■過去の旅

32:暴れ柳へ


 ハリエットがシリウスと共に談話室に入ってきたのを見て、ロンとハーマイオニーの顔は期待に輝いた。二言三言ハリエットと言葉を交わし、シリウスは寝室へ上がった。彼の姿が見えなくなってから、二人はハリエットを部屋の隅のソファへ連れて行った。

「シリウスと仲直りできたの?」
「仲直り……とまではいかないかも。でも、普通に話せたわ。これからも同じように話してくれるかは分からないけど……」
「大丈夫よ。シリウスは好き嫌いが激しいでしょう? 話しかけてくれたのなら脈はあるってことだわ」

 ロンとハーマイオニーは嬉しそうな顔をした。その気持ちを有り難く思いながらも、ハリエットは不安そうな表情を隠しきれない。

「ねえ、覚えてる? 叫びの屋敷で、シリウスがスネイプ先生にしたっていう悪戯」
「ああ……暴れ柳の通り方をスネイプに教えたって奴?」
「さっき、まさにその場面に遭遇したの」

 ハリエットは膝の上で手を握りしめた。

「本当に大丈夫かしら? お父さんはスネイプ先生を助けてくれるかしら」
「早々に未来は変わらないとは思うけど……一応警戒していた方が良いかもしれないわ」

 ハーマイオニーが同じ意見だったので、ハリエットはホッと胸を撫で下ろした。安堵と共に、ずっと考えていたことを口にする。

「……私達も、万が一のことを考えて暴れ柳に行った方が良いと思う?」
「ええっ、ルーピン先生のところに……?」

 恐る恐る聞き返したロンは、ちょっと嫌そうな雰囲気を出している。理性を失った人狼に襲いかかられたのだから、仕方のないことだが。ハリエットも、できることなら人狼状態のリーマスには会いたくないが、それでも心配なものは心配なのだ。

「それはどうかしら」

 ハーマイオニーは言い辛そうに首を傾げた。

「逆に、私達が足手まといになる可能性もあるのよ。ここは我慢して見守りましょう」
「きっとスネイプは来月行くよ。その時、ほんのちょっとジェームズ達の行動を見ていれば良い」
「そうね……」

 人狼のリーマスと一度対峙したことがあるというだけで、魔法の実力や頭の回転の速さ、アニメーガスになれる点、どれをとっても、ハリエット達は到底ジェームズには及ばない。むしろ、ハーマイオニーの言う通り、ジェームズの行動を制限する足手まといになりかねないのだ。

 ハリエットは、一旦はそれで納得しかけたが、やはりどうにも嫌な予感は拭いきれず、その日はハリー達の寝室で校庭を観察することにした。自分達の寝室だとどうにも窓の場所が悪いが、男子部屋は暴れ柳がよく見えることに気づいたのだ。

 もうそろそろ寝ようとしてる頃合いにハリエットが長時間居座る気満々の格好でやって来たので、ロンはちょっと面倒くさそうだ。

「スネイプは来月行くんじゃない? きっと準備してから行くつもりだよ」
「でも、今夜だったらどうするの? 確証はないのよ」

 せめて望遠鏡のようなものがあれば良いのだが、今手元にはなかったし、誰かから借りられる宛てもない。ハリエットは目を細めながらじっと黙って校庭を見つめ続けた。

 ロンはしばらくボードゲームの説明書きを読んでいたようだが、しばらくして寝息が上がった。ハリエットは毛布を被り直し、また気を取り直して校庭を見た。

 ここ最近はあまりよく眠れていなかったので、ただただ校庭を観察する行為は眠気を誘った。ちょっとうとうとしかけていたとき、不意に視界の隅で光が動いたような気がした。目を凝らして見ると、本当に小さな小さな灯りが見えた。きっと、誰かがここを通ると確信して注視していなければ気づけないほどの微かな光。

「ロン……」

 ハリエットには確信があった。その灯りの主はスネイプだと。

「ロン! 起きて! スネイプ先生が、今暴れ柳の方へ歩いていったわ!」

 眠たげな目を擦りながら、ロンは欠伸混じりに起き上がった。

「落ち着きなって。ジェームズが助けてくれるよ」

 その言葉を聞いた途端、ハリエットはパッと部屋を飛び出して階段を駆け下りた。慌ただしく降りてきたハリエットに部屋中の視線が集まるが――その中にジェームズの姿はない。

「――お父さんは、ハリーのお見舞いに行ってるのよ」

 自分を追ってきたロンに、ハリエットは囁くように言った。

「どうやってシリウスからスネイプ先生のことを聞くことができるの?」

 ロンの顔からサーッと血の気が引いていく。

 ハリーは、本来この時代にいなかった。ジェームズは談話室にいるはずだった。その時に、シリウスからスネイプにした悪戯のことを聞いていたのだとしたら?

 過去が、大きく変わっている。

「ロン、医務室に行って、お父さんを連れてきて! 私はスネイプ先生の所に行くわ」
「一人でリーマスの所に行くって!? 無茶だよ!」
「でも、このままじゃスネイプ先生が死んじゃうかもしれないわ!」

 焦るあまり、毛布を肩に引っかけたまま行こうとするハリエットに、ロンはやけくそになって叫んだ。

「ああ、もう! 分かったよ! 僕も行くよ!」
「ロン?」
「ハリエット一人だけ行かせられる訳ないだろ! ジェームズの所にはハーマイオニーに行ってもらえば良い!」
「ありがとう……本当に心強い」

 ハリエットはちょっと冷静になって微笑んだ。それから、少し落ち着いた者同士、寝室へ行って冷静にハーマイオニーに事の次第を説明した。これといった計画もなしに暴れ柳に向かうと宣言したハリエットにハーマイオニーは渋い顔をしたが、かといって良い案があるわけでもない。結局は認めざるを得なかった。

「いい? 危険があったら迷わず逃げること! 途中でマクゴナガ先生にも助けを求めてみるわ」
「ありがとう。よろしくね」
「くれぐれも気をつけるのよ!」

 ハーマイオニーとは二階で別れ、ハリエットとロンはそのまま玄関ホールまで階段を駆け下りた。幸いなことに、フィルチとミセス・ノリスには出会わなかった。

 杖先に灯りを点し、身も凍るような寒さの中、真っ直ぐ暴れ柳へ向かう。ロンはかじかむ手を握りしめながら、ため息交じりに言った。

「スネイプのせいで死ぬことになったらフレッドとジョージに仰天されるよ……」
「その時は立派な勇姿だったって言ってあげるわ」

 暴れ柳に到着すると、この寒さをものともせず、激しく枝を振り回している光景をまざまざと見せつけられた。ハリエットは冷静に浮遊術で枝を大木の幹のコブに当て、大人しくさせた。

「行きましょう」
「……あんまり気が進まないけどね」

 ハリエットを先頭に、二人は身を屈めながら土の傾斜を滑り降りた。冷たい風に晒されることはなくなったが、土のトンネルはそれでも肌寒かった。

 杖灯りをトンネルの先の方へ向けるが、誰の姿も見当たらない。足音もだ。ロンの唾を飲み込む音が鮮明に聞こえるほどだった。ハリエットは息を吸い込み、声を遠くへ響かせた。

「スネイプ……?」
「リーマスに聞こえたらどうするんだよ!」
「そうしないとスネイプ先生にも聞こえないじゃない」

 人の気配がない以上、いつまでも入り口でもたもたしている暇は無い。ハリエットは覚悟を決めてトンネルの中を進み始めた。一瞬遅れてロンもその後に続く。

「死んじゃいそうだ……死んだらスネイプを恨むよ」
「スネイプ先生は悪くないわ」
「好奇心は猫をも殺すって言葉知ってるかい?」
「こんな時に洒落にならないこと言うのは止めて……」

 ロンは終始落ち着かない様子で口を閉じることはなかったが、ハリエットはむしろそれが有り難かった。くだらないことでも、何か話をしていないと恐怖で押しつぶされそうだった。

 特に、遠くの方で遠吠えのようなものが聞こえたときは、思わずハリエットとロンは身を寄せた。

「今の、聞こえた?」
「ルーピン先生だわ……」
「殺気立ってるよ……。僕らの匂いを嗅ぎつけたんじゃない?」
「走りましょう」

 相反することを言うハリエットに、ロンは目を剥いた。

「走るだって!? 僕達の寿命を早めたいの!?」
「スネイプ先生の匂いを嗅ぎつけたのよ。早く行かないと……」

 ハリエットが走り出せば、ロンも渋々ついてきた。長いトンネルの存在は正直有り難く、そのまま屋敷にたどり着く前にスネイプと合流できればと祈ったが、ハリエットのそんな期待を裏切るように、トンネルはやがて上り坂になった。その頂上は叫びの屋敷に続いていることは、経験上分かりきっていた。

「もう屋敷についちゃったよ……。本当に行くの?」
「スネイプ先生は、きっともう中まで入ってるわ」

 ハリエットとて怖い。だが、必死にそれを我慢しながら、穴を潜って屋敷に身を滑り込ませた。軽く中を見渡すが、スネイプの姿はない。

「す、す、スネイプ……?」

 ハリエットが恐る恐る呼びかけると、突然上の階からドシンという音がした。ガリガリと何かを削るような音もする。ついで、狼人間の遠吠えも。

 もうハリエットとロンの恐怖は頂点だ。

 どちらからともなく手を握っていたが、そのことに両者気づいてもいなかった。ドシン、ドシンという立て続けに響く不穏な音に、身体を震わせる。

「リーマスが扉を蹴破ろうとしてる……」
「早くスネイプ先生を探さなくちゃ!」

 右側の扉からそうっと出て、ゆっくりゆっくりとホールまで出た。その時またドシンと音が聞こえ、ハリエット達は慌てて真向かいにあった部屋に飛び込んだ。

「インカーセラス!」

 突然どこからともなくロープが現れ、ハリエットとロンは二人まとめて縛り上げられた。何が起こったか分からず、ハリエットは目を白黒させた。

「お前達……どうしてこんな所に?」

 暗がりから現れたのはスネイプだった。怖いやら嬉しいやらで、ハリエットはもう泣きそうだった。

「スネイプ! 良かった! どこも怪我してない?」

 ハリエットは返答を求めていなかった。目でスネイプの無事を確認すると、そのまま立ち上がろうとして失敗した。――動転のあまり、自分が今縛られていることを忘れてしまっていた。

「早くここから逃げましょう!」
「早くこれを解いてくれよ!」

 必死に言うハリエットとロンに、スネイプは困惑しながらも呪文を解いた。

「逃げる? ポッター達が結託して僕を怖がらせようとしてるだけだ。僕は逃げるわけにはいかない」
「何言ってるんだ!?」

 ロンは真っ赤な顔で上とスネイプとを交互に見た。

「上には――アー――とにかく、刺激しちゃいけない奴がいるんだよ! 早く逃げるんだ!」
「臆病者め。行くなら行け。僕は逃げない」
「言うことを聞けって!」

 ロンはスネイプの腕をがっしり掴んで引っ張ろうとする。ハリエットもそれを手伝ったが、杖を突きつけられる。

「だから、怖いならもう行け! 僕のことは構うな」
「僕だって構いたくないよ! でも、死んじゃうのは嫌だから――」

 ロンの言葉は、最後まで続かなかった。今までで一番大きな物音がしたかと思ったら、歓喜に打ち震えているようにも聞こえる遠吠えが聞こえてきたからだ。ハリエットはサーッと血の気を失った。

「来る……」
「ポッターだ」
「それよりももっと恐ろしいものだよ……」

 荒い息づかいと、かぎ爪が板張りの床を駆ける音――ドドドと滑り落ちるようにしてあっという間に階段下まで降りてきた音が聞こえてときには身が強ばった。扉を閉めきってはいるが、五分と持たないだろう。

「どうする? どうやってここから逃げる?」
「分からない……。窓からは逃げられないわ。もしルーピン先――あの、人に見られたら……」

 唸り声と共に、狼人間がガリガリと扉を引っ掻く音が響く。スネイプはごくりと生唾を飲んだ。

「ポッター……無駄だ。早く正体を表せ」
「だから、違うんだって! あれは……あれは、狼人間だよ」

 ハッとしてハリエットはロンを見た。だが、止めるようなことはしない。いずれにせよ、スネイプは知ることになる事実だ。

「どうしてこんな屋敷に狼人間が?」
「リーマスだよ。リーマスは狼人間なんだ」
「何だと? どうして狼人間がホグワーツに入学なんてできたんだ!」

 スネイプの声と共に、またしてもドシンと大きく扉が揺れる。三人の注意は扉に向けられた。

「もう駄目だ……扉が破られる……」
「一斉に魔法で攻撃しましょう」

 ハリエットは震えながら言った。

「スネイプ、一緒に手伝って。私達、まだ大した呪文が分からなくて――」

 扉が吹き飛んだのは一瞬の出来事だった。狼人間が飛び出してきたのも、瞬きをしたほんの僅かのうちの出来事で、いつの間にか目の前に強靱な牙が向かってきても、ハリエットは情けなくも何もすることができなかった。

「セクタムセンプラ!」

 狼人間は唸り声を上げて痛みに呻いた。スネイプの呪文により、身体のあちこちに切り傷ができたのだ。派手に血が噴出したが、致命傷ではない。ロンがすかさず呪文で狼人間を縛り上げた。

「走れ!」

 腰が抜けかけたハリエットの手を引いて、スネイプが走り出した。そのままホールへ出て、ロンはつい後ろを振り返ったが、その瞬間ロープを切り刻む狼人間の姿を目にし、顔を引つらせて前を向いた。

 ハリエットとスネイプは最初の部屋に駆け込み、そのすぐ後にロンも飛び込んだ。だが、扉を閉めきる前に、狼人間の前足が飛び出してきて防がれる。ロンは呻きながらジリジリ後ずさった。

「ウィンガーディアム レヴィオーサ!」

 ハリエットは、咄嗟に近くのソファを浮かせ、扉に向かって投げつけた。この衝撃で扉を閉めることができればという期待もあったが、狼人間は俊敏な動きで部屋の中に滑り込み、ソファを避けた。

「ペトリフィカス トタルス!」

 ロンの叫びとも言える呪文は、見事狼人間に直撃した。だが、僅かに動きが鈍ったように見えるだけで、あまり効いていなかった。狼人間は鼻を動かしながらぐるりと獲物・・を検分した。彼が狙いを定めたのはスネイプだった。

「セクタムセンプラ!」

 飛びかかってきた狼人間にスネイプは躊躇うことなく閃光を放った。またしても狼人間には複数の切り傷ができたが、今度はむしろ怒りで勢いが増長されたように見えた。ハリエットとロンは杖を向けたが、間に合わない――。

「インペディメンタ!」

 朗々とした声と共に閃光が迸った。直撃した狼人間は後ろに吹き飛んだ。

「ジェームズ!」

 ローブの紅を翻し、立ちはだかる父の姿にどれほど安堵の思いを抱いたことか。

 だが、ホッとしたのも束の間、狼人間は素早い動きでもう起き上がっていた。ジェームズは続いて狼人間に目隠しと足縛りの呪いをかけるが、拘束が解かれるのも時間の問題だろう。

「早く行くんだ!」

 ハリエットは迷った。どんなに安心感があったとしても、狼人間の前に一人置いて行くわけにはできない――だが、ジェームズはアニメーガスだ。それが一縷の望みだった。

 ハリエットはスネイプの手を引いて穴に飛び込んだ。下り坂なのを忘れていたせいで、勢い余ってゴロゴロ傾斜を下り落ちる。反射的に穴の方を見上げれば、すぐにロンも転がり落ちてきてハリエットとスネイプの上にのしかかってきた。

「ごめん!」

 ロンの声は聞こえていなかった。ハリエットは目を凝らしながら小さな穴を睨み付ける。ジェームズの呪文を叫ぶ声は聞こえなくなった。代わりに、ハリエットはその小さな穴の隙間から、二本の見事な角を携えた牡鹿の姿を見た気がした。