■アフターストーリー

01:冤罪のシリウス


 ハリエットはその日、まだ夜が明けきらぬ時間帯に目を覚ました。そもそも最近は眠りが浅い日々が続いていたが、その日はことさらによく眠れなかった。

 一度妙に目が冴えてしまったからには、再び眠りにつくこともできず、結局ハリエットはそのまま起き出した。軽く身支度を整え、階下へ降りた。

 驚いたことに、居間にはシリウスの姿があった。何をする訳でもなく、彼はソファに深く腰を下ろし、ぼうっとしている。

「シリウス」

 ハリエットが静かに声をかけると、シリウスは僅かに顔を上げ、微笑んだ。彼らしくない弱々しい微笑みだった。

「今ならハリーの気持ちがよく分かるよ」
「ハリー?」
「ああ。無罪か退学か。冤罪か吸魂鬼のキスか」
「大丈夫に決まってるじゃない」

 クマのできた顔で、ハリエットは言った。

「ハリーとルーピン先生が証言してくれるのよ。無罪に決まってるわ」
「わたしは既に一度希望を失ったからな。……期待しないことにしてるんだ」

 シリウスが言っているのは、おそらくあの忘れもしない叫びの屋敷でのことだろう。ほんの束の間だった。シリウスの冤罪が明らかになり、晴れて彼とハリー、ハリエットと三人で暮らせるという夢に胸躍らせていたのは。

「シリウス……」

 何もかもが信じられなくなっているシリウスに、ハリエットはこれ以上どんな言葉をかければ良いのか分からなかった。シリウスがこんな調子だと、ハリエットまで不安に駆られた。まるで雛が母鳥に甘えるように、ハリエットはシリウスの隣に座り、彼の胸に頭を押しつけた。


*****


 日が昇ると、ハリーも起き出してきた。彼もまた緊張で顔を強ばらせていた。言葉少なに朝食をお腹に収め、皆が皆そわそわした様子で早く時が過ぎないかと時計をチラチラ見やる。

 ルーピンが煙突飛行ネットワークでやって来たとき、助かったと思うくらいには、緊張の糸は限界まで張り詰められていた。

「……悪いな。今日はよろしく頼む」

 力なく笑うシリウスに、ルーピンは目を瞬かせた。

「まさか君にそんな風に言われるとは思わなかったよ。よっぽど参ってるみたいだね」
「仕方ないだろう。今日で運命が決まるんだ」

 シリウスは憂鬱そうにため息をついた。ハリーは励ますようにその背を叩いたが、彼は気づかなかったようだ。

「じゃあ早速行くか」
「いや、先に私とハリーが行くよ。関係性はどうであれ、被告人と証人が一緒に魔法省に出向くのはあまり良い心証じゃないと思うから」
「君の言うとおりにしよう」

 ハリーとルーピンは、姿くらましで共に魔法省へ向かった。分霊箱を見つけるため、旅に出ていた頃は、あちこち自由に姿現しをしていたハリーも、ヴォルデモートがいなくなり、大義名分を掲げることができない今、大人しくルーピンの付き添い姿くらましに頼ることになった。ハリーやロン、ドラコ、もちろんハリエットも、誰一人として姿現しの試験に合格していないのだ。ロン以外は、そもそも年齢制限に引っかかり、試験すら受けていない。堂々と姿現しできるのはハーマイオニーだけなので、しばしの間歯がゆい思いをすることになるだろう。

 ハリー達がいなくなってからしばらく、シリウスは重い腰を上げた。ハリエットは玄関へと向かうシリウスの後に当然のようについて行った。

「見送りはここまででいい」

 玄関先で振り返り、シリウスがそう言ったが、ハリエットは呆れたような、怒ったような視線を彼に向けた。

「もちろんついて行くに決まってるでしょう?」
「まさか」

 シリウスはぶんぶん首を振った。

「楽しいところじゃない。ここで待っていてくれ」
「屋敷でずっとやきもきなんてしてられないわ。私も一緒に行く」
「駄目だ。もしわたしが有罪になったらどうするんだ? 脱獄囚と仲良くしていたとして、君たちまで白い目で見られる」
「そんなのどうってことないわ」
「今や君たちは、名実ともに魔法界の英雄だ。君たちの足手まといにはなりたくない」
「誰が足手まといですって?」

 ハリエットは込み上げてくる激情を抑えるのに必死だった。

「私たちはシリウスがいなきゃ駄目なの。なんて言われようと、私はついていくわ」

 ハリエットの断固とした決意に、シリウスもこれ以上言い返すことはできなかった。気が進まなさそうな、でも少しだけホッとしたような、そんな複雑な表情でハリエットと共に姿くらましをした。

 魔法省につくと、シリウスは待ち構えていた闇祓いに拘束された。ものの数秒と経たないうちにシリウスと引き離され、ハリエットは茫然としてしまった。

「シリウス」
「大丈夫だ」

 振り返りもせずにそう言う彼は、慣れているように見えた。どことなく諦めているようにも見えて、ハリエットは怖くて堪らなかった。

 彼の両隣の闇祓いは知らない人だ。誰かに励ますように背中を叩かれたような気がしたが、ハリエットはシリウスから注意を引き戻すことができなかった。

「私、ずっとここで待ってるから」

 神秘部にある十号法廷に向かうまで、ハリエットはシリウスの近くには寄らせてもらえなかった。こんな状態だと、このまま永遠の別れとなってしまうのではないかと不安が余計に増長した。

 法廷に入るとき、ようやくシリウスは少しだけ振り返ってくれた。

「行ってくる」
「シリウス……」

 結局碌な言葉も口にすることができないまま、シリウスは行ってしまった。神秘部の黒々とした厳めしい扉が、ハリエットと彼の世界を分断してしまった。

「大丈夫よ」

 気づくと、すぐ側にトンクスがいた。思考が停止していたハリエットは、彼女も闇祓いだったのだと、今更ながら思い出した。

「シリウスは大丈夫」

 彼女の存在は有り難かった。不安と恐怖で押しつぶされそうになる中、ハリエットは精一杯笑みを浮かべて頷いた。

 だが、それでも落ち着きまでは取り戻すことができず、ハリエットは結局法廷の扉の前で行ったり来たりを繰り返した。

 シリウスの再審が行われる十号法廷は、古く、最近では全く使われていなかったが、今は死喰い人の裁判で法廷全体が混み合っており、このような地下深くの法廷まで開放されていた。

 ただ、何の因果か、ここは以前ハリーが未成年にもかかわらずマグルの前で守護霊の呪文を使ったとして、尋問を受けた法廷と同じ場所である。自分も無罪になったのだから、シリウスも大丈夫だとハリーはよくシリウスを鼓舞していた。自分に言い聞かせているようにも見えた。

 再審が行われるきっかけとなったのは、マルフォイ邸でピーター・ペティグリューが発見されたことだ。銀色の義手は失われ、ヴォルデモートに磔の呪文でも受けたのか、彼は半分正気を失っており、ほとんど証言が取れなかった。だが、かつて左手の小指だけを残して死んだとされていたペティグリューが、今更死喰い人となって見つかったのだ。裁判のやり直しが認められるのも当然だった。

 シリウスは冤罪だ。死喰い人ではないし、むしろ不死鳥の騎士団団員として、魔法界のために尽力した。敬意を表されることはあっても、アズカバン送りだけはあり得ない。

 そうは思うものの、ハリエットは呼吸は浅くなる。せめてペティグリューから自白が取れれば、シリウスは一歩無罪に近づくのに、今の彼から証言を取るのは難しい。

 もし――もしも、シリウスが有罪になったら、ハリエットは彼と共に、外国へ亡命しようとすら思っていた。シリウスの無実を信じない魔法界など見切りをつけて、マグル界で隠れ住むのだ。

 シリウスを有罪にする世界なんか、こっちから願い下げだ。

 ハリエットはポケットの中に押し込んだ透明マントをギュッと上から押さえつけた。

 キングズリーやルーピンは、『絶対大丈夫だ』と太鼓判を押してくれたが、ハリエットは信じ切ることができなかった。壊れたように早鐘を打つ心臓が、うるさいくらいだった。

 その扉が開いたのは、唐突だった。分厚い扉からは、なんの音も声もせず、誰かが開けたことすら気づかなかった。すぐ近くに立っていたハリエットは、危うく扉に頭をぶつけるところだった。たたらを踏んで後ずさると、誰かにぎゅうっと力強く抱き締められた。

「し、シリウス……?」

 懐かしくすら思えるその匂いの主の名を呼んだ。続いてまた軽く衝撃が走る。今度はハリーの匂いだ。

「無罪だよ」

 ハリーは泣いていた。声だけでそれが分かった。じわりとハリエットの目に涙が浮かぶ。

「……本当?」
「本当だ」

 今度はシリウスが答えた。ハリエットは嗚咽を漏らした。

「良かった……」
「シリウス……」

 もっと言いたいことは山ほどあった。だが、胸に込み上げるものがあって、何も言葉にすることができなかっだ。

 ハリエットは年甲斐もなくわんわん泣いた。それに釣られたのか、ハリーも嗚咽を堪えながら泣いた。シリウスは笑っていた。

 法廷から、裁判官達がぞろぞろと出てきていた。皆が皆、シリウスとハリー、そしてハリエットの様子を興味深げに眺めていたが、二人はそんなこと気づきもしなかった。辛うじて、シリウスがルーピンやキングズリー、トンクスと言葉を交わすのが聞こえたくらいだ。

 気がつくと、辺りには誰もいなくなっていた。

「お腹空いたか?」

 シリウスが何気なく尋ねた。大した台詞でもないのに、ハリエットの胸は熱くなった。

「ううん、そんなに……」
「僕はお腹空いた」

 ハリーはニヤッと笑って言った。

「泣きつかれたんじゃないか?」
「そんなんじゃないよ!」

 からかうシリウスに、ハリーはムキになって言い返した。シリウスは軽快に笑ってポンポンとハリーの頭を撫でた。

「隠れ穴に行こう。皆に報告しなければ」

 モリーには、無罪を祝うために、とびきりのご馳走を用意している宣言されていた。ウィーズリー家やハーマイオニー、マッド-アイやハグリッドもその場にいるはずだ。三人の足取りは軽かった。

 階段を上り、エレベーターに乗った。アトリウムに出ると、ハリーは駆け足で金色の噴水に向かった。そしてポケットから巾着を取りだし、中身を全て泉に入れる。ポチャン、ポチャンとガリオン金貨がこぼれ落ちていった。

「何してるの?」
「願掛けしてたんだ」

 嬉しさが堪えきれないといった顔で、ハリーは顔だけ振り返った。

「シリウスが無罪になったら、財布の中身全部寄付するって。僕が尋問を受けたときも、同じことしてたんだ」
「大した懐の大きさだ」

 シリウスはニヤリと笑った。

「だが、充分な見返りはあった」

 豪華なホールには、大勢の人がいたので、端まで寄って姿くらましする予定だった。だが、壁近くまで来たとき、七、八人程のスーツ姿の男女がぞろぞろと三人に近づいてきた。

「ミスター・シリウス・ブラック、ミスター・ハリー・ポッター、ミス・ハリエット・ポッターですね? 少しお話をお伺いしたいのですが、よろしいでしょうか?」

 彼らが記者だというのは、一目で分かった。彼らが手に持つ羊皮紙の上には、自動速記羽ペンが浮いていたからだ。まだ何も話していないというのに、滑るように羽ペンは動いている。

 記者と名のつくものに良い思い出がないハリーとハリエットは、当然身構えた。だが、シリウスはそれ以上だった。

「どうやって記者がここまで入ってきたんだ?」

 顔を顰めてシリウスは言った。

「魔法省は関係者以外立ち入り禁止だろう?」
「許可を得て入れて頂いたんです」

 眼鏡の記者は胸を反らした。銀色の四角いバッジで、『シリウス・ブラック 再審の取材』と書かれていた。

「それで、早速ですが、ミスター・ブラック。再審の結果、無罪だということが明らかになったそうですね?」
「アズカバンに十二年間も冤罪で入れられていたということになりますが、今の心境は?」
「魔法省に対して、何か一言お願いします」

 グイグイ来る記者に三人は取り囲まれた。三人を枠に収めようと後ろに下がり、パシャパシャッとカメラのシャッターを切る記者もいた。

「止めてくれ!」

 シリウスは一喝した。

「わたし達は疲れてるんだ。それに、早くこのことを伝えたい人たちもいる。わたし達に構わないでくれ」
「ですが、このことは魔法界中を震撼させる大ニュースになるはずです。ミスター・ブラックの無念の冤罪について話を聞かせてください」
「あなたはミスター・ポッター達の後見人だそうですね?」
「ペティグリューとはどういう関係なのですか?」
「どうやってアズカバンを脱獄したんですか?」
「――行くぞ」

 シリウスは双子の肩に手を置き、低い声で言った。記者陣をかき分けて前へ進もうとするが、なかなか思うようには前に進めない。

「ミスター・ブラックに取材をしている間、あなた方にもお話を聞きたいのですが」

 ハリー、ハリエットの行く手が阻まれた。

「例のあの人の最期はどんな風だったのですか? どうやって倒したのですか? 生徒に取材をしても、塵となって消えたとか、天に召されたとか、いまいち要領を得なくて」
「ミス・ポッター、敵陣から不死鳥の騎士団に救出されたそうですが、その時の状況について詳しく――」
「いい加減にしろ!」

 シリウスは堪らず叫んだ。吠えるような怒声がアトリウムに響き渡る。記者達は気圧されたように黙り込み、シリウスは牽制するように一人一人をなめるように見た。

「今は誰もが傷ついてる時期だ。大切な人を失っている人もいるし、自らを傷つけられた者もいる。お前達の仕事は、真実を伝える仕事だ。それは否定しない。だが、心身共に傷を負った者たちから無理矢理話を聞き出すことが正義だとは思えない。今は皆に時間が必要なんだ。皆の傷が癒えるまで、お前達はせめてこの魔法界を立て直すために何か他にできることがあるんじゃないのか?」

 記者達は戸惑ったように視線を伏せた。シリウスが双子と共に彼らの間を抜けても、もうその行く手を阻むことはなかった。