君だけに見せる顔

ー 熱を冷まして ー






 グリフィンドール塔まで戻る元気すらなく、ハリエットは玄関ホールへ続く階段でへたり込んでいた。そもそも、最後の気力を振り絞って階段を上っていた所だったのに、消える階段があることをすっかり失念していたハリエットはポッカリ空いた空間に足を取られて強かに脛をぶつけてしまったのだ。情けないやら痛いやら恥ずかしいやらでハリエットは全てが嫌になってその場に蹲る。

 ――閉心術が、うまくいかない。

 休暇明けから始まったスネイプによる閉心術の練習。ハリエットはそれが魔法薬学以上に不得手だった。スネイプに言われたことがまるでできない。どうすれば良いのかさっぱり分からない。ハリーは盾を出すというせめて抵抗らしい抵抗をしてみせたもの、ことハリエットは呪文を唱える余裕もないまま――とはいえ閉心術は呪文で対抗するものではないが――なすがまま心の全てを暴かれてしまうのだ。

 閉心術で心の内を全てスネイプに見られてしまうというのもハリエットは嫌だった。ハリエットとて女の子だ。女友達と秘密の内緒話を知られるのは嫌だったし、ザビニとのことを見られたときはとても恥ずかしかったし、幼い頃の、ハリエットだって思い出したくないような怒られ方をしていた時のことを知られたときはあまりにも惨めで泣きそうになったくらいだ。

 もちろん、スネイプが何も悪くないのは分かっている。むしろ、ダンブルドアに言われて渋々練習に付き合っている分、彼とてある意味被害者だ。だが、それでも嫌なものは嫌なのだ。

 それに、こんな風にグダグダ考えてはいるものの、一番嫌なのは、自分の未熟な閉心術のせいで誰かが被害を被ることだ。ハリエットが捕まったとき、ハリーが、シリウスが――二人の弱みになり得るものがもしもヴォルデモートに知れ渡ったら。

 そんな事態になったら、後悔してもしきれない。何としてでもそんな事態は避けないといけないのに、閉心術を会得しないといけないのに――なのに、全然うまくいかない。

 いろんな気持ちがごちゃ混ぜになって、ハリエットは階段の隅に座り込みながら、立てた膝の上に顔を伏せていた。こんな所に座っていたら――それにここはスリザリン生も多く通る階段だ――目立つことは分かっていたが、もう何のやる気も起きない。ただひたすらに落ち込んでいると、「ポッター?」と甲高い声が振ってきた。

「ウィーズリーじゃないわね。ポッターでしょう? なに? こんな所でメソメソ泣いてるの? ホームシックなの?」

 顔を上げずともこの声はパンジーだと分かった。声だけで分かるハリエットもハリエットだが、髪の毛だけでハリエットと判断を下したパンジーも大概だ。だが、反応するのも億劫で静かにしていると、やがて彼女は焦れてきたのか耳元でやいのやいの騒ぎ出したが、ハリエットはこれも無視。やがてぷんぷん怒りながらパンジーは行ってしまった。

 それからは、正直な所、ハリエットはうとうとしていたのであまり覚えていない。ハッフルパフの生徒が何人か声をかけてくれたような気もするが、記憶が曖昧で定かではない。次に意識がはっきりしたのは、確実に誰かに揺すられたその時だった。

「こんな所で何してるんだ?」

 ぼんやりとした眼がようやく目の前の人物と焦点を合わせる。

「ドラコ?」
「早く寮に戻れ。減点されたいのか?」
「…………」

 顔を見れば減点減点。監督生になってからドラコは随分と減点がお気に入りのようだ。ハリエットは顰めっ面を返してまた顔を伏せた。

「無視するな! 誰かを待ってるのか?」
「動きたくない気分なの」

 石の階段は、ひんやりとしていて気持ちいいのだ。くたっとまた壁に背中を預けたら、ドラコは大仰に腕を組んだ。

「あーそうか! そんなに減点されたいならしてやる。グリフィンドールから十点減点だ!」

 ハリエットは信じられない思いでまじまじとドラコを見た。まさか本当に減点されるとは思いも寄らなかった。

「――っ、どうして減点するの? 何もしてないじゃない!」
「通行の邪魔だ!」
「端にいるじゃない!」
「目障りなんだ!」
「グリフィンドールが地下にいちゃいけないなんて規則はないわ!」
「もうすぐ消灯時間だ!」
「今は違うでしょう!」

 ハリエットとドラコはしばし睨み合った。

「早く帰れ!」
「いや!」

 ドラコとの言い合いでまたごっそりと体力を奪われた気分だ。ぐったりとへたり込んでも、ドラコの方は懲りずに続ける。

「そんな態度を続けるんならこっちだって減点し続けるだけだぞ!」
「どうぞご勝手に……」

 ため息交じりにハリエットが答える。もう何のやる気も起きず、ただただ冷感を求めて壁にピトッとくっついていれば、不意にドラコが手を伸ばしてきてハリエットの腕を掴んだ。何を急に、とは思うものの、抵抗する気力もない。

「熱があるのか?」
「え?」
「身体が熱い」

 言われてみれば、とハリエットはようやく自身の異常に気がついた。全身がカッカと熱を持っているようだし、気怠さもある。

「早く医務室に行け」

 だが、そうと分かってもハリエットは動く気にはなれない。風邪だと気づいたら余計にしんどさが増したようにも思える。

「行けったら!」

 耳元でうるさいくらいに怒鳴られ、ハリエットは顔を顰める。

「ハリーを呼んできて……。医務室まで行く元気がないの」
「どうして僕が!」
「だって、他に頼める人がいないんだもの」

 監督生の身分を笠に着て減点するくらいなら弱った生徒のためにそれくらいして欲しいともハリエットは思ったが、口には出さなかった。ドラコの機嫌を損ねては元も子もないからだ。

「……ああもう!」

 ハリーなくして頑としてここを動く気がないと悟ったのか、ドラコは乱暴にハリエットを立たせた。

「ほら! ついてこい!」
「ドラコが連れて行ってくれるの?」
「ポッターを呼びに行くくらいなら僕が行った方がマシだ」

 まあ、確かにドラコが大人しくハリーに伝言を伝えている様はあまり想像できない。嫌嫌な様子ではあるが、しっかり支えてくれるのでハリエットとしても文句はなかった。

「どうして僕がこんなこと――」

 ドラコの方は文句が山ほどあるようだが、幸いなことに熱に浮かされたハリエットの頭はほとんど理解していなかったので問題ない。ただ、「元気爆発薬を処方してください」という耳元の声にようやく医務室にたどり着いたことに気づいたくらいだ。

 マダム・ポンフリーに渡された元気爆発薬を飲み干せば、瞬く間にハリエットの両耳からポーッと煙が出始めた。「今日は医務室で寝ていきなさい」とマダム・ポンフリーに毛布をかけられたハリエットだが、耳から煙が絶えず出ている状況では眠れるものも眠れない。

「僕はもう行くからな」

 連れてきた身として、ハリエットが薬を飲みきるまで見守っていたが、付き添いの長居を許さないマダム・ポンフリーの咳払いが先程からうるさい。自分としてもこれ以上いる理由はないと立ち上がりかけたドラコだが、ハリエットの蚊の鳴くような声に思わず身体を止める。

「蜂蜜レモンが食べたい……」
「何だって?」
「蜂蜜レモン」

 ハリエットはぼうっと天井を見つめたまま囁いた。

「風邪を引いたとき、いつもハリーが作ってくれたの。甘酸っぱくておいしいのよ。それを食べるとすぐ良くなったわ」
「……ポッターは呼んでこないからな!」
「分かってるわ」

 へにゃりと眉を下げ、ハリエットはドラコを見た。

「ここまでありがとう。夕食は大丈夫? まだ食べてないんじゃ……」
「もう食べた」
「そう、なら良かった。おやすみなさい」

 小さく微笑み、ハリエットはすぐに目を閉じた。マダム・ポンフリーの咳払いが大きくなってきたのでドラコも慌ただしく医務室を出る。

 もともと、今日の予定はもうない。ハリエットと遭遇したのも、夕食帰りにばったり出くわしただけだった。

 玄関ホールまでやって来て、ついドラコの足並みは遅くなる。そう、用事はもうないのだ――。

 いっそのこと、大広間がもう閉まっていたら踏ん切りもつくのに、まだちらほらと生徒が出てくる両扉は閉まる気配を見せない。

 ため息交じりにドラコは大広間へ足を向けた。もうほとんど生徒の姿はなかったが、スリザリン寮のテーブルに相変わらずのクラッブ、ゴイルの姿を認めていっそ感心すらある。

 二人に近づくと、ゴイルが先にドラコに気付き、目を丸くした。

「食べ足りなかったのか?」
「お前達と一緒にするな」

 人聞きの悪いことを言い出すゴイルにはピシャリと言い返し、ドラコはしもべ妖精に蜂蜜とレモンを持ってくるよう言いつけた。それを待っている間、ふと思い至ってデザートとしてあらかじめ置いてあったフルーツの盛り合わせを適当にバスケットに放り込んでいく。

「寮に戻って食べるのか?」
「一緒にするな! 僕のじゃない!」

 今度はクラッブがそんなことを言い出して、ドラコはカッカして答えた。クラッブとゴイルは不思議そうに顔を見合わせた後、食事に精を出し創めてもうドラコに見当違いな質問を投げかけることはなかった。

 目的のものが揃うと、ドラコはのしのしと階段を上り、医務室までやって来た。バスケット片手にそろりと扉を開ける。消灯時間も近いこんな時間に食べ物付きの見舞いをマダム・ポンフリーが許す訳もなく、ドラコは無駄に緊張感を味わいながらハリエットのベッドにそろそろ近づいた。呑気に寝てたら承知しないぞ、とカーテンの中に身を滑り込ませたら、案の定ハリエットはすうすう眠りこけていた。ピキリとドラコのこめかみに青筋が立つ。

 生憎、「風邪だし仕方ない」とバスケットをサイドテーブルに置いて去って行くような優しさをドラコは持ち合わせていない。つかつかベッドに近寄ると、遠慮なくハリエットの頬を摘まむ。

「――っ!?」
「僕にしもべ妖精のようなことをさせておいて、よくもまあ呑気に寝ていられるな!」
「どっ、ドラコ……?」

 目を白黒させながら、ハリエットはドラコを見た。

「どうしてここに?」
「お前が言ったんだろう! レモンが食べたいって!」
「わざわざ持ってきてくれたの?」

 驚きも冷めやらぬままハリエットはパッと笑顔になった。とはいえ、それだけで機嫌が直るドラコではない。ふんぞり返って椅子に腰を下ろす。

「僕をこき使っておきながら自分はぐうぐう眠りこけるなんて神経がトロール並みだな」
「だって、まさか本当に持ってきてくれるなんて……ありがとう」

 ドラコの嫌味も慣れたもので、ハリエットは軽く受け流し、ソワソワしながら起き上がった。

「ね、食べてもいい?」

 ドラコはツンとそっぽを向いたままだが、ハリエットは了承と受け取った。有り難くバスケットを膝の上に置き、くし切りになったレモンと瓶詰めにされた蜂蜜を取り出す。気を遣ってくれたのか、他にもイチゴやリンゴもある。ハリエットはますます口角を上げた。だが、すぐに機嫌を伺うようにそうっとドラコを見る。

「ねえ、お願いがあるんだけど……」
「まだ命令するつもりか!?」
「命令じゃなくてお願いよ。レモンをうすーく切って欲しいの。私、酸っぱいのは苦手で」
「じゃあレモンなんて食べなければいい!」
「甘酸っぱいのは好きなのよ。駄目?」

 返事がないので、ハリエットは早々に諦めた。バスケットの中に一緒に入っていた果物ナイフ片手に、呟くように言う。

「ハリーは薄く切るのが上手だけど、私は苦手で。ドラコなら魔法薬学も得意だし、こういうのも上手だと思ったんだけど……」
「――貸せ」

 一体何がドラコの琴線に触れたのか、ドラコはナイフをひったくると器用にレモンを薄切りにし始めた。ハリエットは思わず歓声を上げる。

「わあ、ハリーよりも上手!」
「当たり前だ」

 嫌味なほど薄く切ったつもりなのに、むしろハリエットはお気に召したようで、ドラコが切っている合間にひょいひょい手を伸ばしてレモンを奪い去り、蜂蜜漬けにして口に入れている。

「おいしい。ドラコも食べたら?」
「いらない」
「病みつきになれるのに」
「ならないでいい」

 流れるようにレモンを食べ続けていたハリエットだが、不意にその手が止まる。何事かとドラコもナイフの手を止めれば、シッと鬼気迫った顔で彼女は唇に指を当てる。

「マダム・ポンフリーだわ……」

 話し声が聞こえたのか、蜂蜜の甘い匂いを訝しく思ったのか――マダム・ポンフリーはしばらく医務室の中をうろうろしていたが、やがて私室の方へ戻っていった。ハリエットはホッと息をついてまた懲りずにレモンに手を伸ばす。

「何だか悪いことしてる気分ね」
「それに付き合わされた僕の身にもなれ」
「でも、おかげで明日には絶対良くなってるわ!」
「元気爆発薬のおかげだろ」

 ああ言えばこう言うドラコにハリエットは拗ねかけたが、すぐに思い直して今度はリンゴに手を伸ばす。レモンの時とは違ってこだわりはないので、大人しく八つ切りにされたままのリンゴに齧り付く。

「私、久しぶりに風邪引いた気がする」

 ホグワーツに入学してからは特に寝込むこともほとんどなかった。毎年いろんな事件が起こるので、目まぐるしくて風邪を引く暇もなかったのかもしれない。

 熱が引いてきたのか、ハリエットは饒舌だった。

「小さい頃はね、私かハリー、どっちかが風邪引いたら、元気な方が蜂蜜レモンを作るのがお約束だったの。私達の親戚は、えーっと、あんまり私達が食べ物を消費するのをよく思わなくて……。だから、夜中にこっそり部屋から出て冷蔵庫から失敬するの。時々従兄弟のダドリーが夜食に起き出したりするから細心の注意が必要なんだけどね」

 風邪を引いたときは、いつも以上にハリーが優しいのでハリエットは嬉しかったものだ。わざと我が儘を言ってハリーに思う存分甘えさせてもらったこともじる。その逆もまた然りなので、風邪を引いた方の特権なのだ。

「あの時のはおいしかったな」

 思わずとそう言えば、途端にドラコが噛みつく。

「僕のはまずいって?」
「誰もそんなこと言ってないじゃない。とってもおいしかったわ」

 いつの間にかバスケットの中は空っぽになっていた。

「ドラコが風邪を引いたときは私が看病してあげるわ。何でも食べたいものを言って!」
「そんな機会は一生来ないだろうね。僕は滅多に風邪を引かないんだ」
「残念ね。今度は私が蜂蜜レモンを作ろうと思ってたのに」

 だが、こういうときの言葉は当たるものだ。翌日、風邪をうつされて寝込むドラコの下に、ハリエットが意気揚々とお手製蜂蜜レモンを持ってお見舞いにやって来る光景があった。