■呪いの子 小話
04:君の名が繋ぐ
モルダウ様
リクエスト
久しぶりに大泣きする孫息子、レギュラスを前にシリウスは困り果てていた。
「ごっ、ごめんなさあぁぁい!」
「レグ……だから気にしなくていいと……」
「でもっ、でも! その鏡には思い出がたくさんあるって言ってた! お爺ちゃんが使ってて、お母さんもハリー伯父さんも使ってて、それなのに僕が壊しちゃった!」
「ちょっと当たりどころが悪かっただけさ。なに、気にするな。すぐに直す」
「でもっ――」
「お爺ちゃんの腕が信用ならないのか?」
茶目っ気たっぷりに言うと、レギュラスの涙はようやく落ち着いてきた。妹によしよしと背中を撫でられていることにようやく気づき、恥ずかしそうに俯く。
「本当に直る?」
「もちろんだとも。だから泣き止むんだ、いいな? 目も鼻も真っ赤なレグを見たら、お母さん、きっとびっくりするぞ」
「うん……」
グスグス鼻をすすりながら、ようやくレギュラスは落ち着いた。シリウスはクリーチャーに、孫二人におやつを食べさせるように言うと、自分は鏡を直してくるからと自室へ引っ込んだ。
事の起こりは、そう、孫達がおやつを食べている時にシリウスが悪戯を仕掛けた所から始まった。以前、外国の魔法界へ行ったときに、露店で面白そうな魔法薬を買ったのだ。なんでも、一滴垂らせばまるで生き物のように動き出す魔法薬だという。
これはレギュラス達も喜ぶぞ、と嬉々として試飲し、身体に何の悪影響もないことを確かめると、今日の二人のおやつに垂らしてみたのだ。
結果は大成功で、動物型クッキーが動き出したアリエスは大喜びだった。だが、何ともまあ、昔からレギュラスは運が悪いというか間が悪いというか――彼が食べようとしていたクッキーはヒッポグリフ型で、敬意がなってないと威嚇され、驚いたレギュラスはお皿をひっくり返しながら転がり、キャビネットにぶつかったと思ったらそこに置いてあった両面鏡がゴトンと落ちてしまったのだ。
――いや、どう考えても悪いのはわたしじゃないか。
はたとそのことに思い至り、シリウスは頭を抱えた。情けないことに、この事情が明らかになれば怒られるのはシリウスの方だ。早いところ両面鏡を直さなければ、とシリウスは真剣な表情で椅子に腰を下ろした。
「ジェームズ、アルバス? リリーもそこにいるか?」
対となる鏡は、ポッター家にある。試しに呼びかけてみても、やはり応答はない。出払っているからという理由ではないだろう。そもそも魔法の気配も感じられない。奇跡的に割れてこそいないものの、当たりどころが悪く、両面鏡としての機能が失わなれてしまったのかもしれない。
随分古いものだから、魔法の効力が切れてしまったことも考えられる。古い書物を漁り、どうにか直さなければレギュラスはまた泣いてしまうだろうし、そうなるとハリエットに怒られるのは自分だし――。
「ジェームズ? いないか?」
駄目元でいろいろな呪文を試しながら、何度か孫の名を呼んでみる。
「ジェームズ、いたら返事を――」
「ジェームズ!」
誰かと声が被った。アルバスの声でも、ハリーの声でもなく、それでいて、どこか聞き覚えのある声――。
「ジェームズ?」
訝しげに鏡の中に姿を現したのは――学生時代の、自分だった。
*****
「は――?」
困惑しているのは相手も同じなようで、しかし我に返るのは向こうの方が早かった。
「お前、誰だよ。ジェームズは?」
「ジェー……ムズ」
思わず口籠ってしまった。久方ぶりの馴染みではない。何せ、シリウスにはジェームズと言う名の孫息子がいるのだから、もう何度と呼んだ名前だ。だが、これは違う。もっと懐かしい。シリウスの記憶を容易に掘り起こす名だ。
「ホグワーツの新しい教師か? それにしちゃ、格好がラフ過ぎる」
「君は?」
返ってくる答えは分かっていたはずだった。だが、聞かずにはいられない。
「こっちが先に聞いたんだ。誰だ?」
生意気な口ぶり。はてさて、自分はこんなに年上を敬えなかっただろうかとシリウスは笑った。
「――シリウス・ブラックだ」
「……はあ? ジョークも程々にしてくれ。俺を馬鹿にしてるのか?」
「君は?」
「……シリウス・ブラック。分かって言ってるんだろう?」
鏡の中のシリウスは随分と小生意気だ。シリウスは余裕たっぷりに微笑む。案外、他者が動揺しているのを見ると、なるほど、自分は冷静でいられるようだ。
「シリウス、驚かずに聞いて欲しい」
「気安く呼ぶなよ」
「じゃあブラックの方がお好みか?」
わざともっと嫌な方の名前を呼べば、面白いくらいにブラックは顔を顰める。――こんなに分かりやすい奴だっただろうか?
「驚かずに聞いてほしい。わたしは未来のお前だ」
「何を馬鹿なことを……」
「それ以外にどう説明がつく? ジェームズ――いや、プロングズが持っているはずの両面鏡に知らない男が映ったなんて」
「傍受呪文でも掛けてるんだろう」
「じゃあ反対呪文を使ってみればいい」
言われるがままの通りのことをするのは癪に障るのか、しばしブラックは動かなかったが、やがてため息をつくと、一通りの呪文を試してみた。だが、一向に消えない自称未来のシリウス――。
「ブラッーク! どこへ行った! 鞭打ちの刑だ! ポッターもそこにいるんだろう! 校長に言って今度こそ退学にしてやる!」
そんな中、聞こえてきたのはフィルチの声だった。あからさまにブラックはビクつく。
「フィルチに追われてるのか?」
ブラックは頷かなかったが、シリウスは気にも留めなかった。
「ちょっと待ってくれ、今は……五年生だな? それに、季節は秋、クィディッチシーズン前、更に言えばまだハロウィーンも来てない。フィルチのここまでの怒りよう。となると、没収棚を爆破した時のことか?」
「――どうしてそんなことが分かる」
「年をとると昔のことほどよく思い出せるのさ。家出のためにちょっとだけ、本当に少しだけ身だしなみを良くして油断させていた時期。夏休み明けの授業で植え替えを行うマンドレイク用の鉢植えがいくつもある。掲示板のクィディッチ・チーム勧誘のお知らせ。その頃にここまでフィルチを怒らせる悪戯は確か没収棚爆破だったはずだ」
ちょっと得意げに解説する間に、フィルチの声はどんどん近づいていく。シリウスは早口になった。
「それで、君は今そこの材料棚からブボチューバーの膿で足止めを考えている。違うか?」
「…………」
「だが、それは止めておいた方が良い。自分も痛い目を見るからな。そんなことをするくらいなら、そこのキャビネットに隠れてやり過ごすほうがいい。しばらくしたらジェームズが外で爆発を起こしてフィルチを引き付けてくれる」
ブラックはしばらく迷っていたようだが、やがて膿が入ったガラス瓶を手に持ち、キャビネットに隠れた。数秒と経たずにフィルチが現れ、ものすごい形相で教室を見分して回った。キャビネットの扉に手を掛けたところで、外でバチバチと花火のような音が響き、フィルチの顔が更に真っ赤になった。
「そこか!!」
唸るように叫び、フィルチは慌ただしく出て行った。しばらくして完全に気配がなくなったところでそろりとブラックがキャビネットから出てくる。
「――これくらいで」
信じると思うなよ、と続くはずだったのだろう。だが、ブラックは顔を歪めてガラス瓶を落とした。膿が床に飛び散る。
「だから言っただろう? わたしも昔瓶にヒビが入ってたのを気づかずに触って痛い目に遭った。結局フィルチには捕まって罰則を受けるし散々だった」
「じゃあなぜ言わなかった?」
幸いここは治療に使える薬草がたんまりあった。ブラックは顔を顰めたまま問い詰める。
「君はわたしなんだから、言っても聞かないというのはよく分かってる。大人しくキャビネットに隠れたのが良い方だ。これでもまだ信じてくれないというのなら、もっとたくさん――それこそ君しか知らないようなことを言ったっていい。部屋の床下にマグルのバイク雑誌を隠していること、ブラック邸への置土産を計画してること、レギュラスが――」
シリウスの声が途切れた。訝しげにブラックはシリウスを見たが、その時には彼はもういつも通りだった。
「レギュラスが大事にしているスクラップブックを拝借して悪戯したこと」
ここまで言われてしまえば、ブラックも信用するほかなかった。観念したようにクシャクシャ頭を掻く。
「そういえばそんなこともあったな。あいつ、ヴォルデモートなんかを崇拝してるから」
「……そうだな」
ようやく純血主義とおさらばできるって考えたら清々するよ。
そんなことを口にするブラックには気づくこともできなかっただろう。シリウスがどれだけ弟のことを話したかったか。彼の身に起こる未来を。悲しい選択を。
黙りこくるシリウスを前に、ブラックは改めてしげしげと彼を見た。
「……随分と老けたな」
「開口一番それか」
シリウスは苦笑する。確かに、若干十五歳かそこらの少年からしてみれば、シリウスは初老と言っても過言ではない。ハンサムだと自負している分、その老化は目に見えて衝撃でもあるだろう。
「今いるのはブラック邸だろう? ……家出は失敗したのか?」
今までの勢いはどうしたことやら、ブラックは小さな声で尋ねた。答えていいものかとシリウスは一瞬考えたが、これくらいなら良いだろうとすぐに答えた。
「成功するよ」
「じゃあなんでそんな所にいるんだよ」
「それは……まあ、住んでるからだ」
「住んでる? マグル界で一人暮らしっていう夢はどうなったんだよ」
「一度は叶ったさ。でも、その……いろいろと事情があったというか」
一緒に住みたい家族ができたというか、とごにょごにょ言うシリウスに、ブラックはポカンと口を開けた。
「ま、ま、まさか、結婚してるのか!?」
鏡越しではあるが、ブラックはずいと身を乗り出す。思わずシリウスが仰け反ったほどだ。
「結婚なんてあり得ないと思ってたのに! 相手は誰だよ! もう俺は会ってるのか!?」
「いや――ちょっと落ち着け――」
「お爺ちゃん……?」
幼い声は、こちら側からだ。ハッとしてシリウスが振り返った先には、扉が少し開いていて、そこからレギュラス、そしてアリエスがちょこんと顔を覗かせていた。
ブラックは余計に固まった。お爺ちゃん……?
「ど、どうしたんだ、レグ、アリエス」
「鏡、どうなったかなって……直った?」
「ああ、まあ、直ったというか、ややこしくなったというか」
「もう直らないの?」
「直るさ! お爺ちゃんに任せて、レグもアリエスも少し向こうに行ってなさい」
「おじ、おじ、お爺ちゃん……?」
ブラックは若干放心状態だ。信じられない者を見る目でシリウスを見ている。
「確かに年齢的には分からなくもないけど、孫までいるのか……!?」
「ちょっと君は誤解している」
一から説明しようと思ったのも束の間、ブラックは人の話を聞いていなかった。更に身を乗り出して声を張り上げる。
「おいで! レグ――と、アリエス、だったか? 顔を見せてくれ!」
「だあれ?」
「お爺ちゃんの知り合い……だが、いや、お前たちは向こうに行ってなさい」
「いいや、こっちにおいで! 俺と話をしよう!」
シリウスには駄目だと言われているが、この声は紛れもなく両面鏡の中から聞こえている。もしかして鏡が直ったのでは、という興奮が沸き立ち、レギュラスとアリエスは嬉しそうに駆け寄って鏡を覗き込んだ。
そうしてあどけない顔を二つ見たブラックは目を丸くし、叫んだ。
「ルシウス・マルフォイ!?」
「いや――」
「それに――エバンズ!? その子はエバンズにそっくりじゃないか!」
更にややこしくなってしまった、とシリウスは頭を抱えた。どうして名付け子も娘婿も孫も揃って両親にそっくりなんだ……。遺伝子が強すぎる!
「この人はお爺ちゃんの知り合い?」
こてんと首を傾げるレギュラスとアリエス。何と答えたものかシリウスは迷いあぐねてしまった。
「うん……まあそんなものだ。お爺ちゃんは少しこの人と話してるから、そこで遊んでなさい」
シリウスは呼び寄せ呪文で人形セットを出してくると、ベッドの上に置いた。レギュラスもアリエスも大人しくベッドの上に上がり込む。
「ど、どういうことだ――マルフォイとエバンズにそっくりな孫達……」
ブラックは、あまりの衝撃に頭のネジが吹っ飛んでしまったようだ。あまりに奇天烈なことを考え始めた。
「俺とエバンズが結婚して、その子供がマルフォイの子供と結婚した……?」
微妙に惜しい。
奇跡的に四分の三合ってる。だが、一番あり得ない組み合わせが混じっている。
「そんなことになってたらジェームズが黙ってないだろう」
「それは俺も思った。でもそれ以外に考えつかない」
面白いくらいに表情を変えて考え込むブラックに、シリウスは大きなため息を一つついた。
「――この子達はわたしの血縁ではない。だが、一緒に暮らしてる」
「誰の子供だ? 俺が何の関係もない子供を引き取るわけがないし――ジェームズ、いや、リーマスの子供か?」
リーマスの持病を思えば、子供を育てられないと苦渋の判断をし、身軽な――結婚をしていないシリウスに託すことも考えられると思ってのことだろう。だが、違う、違うのだ。
「……ジェームズの孫だ」
ついシリウスはそう口走っていた。ブラックは更にまくし立てる。
「なんでジェームズの孫と俺が暮らしてるんだ? ジェームズはどこに行った?」
ジェームズは死んだ――どうしても、シリウスはその一言だけは言えなかった。俯き、掠れた声で言う。
「外国に行ったんだ。仕事の関係でね」
「ジェームズが外国? 似合わないな――いや、待てよ。もしかしてクィディッチの選手か? 試合に行ってるんだろう」
「ああ、選手……そうだな」
なってたろうさ、生きていたら。それだけの実力はあったし、あいつは飛ぶのが好きで、目立つのも好きだった。選手が天職になっていたはずだ――。
シリウスは固く両手を握りしめた。
「でも、だからってどうしてジェームズの孫と住んでるんだ? 引き取ったのか?」
「いや。その――なんというか、同居だ」
「――誰と?」
「ジェームズの娘家族と」
ブラックはますます変な顔になった。
「いくら友達とは言え、どうして俺がジェームズの娘家族と同居なんてことになったんだ? ジェームズが黙ってないだろう」
「ジェームズがそう望んだんだ」
シリウスは苦しくなってきた。言い訳を考えることではない。まるで、この世にまだジェームズが生きている――その前提で話していること自体が苦しくて堪らない。
「わたしはハリエットの――ああ、いや、ジェームズの子供たちの後見人になったんだ。名付け親でもあるし」
「子供たち?」
ブラックが鋭く聞き返した。
「ジェームズなら、一人目は俺に後見人を頼むとして、二人目はきっとリーマスかピーターに頼むだろう。それなら――双子だったのか?」
「参ったな……」
学生時代の自分をどうやら少し侮っていたらしい。どんどん身ぐるみを剥がされていく気持ちになった。
「まあ、経緯は何となく分かった。で、一つ聞きたいが、本当にジェームズの娘がマルフォイの血縁と結婚したのか?」
ブラックとしては、そこが何よりも気になるらしい。そしてすぐハッとした顔になる。
「もしかして――それでジェームズと娘が絶縁したのか? ジェームズは結婚に反対で、それでも娘が押し切ったから縁を切って――」
「違う違う」
あまりにもドラマチックだ。だが違う。どんどん深みにはまっていく感覚を味わいながら、シリウスは言葉を紡ぐ。
「だから……ジェームズは本当に仕事の関係で外国に行ったんだ。結婚にも――もちろん、最初は反対しただろう。でも、最終的には許したよ。きっと、そうだっただろう」
ジェームズはスリザリンが嫌いだ。自分と同じくらい。
だが、彼の幸福もまた、娘の幸せと同義だったに違いない。スリザリンだったから、死喰い人だったから、そういうことを踏まえた上でも、娘の幸せを考え、最終的には結婚を許可したに違いない。
だが、ブラックにはまだそれが分からないらしい。難しい顔でまくし立てる。
「それでもやっぱりマルフォイの息子なんかと結婚を許可した理由が分からないな……。奇跡的に、その息子はグリフィンドールに入って父親と絶縁したのか? 性格はジェームズ似なんだろうな?」
「いや、全てが違う。あまり――そう、わたしが初めて会ったときは、お世辞にも印象が良かったとは言えなかった。むしろ、わたしは嫌いだった。スリザリンだったし、ハリーに――もう一人の名付け子だ――喧嘩を売ってばかりだったそうだし、高慢で、意地悪で、何かとやりたい放題という話をよく聞いた」
「それがどうして!」
「ドラコは変わったんだ」
言葉を濁しつつも、シリウスは観念したように話し出した。
「ハリエットを守るために強くなったし、いつも傍にいてくれた。そりゃあ、わたしも結婚の話を聞かされたときはいろいろ言ったさ。あいつの傷口を抉るようなことを……平気で。スリザリンなんかにハリエットを盗られて堪るものかと」
一度口火を切れば後はもう止まらなかった。
「でもそれは全て言い訳だった。スリザリンだからあいつが難いわけではなかった。ハリエットがわたしのことを見向きもしなくなるんじゃないかと思って怖かったんだ。ドラコは我慢強く、人を思いやれるようにもなって、何より、心からハリエットを愛していた。だから結婚を許したんだ。そうしたら、同居を持ちかけてきたのはあいつからだと言うし、もう、大人なのはどっちだと恥ずかしく思ったものさ……」
照れくさそうに話すシリウスを、ブラックは唖然として見つめていた。
「お前……ジェームズの娘にどれだけ愛情を注いでるんだよ。いくら親友の娘だからって……」
「わたしのことをもう一人の父親だと思ってくれているんだから、愛さないわけがない」
それでもブラックは不満そうだ。
まだ名付け親にも後見人にもなったことのない彼には分からないのだろう。この子達のためなら命だって捨てられる――そんな風に思える感情を。
「気に食わないところもたくさんあるだろう」
いずれ彼も自分と同じ道を通るだろう。だが、その時に、ほんの少しだけ今日のことを思い出してくれれば。
「わたしは、過去や、しでかしたことや、出自を言い訳に、彼の変化を見ない振りしていた。いつまでも子供のように彼の欠点を攻撃するような真似をして、ハリエットにも呆れられたものだ。君にはそうなって欲しくないが、まあ――」
「無理だろうな」
同時にブラックも言った。長々と説明されても尚納得できないようすだ。
「まあ、とにかく分かったよ。マルフォイの息子に気をつけてろってことだろ? そのハリエットがマルフォイに興味を持たないようにすればいい。簡単だよ」
「そう言うと思った……」
シリウスは苦笑しながら顔を手で覆う。その簡単なことができなかったから難しいのに――。
「シリウス!」
どこからか、声が響いてきた。ブラックは至極当然のように「ああ、ようやく来た」と呟き、対するシリウスは目を見開いて固まった。
「パッドフットくーん! どこに行ったんだ?」
「プロングズ、ここだよ!」
ブラックが声を張り上げた。そう間を置かずにガラガラと扉の開く音がする。徐々に、足音が近づいてくる。
シリウスは目頭が熱くなるのを感じた。そう、この声だ。ジェームズはこんな声だった。
ハリーは確かにジェームズの生き写しだった。だが、声もそうかと言われれば、首を傾げる。ジェームズの方が若干低かったような気もしたのだ。だが、周りはそっくりだと言うし、リーマスだって、声もジェームズだ、と笑っていたから、そうだったかなと納得しかけていたのに――。
だが、本物を聞いてそれは違うと強く思った。ジェームズだ。この声がジェームズなんだ。
「こっちに来いよ、面白い奴と会わせてやる」
「あれ、ちゃんと両面鏡持ってたんだ? 何度名前を呼んでも反応してくれないから、てっきり忘れてきたんだと思ってたよ」
「そんなヘマするわけないだろう。良いからこっちに来いよ――」
あの頃の思い出が、走馬灯のようにシリウスの脳裏を駆け巡った。こちらを見て笑うジェームズ。白黒だった世界が息を吹き返したかのように色づき、「シリウス」と呼びかけてくる。あの、ジェームズだけの声で。茶目っ気があって、冗談っぽく、からかうように、それでいて全幅の信頼を寄せてくれていることが分かる声で――。
「ジェームズッ!」
シリウスがその名を叫んだとき、両面鏡は真っ暗になった。シリウスはしばし茫然と鏡を見つめる。叩いてみても、鏡はうんともすんとも言わなくなった。
「ジェームズ?」
呼びかけてみても、彼は答えてくれない。彼は、もうこの世にはいなかった。
そのことをシリウスは再び痛感した。深い喪失感に襲われた。ボロボロと涙が溢れ、自分ではどうしようも止めることができない。
「少しくらい……」
思わず呟く。
――会わせて、くれたって。
蹲り、声を押し殺すようにして涙を流せば、異変を察知したレギュラス、そしてアリエスが近寄ってきた。
「お、お爺ちゃん、どうしたの?」
「胸が痛いの?」
シリウスは返事をすることができなかった。目頭を押さえ、涙を止めようとするが、そんなもので止められる勢いではなかった。
バタバタと足音が騒がしい。だが、シリウスは頓着しなかった。胸が締め付けられるような虚無感に、今は何も考えられない――。
「大丈夫ですか?」
低く、焦った声と共に、背中に温かい手が添えられるのを感じた。手の隙間から見えたのは、プラチナブロンドだった。
「どこか痛みますか? 気分はどうですか?」
ドラコの後ろには、心配そうにこちらを窺い見るレギュラスとアリエスの姿があった。大方、ドラコは彼らが呼んだのだろう。痛み、もしくは病気故の涙と思ったに違いない。怪我は癒者へ、癒者はお父さんだ! という発想に至ったのか。
「……大丈夫だ」
その頃になると、シリウスの涙も落ち着いていた。掠れた声で言い、立ち上がる。
「年をとると、涙もろくなってかなわない……」
恥ずかしくなってシリウスは弱々しく笑った。だが、ドラコの心配そうな表情はなかなか緩まない。
「本当に大丈夫ですか?」
「ああ」
「お爺ちゃん、どこも悪くない?」
アリエスが泣きそうになって尋ねた。シリウスは今度は大きく頷いた。
「元気だよ。心配かけて悪かった」
今度こそ完璧な笑顔で笑うが、レギュラスの不安までは解せなかった。彼は俯きながら尋ねる。
「お爺ちゃん、さっきの人のせいで泣いちゃったの?」
「さっきの人?」
ドラコの呟きに、シリウスは咄嗟に両面鏡を見た。だが、依然として鏡は誰も映してはいなかった。
「誰かと話してたんですか?」
「ああ……」
「お爺ちゃん、鏡の向こうの人に会いたかったの?」
ギクリとシリウスは固まった。
「なぜ……」
「そんな顔、してた。さっきの人に呼ばれたら行っちゃうの?」
シリウスは声を詰まらせた。すぐに違うと言えなかったのはなぜだろう。もし――鏡の向こうに行けたとしたら、自分は行っていただろうか?
ドラコ達は、不安そうに、心配そうにシリウスのことを見つめていた。
鏡の向こうの人に会いに行く――すなわち、どこか遠くへ行ってしまう。そして、おそらく二度と戻ってこない。そんなことを直感的に感じてしまったのか。それほど自分は取り乱してしまったのだ。
「でも――あの、ハリエットが寂しがります。ハリーも。帰ってきてくれるんですよね?」
すぐにハリエットを出してきたドラコに、シリウスは笑いそうな、泣きそうな気持ちになった。シリウス・ブラックにはハリエットを持ち出すのが一番だと分かっているのだろう。ハリエットの幸せが自分の幸せだと実感しているからこそ、シリウスも同じなのだということを微塵も疑わないその思考。
そんな彼に、こんな顔をさせているのは誰だ。
「……行かない」
ポツリとシリウスは言った。
「行かないさ」
――わたしは、ジェームズにあの子達を託されたんだ。もし自分の身に何かあっても、わたしに守ってほしいからと。
それなのに、そのジェームズが恋しいからと、あの子達を放って行こうというのか?
それこそジェームズに説教されるだろう。パッドフット君はこんなに弱い奴だったのかと。
それに何より。
誰かを喪う喪失感を、あの子達に味わって欲しくない。こんな気持ちを、胸が締め付けられるような気持ちを、あの子達にも味わわせる訳にはいかない。
鼻を啜ると、シリウスは両手で己の頬を叩いた。音にびっくりして目を丸くする孫達に、シリウスは今度こそ晴れやかな笑みを浮かべた。
「心配かけて悪かったな。どうだ、今日はハリーたちをブラック邸に呼んでみようか。最後に会ったのは何ヶ月前かな。久しぶりにみんなで食事をしよう」
「いいの? リリーも来る?」
「ああ、来るだろう。まずはジニーにお伺いを立てないといけないが」
「わーい! 早く帰って来てってお母さんに言わないと!」
「そうだな」
魔法戦争中には騎士団員の伝言用として大活躍だった守護霊の呪文。今の平和な時代においては、こんなに些末な伝言にも遠慮なく使っている。だが、それでいい。
この守護霊を見たら、伝言を聞いたら、きっとハリーもハリエットも喜ぶだろう。その笑顔が、シリウスの幸せなのだから。