僕が覚えてる

― 04:行方知れずの幸福―






 数日が経って、ハリーとハリエットの誕生日がやって来た。とはいえ、ハリエットとしては、もうすぐ十一歳の誕生日だと心待ちにしていたのが、なぜだか突然十七歳の誕生日へと早変わりしたのだから、あまり実感が湧かない。それも、魔法界では十七歳で成人に達するという。ますます不可解な事態だ。

 ただ、良いこともあった。成人に達すれば、魔法界では自由に魔法を使って良いというのだ。まだ魔法のいろはも分からない状態ではあるが、ロンに浮遊術を教えてあげると言われて、ハリエットはすぐに彼に懐いた。ハーマイオニーは、魔法を使うにはまず理論からだとこんこんと彼に説いたが、ロンは聞く耳持たない。すっかり先輩風を吹かせ、ロンはハリエットに杖を握らせた。

「いいか? 浮遊術は杖の振り方が重要なんだ。ビューン、ヒョイだ。ほら、やってみて」

 見よう見まねで、ハリエットは杖を振るった。手首をしならせるようにして振るうと、ロンはにっこり笑った。

「そう、良い感じ。じゃあ次は呪文だ。ウィンガーディアム レヴィオーサ!」
「う――ウィンガディアム レヴィオーサ!」

 呪文に合わせて杖を振るおうとするハリエットを、ロンは慌てて止めた。

「違う、違うよ。ウィン・ガー・ディアム レヴィオーサ。『ガー』って長く言わないと」

 ロンの後ろでハーマイオニーがクスクス笑い出し、ハリーはニヤニヤした。ハリエットは非常に気になったが、ロンは気づいていないようだったので、講義に集中するようにした。

「ほら、見てて。ウィンガーディアム レヴィオーサ!」

 ロンの動きに合わせて、みるみる羽根が宙に浮き上がる。ハリエットは歓声を上げて見入ってしまった。

「す、すごーい……」
「ハリエットもすぐにできるようになるよ。ほら、やってみて」
「……ウィンガーディアム レヴィオーサ!」

 今度こそ、とハリエットは杖を振るったが、羽根はピクリとも動かない。ハリエットはがっかりしてしまった。

「ま、最初はこんなもんさ。すぐに魔法が使える奴なんてそうそういない」
「ハーマイオニーはすぐ使えたよ」
「ハーマイオニーは別だよ」

 ハリーの言葉に、ロンはすぐにしかめっ面を返した。

「僕らのハーマイオニーが使えない魔法なんてこの世に存在するか?」
「それ、褒めてるの?」
「当たり前だろう? 君の知識には思えば随分助けられた」
「煽てたって何も出ないから」
「素直に受け取れば良いのに」

 大人びた風に笑うハリーに、ハリエットは戸惑いを隠せなかった。まるでハリーが全くの別人みたいだ。

「そういえば、シリウスはどこ?」
「講師の役目をロンに取られて拗ねてるみたいよ」
「シリウスは距離感が近いから、ハリエットがびっくりするよ」

 兄の言葉に、ハリエットは小さく頷いた。シリウスからの溢れるほどの愛情は一身に感じていたが、正直な所、ハリエットは戸惑っていた。父親の大親友というのは理解したが、だからといって、ハリエットに愛情を注いでくれる理由が分からない。伯母であるペチュニアにでさえ虐げられていたのに、全くの赤の他人であるシリウスはどうしてここまで自分達のことを大切にしてくれるのだろう――。

 ハリー達の話題が、そのまま『ホグワーツ』のことに移り、ハリエットは寂しくなって一人杖の練習をしていた。

「ウィンガーディアム レヴィオーサ!」

 ちょっとだけ羽根が動いたような気もするが、もしかしたら勢い込んで叫んだ吐息が動かしただけの代物かもしれない。

「ウィンガーディアム レヴィオーサ!」

 もう一度やってみると、今度こそほんの少し浮いた。すぐに落ちてしまったが、重力に逆らって、ちゃんと真上に浮いたのだ。ハリエットは嬉しくなってハリーを見たが、彼は会話に夢中でこちらは見ていなかった。

 どうしてもハリーに見て欲しくて、ハリエットは羽根を持って兄の元へ近寄ろうとした。が、その間に黒い大きなものが割り込んできてハリエットはわっと声を上げてしまった。

「な、なに?」

 黒いものの正体は、クマほどに大きい犬だった。かといって凶暴というわけではなく、今だってハリエットの腰回りに飛びついてきてそのまま膝の上に居座ろうとしている。光沢のある毛並みはフワフワで触り心地が良かった。

「可愛い。ロンの家で飼ってるの?」
「アー、いや、僕の家じゃなくて……」
「ある意味ハリーとハリエットが飼い主ね」
「私達?」

 驚いてハリーを見れば、彼は困った顔をしている。

「なんて名前なの?」
「スナッフルだよ」
「スナッフル! とっても可愛い名前だわ。『鼻をふんふんさせる』だなんて!」

 ハリー含む、皆の視線が生暖かくなった。ハリエットにはその視線の意味が分からない。

「うん……可愛い名前だね。僕もそう思うよ」
「誰が付けたの?」
「……誰だろうね」

 ハリーは穏やかに微笑んだ。ハリエット命名だということは心の内に秘めておくことにした。

 魔法の勉強なんてすっかり頭の隅に追いやられ、ハリエットはスナッフルを可愛がった。首元をわしゃわしゃ撫でたり、濡れた鼻面をツンと突いてみたり。

 そんなことをしていると、昼食の時間がやって来た。皆は席につき、ハリエットもそうしようとしたが、スナッフルのことを思い出した。

「私、スナッフルにご飯をあげてもいい? ドッグフードはどこにあるの?」
「え? うーん」

 ハリーは言葉を濁し、ロン達も視線を逸らす。ハリエットが困惑していると、両手に大皿を支えたモリーがすげなく言った。

「シリウス、そろそろ戻らないと今日のあなたの昼食はドッグフードですからね」
「シリウス?」

 ハリエットの目の前で、黒い犬がみるみる大きくなったかと思うと、毛が短くなり、肌色が見え、洋服が現れ――気がついたときには、そこにシリウスが立っていた。

 あんぐり口を開けたままのハリエットにシリウスは茶目っ気たっぷりに片目を瞑る。

「アニメーガスと言ってね、わたしは犬になれるんだ」

 シリウスはハリエットの扱いに慣れていた。ハリエットを懐柔するには、動物と両親の話が一番だと。

「君のお父さんは鹿になれた」

 驚きも束の間、見事後見人の術中に嵌まったハリエットは顔を輝かせた。

「鹿に? すごい!」
「ちなみに、リーマスは狼になれる」
「シリウス!」

 調子に乗ったシリウスは、モリーとリーマス当人から怒られた。

「さすが魔法界ね! ねっ、ハリーは? ハリーは何になれるの?」
「僕はアニメーガスは使えないんだ」

 ついで、アニメーガスは難しいんだよ、と言い訳のように付け足す。ハリエットの顔があからさまにがっかりしたのを直視したからだ。

「でもその代わり、ハリーは牡鹿のパトローナスが出せる」

 後見人がフォローした。ハリエットは首を傾げる。

「パトローナスって?」
「守護霊の呪文だよ。吸魂鬼って言う、人の幸福を奪う魔法生物を追い払うことができるんだ」
「……!」

 ハリエットの顔が期待で輝く。双子でなくとも、その表情が指し示す意味は容易に理解ができる。

「……一回だけだよ」

 もったい付けて言ってみた言葉を、ハリエットは大切そうに頷いて受け取った。ハリーは苦笑いを浮かべて、前を向く。

「エクスペクト パトローナム」

 もう何度も使ってきた呪文だ。もしかしたら、武装解除呪文の次に得意な呪文かもしれない。だが――その魔法は、ハリーの杖先からは出て来なかった。

「あ、あれ……おかしいな、ちょっと待って……」

 いや、正確に言えば、銀色の靄のようなものは出た。だが、これはハリーの中で成功のうちには入らない。こんな、初心者がようやく成功したような状態のものは――。

「エクスペクト パトローナム!」

 だが、何度やっても結果は同じだった。むしろ、少しずつその靄さえも薄れてきたようにも思える。ハリーは乾いた笑みを浮かべた。

「ちょっと……ちょっと、杖の調子がおかしいのかもしれない……」

 ブツブツ言いながら、不意に合点がいったと顔を上げる。

「いや、そうだよ、やっぱり杖がおかしいんだ。勝手に呪文を出したり、急に出せなくなったり……」
「でも、ハリー、パトローナス以外の魔法は普通に使えてたわ」

 躊躇いがちにハーマイオニーが声をかけた。ハリエットは不安げに周りを見回す。妙に空気が重たかった。空が晴れ渡るような笑みを浮かべていたシリウスでさえ表情を曇らせている。

「ハリー、あなた、守護霊の呪文だけ使えないんだわ」

 ハーマイオニーがついにその一言を発したとき、ハリーはガツンと衝撃を受けた顔をした。そして焦ったように首を振る。

「そんな……まさか! ちょっと調子が悪いだけだよ! 他の魔法だって――」

 代わりにと、ハリーが出した呪文は呼び寄せの呪文だった。ハリエットには羽をちょっとしか浮かせられなかったのに、ハリーはいとも容易くどこからか本を呼び寄せた。だが、その顔はちっとも嬉しそうではなく。

「ハリー……」

 青ざめたハリーは、今にも倒れてしまいそうに見えた。ハリエットは駆け寄ろうとしたが、それよりも早くサッとシリウスが彼の肩を抱く。

「ハリー、少し話そう」
「いや……僕は……」
「何だ、つれないな! 後見人と二人っきりは嫌だって?」

 シリウスは半ば強引にハリーを連れ出した。今のハリーには抵抗する力さえもなく、項垂れたままシリウスに着いていく。

 シリウスは、隠れ穴の最上階、ロンの部屋を訪れた。そしてハリーをベッドに座らせた後、自分は座りもせず落ち着きなく部屋の中を歩き回る。

「ハリー、気にすることはない。ちょっと動揺したときによくあることだ。守護霊の呪文はなかなか繊細だ。こんなときもある。ただ……その、思い当たる節はあるか?」

 ハリーは長い間何も答えなかった。じっと床を見つめたまま微動だにせず、ようやく反応したのは、数分後だった。

「大したことじゃないと思う。本当に。たぶんすぐ治ると思うんだ」
「そうだな。大したことじゃない」
「……運の良い方だったと思うんだ。ずっと昏睡状態じゃなくて良かった。目を覚ましただけでも、奇跡に近い。本当に……僕は嬉しいと思ってる」
「ああ、そうだな」
「でも、やっぱり不安なんだ。またハリエットが狙われたらと思うと……。今のハリエットは、満足に魔法も使えない。何の知識もないんだ。戦う術を身につけたとしても、たぶん――いや、絶対に実践は無理だ。まだ子供なんだ」
「ああ、わたしもその点は不安だった。だが、ハリエットをこのまま隠れ穴に住まわせてもらえるようアーサーとモリーには頼んでるし、もちろんわたしも一緒だ。ハリエットが危険な目に遭うことはないだろう」

 シリウスの言葉に、ハリーは何度も頷いた。

「本当に、ただ漠然と不安だっただけなんだ。いろんな悪いことを考えてたら、頭がグチャグチャしてきて、幸せがどんなものか分からなくなったんだと思う。一時的に」
「ああ、そうだとも。一時的なものだ。すぐにまた出せるようになる」
「うん……」

 ハリエットがずっとこのままだったらどうしよう――そんな不安がハリーの中をぐるぐる回っていた。同一人物ではある。だが、今のハリエットはハリーにとって「懐かしい」と思える対象で、つい最近まで一緒に過ごしたハリエットはどこにもいないのだ。

 今のハリエットがハリエットでないとは言わない。だが、まる六年分の記憶を失ってしまった今の彼女にどうしようもなく寂しさが込み上げてきて、どうか早く記憶が元に戻りますようにと祈るほかなくなるのだ。