■別視点
13:愛情満ち満ちて
深夜の医務室は、恐ろしいほどに静かだった。ハリーはじっと一点を見つめていたし、ロンもベッドに腰掛け、黙ったままだ。ハーマイオニーは祈るように両手を組み合わせ、ドラコは心ここにあらずといった様子でその場に立ち尽くしていた。唯一マダム・ポンフリーだけが、落ち着かない様子で戸棚から魔法薬を出したり戻したりしていた。
バシッと姿現しの音が響いたとき、ハリーは一番に立ち上がった。医務室の中央に現れたのはシリウスとクリーチャー、そして紛れもなくハリエットだった。シリウスの腕に抱かれているハリエットを見て、ハリーは一瞬足に力が入らなくなった。
「シリウス!」
「ハリエットは?」
ロンとハーマイオニーは彼に駆け寄り、しかしまたすぐに道を空けた。シリウスは依然として険しい表情で、ポンフリーが案内したベッドにハリエットを横たえた。
真っ白なシーツの上に仰向けになったハリエットは、本当にひどい有様だった。ポンフリーがシリウスのローブを脱がせれば、その惨状は眼前に広がる。
制服のボタンははじけ飛び、あちらこちらに吐瀉物が染みついていた。痛みを堪えるためだろう、腕には掻きむしった跡が、唇には、悲鳴を殺すため何度も噛みしめた痛々しい傷跡と乾いた血がこびりついていた。
ハリエットは、虚ろな瞳で歌を歌っていた。ハリー達三人にはすぐに何の歌か分かった。クリスマスが近くなると、シリウスが陽気に鼻歌で歌っていたクリスマス・ソングだ。
「ハリエット……僕だ、ハリーだ」
震える声で呼びかけても、ハリエットと目は合わない。
ハリーは手を伸ばし、妹の頬に触れた。無意識のうちに乾いた涙の跡をなぞったが、幾筋もある涙の跡は、そう簡単に拭えなかった。
「男性陣は一旦外へ。このままにしておけません。着替えさせます」
ポンフリーはカーテンの外へ男性を追い出した。ハーマイオニーは中に留まり、ポンフリーが忙しく動き回る中、ずっとハリエットの手を握っていた。
杖を一振りすると、ハリエットの身体は一瞬で綺麗になった。そして労るようにしてゆっくり清潔な患者服に着替えさせる。
ハリエットの身支度を終えると、ハリー達は再びカーテンの中に入る許可を得た。遠巻きにしていたドラコも思わずと数歩近づいたが、シリウスに激しく睨み付けられ、それ以上近づくことができなかった。
「一旦眠らせました。治療を受けたがらない様子なので……」
ドラコはカーテンの外で、ハリー達は中でポンフリーの説明を受けた。
「外傷はほとんどありませんでした。ただ……」
「磔の呪文」
言葉を濁すポンフリーの代わりに、シリウスが低い声で言った。
「その影響がどれほどのものか……」
ポンフリーは小さく頷いた。
「いくつか質問をしましたが、ずっと歌っているばかりで、何の受け答えもできませんでした。目の焦点も合ってない様子で、私達のことを認識すらできていないようです」
シリウスが悪態をついた。
最悪の事態は皆が想定していた。磔の呪文を受けた者の末路をドラコ以外の皆が知っていた。実の息子さえ分からないで、正気を失ったまま今もまだ入院している夫婦のことを――。
重苦しい雰囲気の最中、突然響き渡ったノックの音に、数人がビクリと肩を揺らした。ポンフリーが慎重に入出を許可すると、入ってきたのはルーナだった。ホウホウと騒がしいと思ったら、彼女は腕にウィルビーを抱えていた。
「ハリエットは戻ってきた? この子、急にバタバタ騒がしくなって。きっとハリエットが帰ってきたのが分かったんだ」
ルーナはズンズン進んだ。誰も彼女を止めようとはせず、むしろ道を空けた。眠っているハリエットを見て、ルーナは安心したように笑った。
「良い寝顔。きっと幸せな夢を見てるね」
「……だと良いけど」
「そうに決まってるよ。だって皆がいるモン」
ハリエットを目にし、ウィルビーが一層暴れた。ルーナが腕を広げると、ウィルビーは一目散にハリエットに羽ばたいた。
「ウィルビー、止めてくれ。今、ハリエットは――」
あまりの勢いに、またいつものように遠慮なく主を突くのではないかと思ったシリウスは声を上げた。腕を伸ばし、その進路を阻もうとしたが、ウィルビーはそれよりも早く――。
労るように、ハリエットの顔の近くに羽を休めた。まるで母猫が子猫に寄り添うかのように、その光景は暖かで。
ウィルビーが頬の近くで身じろぎすると、くすぐったさにハリエットは目を開けた。虚ろな視線は宙を漂った後――ウィルビーに落ち着いた。ウィルビーもまた、ハリエットに優しく頬ずりをする。ハリエットは嬉しそうに微笑み、その腕をウィルビーに伸ばした。皆があっと固まる。
「ハリエット……」
自分達の言葉には、動作には何の反応も示さないのに、ウィルビーには。
そこには、何の嫉妬もなかった。今にも千切れそうな希望の糸があるのみだ。
「マグル界には、アニマルセラピーっていう言葉があるの……」
「セラピー?」
ハーマイオニーの呟きにシリウスが反応する。
「動物との触れあいで、ストレスを軽減したり、精神を回復させたりすることができるっていう考え方よ。ハリエットは動物が好きだし、特にその効果も顕著かもしれない……」
ハーマイオニーの言葉に、一番に顔を上げたのはロンだ。
「僕、ピッグウィジョンを連れてくる!」
「私もクルックシャンクスを連れてくるわ!」
「ウィルビーだけじゃなくて、ヘドウィグもだ!」
各々ペットを連れてこようとする子供達に、シリウスだけが途方に暮れた。シリウスはペットを飼っていなかった。自分とてハリエットのために動きたい。必死に考えて――。
「クリーチャーだ! クリーチャーを連れてこよう!」
「シリウス、クリーチャーは動物じゃないわ」
ハーマイオニーの突っ込みが炸裂する。
「でも、どこか他に動物はないのか――」
皆は考える。ハリエットの心を癒やせるのならば、動物と名のつくものならどこからでも引っ張ってくる所存だ。ロンは手を打った。
「ネビルからトレバーを借りてこよう!」
「ロン! ハリエットが蛙が苦手だって忘れたの!?」
「ハリエットは猫が好きだった。猫……猫……」
ハリーはハッと顔を上げた。
「ミセス・ノリス!」
「ハリー! 無謀もほどほどにして!」
「ミネルバ……アニメーガス……」
「シリウス、あなた自分が何を言ってるか分かってるの?」
ハーマイオニーの突っ込みはもはや追いつかない。ひとまずは、各々が考えた動物を連れてこようと医務室を飛び出した。シリウスだけはすんでの所で引き返し、ルーナの肩に手を置く。
「ルーナ……お願いがある。しばらくここでハリエットのことを見ていてくれ。わたし達が戻ってくるまで、頼めるか?」
「良いよ」
シリウスは微笑み、チラリとカーテンの外へ目をやった。姿は見えないが、ドラコの気配は感じ取っていた。だが、彼には何も言わず医務室を飛び出した。自分自身がアニメーガスであるということをすっかり忘れ、ふくろう小屋から学校で飼育しているふくろうを強奪して来る気満々で。
慌ただしく四人が去って行ったので、すっかり医務室は静けさを取り戻していた。ポンフリーはハリエットの薬の準備をするために奥の部屋へ入り、ルーナは傍らの椅子に腰掛け足をブラブラさせた。ハリエットはまた眠りについたようだ。ウィルビーも羽を畳んで主と同じように眠り込んでいる。ふと気配を感じ、ルーナは立ち上がってカーテンを広げた。
「そんな所で何してるの?」
カーテンのすぐ外で、居住まいなく立ち尽くしているのはドラコ・マルフォイ。思わぬ所に人がいたことに驚き、ルーナは尋ねた。
「入ってこないの?」
「僕は……僕にその権利はないから」
「でも、心配なんでしょ?」
ドラコは黙り込む。ルーナはきょとんと首を傾げたまま、カーテンを閉めることはせず、そのまま椅子に腰掛けた。
「……ハリエット、無事で良かった」
ルーナがポツリと言った。無事じゃない、と叫び出しそうになるのをドラコは必死に堪えた。こんなのは八つ当たりに過ぎない。ハリエットが無事で済まなかったのは、ひとえに自分のせいに他ならないのに。
後悔してもし足りない。どうしてもっと早く助けを求めることをしなかったのか。ハリエットがこんな状態になる前に、彼女を助け出す良い方法があったのではないか。
シンと静まりかえった医務室は悪い想像をかき立てた。――もし、彼女がこのままだったら。このまま、ずっと正気を失ったままだったら――。
慌ただしくバタバタと駆けてくる音でドラコは意識を引き戻された。顔を上げれば、丁度医務室に飛び込んできたネビルと目が合う。肩で息をし、ドラコ、ルーナの順で視線を移すと、ネビルは最後にハリエットのベッドで目を留めた。
「ハリエットは……?」
「無事だよ」
ルーナが答えた。ドラコは徐に首を振る。
「……僕達のことは認識できないみたいだ」
「――それって」
「呼びかけに応えてくれない。……ずっと歌を歌っている」
「…………」
ネビルは、なかなかベッドに近づこうとしなかった。ルーナに促され、やがて意を決したようにハリエットに歩み寄る。
ハリエットの安らかな寝顔を目にしても、ネビルの緊張は解けない。むしろ、一層力を込めて唇を噛みしめた。
「……なんて言ったら良いのか分からない」
途方に暮れたようにネビルは言った。
「ハリエットが戻ってきてくれて嬉しい。……でも……」
ネビルはそれ以上言葉にしなかった。代わりに毛布をハリエットの肩まで引き上げた。
「きっと大丈夫だよね」
いつになく真剣なネビルに、ルーナが不安そうに声を上げた。だが、ネビルは困ったように笑うだけで何も言わない。遺された者としての経験故に、気休めは言えなかった。
「ハリエットが戻ってきたって本当?」
ネビルが開け放っていた扉からジニーが飛び込んできた。鬼気迫った表情と肩に乗せたピグミーパフは対照的で、ちぐはぐでもあったが、おそらくアニマルセラピーの話を聞いてすっ飛んできたのだろうことは想像に容易い。
「ああ、ハリエット……」
同じことを説明すれば、ジニーは泣きそうな表情でハリエットの手をギュッと握った。そしてハッとしたように、ピグミーパフを優しくハリエットの胸元に置いてみる。ピグミーパフの毛は柔らかくフワフワしているので、撫でるだけでもかなり心が安らかになるはずだ。
ハリエットの寝顔をもう一度確認してから、ジニーはネビルに向き直った。
「それで、どうしてネビルはトレバーを抱えてるの?」
腕からトレバーが飛び出さないようギュッと握り込みながらネビルはきょとんとする。
「ロンがハリエットの所に連れて行けって」
「何ですって? ハリエットは蛙が嫌いなのよ! アニマルセラピーと真逆じゃない!」
「ショック療法だって言ってたよ」
小声でやり取りをしていると、件のロンが戻ってきた。腕には暴れているピッグヴィジョンもいる。
「あ、ネビル。もうトレバーは試した?」
「ロン! ハリエットの状態が悪化したらどうするつもりよ!」
「だからショック療法なんだって! 飴と鞭だよ」
「今のハリエットに鞭は必要ないわ!」
兄弟喧嘩にまで発展しそうな気配が漂い始めたとき、ハリーとハーマイオニーが医務室に入ってきた。ハーマイオニーの賢いペット、クルックシャンクスは、スルリと飼い主の腕から飛び降り、ロンとジニーの間を駆け抜け、二人の毒気を抜き、そして最後にはハリエットの腕の中で丸まった。見事なまでの収拾力に、ハーマイオニーはほうと息を吐いた。
「クルックシャンクス、ずっとハリエットの側にいてあげてね。構われすぎるのは苦手だって分かってるけど、どうかハリエットのためと思って我慢してちょうだい」
なあ、と間延びした返事のような鳴き声を出すクルックシャンクス。
「ヘドウィグ、お前もだ」
ハリーが腕をちょっと上げると、承知したとばかりヘドウィグは真っ直ぐ飛び、ハリエットの頭のすぐ近くで羽を休めた。まるで母親のように優しい目でハリエットを見下ろすヘドウィグを見て、ハリーはホッと息を吐き出した。
「……あれ、そういえばシリウスは?」
「まだ戻ってきてないよ」
ルーナが答えた。
「そう。てっきりアニメーガスになってハリエットの傍にいてくれるものと思ってたけど――」
「そうか、その手があったな!」
本人の声が朗々と響き、皆が振り返った。そうして、彼がまるで仕留めた獲物のように腕に抱えるものを見てハリーは顔を引つらせる。
「シリウス、それ――」
「ニーズルだ。禁じられた森で捕まえてきた。本当はユニコーンを捕まえたかったんだが、さすがにわたしの前には現れてくれなかった。もっと時間があればできないこともないんだが」
悔しそうな顔でとんでもないことを言うシリウス。この場にマクゴナガルがいないことがせめてもの救いだった。
「返してきなさいな、シリウス。マクゴナガル先生に見られたら怒られるわよ」
「緊急事態だ。許してくれるさ」
ハリエットのベッドの上でニーズルを下ろせば、ニーズルは彼女の足元に尾をくるりと丸めて収まった。
「……起きたらハリエットもびっくりするだろうな」
ちょっとやりすぎどころの話ではなかった。もはや人間と動物、同じ数だけ医務室に溢れている。
「さあ、最後はお待ちかね、スナッフルだ! ハリエットはスナッフルが一番大好きだからな、これだけたくさんの動物が集まってもスナッフルの足元にも及ばない」
あまりにも自信過剰な言葉だが、誰も突っ込まなかった。ポンッと音を立てて、シリウスがいた場所にはやたらと大きい黒犬が現れた――これで人間と動物の数が逆転した――ちょうどその時、奥の部屋からマダム・ポンフリーが現れた。スナッフルはそんなこと気づきもせず、ハリエットのベッドにのしのしと近づき、あろうことかベッドの上にまでよじ登った。
これを見たポンフリーの堪忍袋の緒はもちろん音を立てて切れる。
「ここは動物園ではありません!」
深夜の医務室にポンフリーの金切り声が響き渡った。