■アフターストーリー

07:出立と別れ


 突然息苦しい感覚になり、ハリエットは目を覚ました。だが、目を覚ましてなお、開いた口からは空気が上手く入ってこない。

 ――苦しい。息ができない。

 ハリエットは、荒く呼吸をしながら、ネグリジェの胸元をギュッと握りしめる。ハッハと短い呼吸音だけが部屋に響き渡る。

 ――と、悲しげな鳴き声も一つ加わった。ハリエットが顔を上げれば、フォークスの心配そうな瞳と目が合う。こんな姿を見られたくなくて、ハリエットは目を逸らした。

 フォークスには、恥ずかしいところを見られてばかりだ。ハリエットは己の不甲斐なさに顔を覆い、そして涙の余韻を拭い取った。

 毎日数滴ずつ飲んでいたために、夢見薬はもう底をつきかけていた。そのことに気づき、慌てて注文したはいいが、まだ現物は届かない。夢見薬無しでホグワーツで過ごすことを思えば、一日くらい頼らなくたってやり過ごせるのではないかとハリエットは昨夜眠りについた。いや、白状すれば――ここのところあまりにも安らかな寝起きばかりだったため、もう魔法薬に頼らなくてもいいんじゃないかと期待したのだ。――魔法薬が切れた途端、この有様だが。

 ハリエットは虚ろな表情で起き上がった。カーテンを開けたが、まだ夜明けにはかなり時間がある。一つため息をつくと、ハリエットは意味もなくトランクを開けた。

 ホグワーツ出発は今日だ。準備はとっくの昔に終えていた。ほんの数滴しかない夢見薬も、トランクの底にしまってある。わざわざそれを取りだし、ハリエットは小瓶をじっと見つめる。

 飲みきってしまおうか、とぼんやり考えていたが、フォークスの鳴き声に意識が引き戻され、ハリエットは彼を見る。

「……フォークス、少し外に出ない?」

 躊躇いがちに誘えば、フォークスは答えるように鳴いた。立ち上がり、ハリエットが扉を開けると、彼もまたするりと部屋の外に出てきた。ハリエットはそのままブラック邸の庭に出た。

 外はまだ真っ暗だった。フォークスの真紅の身体だけがぼんやりと浮かんでいる。

「フォークス」

 ハリエットは前を向いたまま呼びかけた。

「私、あなたのことがよく分からないわ。どうして私を主にしたのか……」

 独り言のようにハリエットは続ける。

「私、ダンブルドア先生みたいに立派じゃないし、自信もないし、頭も良くない。どうして私についてきてくれたの?」

 問いかけても返事は返ってこない。当たり前だ。だが、この不死鳥には通じているような気がした。

「もちろん、あなたには心から感謝してる。私を助けてくれたばかりか、忌まわしい記憶を封じて、スネイプ先生まで助けてくれた」

 そこまで言い切り、ハリエットは俯く。

「でも、同時にすごく申し訳なく思うの。私、あなたの好意を無駄にしてしまったわ。折角あの人のことを忘れさせてくれたのに、私、本当に……」

 一生この苦痛を乗り越えられないのではないかと思うと、ハリエットは恐ろしくてならなかった。その恐怖を押し殺すように首を振る。

「私、あなたをホグワーツへは連れて行けないわ」

 ようやく目が慣れてきて、ハリエットはこの時初めてフォークスの方を見た。

「あなたの存在は、少し目立ちすぎるし、ペットは一匹しか連れていけない。……ウィルビーを連れて行こうと思うの。あの子、とても寂しがり屋だし……」

 言い訳のようにハリエットは付け加えた。

「私を不甲斐ないって思うでしょうね。でもいいの。私自身もそう思ってるから。私はダンブルドア先生にはなれないわ。弱くて、自信がなくて、頼りない。分かってる。だからね、あなたを止めないわ。だって、ホグワーツには行けないし、屋敷に残ったとしても、グリモールド・プレイスはマグルの真っ只中にあるし、自由に外を行き来できない。だから……だから、もしあなたが自由を望むのなら……私を主にしたのを間違えたと思うのなら――」

 フォークスが羽ばたいた。

 そのことに気づいたのは、彼が羽を広げ、ハリエットの元から飛び立った瞬間だった。いつの間にかまた下を向いていたせいで、ハリエットはフォークスの顔すら見ることが叶わなかった。フォークスは、ハリエットの方を一度も見ずに行ってしまった。

 あっという間に消えていく不死鳥の後ろ姿を見て、遅すぎる後悔がハリエットを襲った。次から次へと自己嫌悪の涙が込み上げてくる。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 ハリエットは両手に顔を埋めた。

「私、自信がなかったの。本当に、私……」

 彼がいなくなって、ハリエットはようやく気づいた。自分はただ――フォークスのことを重荷に感じていただけだった。自分に自信がないせいで、フォークスが己に呆れているんじゃないかと勝手に思い込み、そして卑屈になった。フォークスを蔑ろにした。一線を超えないようにした。一定の距離を保つようにした。ハリエットに撫でられているウィルビーを羨ましそうに見つめる、そんな視線に気づかない振りをした。

 フォークスもきっと気づいていたのだろう。彼は賢い。ハリエットのその醜い感情を見透かしていたのだ。だから本当に呆れて行ってしまったのだ。

「ごめんね……」

 ハリエットの囁くような声は、夜風に乗って溶けて消えた。フォークスにもう永遠に届かない言葉だった。


*****


 この夏、いよいよ闇祓いとして働き始めたシリウスだが、ハリーとハリエットのホグワーツ出発の日は、わざわざ仕事を休んでまで見送りに来てくれた。

 もう最終学年になるのだがら、見送りなんていらないとハリエットたちは何度も口を揃えて言ったが、シリウスは頑として聞き入れなかった。最終学年だからこそ、最後に見送りたいのだと言う。今まで見送りは一度きりで、しかも犬の姿だったため、シリウスにはシリウスで心残りがあったようだ。

 さすがにこの頃にはシリウスも自分が有名人であるという自覚をし、帽子を目深に被ってはいたが、一緒にいるハリーも有名人であるため、大した効果はなかった。

 こう考えてみると、ホグワーツ特急に乗るとき、ハリエットたちはいつもウィーズリー一家と一緒だったので、シリウスと三人きりというのは不思議な気持ちだった。彼と共に壁をすり抜け、赤い汽車の前でハグをして別れを惜しむ。十八にもなって、とハリーはしばらく渋っていたが、結局シリウスの勢いに押されて彼もハグをしていた。

 時間に余裕を持って出ていたため、ウィーズリー家とは遭遇しなかった。おそらく今年もバタバタ慌てているのだろうとハリエットたちは気にしなかった。

 トランクをコンパートメントに詰め込むのをシリウスに手伝ってもらって――ハリーたちは、もう一人でトランクを持ち上げるだけの力をつけてはいたが、「シリウスにやってもらう」というその事実が胸をくすぐり、甘えることにした――時間ギリギリまで彼との別れを惜しんだ。

 十一時少し前に、双子は汽車に乗り込んだ。窓を開け、シリウスに向かって手を振る。いよいよ警笛が鳴り、ホグワーツ特急が動き出すという時になって、九と四分の三番線の壁から、赤毛の集団がバタバタと出てきた。彼らはシリウスの存在に気づくと、やあと足を止めたり、挨拶をする間もなく汽車に駆け込んだりで、大忙しだった。そんな中、シリウスに一人の少女が呼び止められる。

「ハリーならあそこだ」

 くいっと彼が指差すのは、言葉通りハリーのいるコンパートメント。ジニーは頬を赤らめてシリウスに「ありがとう」と言った。

 コンパートメントの窓からは、ハリーが必死にシリウスを睨み付けていた。余計なことを、と言いたそうな視線だが、しかし、口元は嬉しそうにピクピクしている。

 ジニーがコンパートメントに到着すると共に、ようやく汽車が動き始めた。窓から大きく身を乗り出し、ハリーとハリエットは、大きくシリウスに手を振った。ここから彼の姿を見るのは、もしかしたらこれが最後になるかもしれない。そう思うと、感慨深く思った。

「ロンは?」
「知らないわ。てっきり先に来てるものと思ってたけど……。きっとシリウスに気づかずに飛び乗っちゃったのね。聞いてくれる? ロンったら、出がけになってあれがない、これがないって言い出すのよ。本当に参っちゃう」

 ハリーにトランクをあげてもらい、ようやく席に腰を落ち着けたジニーは、ふて腐れたように言った。

「今年も何とか間に合ったようで良かったよ。最終学年になって新学期に遅刻なんてホグワーツの歴史に残るよ」
「あなたたちの空飛ぶ車での登校も歴史に残るでしょうね」

 ジニーが悪戯っぽく返せば、ハリーはゴホンゴホンとわざとらしい咳払いをした。できれば思い出してほしくない歴史のようだ。

 しばらくジニーと三人でお喋りしていると、やがてロンとハーマイオニーがやって来た。二人の後ろにはドラコもいる。

「こいつ、スリザリンばっかいるコンパートメントに行こうとしたんだぜ?」
「それの何が悪い?」
「こいつが今更スリザリンに行けると思うか?」
「どういう意味だ?」
「だって、スリザリンは純血主義の溜まり場だ」

 ロンの言葉にドラコは呆気にとられた。

「スリザリンは全員が全員純血主義じゃない。ただ、以前は序列ができていてその上位が純血主義だったってだけで」
「絶対に第二のドラコが出てきていじめられるに決まってるよ。かといってもう父上に泣きつくこともできないし」
「……いい加減にしろ、ロニー坊や」
「なっ、なんでそれを!」

 互いに互いの触れられたくないところに触れられ、二人はバチバチと視線を交わした。ジニーがうんざりした声を上げる。

「ちょっとちょっと! 喧嘩は止めて! もう、七年生にもなって恥ずかしいでしょう!」

 ジニーに一喝され、心なしかばつの悪そうな顔をするロンとドラコ。その光景がまるでモリーに叱られているアーサーとルシウスに見えて、ハリーたちは思わず笑ってしまった。

 それからしばらくすると、ハリーたち四人はゲームを始め、ハーマイオニーは読書、ハリエットは外の景色を眺めながら物思いに耽った。

 ハリエットは、なんとなくゲームに参加する気にはなれなかった。観戦しているだけでも楽しかったし、年相応にゲームに身を入れるドラコを見て微笑ましい気持ちにもなった。昔なら想像もつかなかった光景だろう。この四人でゲームをするなんて。

 ドラコの狡猾なゲーム采配にロンがケチをつけることはあっても、喧嘩になることはない。激化して口論することはあっても、杖や拳がでることはなく、ハリーやジニーの呆れた仲裁でみるみる鎮火していく。

 今のドラコの方が隠れ穴にいた頃よりも元気そうで、そして生き生きしているように見えて、ハリエットは純粋に安堵していた。

 ――そう、ドラコは変わってきている。ドラコは。

 それに比べて自分はどうだ。未だベラトリックスに囚われ、過去から抜け出せずにいる。

 その時丁度視界に映ったのが、鳥たちが群れとなって飛んでいる光景で、ハリエットは余計に胸が締め付けられる思いだった。

 フォークスは今頃どうしているだろう。あんな言い方をして、接し方をして、きっと彼は深く傷ついたに違いない。ダンブルドア亡き後、フォークスだって深く喪失感を味わったはずなのに――。

「大丈夫か?」

 始め、ハリエットはそれが己に向けられたものと思わなかった。一瞬遅れて顔を上げる。

「え?」
「顔が暗い」
「おーや」

 ロンがニヤニヤしだした。

「全く、君はいつからハリーでも気づかないようなハリエットの表情の変化に気づくようになったんだい? どうだい、ハリー。ハリエット、いつもと違うように見えるか?」
「僕にはいつも通りに見えるけど、うん、ドラコにしか分からないような表情の変化があったんだろうな」

 ハリーまで乗っかってきた。ドラコは二人を睨み付けるが、もはや犬猿の仲だった頃の二分の一にも満たない威力だ。

「ホグワーツにはウィルビーを連れていくことにしたのね」

 くだらないからかいなど無視をしてハーマイオニーが話しかけた。

「……ええ」
「こいつのことだ、もしそうじゃなかったら自分の方が先輩なのにってフォークスをつつき回してたに違いないよ」

 侮辱されていることは分かったのか、ニヤニヤと自分を見つめてくるロンにウィルビーは羽をパタパタさせて威嚇した。それを面白がったロンは指で檻をつついてからかったが――必殺、ウィルビーの鍛えられた顎による全力の噛みつきに襲われてロンは悲鳴を上げていた。

「フォークスは家にいるの?」

 続く何気ないハーマイオニーの疑問。ハリエットは言葉に詰まり、視線を彷徨かせた。

 口を開き、なんと答えたものかと考えあぐねていたとき――車内にアナウンスが響き渡った。

「うわっ、まだ全然着替えてないよ!」
「男子は出て行って!」
「そりゃないよ! 女子の着替えと言ったら、トロールの着替えよりも遅いんだから!」
出て行って!

 トロールなんかと比較され、ジニーは更に怒って声を張り上げた。