも心が安まるような場所だ。

 たまには日に当たらなければと義母に言われ、ハリエットはその日、庭を散歩していた。身体を支えるような手すりはないので、ハリエットはトニーと手を繋いでゆっくり歩いた。

 一歩一歩草原を噛みしめる感触が、ひどく懐かしかった。暑いくらいの日差しも、芳しい花の香りも、爽やかな風も、何もかも。

 ほら、目を閉じれば、今にも皆の声が聞こえてきそうだ。ハリーが真剣な顔でクィディッチをする姿、惚けた顔でロンが冗談をかます光景、ハーマイオニーが一生懸命勉強を教えてくれる所、ハグしようとシリウスが笑顔で両腕を広げて構える姿――。

 永遠にこの手には戻ってこない幸福。こんなことを考えていても仕方がないのは分かっている。だが、ハリエットの時間はあの日々の中で止まっていた。

「若奥様」

 トニーがハリエットの手を引いた。

「旦那様がお戻りでいらっしゃいました」

 一気に現実に引き戻され、ハリエットは振り返った。大きなガラス窓から、ルシウスがソファに腰を下ろすのが見えた。

「……戻りましょう」

 できれば顔を合わせる前に散歩を終わらせたかったのだが、思いのほか満喫してしまったらしい。ハリエットは苦々しい顔で居間へ戻った。

「お帰りなさいませ」

 儀礼的に挨拶をし、ハリエットはすぐに部屋に下がろうとした。だが、ルシウスは引き留める。

「子供の名を考えた」

 一瞬、ハリエットの頭は理解が追いつかなかった。彼の言っている意味が、よく分からない――。

「男であればスコーピウス。女ならデネブだ」
「お……お義父様」

 ハリエットはようやくの思いで声を絞り出した。

「私、子供の名前はずっと前から決めていました。お気持ちは有り難いのですが――」
「お前に決定権があると思っているのか?」

 ルシウスは侮蔑の視線をハリエットに投げる。ハリエットは、まるで彼の視線から守るかのように大きなお腹を抱き締めた。

「でも――私は母親です。名前くらい決めさせてください」
「戯けたことを。シシーの出身家は代々星座から名を付けている。お前の考えたお粗末な名前などでその伝統を絶やせるものか」

 ハリエットは悔しそうに唇を噛みしめた。だが、すぐにハッとして顔を上げる。

「私――私が付けたい名前も、星座です! 男の子だったらレギュラス、女の子だったらアリエス――」

 なんて幸運なことか、とハリエットは期待を込めてルシウスを見た。

「お願いです、ずっと前から決めてたんです。これだけは、これだけは――シリウスと約束して――」
「脱獄囚の名を口にするな!」

 興奮のあまり、思わずハリエットの口から出た名は、ルシウスを激高させる要因にしかならなかった。ハリエットは驚いたように口をつぐむ。

「子供の名はスコーピウスかデネブ。異論は許さない」

 そして宣言された名前に、ハリエットは唇を震わせてルシウスを睨んだ。お腹に手を当てたまま、浅い呼吸を繰り返す。

「ルシウス、あまり興奮させないで。身重なのよ」
「穢れた血が入ってる子供だ。どうなろうと私の知ったことではない」

 ハリエットの呼吸が荒くなる。ナルシッサはルシウスとハリエットとを見比べた。

「トニー!」
「は、はい。奥様、トニーに何か――」
「早く彼女を部屋に連れて行って! ベッドに大人しく寝かせて!」
「はい! 承知いたしました!」

 トニーは大きく叫び、慌てた様子でハリエットを介助しながら部屋へ連れて行った。しばらくして、閉ざされたその部屋からは、むせび泣くような声が漏れ聞こえた。


*****


 ルシウスとの口論以降、ハリエットはますます部屋に閉じこもり気味になった。身重の身で日も当たらない、運動もしない生活がナルシッサは心配でならなかったし、トニーの話では、臨月にも関わらず、つわりも再発しているのだという。落ち着かない様子で数日ずっとそわそわしていたナルシッサは、ある日ついに夫も息子もいない日を見計らって、ドラコの部屋を訪れた。

 ハリエットは、ダブルベッドの上でうんうん唸っていた。顔色は悪く、近くには水差しも置かれているが、手をつけた様子はない。

 ナルシッサは椅子を呼び寄せ、ハリエットのすぐ傍らに腰掛けた。ハリエットは薄ら目を開ける。

「……きついでしょう、つわり」

 ハリエットは口を開いたが、ナルシッサはそれを押しとどめた。声を出すだけでも辛いはずだ。

「普通は妊娠初期に起こるものだから……まさか臨月にもなってつわりがあるなんて思いも寄らなかったわ。でも、考えてみると、このところストレスも多かったようだし……」

 ナルシッサは遠い目をし、そしてため息をつく。

「子供が生まれたら、別宅を建てて、そこでドラコと三人で暮らしなさい」

 疑問と困惑を含んだハシバミ色の瞳が、ナルシッサを映した。ナルシッサは静かに続ける。

「子供が暮らすには、この屋敷はものが多いし、それに……あなた達は顔を合わせない方が良いわ」
「……お気遣いありがとうございます」

 彼女が誰のことを指しているのか、ハリエットはすぐに分かった。ハリエットが小さく礼を述べると、ナルシッサは首を振る。

「私の意見じゃないわ。ドラコがそう言い出したのよ」
「…………」
「ルシウスとあなたが口論したって聞いて、別々に暮らそうと言い出したの。……ドラコは、あなたのことを大切に思っているのよ」

 ナルシッサはひどく躊躇いがちに言った。

「子供の名前だって……ミドルネームに入れる許可をもらったのもドラコよ。あなたのためにやったの」

 それでもハリエットは何の反応も返さない。固く目を閉じ、眠っているのかとすら思える。

「……こんなこと誰にも言えないけど」

 ナルシッサは囁くようにして言った。

「私、ドラコがあなたの拉致に失敗して良かったって思ってるのよ。我に返ったとき、あの子すごくショックを受けていたから……もし成功していたらと思うとゾッとする。操られていたとはいえ、自分がやったことに、一生後悔することに――」
「操られていた?」

 はっきりとした声でハリエットは聞き返した。言葉を遮られた困惑に、ナルシッサはすぐには反応できない。

「操られていたって、どういうことですか?」
「服従の呪文よ……」

 ナルシッサは眉を顰めて答えた。

「ドラコは、服従の呪文に操られてあなたを拉致しようとしたの。……私、てっきりドラコから聞いているものかと」
「どういう……なぜ……」

 ハリエットの声は掠れた。ナルシッサは彼女の心情を慮り、努めて優しく言う。

「闇の帝王は、開心術により、ドラコがあなたに好意を持っていることを知ったの。あのお方は、ドラコに服従の呪文をかけ、あなたを拉致するよう命じたのよ」
「あの人は……自分の意志で……私を拉致しようとした訳じゃない……?」

 真相を聞いても尚、ハリエットは茫然としたままだった。今聞いたことが信じられなかった。開心術? 服従の呪文? 私は――一体――何を誤解していたのだろうか?

 ドラコは、私を裏切ってなんかいなかった。

 命乞いのために、生け贄として差し出そうとした訳ではなかった。

 そしてドラコは……私に好意を持っていた……?

「…………」

 ハリーとシリウスを、そして数え切れない程の友人、恩師、仲間を失った。悲しみに覆い尽くされたハリエットの心には、もう何も響かないと思っていたのに。

「ああっ、あああっ――」

 ――そのはずなのに、どうして嘆きが次から次へと込み上げてくるのか。

 ハリエットは背中を丸めて泣き崩れた。痛い、痛い――。胸が痛い、お腹が痛い、全てが痛い――何もかもが張り裂けそうだった。

 お腹に手を当て、ハリエットが涙を流すのを、ナルシッサは痛ましい表情で見つめていた。だが、やがて異変に気づく。ベッドの上が濡れていた。――破水だ。

「トニー!」

 ナルシッサはすぐに叫んだ。

「は、はい、奥様、トニーに何か――」
「今すぐ癒者を呼んできて! 陣痛が始まったの! 急いで!」
「――はい!!」

 トニーは頷くよりも早く姿くらましをした。ナルシッサはハリエットの手を握り、気をしっかり持って、と声をかけ始めた。


*****


 珍しく早く仕事の片がつき、ドラコはいつもより大分早くウィルトシャーへ姿現ししていた。眼前にそびえ立つ本邸には目もくれず、脇道を通り、別宅へと歩みを進める。

 周囲の木々と同化するようにして佇むその家は、ナルシッサが指揮を執って建てさせた別宅だ。こじんまりとした家だが、親子三人で済むには充分な広さだ。マルフォイ邸の庭とも繋がっているので、自由に行き来もできる。

 そっとドアを開くと、どこからか微かに歌声が聞こえてきた。それに気取られていると、トニーがパタパタと奧から出てきた。

「若旦那様、お早いお戻りでいらっしゃいますね。先に夕食をお食べになりますか?」
「いや、いい。構うな」

 荷物を預けて欲しいと手を伸ばすしもべ妖精を押し止め、ドラコは静かに階段を上がった。軽やかな歌声は徐々に大きくなっていく。

「世のヒッポグリフ忘るな、クリスマスは――」

 どうやら、クリスマス・ソングの替え歌のようだった。そういえば今日はクリスマスイブか、とドラコはようやく思い出した。

 寝室の扉を開けると、案の定そこにハリエットがいた。彼女の膝の上では、歌声に合わせてスコーピウスが上機嫌に頭を揺らしている。

 ドラコが部屋に入ると、歌声はピタリと止まった。ドラコは気づかなかった振りをして、そのまま洋箪笥の前へ向かう。

 急に止まってしまった歌声に不満げな声を上げ、スコーピウスはもっと、もっとと歌をせがんでいたが、ハリエットはもう歌い出さなかった。

 母がもう構ってくれないことに気づくと、スコーピウスはそうっと彼女の膝から降り、父の元に駆け、その足に抱きついた。

「ちちうえ」

 スコーピウスがキラキラした瞳をドラコに向けた。

「おかえりなさい」
「……ただいま」

 ドラコは一瞬躊躇ったが、スコーピウスの頭に手を乗せ、不器用に一撫でした。これで気は済んだだろうとドラコは部屋を出て行こうとしたが、なぜかスコーピウスもついてくる。ドラコの足にコアラのようにしがみついたまま、きゃっきゃと笑いながら自分の身体が浮くのを楽しんでいるのだ。

 ドラコはスコーピウスを足にひっつけながら部屋を後にした。夫婦の寝室には、視線を落としたハリエットだけが残される。

 階下からは、スコーピウスの賑やかな声が聞こえていた。それに時折ドラコが相づちを打つのも聞こえる。

 微笑ましい会話だ。だが、ハリエットは決してその中には入らない。否、入れない。

 ハリエットは、自分のことが、彼のことが分からなかった。

 彼に抱くこの想いは何なのだろうと時折自問するが、答えは出ない。

 同情か、憎悪か、はたまた家族愛か。もしかするとその全てが含まれているのかもしれない。

 だが、一番分からないのは家族愛だ。スコーピウスを愛しいと思う気持ちはある。だが、その感情はドラコへ向けるものとは同じではない。ハリーやシリウスのそれとも違う。ドラコのことを思うと、ハリエットは胸が締め付けられて、苦しくて、泣きそうになるのだ。

 一緒に住んでいて、同じベッドで寝て、夫婦で、子供もいて。それなのに、一生彼とは相容れないような気がする。この空虚で苦しい思いは、一体――。

 ハリエットの心はもう麻痺していて、自分の感情ですらよく分からなかった。