■死の秘宝

02:厄介な夏休み


 ハリエットが寝ている部屋は、小さく、ジメジメした所だった。埃まみれで、一年間ずっと掃除もしていないように見えた。

「荷物は隅に」

 ハリーは素っ気なく指示した。ハリーが二人分のトランクを隅に寄せたので、ドラコもその隣に自分のトランクを置いた。

「お前には床で寝てもらう。ベッドは一つしかないんだ」
「……ここで寝るのか?」
「何だ、不満か?」

 ハリーは冷ややかに笑った。誤解だとドラコは首を振った。

「違う。その……同じ部屋で?」
「厄介者の僕たちに特別に部屋がもう一つ与えられると思うか? 僕だって君と一緒なんて嫌だ。ハリエットもいるのに」

 ハリーは小さく嘆息した。

「お望みなら、階段下の物置部屋、なんて寝床もあるけどね。安心して。十一歳になるまで僕たちが二人で寝泊まりしてた場所だ。成人した君でもギリギリ寝られるだろうさ」
「僕はそこでもいい」

 ハリーは小さく目を見開いた。戸惑ったように彼を見上げ、そして目を逸らす。

「……冗談だ。ハリエットに何かあったときのために、側にいてもらう」

 ハリーは荷造りの前に、簡単に掃除をし始めた。窓を開け、持ってきた箒で床を掃く。ハリエットもいるので、できるだけ埃が立たないようにした。

「まず、一番大切なことだけど」

 ハリーが口を開いた。

「ここではあいつらに逆らわないで。何を言われても冷静に。あいつらは……本当に腹の立つ奴らだけど、逆らったら何されるか。ハリエットがいるんだ。絶対に口答えをしないで」
「あの人達は……お前達の親戚だろう? なのに、なぜ……」
「親戚だろうとなかろうと、世の中にいい人と悪い人がいる。知らないのか?」

 ハリーは埃を集め、ゴミ箱に全て突っ込んだ。

「僕たちはここでは厄介者だ。バーノンは魔法が大嫌いだし、普通でないことを嫌う。ああ、言っておくけど、マグルの世界では、もちろん魔法を使わないことが普通なんだ。だから、間違っても魔法を使うなよ」

 少しだけ部屋は綺麗になった。だが、もっと清潔にしたくて、床磨きに取りかかろうとしたところで、声がかかった。

「さっさと降りてきなさい!」

 ペチュニアが一階からキーキー叫んでいた。

「いつまでちんたらしてるの! 夏休みだからって怠けてるんじゃないよ! あんたらは居候の身なんだ! 少しは手伝いをしたらどうだい!」

 ハリーは徐に立ち上がった。少しハリエットの顔を見た後、またドラコに目を向ける。

「僕は下に行ってる。その間にハリエットの薬を煎じて。何か必要だったら声をかけて――僕に。間違ってもおじさん達に頼みごとをしたら駄目だからね」

 そう言うと、ハリーは一階へ降りていった。

 下がやかましくなって、ドラコも徐に行動を始める。まずトランクの荷造りを始めた。自分の服や小物は無視し、奥に詰めた薬の材料を引き出す。魔法で割れないようにしたフラスコや鍋、魔法が使えないので火付け石も用意していて、それら全てを取り出した。

 ドラコは、正確に材料を量り始めた。繊細な作業が必要とされた。一寸の狂いもあってはならない。計り終えたら、植物を絞り出した液体を煮出した。緑色の煙が上がる。

「何だか臭うわよ! 上で変なことしてるんじゃないでしょうね!」

 ペチュニアの声が聞こえてきた。続いてハリーの声がする。

「薬を煎じてるんだ」
「薬? そんなもの上で作って、臭いがついたらどうするの!」
「すぐに臭いが消える特別な薬草だから大丈夫だよ」

 本気なのか冗談なのか、ハリーは適当なことを言っていた。今ドラコが煮出している植物は二年生のときによく使っていたもので、ローブに染みついたその臭いは一週間消えない代物だ。

 ペチュニアのがなり立てる声を聞きながら、ドラコはようやく薬を煎じ終えた。冷めるのを待ってから、ベッドに腰掛ける。ぐわんとベッドが軋んだ。

 ハリエットの顎を少し上げ、飲ませやすいようにした。スプーンに少量の薬を乗せ、彼女の口元に持って行く。

 小さな口から流し込めば、こくり、と喉が動いた。ドラコはホッとして頬を緩める。

 ゆっくり、慎重に。そして何度も。

 本当に真心の必要な作業だった。しかし、ドラコはこれを苦とも思わなかった。ただ純真に、ハリエットが早く目を覚ますことだけを祈る。

「ご飯だ」

 薬を飲ませ終え、床に座り込んでハリエットの寝顔を見つめていると、ハリーが寝室に入ってきた。

「ハリエットは? 薬飲んだ?」
「ああ」

 穏やかな寝顔だった。今にも目覚めそうなのに、彼女は決して目を開けない。

 連れだって階下へ降りると、テーブルにはたくさんの料理が広がっていた。中央にはチキンが山盛りになって置かれている。

 二つ空いた小さな席にハリーとドラコは腰掛けた。二人の前には一枚の皿があって、たった一つきりのチキンとサラダが申し訳程度に乗っている。中央の山盛りチキンには手を出してはいけないのだろうな、とドラコは何となく察した。そして同時に、ハリエットの食事も用意されてないのだろうとも悟った。

「ママ、このスープおいしいね!」
「まあ、ありがとう! ダッドちゃんは本当に紳士ね。こんなに良い子は女の子が放っておかないわ。ダッドちゃん、おかわりする?」
「もちろんだよ!」
「あの……」

 和気藹々と会話をする親子に、ドラコは声をかけた。

「ミス・ポッターの分も残して頂けますか? 食べさせてあげたいんです」

 食卓がシンと静まりかえった。ドラコは何かまずいことでも言ったのかと戸惑う。

「ま、ママ……」

 ダドリーがブルブル震えた。

「僕飢え死にしちゃう! こいつが僕に食事をするなって! スープをおかわりするなって!」
「なんて奴なの! 居候の分際でダッドちゃんのご飯を奪おうとするなんて! この食事はね、みーんなバーノンとダッドちゃんのために作ったのよ! あんた達はそれを分けてもらってるだけ! それなのに、ダッドちゃんに我慢させろって言うの!」
「あ、あの」

 口を開いたドラコを、ハリーが目で制した。小声で『後で僕が頼む』と囁いた。

「もちろん大丈夫だよ、ダドリー。思う存分食べてくれ」

 その場をうまくやり過ごし、夕食後、ペチュニアに直談判したハリーは、ペチュニアを煩わせず、ほんの少しの材料を使ってスープを手製する許可を得た。


*****


 その日を境に、ハリーの最後の夏休みが始まった。次の日から、ハリーはもちろんのこと、ドラコもペチュニアからこき使われた。ドラコは初めて炎天下の中で草むしりをしたし、休む暇も無くマグル形式で掃除をさせられた。ハリーは買い物を指示されたが、危険を避けるため、外には行けないと言うと、一層ペチュニアを怒らせた。

 厄介なのは、ペチュニアだけではない。バーノンはことあるごとに嫌味を言ったり怒ったりするし、ダドリーは暇さえあればハリーでもドラコでもサンドバッグにした。始めは得体の知れないドラコに距離を開けていたダドリーだったが、数日経って、なんの口答えもしてこないことが分かると、喜々として足を引っかけたり叩いたりした。ハリーと同じくひょろっとしたドラコは、格好の的だった。

 ハリーが驚いたことに、ドラコは何の抵抗もしなかった。ペチュニアにガミガミ怒られても、バーノンに言いがかりをつけられても、ダドリーに殴られても、ただひたすらに耐えていた。

 ハリーは、いつドラコが嫌味を言うか、反撃をするか、正直冷や冷やしていた。だが、ドラコは一度たりとも手どころか口を出すこともなかった。見直す、なんてことは万に一つもあり得ないが、それでも、ハリーが忙しいときは、ドラコがハリエットに食事をさせるのを任せるくらいにはなっていた。

 特例として、ハリエットの治療に魔法を使っても良いとされていた。とはいえ、ハリーは成人していないので、ドラコの魔法に限る話だが。魔法は主に身体を清めるために用いられた。そして同時に、週に一度は、騎士団から派遣された聖マンゴの癒者がダーズリー家にやってきた。

 一度はマグル界への癒者の派遣を断られたのだが、キングズリーが何度も掛け合って、週に一度派遣するお願いを聞き入れてもらえた。

 外部から人がやってくるのは――しかも厄介者のお仲間――バーノンは非常に気にくわなかったが、しかし癒者の緑色のローブ姿が、見慣れなくはあるが、医者と言われれば納得しそうな出で立ちだったので、少し機嫌を直した。『まとも』であれば、バーノンはどうでも良かった。

 癒者は時間をかけてハリエットを診察し、そして食べなくとも栄養の取れる点滴のようなものを施して帰って行った。

 幾日経っても良くならないハリエットの病状に、ペチュニアは日に日に不安を募らせた。ハリエットへの心配ではなく、可愛い可愛いダドリーへの心配である。

 何度目かの癒者の診察をハリエットが受けているとき、ペチュニアはドラコに階段下の物置を掃除するよう言いつけた。ドラコは従い、埃まみれの狭い部屋を掃除した。

「ママ、どうしてこんな所掃除するの?」
「ああ、ダッドちゃんお帰りなさい!」

 ペチュニアはダドリーの頬にキスをした。

「ここにね、あの子を移動させるのよ。ほら、あの子全然良くならないでしょう? ダドリーちゃんに病気が移っちゃ大変だから、隔離するのよ」

 二人の会話を聞いて、ドラコはすぐに物置部屋から出た。身体のあちこちに埃がついていた。

「ハリエットは病人です」

 そして思わずといった様子で口を開く。ドラコが初めて口答えした瞬間だった。

「こんな所で寝たらもっと悪化します」
「ダッドちゃんに病気が移るよりはずっと良いわ!」
「ハリエットは意識がないだけです! あなた方にはなんの影響もありません!」

 ドラコが叫ぶようにして近づいてくるので、ペチュニアは怯えて一歩下がった。

「おい! こいつどうにかしろよ、ハリー!」

 ダドリーは、騒ぎを聞きつけて降りてきたハリーを見た。

「マルフォイ……」

 ハリーはドラコとペチュニアとを見比べた。

「ミス・ポッターを物置部屋に移すと」

 素っ気なくドラコは言い捨てる。何となく予想していた事態に、ハリーはため息をつきたくなるのを堪えた。

「おばさん」

 そしてドラコとペチュニアの間に割って入る。

「あと半月。あと半月で、永遠にあなた達の前から僕たちは姿を消す。一生顔を見せないと誓う。だから、ハリエットはどうかあのままで……」

 ペチュニアは顔を赤くしたり青くしたりした。最後に威嚇するようにハリーを睨み付けると、きびすを返した。

「行くわよ、ダッドちゃん! こんな奴らと一緒にいたら穢れるわ!」
「待ってよ、ママ!」

 走り出そうとしたダドリーだが、一つ思うところがあって、足を止めた。

「お前……ハリエットの彼氏?」

 ダドリーはドラコを見ていた。

「違う!」

 ハリーは吠えた。ダドリーは盛大に身体をビクつかせる。

「そんなわけないだろ! こいつは……こいつは!」

 ダドリーは怯えてペチュニアの後を追った。ハリーとドラコだけが残される。二人とも口を開かなかった。

「診察が終わりましたよ」

 気まずい空気を、癒者が切り裂いた。いつの間にか彼は一階まで来ていた。

「あ、ありがとうございます」

 ハリーは頭を下げた。

「ハリエットは……」
「大分顔色も元通りになりましたね。献身的な看病のおかげです。薬の材料はまだありますか?」
「まだ充分です」
「そうですか。じゃあ、また一週間後に来ますね」
「送っていきます」

 すぐそこの玄関までだったが、ドラコはそう言った。

「ハリエットの様子を見てくる」

 ハリーも呟き、力なく二階へ上がる。

 ハリエットは、変わらない様子でベッドに身を横たえていた。ハリーは疲れたように床に座り込む。下から手を伸ばして、ハリエットの手を掴んだ。

「ハリエット……君の手、こんなに小さかったんだね」

 小さくて、柔らかい。

 ――いや、僕の方がたくさん成長したのか。

 ハリーは微笑んだ。

「小さい頃は、僕たちには僕たちしかいなくて、相手に何かあったらすぐ気づいたのに」

 昔を思い出すように、ハリーは遠い目をした。

「今では、全然そんなことないや。ハリエットが考えてること、したいこと、全然分からない……分かろうともしなかった。そのせいで、僕たちたくさん喧嘩したね」

 そんなに昔ではないはずなのに、ハリーはもはやいつのことだったか忘れてしまった。

「ハーマイオニーは、それが当たり前だって言うけど、やっぱり少し寂しいや。僕は、何があってもハリエットが一番だと思ってたし、ハリエットもそうなんだって思ってた。でも、それはおかしいのかな――」
「ハリー……」

 掠れた声が、己の名を呼んだ。ハリーは目を見開いたまま、ハリエットを見た。

「ハリエット……?」

 ハリエットは、こちらを見て微笑んでいた。目を開けていた。

「マルフォイ!」

 咄嗟にハリーは大きな声で叫んだ。ペチュニアに怒られる、なんて心配は頭の隅に吹っ飛んでいた。

「マルフォイ!」

 呼びかけても、全然来ない。何をやってるんだと振り返ってみれば、ドラコは入り口に立ち尽くしていた。彼はそこから微動だにせず、一歩たりとも入ってこない。

「ど、らこ……?」

 ハリエットはドラコの名も呼んだ。ドラコは誘われるように部屋の中に足を踏み入れた。ドラコがベッドに到着した頃には、ハリエットは目を閉じていた。その日はもう二度と瞼が開かれることはなかった。