天上の見守人
― 04:囚われの友 ―
鏡の中で、薄汚れた黒犬はぐったりと身体を横たえていた。その身体はピクリとも動かず、もしや死んでいるのかとも思えたが、肋の浮いた腹がかろうじて上下していることで生存を証明していた。
「…………」
ジェームズとリリーは、飽くことなくその光景をじっと見つめていた。まだ昔は、この光景にも変化があった。人の姿になって――この黒犬は成人男性のアニメーガス状態に他ならない――ぐるぐる牢獄内を歩き回ったり、考えごとをしたり、かと思えば突然叫びだしたり。
だが、直にそれも止めた。独房の周囲を彷徨いている吸魂鬼が男の幸福な気持ちを吸い込み、不幸のどん底につき落とそうとしてくるからだ。食欲を失い、希望を捨て、感情すらも無くし、考えることを止めた。
だが、正気までは失っていない。それをジェームズは確信していた。こんな所でくたばる彼ではない。彼は、シリウス・ブラック――ジェームズの魂の双子と言われた男だ。
遠くから響いてくる僅かな足音に、犬の耳がピクリと反応した。犬はのそりと起き上がり、すぐさま人の姿に戻った。
「大臣、まさかこんな所まで視察に来ずとも……」
「脱獄不可能と言われた牢獄を一度この目で見ておきたかったのだ。それに、死喰い人の様子も気になる」
珍しい訪客はファッジとその付き人だった。護衛のために吸魂鬼が二体彼らの周りについている。
二人と吸魂鬼は、そのままぞろぞろと牢獄を進んだ。視察といっても、付き人の言う通り、ほとんど価値のないものだった。何せ、吸魂鬼の影響で、囚人たちはほとんど正気を失っているのだから――。
だが、シリウス・ブラックの前の牢獄を通りかかったとき、ファッジは、こちらをじっと見つめているシリウスに気付いた。他の囚人たちとは違い、きちんと目の焦点が合っている。ブツブツと独り言を口にしてもいない。驚きに足が止まったのを見て、シリウスは僅かに口元を緩めた。
「大臣になったんだな」
「……私のことを知っているのか?」
「魔法惨事部の次官だったのを覚えている」
――まさか、アズカバンに収監されてもなお正気を保つどころか、理性的に話ができるだけの知性が働いているとは。記憶力だって相当なものだ。一体何年前のことだと。
「見ての通り、ここは退屈でね。昔の記憶に思いを馳せるくらいしかやれることがないのさ」
ジェームズは、シリウスの瞳に懐かしい光がきらめいているのに気付いた。あれは――そう、例えるなら悪戯を仕掛ける前の瞳に似ている。彼の目はいつも成功しか見えていなかった。その実、見事なまでの手腕で成功を掴み取るものだから嫌味な男だ。
何かが変わる――そんな予感がして、ジェームズは知らず知らず口角を上げた。
「ポケットから見えてるのは新聞か?」
「ああ、日刊預言者新聞だ」
「懐かしいな。確か、裏にクロスワードパズルがなかったか?」
「大臣、囚人と話している暇などありませんぞ。早く魔法省に戻らねば……」
「まあ待て」
ファッジはいよいよシリウスに向き直った。大量殺人鬼シリウス・ブラック。だが、話してみれば案外まともで。正気を失わずにいられていたことが彼の興味を引いたのだ。
「パズルが好きだったのか?」
「いいや。ここに来る前はクロスワードなんて見向きもしなかったな。だが、不思議と今は懐かしくて堪らない。生憎、ここには話し相手がいないものでね。こうして我を失わずにいられるだけで精一杯さ」
「確かに珍しい。ここに来るまで囚人たちはみな正気を失っていたのに」
「あと数年もここにいればわたしもどうなるかわかったものじゃないが。……もしも、の話だが。読み終わっているのなら、新聞をくれないか?」
「大臣!」
いよいよ付き人が声を上げた。
「囚人に差し入れなど、まさかそんなことお考えではありませんね?」
「静かにせんか。――クロスワードをやってみたいのか?」「ああ。暇つぶしにもなるし、今どれくらい頭が働いているのか確かめてみたい」
「面白い。私も、このパズルは時々やってみたことはあるんだが、なかなか完成した試しがない。いいぞ、やってみろ」
付き人が止める暇もなくファッジは格子の隙間から新聞を差し出した。シリウスはしかと受け取った。
「ありがとう」
「次に視察に来るときに出来映えがいかほどのものか見せてもらおう」
「それまでわたしの正気が保てていればの話だがな」
「大臣はもうこのような場所に視察には来られないでしょう!」
付き人はカンカンになってファッジを引き連れて牢獄の奥へと進んだ。シリウスはそれを見送ると、ほんの少しだけ口角を上げて新聞を見下ろす。それを眺めるジェームズに至ってはニヤニヤが止められない。
「あいつ、やるなあ。やっぱりシリウスはシリウスだ。殊勝な顔をして仕掛けるのがうまい。――まあリーマスには負けるけど」
「それ、どういうこと? 私、リーマスはてっきりあなたたちを止めてくれているものと思ってたけど」
「まあ間違いではないね。ただ、あんまり身が入ってなかったというだけで、むしろその監督生の立場を利用していろいろ手助けをしてくれたというか――」
「何ですって?」
リリーの中でリーマスの評判がどんどん落ちていく中、鏡の中のシリウスの顔は次第に強張っていく。何か気になる記事でも見つけたのか、と覗き込んで見れば、なんとその新聞の一面には、ウィーズリー一家がガリオンくじグランプリに当選した旨が載っていた。大きく載せられた写真には、一家がこちらへ向かってにこやかに手を振っている様が写っている。
「あれは――」
写真の中央、そこに立っていたのは、ジェームズたちもすっかり見慣れたロンだ。だが、注目したのはそこではない。彼の肩に、スキャバーズが乗っていたのだ。
「ピーター……」
掠れた声でシリウスが呟いた。手に力が籠もり、新聞がぐしゃりと音を立てる。
「ホグワーツ、だと? あの子たちのいるホグワーツに?」
ジェームズには、親友の考えが手に取るようにわかった。
「ヴォルデモートに力が戻ったら、二人を差し出すつもりか?」
シリウスの妄執は相当なものだった。薄れるどころか日に日に増すピーターへの怒り、憎しみ、それを容易に超えるほどの名付け子たちの安否。
彼の苦悩は寝言にまで表れていた。ジェームズは、刻一刻とその時が近づいているのを感じた。そしてある日、吸魂鬼が食事を渡すために独房の扉を開けたとき、犬の姿になったシリウスがその横を通り抜けたのだ。
「まさか――まさか!」
リリーが息を呑む。ジェームズは思わず手を打った。
「パッドフット! やってくれたな!」
「なんてこと! 無茶だわ、だってここはアズカバンよ! 脱獄なんて――絶対すぐ捕まるに決まってる! 吸魂鬼のキスを受けるわ!」
気が気でないリリーとは対象的に、先ほどとは打って変わって静かに、息を詰めてジェームズはシリウスの行動を見守った。
幸いなことに、シリウスの体は鉄格子の隙間をすり抜けられるほどやせ細っていた。吸魂鬼は、獣の感情を読み取ることは難しいようで、シリウスの脱獄にも気づかない。シリウスはそのまま牢獄を抜け出し、さらには泳いで島からも脱出した。
「パッドフット! シリウス!」
親友が無事大陸までたどり着いたとき、ジェームズは歓声を上げた。あまりの喜びようにちょっと涙まで出てしまっていた。
「良かった……良かった」
驚きと心配で言葉もないリリーに反して、ジェームズは何度も呟いた。
シリウスが、きっと子供たちのことを思って脱獄してくれたことはわかっている。ジェームズとて、二人のすぐそばにピーターが潜んでいることは気にかかっていた。そのことに偽りはない。だが――。
シリウスの実状とて、気にかけなかったわけではない。気にしなかったわけがない。ピーターを秘密の守人にすることに、最終的に同意したのはジェームズだ。自分の愚かな判断が、親友をこんな目に遭わせている。何度後悔したかわからない。
それなのに――彼は、自らの手で自由を掴み取った。やはり彼の目には成功しか見えていなかった。
「さすがパッドフットだ……」
今はただ親友の自由が嬉しくて嬉しくて、ジェームズは束の間喜びに涙を流した。
*****
脱獄した後も、逃亡生活を余儀なくされるシリウス。彼の行く末が気になり、ついつい彼ばかり鏡で眺めてしまうのは当然のことで。
その上、彼が一直線に目指している場所といったら、名付け子であるハリーたちの住むダーズリー家なのだから、切ないやら嬉しいやらで複雑な心境だ。とはいえ、プリベット通りに着いたはいいものの、何故だかハリーとハリエットが家出をしてきたようでリリーは仰天した。どうやらバーノンの姉マージにジェームズたちの悪口を言われ、それでカッとなったハリーが魔法を発動させてしまったらしい。
その気持ちはとても嬉しいが、もう辺りは薄暗い。誘拐でもされたらとリリーは気が気でなかった。にもかかわらず、呑気にシリウスはハリーたちと接触し、犬成分丸出しで交流を始めた。
「シリウス……すっかりただの野良犬になっちゃって……」
頭を撫でられて嬉しそうに吠えるシリウス、与えられたベーコンを息つく暇もなく食すシリウス――食べる間も惜しんですっ飛んできたのでここは良いとして――ハリエットにスナッフルと命名され、ペットとして飼うことを提案されたときにはジェームズは思わず笑ってしまった。
「ペット? ペットって言った?」
「シリウスがホグワーツについて行ってくれるなら安心だけど……でも、中身を知ってる分少し複雑ね」
やがて夜の騎士バスがやって来て、シリウスもノリノリで乗り込もうとするが、車掌のスタン・シャンパイクに汚い犬は乗せられないと断られしゅんとしていた。結局シリウスとはここで別れることになり、ハリーとハリエットはダイアゴン横丁で寝泊まりをし、そのままホグワーツへ向かうことになった。
汽車に乗り込んだハリーたちは何気なくコンパートメントの扉を開ける。だが、その中を見てジェームズは驚きと興奮を隠せなかった。
「リーマス!?」
「リーマスがどうしてここに!?」
コンパートメントの中で疲れたように眠り込んでいるのは、紛れもなくリーマス・ルーピンその人だった。
「まさか、リーマスがホグワーツの教師に……?」
「なら、教科は闇の魔術に関する防衛術だ! リーマスはあの教科は抜群に成績が良かった!」
ジェームズは顔を綻ばせて喜ぶ。確かに、最近のリーマスはやけにそわそわしているようだったが――まさかこんなサプライズがあったなんて!
だが、興奮も束の間、ホグワーツ特急を吸魂鬼の群れが襲い、ハリーとハリエットは気絶してしまった。目が覚めたとき、どちらも「女の人が叫ぶ声が聞こえた」と口にするものだから、ジェームズとリリーは沈痛な面持ちになった。
あの子たちの、一番最悪な記憶は、あの夜のこと――。
自分たちにとってもそうだと、ジェームズは思った。あの一夜で全てが崩れ去った。自分たちは死に、シリウスは投獄され、子供たちはダーズリー家に預けられ――。
まるでこの場にも吸魂鬼が現れたかのように、ジェームズもリリーもしばらく何も話さなかった。
*****
新学期のホグワーツには嬉しい出来事が待っていた。リーマスの教授就任のみならず、ハグリッドまでもが魔法生物学を受け持つことになったのだ。シリウスを警戒し、ホグワーツを吸魂鬼が警護するという嬉しくない出来事は聞かなかったことにして、二人の初授業を待ち遠しくしていたジェームズとリリー。
残念なことに、ハグリッドの授業は大失敗と言わざるを得なかった。ハグリッドが少々危険な魔法生物ヒッポグリフを一回目の授業の題材にしたところまではまだいい。だが、ドラコの侮辱により怒ったヒッポグリフが鉤爪を振りかざし、結果、ドラコが大怪我を負ってしまったのだ。全てはドラコのせいだとはいえ、ハグリッドはすっかり気落ちしてしまった。これにはジェームズも腹を立てた。
「マルフォイが悪いのにハグリッドが気にすることない! もう十三歳だ。自分がしたことの責任くらい自分が取るべきだ」
「でも、ちょっとジェームズに似てる気もするわ。ハリーに対抗心を燃やしてつっかかっていくところとか……」
「もしかしてスネイプとのことを言ってる!?」
ジェームズは驚愕の表情を浮かべてリリーを見た。
「あいつと一緒にしないでくれ! 僕は、闇の魔術にのめり込むスネイプが気に入らなかっただけで、手当たり次第文句をつけてるあいつとは違う!」
本当にそうかしら、とリリーは疑り深い顔でジェームズを見た。確かに、始めはそうだったかもしれない。だが、年を経るごとに喧嘩を売りにいく理由がリリーの目からしてみれば随分くだらなく、同時に理不尽なものばかりだったことは決して否定できないはずだ。
だが、眼下ではリーマスの授業が始まるところだったのでリリーは黙る。
さすがリーマスと言ったところか、ユーモアがあり懐も広い彼は、実に楽しく授業を進めた。見ているだけのジェームズたちもワクワクするような先生っぷりだ。中でも特に最高だったのが、リーマスの画策により、ボガートのスネイプが緑色の長いドレス、赤いハンドバックを手にした姿に変化したことだ!
「こいつは傑作だ、見たかい、リリー! 随分お似合いな格好じゃないか!」
「……っ」
始めこそ我慢していたものの、リリーも堪えきれずに噴き出した。嬉しくなって、ジェームズはまるで自分の手柄のように得意げになる。
リリーの笑顔は貴重だ。何せ、ホグワーツ入学前も入学後も、どちらも危険の度合いに差はあっても子供たちは両親を冷や冷やさせるような出来事にばかり遭遇していたのだから、微笑ましく眺めてばかりではいられないのだ。
他でもない自分がなかなかリリーを笑顔にできないのは歯痒い。だが、友人が彼女を笑顔にしてくれたのなら、それはもう自分の手柄だといっても過言ではない!
そんな風に都合の良い考えをしているうちに、リーマスの授業は大盛況で幕を閉じた。だが、そう上機嫌でもいられなかった。やがて第一回目のホグズミードの日がやってきたが、バーノンにサインをもらえなかったハリーたちは、寂しくホグワーツでお留守番することが決定したのだ。
「ホグズミードに行けないなんてどんな拷問だ……」
手を振ってロンとハーマイオニーを見送る子供たち。その背中があんまり寂しく見えるものだからジェームズもやり切れない。
寮生活において、ホグズミードが気晴らしのようなものなのに、なんて可哀想なことだろう。
気落ちした二人は、それぞれで休日を過ごすことにしたらしい。ハリーはリーマスとお茶会をし、ハリエットはというと、ハグリッドの小屋に遊びに出掛け、その帰り道、なんとスナッフルと遭遇した。
「シリウス……」
リリーは思わずため息をつく。時折シリウスの様子も見ていたので、彼がホグワーツに来ていたことは知っていた。だが、まさか再びハリエットに接触を図るとは思いもよらなかったのだ。
「何十キロもあるのに、一体どうやってここまで来たってことにするつもり?」
当然ハリエットだって不思議には感じているようだが、魔法界に疎いのでさほど気にすることなくスナッフルと戯れていた。
絵面的には随分と可愛いものだろう。少女と大きい黒犬が遊んでいる光景なんて。だが、中身が……黒犬の中身は立派な成人男性である。ハリエットに撫でられ、すっかり野生を失ったように体中の力を抜くスナッフル。彼の親友としてあまりにも複雑なジェームズだ。
だが、それ以降ハリエットからたびたび差し入れをもらうことができたようで、ジェームズは安堵した。今は叫びの屋敷に隠れ住んでいるようだが、シリウスの食事といったらネズミやよくわからない植物ばかりなのだ。これを機に少しでも栄養をつけてもらいたいものだ。
スナッフルもといシリウスは、ハーマイオニーの飼い猫クルックシャンクスの力を借りて、何とかピーターを捕まえようと奮闘する傍ら、存外ホグワーツ野宿生活を謳歌していた。ハリエットと時々遊ぶのに加え、ハリーのクィディッチの試合も堂々と見に行ったのだ。ハリーの勇姿に、ジェームズ同様目をキラキラさせていたが、吸魂鬼の群れに襲われ、ハリーが落下したときは唸り声を上げてしまい、あわや怯えた生徒に呪いをかけられるところだった。
ハリーはなんとか一命をとりとめ、ジェームズもリリーもホッと胸を撫で下ろした。ホグワーツに入学してからというもの、一度たりともハリーが無事クィディッチシーズンを終えられたことなどない。両親としてはいつも気が気でないのだ。
ハリーの落下と共に、愛用の箒であるニンバス2000は粉々に砕けてしまった。ハリーはもちろん意気消沈していたが、気を回した双子が、なんとホグズミードにこっそり行けるアイテムを託してくれた。そのブツを見て、ジェームズは懐かしさに思わず手を打つ。
「忍びの地図はあの双子が持ってたのか!」
「忍びの地図って?」
「見てればわかるよ」
ニヤッと笑ってジェームズは眼下を指し示す。何やら呪文を唱え、ジョージが杖で古びた羊皮紙を叩くと、みるみるそこにホグワーツの地図が現れた。よくよく見れば、そこには今まさに城を歩いている人物の名前も書かれてあり、誰がどこを歩いているのか一目で分かる代物だった。
「あれで悪戯してたのね?」
「あれを作成するのには随分時間がかかったよ。でもその恩恵は充分受けた。何度フィルチを華麗にやり過ごしたことか」
「全く呆れた……」
父親たちの苦労の結晶を手に、ハリーとハリエットは嬉しそうにホグズミードへ出掛けていった。だが、ロンたちと合流する最中、二人に絡んでいるドラコたち一行にも出くわした。透明マントを被っているためか、妙な悪戯心が沸き起こったらしく、双子はドラコたちに雪玉をぶつけ始めた。混乱する三人組に余計楽しくなってきたのか、ハリーはクラッブとゴイルに悪戯を仕掛け、ハリエットはというとドラコの髪をぐしゃぐしゃにしたり頬を引っ張ったりしていた。
ジェームズたちの悪戯とは比較もできないくらい子供らしい悪戯に微笑ましく思っていたのもほんの数分の出来事で。
ハリエットがドラコと共に転び、その矢先マクゴナガルが現れてしまった。クラッブたちに言いつけられたマクゴナガルはハリーたちを叱り、反面ハリエットとドラコは、透明マントのおかげで辛うじて皆にバレずに入るものの、折り重なったままその場から動けずにいて。
天国といえど、マントの中身はもちろんジェームズとリリーも見えなかった。
見えない、見えないのだが――。
「ま、ま、マントの下で何してるんだ!」
ジェームズは思わず身を乗り出した。
「マルフォイの奴、絶対この機に乗じてハリエットにお触りしてるに決まってる! ハリエット、すぐに逃げるんだ!」
しかし、マクゴナガルもなかなかしぶとい。彼女がグチグチと小言を言えば言うほどジェームズにとっての苦難の時間が長くなるのだ。貧乏揺すりしながらジェームズはギリギリ歯ぎしりを立てる。
ようやくジェームズにとっての地獄の時間が過ぎ去ると、ハリエットたちはマントを取り払った。ジェームズはまたぐいっと身体を乗り出す。
「ほら見ろ、マルフォイの顔が赤い! ハリエットのこと意識してるんだ!」
「そりゃあ、誰だってあんな状態になったら照れるに決まってるわ」
「照れるなんて可愛いもんじゃない! あれはやましいことを考えてる顔だ!」
「もう、大袈裟なんだから……」
ジェームズはぐりんとリリーの方を見た。
「君は、二人が怪我するかもしれないって事態には厳しいのに、こういうことには無頓着すぎる! 男は甘く見ちゃいけないんだ! 下世話な話はしょっちゅうだし、あいつだって――寮に戻ったら、ハリエットのことどんな風に話してるか――」
ジェームズの大騒ぎは、そう長くは続かなかった。合流した四人が訪れた先――三本の箒で、ついにハリーたちがシリウス・ブラックに関する客観的事実を知ってしまったのだ。ジェームズの親友で、秘密の守人で、しかし裏切ってヴォルデモートにジェームズたちを売ったことを――。
その日の夜、両親の写ったアルバムを見て一夜を明かしたハリーに、写真を見て涙を流したハリエットに、ジェームズたちは言葉もなくただ黙って見ていることしかできなかった。
*****
シリウスがやることなすこと、結果的に空回りすることばかりだった。グリフィンドール塔に忍び込んでスキャバーズを捕らえようとするも、まんまと逃げ出され、ニンバス2000の代わりにファイアボルトをハリーにプレゼントすれば、宛名がないことを不審に思ったハーマイオニーにマクゴナガルに届けられ。
更には、犬になってハリエットと戯れていたら、真実を知らないリーマスに失神呪文をかけられてしまった。本来なら同情すべきところだが、ジェームズは少し笑ってしまった。真実を知ったとき、リーマスはきっと呆れてものも言えないに違いない。脱獄囚の日課が親友の娘と戯れることだったなんて!
だが、それからは目まぐるしく変化していく状況にジェームズもリリーも真面目に見入るほかなかった。ついにシリウスに捕らえられたピーター、暴れ柳で明かされるシリウスの悲劇とピーターの裏切り。
子供たちばかりか、リーマスにも真実が行き渡り、ジェームズたちもホッとしていた矢先、リーマスが狼人間へと変化し、その混乱の最中にピーターには逃げられてしまった。
吸魂鬼に襲われそうになったり、証人がいないせいでシリウスが刑を執行されそうになったり――そんな状況を救ったのが、逆転時計で時を遡ったハリー、ハリエット、ハーマイオニーの三人だった。
その夜は、今までで一番長い夜だったに違いない。ピーターが逃げ出したことや、シリウスが再び逃亡生活に逆戻りになったことは悔やまれるが、ひとまずは平穏が戻った。
シリウスの冤罪は、少なくとも子供たちやリーマス、ダンブルドアの知るところとなった。その上、ハリーの守護霊が見事な牡鹿だったこともジェームズを上機嫌にさせた。
「繋がってるって感じがするな。ハリエットの守護霊は牝鹿かな?」
「だったら嬉しいわ」
「ってことは、家族揃って鹿一家か! 想像したら可愛いなあ」
「ハリエットの口癖が移っちゃった?」
リリーはクスクス笑う。ジェームズは顔を近づけて悪戯っぽく笑う。
「僕はリリーの牝鹿も嬉しかったけどね」
僕の「番」だって、皆に知らしめてるような気がして。
そう口にすると、リリーは小さく微笑んだ。てっきり笑い飛ばされるものと思っていたジェームズは毒気を抜かれたが、すぐにまた嬉しそうに口元を緩めて鏡に顔を戻し、そして――。
「だっ、だっ、だっ」
震える指で鏡を指差した。
「抱きついた――ハリエットが、マルフォイに――!」
「ハグくらい友達とするでしょう?」
鏡の中では、シリウスのことを黙ってくれていたドラコに感激し、ハリエットがギュッと抱きついている光景が映し出されていた。青白いからこそ、ドラコの顔が真っ赤に染まっているのはよく見えた。
「ハグなんて、そんな純粋なものじゃない! 少なくとも! マルフォイは! ハリエットに抱きつかれて顔を赤くしてる! 意識してる!」
「突然だったからびっくりしただけよ」
「これでマルフォイがハリエットのこと好きになったらどうするんだ! もし――もし、ハリエットもマルフォイのことを好きになったら、僕は、僕は――!」
その場に崩れ落ち、ジェームスはそれきり動かなくなった。娘がいつかは結婚し、家を出て行くのはほとんどの父親がいつかは経験することだろう。だが、そうなっていく様を目の前で見せられるというのも、また酷な話ではある。
特にこの、人一倍親馬鹿のジェームズに至っては。
苦笑してリリーはジェームズの頭を撫で、優しく鏡に視線を戻した。
子供たちと話せないのは辛い。だが、本来であれば、こういった場面は寮生活にと繰り出した下界の親たちには知ることのできない事情。だからこそ、子供たちの一挙一動をこうして眺めることができるのは、幸せなことでもあった――。