愛し子
― 01:先生は保護者 ―
スピナーズ・エンドと学校とを行き来するのは、もう二年以上とやって来たことだ。にもかかわらず未だにハリエットがビクビクしているのは、何も彼女が人よりも臆病というだけではない。
大きな製紙工場が立ち並ぶスピナーズ・エンド。煙突からは常にモワモワと灰色の煙が排出され、比較的大きな川は工場排水が流れ込むドブ川になってしまった。工場地域となってしまったことを厭ってか、住民は皆ジリジリと他地域へと住処を変え、今では残っているのは僅か数家族といったところか。人気がないおかげで地代はどんどん低落するばかりだが、周囲の地域からの評判だって悪いとあれば、いくら安かろうが誰も住もうとは思わない。おかげでスピナーズ・エンドの住民は、偏屈者や貧しい者たちばかりとなってしまった。そのせいか、住民のいなくなった家屋や稼働を止めた工場――これらは夜になると不気味なお化け屋敷と化した。吹きすさぶ夜風にガタガタと唸る窓ガラス、野生の犬や猫の喧嘩の声、板が打ち付けられたドアから今にも幽霊が飛び出してくるのではないか――そういったことが影響した結果だ。実際、肝試しと称してこの辺り一帯は肝試しスポットとしても有名だった。
ハリエットがスピナーズ・エンドに住んでいるのは、意地悪な男の子に暴露されて以降、すっかり学校中の知る所となってしまった。そのため、ハリエットは学校ではいつもからかわれている。
とはいえ、ハリエットとてスピナーズ・エンドは好きではなかった。お化け屋敷のような家々は歩くだけでも怖かったし、工場からの唸るような作業音も気味が悪い。この辺りに住む野良犬だって、徒党を組み、縄張りに入ってくるなとハリエットに吠え立てるどころか、時には追いかけ回すこともあるものだから、ハリエットはすっかり参っていた。
今だって、ゴミを漁るカラスを遠回りして避けたら野良犬の縄張りに足を踏み入れてしまい、追いかけ回されたと思ったら泥水に足を突っ込んでしまうという散々な目に遭ってしまった。
野良犬の追跡をようやく振り切ると、ハリエットはすっかりしょげ返って家に行き着いた。
ハリエットの家は川近くにあり、ドブ川からの臭気がひどく、窓を開けるのさえ躊躇うほどだ――洗濯物に移るのではないかとハリエットはいつも気にしている――。
相変わらずの酷い臭いに息を止めながらバッグから鍵を取り出すと、ギイッと内側から扉が開いた。と同時にぬうっと目の前に立ちはだかった黒い人物に、ハリエットは喉の奥を鳴らした。
だが、一瞬の驚きが去ると、ハリエットは悲鳴を引っ込めた。何てことない、ハリエットの育ての親がそこにいただけだったのだから。
「おかえりなさい、先生」
「何事もなかったか」
「はい」
ボサボサの髪にずぶ濡れの足を見てもセブルス・スネイプは何も言わなかった。そのままハリエットを通り過ぎて出て行く。
「もう行くんですか?」
「人使いの荒い校長にせっつかれたものでな」
ハリエットの育ての親、セブルス・スネイプは、ホグワーツという学校の教師である。科目は理科らしく、まるで地下の実験室で夜な夜な研究しているかのような見た目にピッタリの科目だ。
スネイプは、普通の人ならあまり着ないような黒いローブを着用し、その下に着る服も黒い格好が多かった。髪もねっとりとした黒髪で、大きな鉤鼻が特徴的だ。
なぜ彼が孤児のハリエットを引き取ってくれたのか、詳細についてはよく知らなかった。昔、母親が知り合いなのだとポツリと話してくれたことはあった。ハリエットは母親のことをもっと聞きたかったが、それ以降スネイプは口を閉ざしてしまい、どうしたって聞き出すことができなかったが。
スネイプがこの時間に帰ってくることは珍しい。大抵は、授業が終わった夜に帰って来、ハリエットと一緒に夕食を食べるのが常だが、何か忘れ物でもしてしまったのだろうか。
「行ってらっしゃい」
「ああ」
これといった会話もなくスネイプはスピナーズ・エンドを歩いて行く。これがいつもの光景だった。もっと彼と仲良くなりたいとは思う。だが、ハリエットはスネイプとの距離の詰め方を知らなかった。彼に嫌がられたくない、嫌われたくないと思うせいで、どうしても一歩踏み出せずにいるのだ。
――それに、この格好のことだって何も聞いてくれなかった――と、ハリエットは自分の姿を見下ろしてみて唖然とした。綺麗になっている。泥水に突っ込んだはずの足は綺麗に乾いているし、ボサボサだった髪もサラサラだ。あれだけ惨めな格好になってしまったのは、決して気のせいではないはずなのに、不思議なこともあるものだ――。
そう思いながら、ハリエットは静かに扉を閉めた。
*****
ハリエットはその日、フラフラした足取りでスピナーズ・エンドを歩いていた。本来であればまだ授業がある時間帯だが、途中で身体が怠くなってきてしまい、早退することになったのだ。保護者に連絡することを申し出られたが、歩くこともままならないほどの体調不良ではなかったし、今もなお授業をしているだろうスネイプに迷惑をかけることは躊躇われて、ハリエットは一人帰路についた。
だが、その選択は短絡的だったと言わざるをえなかった。歩けば歩くほど上がっていく熱にハリエットは今にも倒れてしまいそうだったし、絡んでこようとしていた野良犬も、あまりのハリエットの朦朧振りにむしろ遠慮する始末。
挙げ句の果てには、帰り着いた家で、暖炉の中に人の生首を見て、かつそれが流暢に喋っている幻覚を見てしまったくらいなので、いよいよハリエットは自分の体力が底をついてしまったと感じた。
「火……消さなきゃ。誰がつけたんだろう……」
ハリエットが覚えている限りで、この暖炉が使われているのを見たことがない。スネイプに一度聞いてたみたものの、滅多に使わないし、近づくなというお達しだった。それにしては、いつ見ても綺麗に手入れがされているようだったので、ハリエットは更に困惑するばかりだ。
見たところ、スネイプがいる気配もない。勝手に火がつく……ことはありえないので、気まぐれに火をつけた後、それを忘れて外出してしまったのだろうか。――それにしては、暖炉を使うような季節ではない気もするが。
とにかく、火事は困る。ハリエットは火かき棒で灰を突き、火を消そうとしたが――。
「止めろと言っているだろう!」
鼓膜が震えるほどの叫びに、ようやくハリエットは我に返った。そして自分の目がおかしくなってなどいなかったことを悟る。目の前には、確かに人の生首がある。
「一体セブルスはどういう教育をしているんだ! 暖炉の訪問客にこんな仕打ちをするなど……!」
炎が、人の生首の形をしている。ハリエットは口をあんぐり開けたまま、ぽてんと尻餅をついた。生首が、喋っている。
「謝罪もないのか? 全く、礼儀もなってないらしい――おい、セブルスはどこにいる?」
「…………」
「話すこともできないのか!」
生首に叱られ、ハリエットはおずおずと口を開いた。
「あ、の……先生は、今授業中だと思います」
「今日の午後は授業は入ってないと言っていたが?」
「な、何か至急の用事があったのかも……」
「私との約束よりも?」
ふんぞり返って聞く男に、ハリエットはどう返事をしたものかと戸惑ってしまった。そもそも、彼は誰だろう? スネイプの友人だろうか?
この家で客人をもてなしたことなど一度もない。そもそもスネイプは一度たりとも客人を招いたことはないし、ハリエットとて、今はもう友達もいないし、かつての友達も、不気味なスピナーズ・エンドを嫌がって来てくれたことはないのだ。
「あ、の……お茶でも飲みますか?」
ただ、そんなハリエットでももてなすということは知っていた。客人にはお茶を出して、場合によってはお茶菓子も出さなければと。
問題は、その客人が生首だということ。生首だって、ハリエットの突拍子もない提案を受けてポカンとしている。さっきまでの険しい表情はどこへやら。
妙な空気感が場を支配する中、ようやくこれを収束できる人物が帰ってきた。ガチャリと鍵を開けて入ってきた人物は、暖炉の生首、そしてハリエットの姿を認め、一瞬顰めっ面になった。
「ルシウス、すまない。生徒が問題を起こして遅れてしまいました」
スネイプはチラリとハリエットを視界に入れた。
「どうして家にいる? 学校はどうした」
「ごめんなさい……。風邪を引いちゃって、早退してきたの」
「風邪?」
スネイプはルシウスとハリエットとを見比べた。どちらを優先すべきか考えているようだ。ルシウスは構わずに口を開く。
「その小娘が、例のハリエット――」
「ルシウス、その話はまた後で」
言いかけたルシウスをスネイプは遮った。不満そうに彼の額に皺が寄るが、ルシウスは大人しく口を噤んだ。
「申し訳ないが、少し時間をもらっても? この子が風邪を引いたそうで、薬を飲ませたいんです」
「……構わない」
ルシウスが承諾したのを見て取ると、スネイプは引き出しをゴソゴソし始めた。だが、生憎といつもの所に風邪薬は常備されていなかった。
「ごめんなさい。帰りに買ってくれば良かった……」
買い物はハリエットの役目だ。しゅんとしていると、スネイプが「構わん」とため息交じりに答えた。
スネイプは次に棚から大鍋を取り出してきた。ぐつぐつと煮立った湯の中に怪しい薬草や粉末を入れ始めたので、ハリエットは驚いてポッカリ口を開いてしまった。彼は、一体何をしているのだろう?
そうして出来上がった液体をガラス瓶に詰め、彼はハリエットに差し出してきた。
「元気爆発薬だ。飲め」
「げ、元気……?」
笑って良いものか、ハリエットは迷いあぐねてしまった。スネイプがそういう冗談を言うとも思えないが、子供だましで言うのはもっとあり得ない。
ただ、あんまりスネイプが真剣なので、ハリエットは飲み干すしかなかった。だが、効果はすぐに現れた。腹の底がポカポカしてきたと思ったら、徐々に身体全体の体温も上がり、やがて耳から煙がポーッと出始めたのだ!
これにはハリエットも大慌てだ。
「せ、先生! 身体が熱いわ! 私、おかしくなっちゃったみたい!」
「それが普通だ」
「で、でも……このまま茹だって死んじゃうんじゃ?」
「そんなことはない」
ハリエットの心配も何のその、スネイプは何とも素っ気ない。だが、彼の言うことは事実だった。しばらくしたら体温も下がってきて、そしてその頃には、ハリエットの熱も引いてきたからだ。
まだ耳から煙は出ているものの、すっかり元気になったハリエットは不思議そうに大鍋を覗き込んだ。あんまり良い味とは言えなかった薬。だが、ここまで効果てきめんの薬を、今までなぜスネイプは作らず市販の風邪薬を使ってきていたのだろう?
ハリエットの対応が終わると、スネイプは早々にハリエットを自室に追いやった。客人の相手をするから、しばらく部屋で大人しくしていろとのことらしい。
ハリエットが自室に引っ込んだのを確認した後、ルシウスがまくし立てるようにして言った。
「彼女がハリエット・ポッターだろう? どうやら煙突飛行も元気爆発薬のことも知らないようだが、まさか自分をマグルだと思い込んでいるのか? スクイブというわけでもないんだろう?」
「彼女は魔女です」
スネイプは苦々しく答えた。
「ですが、まだそうとは伝えていません。時期尚早だと考えて」
「なぜ? いずれホグワーツに入学するのであれば、早いに越したことはない」
「――ダンブルドアの考えです」
「はっ!」
思わずといった様子で失笑するルシウス。
「それで、かの御仁はなんと?」
「ホグワーツ入学までは、己が魔女と知らない方が良い、と。ただ、我輩としてもそうするしかありませんでした。我輩がホグワーツにいる時間、家にずっといさせることもできないし、自分が魔女だと知った上でマグルの学校に通わせればいろいろと面倒だと」
「知り合いの魔法使いに預ければ良いだろう」
「誰に預けろと? よほど信頼の置ける魔法使いでなければハリエット・ポッターを任せることはできません。それに、死喰い人――我々に、狙われる要因でもある。その魔法使いにも迷惑がかかることでしょう」
「……ならば、私の所は?」
「――は?」
「時々であれば預かってやることも可能だ。君が挙げた難点も、私であれば何も問題はなかろう?」
「――正気ですか?」
「もちろん」
あのルシウス・マルフォイが――半分マグルの血の入った娘を預かるなどと。
だが、彼の立場を思えば、そういった申し出を行うのも自然なことかもしれなかった。二人の元主君――ヴォルデモートは失踪したとの噂だが、数年経った今でも復活の兆しはない。ならば、今後のことを考え、ハリー・ポッターの妹と懇意にしている方が利があると考えたのだろう。
スネイプとしても、受け入れたときのメリットや断ったときのデメリットはあれど、その逆はないと思った。何せ、ハリエット・ポッターに母親の守護がない今マルフォイ家の後ろ盾があることは僥倖だったし、そうでなくても、断ったときマルフォイ家との関係が悪くなることを思えば、わざわざそうする理由もない。
「ですが、ハリエットにはマグルの血が……」
ただ、唯一の懸念点は、ハリエットにマグルの血が半分流れているということ。ルシウスは純血主義だ。たとえメリットがあったとしても、その汚点を見過ごすような輩には到底思えない。
「君とてそうじゃないか」
ルシウスは苛立った声を上げた。
「だが、要は純血を重んじているかどうか。その一点に限る。ドラコと付き合わせれば、純血がいかほどに大切か理解することができるだろう」
「…………」
しばらく悩んだ後、スネイプは返事をした。今週末、早速ハリエットをそちらへ行かせると付け加えて。
ルシウスの生首が暖炉から消えてすぐ、もしかしたら早計だったのかも知れないとスネイプは思い始めた。
ハリエットは大人しい少女だ。自分が魔女だと知っても、魔法を使わずに今まで通り学校へ通うことだってできるはずだ。むしろ、彼女が素直な分、マルフォイ家から影響を受けないか、ただその一点が心配だった。
客人が去った後も、ハリエットの部屋からは何の音沙汰もない。スネイプの許可が得られるまでは部屋から出ないつもりだろう。律儀な娘だ。
スネイプとハリエット・ポッターとの奇妙な同居生活は、もう片手では数え切れないほどの年数続いている。だが、それでもスネイプは、おそらく彼女の友人ほどもハリエットのことを知らないだろう。会話の数も少なく、一緒にいる時間も少ないとなればそれも当然だし、スネイプは、できる限り彼女と過ごす時間を少なくしようという努力を敢えてしていた。彼女の母親と瓜二つの容姿は、スネイプの古傷を抉ると共に、耐えがたい悲しみへと不意に突き落としてくるからだ。
こんな自分に引き取られて不憫だとは思う。せめて彼女の父親の友ルーピンであったり、ウィーズリー家であったり、それこそ彼女の双子の兄ハリーが暮らすダーズリー家であったりという選択肢があったのに。
とはいえ、ルーピンも人狼なので大概だし、ウィーズリー家もかなりの貧乏一家なので満足な暮らしぶりは期待できず、ダーズリー家に至ってはハリーはひどい扱いを受けていると聞くので、どこも似たり寄ったりではある。ただ、自分の所よりマシだろうとは思った。話し相手にもならない無愛想な男の家なんて、きっと彼女も遠慮したかったに違いない。
――そんな風に思っての決断だったことも否めない。自分の所よりは、少なからず同い年の少年のいる家庭の方が、ハリエットにとっても良いかもしれないと。
「我輩は魔法使いで……君は魔女だ」
大人しくテーブルにつくハリエット・ポッターを前に、スネイプは端的に告げる。
何かが変わる予感がした。