■小話

02:父と娘


*ネタバレ?注意です*
 ドラコがハリエットとの結婚をシリウスに申し込みに行く話です。『呪いの子』の連載をする中で、あまりにもドラコとシリウスの仲が良く(?)、もしかしたら混乱してしまうかと思い、アフターがなかなか進まない状況ではありますが、先にこの話を公開することにしました。時系列順でお読みになりたい方にはおすすめできないかもしれません。(『呪いの子』を先に書いてしまっている時点で既に時系列順ではないのですが……!)
 いずれはアフターの方に移動します。(ちなみに現在シリウスはハリエットとドラコの交際を苦々しい思いで黙認しています)



 ドラコ・マルフォイは、由緒正しい聖28一族――マルフォイ家の嫡男として、たとえ休日、休暇中であっても、服装の乱れを良しとしない家風で育ってきた。たとえ心許す相手がいたとしても、髪に寝癖は許されず、だらしなくズボンからシャツをはみ出させるなどもってのほかなのだ。

 いついかなる時でも一分の隙もなく几帳面な身だしなみを心がけてきたドラコだが、しかし、今日ほど緊張することは今までになかっただろう。

 今日という日には、絶対に付け入る隙――と言ったら言葉は悪いが――があってはいけない。完璧な服装、態度で臨まなくてはいけないのだ。

 ドラコは玄関先に姿現しをし、屋敷のチャイムを鳴らした。煙突飛行ネットワークで直接向かおうかとも思ったが、しかし今日という日には向かない気がして、ドラコは玄関から姿を現すことにしたのだ。

 カチカチッと鍵が開く音がして、重厚な扉がゆっくり開いた。見るだけで心が安らぐような、ホッとする微笑みを浮かべてハリエットが立っていた。

「待ってたわ」

 ハリエットも、ドラコ同様、身奇麗な格好をしていた。髪もまとめていて、どこか正装の雰囲気がある。彼女もまた自分と同じ気持ちなのだと、ドラコは込み上げてくる想いを押しとどめて頷くことしかできなかった。

「シリウスは部屋にいるの。呼んでくるから、座っててくれる?」
「ああ」

 ハリエットは階段を上がり、ドラコはそのまま中に進んだ。慣れたように扉を開き、椅子に腰掛ける。

 ここに来るまで、ドラコはずっと息苦しさを感じていた。そしてそれは今も同じ――なのだが、ようやくその原因に気づいた。慣れていたはずのネクタイを締めるという動作が、緊張のせいで手元が狂い、いつもよりきつく締め過ぎていたらしい。

 そのことに気づき、なんて間抜けなんだと思わずネクタイに手が伸びそうになったが、すんでで堪えた。足音が聞こえてきたからだ。今にも走り出しそうな軽い足音と、憂鬱そうな、重たい足音が二つ――。

 居間に姿を現したハリエットとシリウスは、それぞれの表情を見せていた。ハリエットは緊張と興奮で上気した顔だったし、シリウスは不機嫌丸出しの顔をしていた。

「お久しぶりです、ミスター・ブラック」

 二人を目にし、ドラコはすぐに席を立った。

「ああ……まあ、座れ」

 ハリエットは当然のようにドラコの隣に座り、シリウスはハリエットの前に座った。

「ワインがお好きだと聞いたので、こちら、良かったら」
「……ありがとう……」

 シリウスは気難しそうな表情でワインを受け取った。

「クリーチャー」

 クリーチャーは姿現しでシリウスのすぐ側に現れた。

「はい、ご主人様」
「注いでくれ。夕食の準備も」
「承知いたしました」

 クリーチャーはグラスを三つ出し、それぞれにトクトクと注いだ。そして次々に準備しておいた料理を皿に盛り付けていく。三人は乾杯をした後、ナイフとフォークを手に、ディナーを開始した。いつもよりも豪華な食事に舌鼓を打ちながら、シリウスはちらりとドラコに視線を向けた。

「仕事はどうなんだ?」
「先日、研修が終了しました。これからはもう現場に立って働きます」
「随分長い研修だったわね。もしシリウス達が怪我したらよろしくね」
「もちろん」

 ドラコは微笑んだ。そしてすぐ、一つ空いた席に目を止め、ハリエットを見る。

「ハリーは?」
「闇祓い局から緊急要請があったの。本当はシリウスにだったんだけど、シリウスは今日……行けないから、ハリーに代わりに行ってもらって」
「そうか……」

 ドラコは気まずそうにシリウスに視線を移した。

「すみませんでした。大切なお仕事があったのに、私との約束を優先させることになってしまって」
「……ハリエットがどうしてもと言うからな」
「だって……二人とも忙しいのに、また今度ってなったら休みを合わせるのに何ヶ月かかるか」

 ハリエットはちらちらシリウスに視線を向けながら、ドラコに微笑んだ。ドラコも苦笑いを返す。

「闇祓い局も、最近は少し落ち着いてきたと窺いましたが。まだ緊急要請が入ることがあるんですか?」
「そうだな……。最近はない」
「今回はどうして?」

 ハリエットが尋ねた。

「今回はマグルに被害が出そうだったから、緊急だったと言うだけだ」
「マグル狩り?」

 ハリエットは心配そうに尋ねた。

「いや。死喰い人がマグル界に潜伏してたんだ。トンクス達がうまくやるだろう」
「ハリーとトンクスが組んでるの?」
「いや。今はもっぱら三人一組で動いている。わたしとハリー、ロン。トンクスとセドリックとネビル。他にもいくつかチームはあるが、今回はその二チームが出動してる」
「何事もないといいんだけど……」
「トンクスとセドリックがついてるんだ、大丈夫だろう」

 シリウスが安心させるように頷き、ようやくハリエットも笑みを見せた。

「ハリエットの方はどうなんだ。最近出張が多いようだな」
「ええ。最近は希少種の保護活動に力を入れてるの。だから、情報を集めるためにあちこち回ってて……」

 ハリエットは言い訳するようにドラコを見て肩をすくめた。ドラコも癒者として忙しいが、ハリエットの方も、勤めている魔法生物規制管理部の動物課で、新しい活動に身を入れ始めているので、思うように休みが取れないのだ。そのため、激務と言われる闇祓いのシリウスと、同じくらい忙しい癒者のドラコ、ハリエットの三人の休みを合わせるのは本当に骨が折れた。今日という日が迎えられるのに半ば感動したくらいだ。

 その後も、緩やかに仕事の話が続いたが、ハリエットやドラコはともかく、シリウスの機嫌はあまり芳しくなかった。

 ドラコを招いての食事は、今までに何度もあった。しかしそれは、ロンやハーマイオニー、ウィーズリー家なども招待した上で――もちろんハリーもいる――である。その面々で時折誰かが欠けることはあっても、三人だけというのは初めてのことだった。だからこそ、最初こそシリウスも緊張しているのだろうと思っていたドラコだが、残念ながらそうではあるまい。

 若い恋人と内輪だけの食事。しかも、その恋人達は格式張ってめかし込んでいる。

 ハリエットを娘のように考えているシリウスが警戒するのは当然だし、これから何が起こるかを想定し、不機嫌になるのもまた然り。特にシリウスの態度は、ドラコに顕著だった。さすがに無視されることはないが、ドラコの話に、『ああ』『うん』『そうか』などの短い相槌しか返ってこない。何か質問しても、短く答えてそれは終わり、後は気まずい沈黙が残る。

 ハリエットと交際していることがバレた当初よりはまだマシだが、むっつり黙り込み、更にはドラコが持参してきたワインにも一切手をつけないとなると、彼の心の荒れ具合は想像に難くない。

 冷や汗がダラダラと流れっぱなしの、この辛い食事を終えた後、ようやくその時がやってきた。クリーチャーが空になった食器を下げ、食後の紅茶を入れている時だった。そろそろ潮時だろうか、とドラコは意を決してシリウスを見た。

「ミスター・ブラック」

 隣でハリエットがピンと姿勢を正したのが分かった。

「お話があります」

 シリウスは何も反応を示さなかった。眉間に深い皺を刻ませながら斜め下をじっと見つめ、ドラコの言葉を待っている。

「ミス・ポッターとのことです。私たちはずっと交際を続けてきました」

 シリウスの皺が深くなる。ドラコはそれを見なかった振りをした。

「私は一度――いえ、かつて何度も過ちを犯しました。後悔しても、過去は消えません。今でもそのことで苦しむことは多々あります。ですが、彼女はいつも私を支えてくれました。ミス・ポッターは素晴らしい女性です。誰にでも分け隔てなく、心から相手のことを思いやることのできる女性です。だからこそ私はそんな彼女に惹かれ、そしてずっと一緒にいたいと思うようになりました。私は心から彼女を大切に思い、今まで以上に大切に幸せにしていきたいと思っています」

 覚悟を決め、ドラコは真正面からシリウスを見つめた。

「ミス・ハリエット・ポッターと結婚させてください」

 その一言を口にしたとき、恐ろしいほどの沈黙が辺りを支配した。

 給仕していたはずのクリーチャーは部屋の隅に縮こまって存在感を消そうとしていたが、しかしその大きな耳は油断なく若い恋人の行く末を聞き逃すまいとピンと立っている。

 ハリエットは、膝の上で両手を握りしめながら、シリウスをじっと見つめていた。何か言うべきか迷いあぐねていたが、結局何の言葉も浮かんでこなかった。シリウスの反応がただただ不安だったのだ。

 長い沈黙だった。シリウスは何かと葛藤しているようだった。やがて彼は口を開く。

「交際には目を瞑った。わたしが気がついたときには、君たちはもうそういう関係だったし、わたしが口出すようなことではないと思ったからだ。だが……結婚となると話は別だ。お前達には執行猶予があるんだぞ」
「ドラコにはないわ」

 思わずといった様子でハリエットが口を挟んだ。

「それに、執行猶予は三年だったわ。もう終わったのよ」

 本当はすぐにでも結婚したかったのだが、ルシウスとナルシッサの執行猶予が終わるのを見計らっていたら、今度はドラコの研修が始まったため、せめて独り立ちできるまでは、と言われたのだ。『まだ未熟者の僕にミスター・ブラックが結婚を許してくれるとは思えない』と。シリウス含む皆に心から祝福してもらいたかったから、ハリエットはずっと待っていたのだ――。

「前科がついてるんだ!」

 なおも言い募るシリウスに、ハリエットも次第にヒートアップしていく。

「それが何だって言うの!? 執行猶予は過ぎたし、法律上もう何の問題もないわ!」
「ハリエットはどうも思わないのか? こいつはともかく、あいつらは自らヴォルデモートの支配下に入ったんだ! 自分から死喰い人になったんだ!」
「そのことは今この話において何の関係もないでしょう!? 私はドラコとの話をしてるの!」
「それだから考えが甘いんだ! 結婚すれば死喰い人が親戚になる! 世間から何か言われるのはハリエット――お前の方なんだぞ!」
「私はそんなの気にしないわ!」

 気が高ぶって、ハリエットは立ち上がった。それに釣られるようにして、シリウスも席を立つ。

「私は、それでもドラコと一緒にいたいの!」
「――っ」

 シリウスは、今にも杖を抜きそうな様子だった。まかり間違ってもハリエットにそんなことするはずはないだろうが、それほど今の彼は激情しているように見えた。

「落ち着いてください」

 初めて見るハリエットとシリウスの口論に、ドラコはオロオロしながらも立ち上がった。ハリエットの言葉は嬉しかったし、シリウスの言葉は想定していたが、やはり直接言われるとショックだった。ただ、それを踏まえた上でも、この二人が喧嘩している姿は見たくなかった。それが自分のせいだとしたら、尚更。

「あなたのお気持ちは分かります。私は……私も死喰い人ですし、ミス・ポッターを任せるには不適切だと思われるのも――」
「分かってるのなら黙っていろ! これはわたし達の問題だ!」
「ドラコだって当事者でしょう!?」

 ハリエットはキッとシリウスを睨みつけた。あんまりな物言いに、ハリエットは呆れを通り越して悲しかった。死喰い人だというだけで、どうしてここまで言われないといけないのか。

「帰れ! 顔も見たくない!」

 シリウスはそう吠えると、ふんと顔を逸した。ハリエットは痛いくらい唇を噛み締め、シリウスを見つめる。興奮して激しく肩は上下しているが、怒りの感情に頭を支配され、何の言葉も出てこない。

「……また来ます」

 ドラコはポツリと言い、椅子を引いた。何が気に触ったのか、シリウスは眉を上げた。

「懲りずにまた来るのか? いいだろう。だが、次申し込みに来るときはせめて――」

 シリウスはギロリとドラコを見た。

「その穢らわしい闇の印を消してから来い!」
「シリウス!」

 ハリエットが悲鳴を上げた。しかしシリウスは気にする様子もなく、荒々しく階段を上がっていく。

 ハリエットは絶望の表情で彼を見上げた後、目に涙を溜めて、ドラコにしがみついた。

「ごめんね……ごめんなさい……ドラコ……」
「大丈夫だ……」

 ドラコは彼女の背を撫でた。階段に目を向けたが、もうシリウスの姿はそこになかった。

 シリウスにのような言動は、ドラコも今までに何度も味わっていた。
『癒者に死喰い人はふさわしくない』
『治療と称して何されるか分かったものじゃない』
『所詮死喰い人だ』
『どうして魔法省はあの家族を野放しにするのか』
 肩をふるわせてすすり泣くハリエットに、ドラコは苦々しい笑みを浮かべた。

「突然言われて、ミスター・ブラックも驚いてるんだ。僕たちも性急すぎたのかもしれない。ゆっくり話し合っていこう」
「でも……でも……」
「大丈夫だ。僕がたった一回あしらわれただけで諦めるような男に見えるか?」

 ドラコの精一杯の冗談も、今のハリエットの気分を浮上させるには至らなかった。ドラコの胸に頭を預け、鼻をすする。

「大丈夫だ。また来る」

 ハリエットは小さく頷いた。次にハリエットが顔を上げたとき、目は真っ赤だったが、涙は止まっていた。

「私……私も、もう少し日をおいてシリウスと話してみる。今日は本当にごめんなさい」
「いや、いいんだ。僕だって久しぶりに会えて嬉しかった」

 二人の目が合う。ドラコはハリエットの額にキスをした。シリウスとあんなことがあったのに、それ以上のことは後ろめたくてできなかった。

 名残惜しげに、ハリエットは玄関先までドラコを見送った。ドラコは最後まで微笑みながら姿くらましをした。


*****


 それから数日、ハリエットは何とかシリウスと顔を合わせられないかと奮闘した。だが、ただでさえシリウスは闇祓い局局長として忙しいのに、ハリエットも働いている身である。早々顔を合わせて言葉を交わす機会などやってこなかった。

 稀に夜遅くにシリウスが帰ってきて、急いでハリエットが出迎えて話をすることがあっても、今は疲れてるだの、まだ仕事があるだので、全く取り合ってくれない。

 確かにシリウスはもともと忙しい身ではあったが、ここまでではなかった。最近は、家に帰らず、泊まりで仕事をすることもあるようで、明らかにハリエットを避けているとしか考えられなかった。

 あまりにそんな日ばかりが続くので、ハリエットは精神的に参ってしまった。怒りかも悲しかも分からない感情で、ある時シリウス強引にシリウスの前に割り込み、立ちはだかった。

「シリウス!!」

 久しぶりに見るシリウスの顔は、やつれて見えた。きっと自分も同じような顔だろうと思った。

「私の話を聞いてよ……」

 最後は懇願になった。シリウスは目を合わせないまでも、足を止めた。

 ハリエットは急に緊張してきて下を向いた。くたびれてきたシリウスの靴が一番に目に飛び込んできた。

「……どうしてあんなひどいことを言ったの?」

 冷静に、と頭では分かっていても、つい言葉は刺々しくなった。

「ドラコがどれだけ傷ついたか! ドラコは……今でも周りの人に陰口を叩かれてるのよ! 癒者を目指そうとしたときだって、ずっとなれるわけないって言われ続けて……それでも毎日頑張ってたんだから!」

 シリウスはハリエットを見てはくれなかった。ただ前を向いたまま、黙ってその場に立っている。

「どうして認めてくれないの……?」

 ハリエットが弱々しく言ったとき、ようやく彼が口を開いた。

「わたしの許可が必要なのか?」
「えっ……?」
「お前達の結婚には、わたしの許可が必要なのかと聞いてる」
「……必要よ」
「違うだろう」

 シリウスはすぐに切り返した。

「わたしが駄目だと言ったら結婚ができないのか? いや、そんなわけはない。お前達はすぐにでも籍を入れられる」

 ハリエットは声もなくシリウスを見つめた。彼の言わんとしていることが分かった。分かってしまった。

「わたしは所詮、ただの後見人でしかない。君たちが成人したなら、もう君たちの面倒を見る義務はない。結婚したいならそうすればいい。わたしの許可など必要ないだろう」
「どうしてそんなこと言うの……?」
「わたしは死喰い人なんか認められない。もし結婚したいと言うのなら――さっさと出ていけばいい。わたしと縁を切れば、事はもっと簡単に済むだろう」
「〜〜っ!」

 咄嗟に、ハリエットの口からは何も出てこなかった。怒りと悲しみがない混ぜになって、ただ泣きそうな表情でシリウスを見上げる。

 シリウスは目を顔をそむけ――結局一度も目を合わせないまま――ハリエットの横を通り過ぎ、行ってしまった。ハリエットは呆然とその場に突っ立ったままだった。


*****


 ウィーズリー家の夕食に招待されることはままある。ウィーズリー家は大家族だが、皆が皆、それぞれで忙しいため夕食に半分が揃うことも稀である。つい数年前までは賑やかだった食卓ががらんとしているのを見るのは寂しいのだろう、ハリーやハリエットはよくモリーから誘いの言葉をもらっていた。

 あるとき、久しぶりに早い時間に帰れたため、ハリエットはモリーの招待を受けることにした。クリーチャーの手料理もおいしいが、ブラック邸で一人食事を取るのはとてつもなく寂しくなるからだ。

 ウィーズリー家は、いつものようにがらんとしていた。ロンは闇祓いとして激務をこなしているし、ジニーはクィディッチ選手として世界中を飛び回っているし、フレッド、ジョージは言わずもがな悪戯専門店の経営に忙しい――ホグズミード出店計画のため、今は特に忙しい――ので、それにアーサーやパーシーの残業が重なると、ウィーズリー家はモリー一人きりとなる。

 今日もそうだったようで、ハリエットの来訪は、モリーに盛大に喜ばれた。たった二人きりとは言え、モリーが存分に腕をふるった料理は懐かしく、おいしかった。

 主に仕事やウィーズリー家の皆のことを聞きながら、話は次第に結婚話へとシフトしていった。

「それでね、パーシーにそういう気配がなくて、一時はお見合いもどうかと思ったんだけど」
「まだそんなに焦らなくてもいいとは思いますが……。たまたまいい人がいないってだけで、パーシー、学生時代にも彼女はいたみたいですし」
「でも、ロンにもジニーにも恋人はいるのに、パーシーには今……って思うと焦ってくるのよねえ」

 モリーはほうっとため息をついた。

 この調子では、気がせった母親に縁談を組まれるだろうと、ハリエットは自分の不甲斐なさにパーシーに手を合わせた。

「そういえば、ハリエットはどうなの?」

 急に自分に話の矛先が向けられ、ハリエットは驚いてしまった。

「えっ?」
「あれからどこまで話は進んだの? ほら、前来たとき、ドラコと一緒にシリウスに言いに行くって言ってたじゃない」
「…………」

 ハリエットは難しい顔で黙り込んだ。脳裏に浮かんだのは、無感動の瞳とシリウスの背中――。

 急に様々な感情が込み上げてきて、涙が溢れた。不器用に手で涙を拭っていると、いつの間にかモリーが隣にいて、背中を撫でてくれていた。その温かさが母親のようだと感じて、ハリエットは余計ポロポロと涙をこぼした。

「私……結婚を少し遅らせようと思っていて」

 ようやく口から出たのは、そんな言葉だった。

「どうして?」

 モリーが優しく尋ねた。

「……シリウスが結婚を認めてくれないの。ドラコが死喰い人だから……ドラコのご両親に前科があるから、私がこの先苦労するだろうって」

 せきを切ったようにハリエットの口から言葉が飛び出してきた。ここ最近はずっとこのことばかりに悩まされていた。

「でも、結婚したいなら勝手にすればいいって。もう後見人としての役目は終わったから、自分の許可はいらないだろうって言って――さっ、最後なんかっ、縁を切れば結婚できるって言って……!」

 間をおかず出てくる嗚咽に、ハリエットはもうほとんど何も話せなかった。

 モリーは、ハリエットが泣き止むまで待ってくれた。ハリエットが落ち着いたのを見て取ると、温かい紅茶を出してくれた。一口、二口と飲むと、胸の中にじんわり熱がしみ渡るようだった。

「ドラコには、遅らせたいってことは言ったの?」

 モリーが尋ねると、ハリエットはこくりと頷いた。

「時間が必要かもしれないから、少し間を置こうって。ゆっくり話をしていくってことで落ち着いたわ。……でも、すごく心苦しいの。ただでさえ周りの人にいろいろ言われてるのに、シリウスにまであんなこと言われて……絶対に、ショックだったはずなのに」

 まだ乾ききっていない頬に再び涙が伝った。

「私……もうどうしていいから分からなくて……シリウスに認めてほしいのに、どうすればいいのか分からなくて……」
『わたしの娘に手を出すな!』
 ベラトリックスを前に、そう吠えたシリウスの後ろ姿を今でも覚えている。どれほど嬉しかったことだろうか。

 他でもないシリウスに認められたいだけなのに、どうしてこんなことになってしまうのだろう。父親のように慕っているシリウスに認められなければ、本当の意味でハリエットに幸せはやってこないだろう。

「私……でも……シリウスに嫌われたかもしれない……」

 ハリエットは、胸の内に抱える不安をそのまま口にした。

「本当に縁を切られたらどうしよう……」
「シリウスがそんなことするわけないじゃない」
「でも……ずっとこのままだったらどうしよう……」

 折角モリーが慰めてくれているのに、ハリエットはほとんど耳に入ってこなかった。ただただ同じような不安が胸を渦巻く。

 そんなハリエットに、モリーはずっと励ましの言葉をかけていた。一人になりたくない夜に、母親のようなモリーの存在は有難かった。


*****


 モリーの行動は早かった。

 七人もの子供を育てあげた主婦の行動力を舐めてはいけない。魔法省の伝を使って――要するにロンだ――シリウスの休日を調べ、かつ彼が何の用事もない日を明らかにすると、アポなくブラック邸に突撃を仕掛けたのだ。

 要領の良い主婦モリーは、事前にハリーに連絡を取り、モリーが来ればクリーチャーに鍵を開けるよう伝言を残してもらえるよう頼んでいた。その結果、家主であるシリウスの許可なくモリーは堂々とブラック邸の敷居を跨ぐことができたのだ。もちろんこのことは居間にて悠々と過ごしているシリウスには知る好のない出来事だった。

 シリウスは呆気にとられた。ソファで新聞を読み耽り、伸び伸びとした休日を過ごしていたと思ったら、突然居間の扉に怒れる主婦モリーが現れたのだ。

 モリーは、シリウスが苦手とする女性だった。決して嫌いなわけではないが、彼女とは、不死鳥の騎士団の活動や、子供たちに対する扱いに関して、度々衝突していた。

 シリウスも頑固だし、モリーも子供に関することになると、ブラッジャーのようにしつこくなる。

「シリウスっ!」

 そんな彼女が、ここ最近類を見ないくらいの怒りを顕にしていた。シリウスが警戒して立ち上がるのも無理なかった。

「ハリエットのことで話があるの」

 それだけでシリウスはすべてを察した。新聞を畳み、素っ気なく言う。

「わたしにはない。悪いが、せっかくの休日だ。帰ってくれないか」
「そうはいかないわよ! 子供みたいに拗ねて! そこに座りなさい!」

 まるで母親のようだ。

 そう思ったシリウスは、無言で居間を出た。今のモリーと話す気にはなれなかった。

「ハリエットとドラコがどんなに悲しんでるか、あなたには分からないのよ! シリウス! 話を聞きなさい!」

 興奮してモリーは甲高い声になっていた。シリウスは顔を顰めながら、しかし決して足は止めず、ついには自分の部屋に閉じこもった。中から『コロポータス』を唱えたが、すかさずモリーも『アロホモーラ』を唱えてくる。しばらく一進一退の攻防が続いたが、しばらくしてシリウスは馬鹿らしく思った。アクシオで箒を取り寄せ、扉の取っ手の間に立てかけて――高級品に何という使い方をするのか――外からは開かないようにした。

 そこまでして初めて、いよいよ今のこの状況が、母親に怒られて部屋に閉じこもる子供のようだと思ったが、ここまで来たからにはもう後の祭りなので、シリウスは気にしなかった。

 一方のモリーは、『コロポータス』が聞こえなくなったのに扉が一向に開かないため、つっかえ棒でもしたのだと悟り、苛立ち紛れに扉を乱暴に蹴った。とはいえ、すぐにこれで良かったのかもしれないと思い直した。対面しない方が、呪いをかけたくなる衝動と戦わずに済むのだから。

 モリーはその衝動を拳に込め、扉をドンと叩いた。必死の思いで沈み込めていた怒りが、シリウスのこの一連の流れによって更に膨大な怒りとなり、思っていた以上に大きな音が響く。

「またむっつり発作!? シリウス、いい加減にしなさい! ハリエットが可哀想でしょう!」

 中からの応答はない。またモリーはドンと叩いた。

「どうしてあなたはいつもそうなの! 自分の気にくわない方向に話が進んだと思ったら、勝手に黙り込んで不機嫌になって周りに当たり散らして! あなたのそういう所、私本当に嫌いよ!」

 そして大きく息を吸い込む。

「あなたはドラコのことが気にくわないんじゃない。ハリエットを取られることが怖いのよ! だから今更はちゃめちゃにドラコに難癖をつけて傷つけた! ドラコが一番気にしてる所をつついて、もうどうしたって直せない部分を槍玉に挙げて、追い返したのよ! きっとさぞ胸がスーッとしたでしょうね、誰よりも臆病者で気分屋のシリウス・ブラック!」

 渾身の母性と共に長台詞を放ったモリーは、しばらく酸欠に見舞われた。激しく肩を上下させながら、しかしなおも扉を睨み付けたままだ。

「ハリエットは、あなたに嫌われたかもしれないって泣いていたのよ!」

 怒鳴るようにして叫んだ言葉は、屋敷中に反響した。

「ハリエットは……ハリエットはね、あなたとのことだって気に病んでるの! ハリエットにとって自分がどういう存在か、胸に手を当てて考えてみなさいな!」

 込み上げてくる激情と共に、モリーは『この分からず屋!』と叫んだ。

「どうしてこれ以上ハリエットを苦しめるのよ! あなたは――あの子達の父親でしょう!? 二人は、あなたを親だと思って慕ってるの! 大好きなの! あの子達には、あなたしかいないのよ!」

 懇願するような声が響いた。近くで三人を見ていたからこそ言える言葉だった。

「二人の結婚に、自分の許可なんていらないだろうって言ったそうね」

 一度だけ、モリーは鼻をすすった。

「最低な台詞よ。ハリエットを大切に思ってるのなら、そんなこと言えるわけがないわ。許可がいる、いらないじゃない。他でもないあなたに祝福されたいっていうのが分からないの?」

 モリーは最後にもう一度強く扉を叩いた。

「頭を冷やしなさい。シリウス・ブラック。ハリエットとのことを解決するまで、うちの敷居は跨がせませんからね」

 ふんと鼻を鳴らすと、もう用は済んだと、モリーは足音も荒々しく階段を降りた。途中でクリーチャーとすれ違ったが、クリーチャーは少しだけ怯えているように見えた。――怒れる主婦モリーの怒号と激しく扉を叩く音は、クリーチャーにももちろん聞こえていたのだ。

 屋敷を出るとき、モリーは一度だけブラック邸を振り返ったが、もう何も言うことはなく、姿くらましをした。


*****


 仕事を終えると、ハリエットは浮かない足取りで魔法省の廊下を歩いていた。恋人のドラコは仕事で忙しいし、ロンも今日は闇祓いの仕事で出ずっぱりだそうで、ハーマイオニーだってもちろん忙しい。何となく一人でいたくない気分だったが、家にはクリーチャーしかおらず、それだとやはり少し寂しい。

 頭を巡らせても、家に帰るという選択肢しか浮かばず、ハリエットは仕方なしにブラック邸へと姿くらましした。

 今日はシリウスは休みだ。だが、家にいるわけはないと思った。最近のシリウスは、家にいることの方が珍しい。言わずもがな、ハリエットと顔を合わせたくないからだ。

 知らず知らず表情を曇らせ、ハリエットは屋敷に足を踏み入れた。すぐにクリーチャーが出迎えてくれた。

「夕食はもうできております。ですが、その……」
「どうしたの?」

 珍しくクリーチャーの言葉は歯切れが悪い。

「居間に行かれることをおすすめします……」
「居間?」

 ハリエットは聞き返したが、クリーチャーはおろおろするばかりだ。ハリエットは真っ直ぐ居間へ向かった。

 階段を上り、扉を開けると、ハリエットは驚きに身体を硬直させた。てっきり客がいるのかと思ったが、そうではない。シリウスが、まるで亡霊のように青白い顔をしながらソファに座っていたのだ。

 シリウスと話したいという思いはあったが、シリウスと深く話をして、彼に拒絶されるのが怖かった。だから、むしろ彼に避けられていて良かったと思う部分もあった。

 だが、今彼はここにいる。まるでハリエットと話したいということを態度で表すかのように。

「シリウス……」

 ハリエットはその場に立ち尽くしていた。どうすれば良いのか分からなかった。

 行動を起こしたのはシリウスの方だった。静かにソファの隣を指し示したのだ。ハリエットは、戸惑いながらも彼の隣に腰を下ろした。

「すまない……」

 そして、開口一番放たれた言葉は謝罪のそれだった。ハリエットは困惑してシリウスを見上げる。

「君たちを傷つけてしまった……。ひどいことを言ったのは分かっている。わたしはマルフォイが死喰い人だったということを、もう気にしてはいない……信じられないだろうが」

 シリウスはポツポツと話した。

「ヴォルデモートはもういないし、マルフォイも、なりたくて死喰い人になったわけじゃない。ハリーやハリエットを盾に取られたら、わたしだって死喰い人になるだろうし……あんなことを言ったのは、わたしが……」

 言葉を切り、シリウスは俯いた。今の彼には、いつものあまりある覇気はなく、ハリエットは心配になって彼の腕をさすった。

「かつて、君たちのことは、わたしなりにとても大切に思っていた」

 再び話し始めたその内容は、前後の話とは脈絡がないように思えた。

「親友夫婦の忘れ形見だ。可愛くないわけがない。……だが、君たちにとっては残酷なことに、わたしは、二人のことはジェームズとリリーの子供だとしか思っていなかった。会うたびに、話すたびに、ここがジェームズに似ているとか、リリーに似ているとか、そんなことばかり考えていた。わたしの時間は、あの頃のまま止まっていたんだ。後見人、失格だ……」

 項垂れるシリウスを前に、ハリエットはぶんぶん首を振った。うまくこの気持ちを、感謝の気持ちを、言葉にできれば良いのに、ハリエットの頭は真っ白になって、何の言葉も浮かんでこない。

 シリウスは縋るようにしてハリエットを見つめた。

「わたしは、君たちに何かできただろうか? 後見人として、何をやれた? ――いや、立派なことは何一つできていなかった。わたしはずっとアズカバンにいたし、そのせいで君たちは辛い幼少期を過ごした。アズカバンを出てからも、わたしはずっと隠れてばかりで、君たちの助けになるどころか、お荷物になるばかりだ。……全く情けない。こんなんじゃ、後見人なんて名乗れない」
「そんなことない……」

 ハリエットは掠れた声で言った。

 シリウスの存在は、ハリエット達にとって非常に大きかった。くだらない話も、大切な話も、双子の片割れではない、友人でもない誰かに話したいときがあるのだ。自分が抱える悩み事で、頼れる誰かに助言がほしいときだってある。大人の人に自分の話に共感してほしいときだってある。そんな時、モリーやアーサーに話せないことでも、シリウスには話せた。父親も母親もいないが、シリウスがいた。

 ハリエットの力ない言葉では、今のシリウスには響かなかったようだ。相も変わらず彼は項垂れたままだった。

「ハリーはジェームズじゃないし、自分だってリリーじゃない――以前、君はわたしにそう言ったな。……本当にその通りだと思う」

 ――わたしが名付けた、世界にたった一人きりの、ハリーとハリエットなのに……。

 シリウスが小さく呟いたとき、ハリエットは感極まって彼に抱きついた。シリウスの腕の中では、彼の表情を確認することはできなかったが、ハリエットの背中をポンポンと叩いてくれていることはわかった。

「ただ、誤解しないでほしいのは、今は違うということだ。ちゃんと君たち自身を見てる」
「そんなこと、私達が一番よくわかってるわ……」

 シリウスがギュッとハリエットの肩を抱いた。

「――だが、だからこそ怖いんだ。覚悟はしていたのに、マルフォイとの約束を取り付けたとき、本当に……娘を送り出すような気持ちになって、怖くて堪らなくなったんだ。結婚すれば、わたしのことなんか見向きもしなくなるんじゃないかって」
「そんなわけないじゃない! 私は、私達には、シリウスが唯一無二の存在なのに……」
「そう言ってもらえるのは嬉しい……。だが、不安に思うのを止められなかった。つい態度に出してしまった。マルフォイも、さぞ呆れたことだろう」
「そんなことないわ。シリウスも突然で驚いたんだろうって。私達、根気よくシリウスを説得していくつもりだったの」
「そうか……」

 シリウスは遠い目をした。

「後見人として、わたしが君たちを守らなければと、いつも思っていた。だが、違うんだ。わたしが君たちを必要としていただけだった。親友に裏切られ、ジェームズとリリーを失い、アズカバンで絶望を味わい――わたしは疲れ切っていた。ピーターにさえ復讐できればもうあとは何もいらないとすら思っていた。……だが、そんなわたしを、本当の意味で生き返らせてくれたのは君たちだ。君たちに会って、喜びを思い出した。君たちの成長をもっと側で見ていたいと思った」
「シリウス……」
「君たちは、わたしの生きる糧だった。君たちが幸せになることが喜びであるはずなのに、わたしがその足かせになるなんて……。君たちに出て行って欲しくないと思うなんて……。情けないな。こんなんじゃ、ジェームズとリリーに顔向けできない……」

 胸を詰まらせ、ハリエットはシリウスを見つめた。

 彼は、幸福を奪われることが怖いのだとハリエットは思った。今の彼にとって、ハリエット達が結婚し、物理的に距離が遠くなることは――ブラック邸にクリーチャーと二人きりになることは、かつての自分を彷彿とさせ、不安や絶望を蘇らせてしまうのかもしれない。事実、新居を建てたハリーは、滅多にここへ顔を出すことがなくなってしまった。まだハリーとシリウスは同じ職場なので、毎日顔を合わせるだろうが、ハリエットとなると話は別だ。同じ魔法省で働く身でも、シリウスとはほとんど会うことはなくなるだろう。

 胸が一杯になって、ハリエットはシリウスの手を両手で包み込んだ。

「……ドラコがね」

 微笑み、ハリエットはシリウスを真正面から見つめる。

「もしかして、シリウスは寂しいんじゃないかって言ってたの」
「それは……まあ否定はできないが、あいつにそう思われているのは癪だな」

 素直ではない彼の言葉は無視し、ハリエットは続ける。

「だからね、もし……シリウスがそれで構わないんだったら、一緒に住みたいって」

 シリウスは驚きに目を見開き、しかしすぐにしかめっ面をした。

「わたしは邪魔者になりたくない」
「誰もそんな風に思わないわ! ドラコは、私がシリウスのことを大切に思ってるのを分かってくれてるの。ダーズリー家での私達の扱いや、シリウスがずっと逃亡生活を送っていたことも知ってる。だから、念願叶ってようやく一緒に暮らせるようになったんだから、シリウスもそう望むなら、一緒に暮らしたいって言ってくれたの……」

 ドラコは、満月のあの夜、叫びの屋敷でシリウスの冤罪を知った。同時に、冤罪が明らかになったら、一緒に暮らそうと生き生きしていたハリエット達、そしてシリウスの姿をすぐそばで見ている。その上、ダーズリー家でハリエット達がどのような扱いを受けてきたかについては、ハリエットのために薬を煎じることになったあの夏、自らが体験している。

 ドラコは、ハリエットとシリウスの気持ちを最大限に汲んでくれたのだ。その事実は、ハリエットを泣かせるくらいには感動させたし、シリウスをしばらく硬直させるくらいには、心に響かせた。

「いや、だが、気持ちはありがたいが、折角二人きりで暮らせるのに――」
「あら」

 尚も自分の心に抗おうとするシリウスに、ハリエットはピンと眉を跳ね上げた。

「新婚のお父さんとお母さんのところには、毎日のように入り浸ってたって聞いたけど?」
「――っ、それとこれとは話が別だ! 親友夫婦の家に入り浸るのと、娘夫婦と同居するのは全く別物だ」
「でも、お父さんとお母さんはシリウスを歓迎しただろうし、私達だってその気持ちは同じよ」
「…………」

 彼らしくなく、シリウスはじっと下を見つめていた。自分の中の頑なな何かと葛藤しているようだった。もう一押しだとハリエットは思った。

「私達と一緒に暮らしてくれる?」

 甘えるように、切望するように言うハリエットに、先に根を上げたのはシリウスのようだった。照れたように目を伏せながら呟く。

「全く……君には敵わないな」
「シリウスにそう言ってもらえるなんて光栄だわ」
「ハリエット」

 急に真剣な顔になって、シリウスはハリエットの手を握り混んだ。

「ジェームズとリリーに代わって、わたしが許可を出そう。君たちの結婚の許可を」

 ハリエットはゆっくり首を振った。

「シリウスの許可が欲しいの。シリウスに心から祝福して欲しい」

 ハリエットの言葉は、シリウスの胸に響かせるには充分だったようだ。唇をわなわなと震えわせ、シリウスは精一杯笑む。

「――心から祝福する。君たちの幸せを祈って」

 少し声が震えていたことに、ハリエットは気づかない振りをした。シリウスはハリエットを優しく抱き寄せ、その頭に唇を落とす。

「世界一美しく、心優しい花嫁になるだろう」
「シリウス、親馬鹿が過ぎるわ……」

 ハリエットは思わず笑ってしまった。だがシリウスは真面目な顔だ。

「世の父親とはこういうものだ。ジェームズもうるさいくらいだった」
「お母さんも大変ね」
「どうかな。リリーは少し楽しんでる節があった」
「そうなの?」
「じゃないとあいつと結婚しない」

 ハリエットはクスクス笑い出した。己の胸でハリエットが笑うので、くすぐったくてシリウスも笑い出した。


*****


 数日後、先日の食事会の仕切り直しという形で、再びドラコがブラック邸に招待された。その日はハリエットもシリウスも小綺麗な格好をし、両者とも朝から緊張した面持ちをしていた。

 緊張なんて言葉は一番似合わないだろうシリウスが、そわそわしているので、つられてハリエットまでもが落ち着かなくなってしまった。

 とはいえ、ドラコがやってくるまではまだまだ時間があるので、厨房でにケーキを焼いて待つことにした。

 だが、魔法を用いたお菓子作りはあっという間に終わり、手持ち無沙汰になったハリエットは一旦自室に戻ることにした。

 階段を一階、二階へと上がっていく。三階へと上がろうとしたところで、客間へ続く廊下に、ポツンとクリーチャーが立っているのが見えた。彼はわずかに空いた扉から顔を覗かせ、何やら小さな声で呟いている。

「代々受け継がれてきた伝統的なタペストリーにあの仕打ち……クリーチャーは苦言を申し上げたくても恐れ多くてできない……」

 久しぶりにクリーチャーのブツブツを聞いたような気がした。ハリエットは興味を惹かれて聞き耳を立てた。クリーチャーはわざと大きな声でブツブツ言っているような気がした。

「しかしこうも思います……。お二人の仲が元に戻るのなら、それも致し方ないと……」

 ハリエットは、クリーチャーの後ろからひょいと顔を覗かせた。薄暗い客間の中にはシリウスがいた。こちらに背を向ける形でタペストリーの前に仁王立ちしている。

「シリウス? 何をしてるの?」

 ハッとした様子で慌てたように振り返るシリウス。彼は取り繕ったような笑みを浮かべた。

「何でもない」
「何でもない訳があるまい……クリーチャーはブラック家のご先祖様に顔向けができない……。レギュラス様に何と言い訳するべきか……。嘆かわしいことです……」
「全く、お前は相変わらず小言がうるさいな」

 取ってつけたように笑って、シリウスはさあ一緒に居間へ行こうとハリエットの肩を抱こうとする。ハリエットはするりとその手から逃れ、シリウスが隠そうとしているらしいタペストリーを覗き込んだ。
『純血よ永遠なれ』
 一番に目に飛び込んできたのは、ブラック家の家訓だ。そしてその下には、純血の血筋のみを残した家系図がずらりと刺繍されている。

 あれ、と思ったのは、下方へ視線を滑らせた時だ。抹消されていたはずのシリウス・ブラックの文字が、大胆に大きく、焼け焦げの上に銀色のインクで記されていた。そしてそのシリウスの下に、新たに二つ名前が付け加えられている。ハリー・ポッターとハリエット・ポッターである。二人は、シリウスと一本の線で繋がっていた。

 このブラック家の家系図を、かつてシリウスは忌々しいと称していた。狂信的な純血主義の下、それを体現したこの純血ばかりの家系図を、シリウスは心から嫌悪していた。だが、このタペストリーには永久粘着呪文を掛けられ、どんなに嫌っていても、壁から剥がすことはできない。

 だが、これを見て分かるように、永久に剥がせないのであれば、とシリウスは向き合うことにしたらしい。

 家系図の変化はこれだけではなかった。ハリーとハリエットにはまだ線が二本あり、そのうちの一本が、これまたデカデカとジェームズ・ポッター、リリー・ポッターに繋がっている。

 ハリエットはおかしくなって笑ってしまった。残りの一本――ハリーから伸びた線は、新たに追加されたモリーやアーサー、ウィーズリー家の名が並ぶ中、その中の末娘ジニーに終着していた。

 ロンとハーマイオニーの名前もあった。ルーピンもトンクスも、その下にテッドもいる。

 そして最後。ハリエットから延びた線は、ルシウス・マルフォイとナルシッサ・マルフォイの下――ドラコ・マルフォイへと続いていた。

 ハリエットから延びる線は、ドラコに繋がっていたのだ。

 その線は、他の線に比べて、随分と不格好に見えた。器用なシリウスらしくなく、まるで主人の不機嫌さを現すかのように時折歪みながらも一本の線となっていた。

 ハリエットはその線を指でなぞった。知らず知らず、口元は弧を描いていた。

 ハリエットが振り返ると、シリウスは大層気まずそうな顔をしていた。今にもこの場から逃げたそうな様子だったが、客間の入り口ではクリーチャーがウロウロしていたので、そんなこともできない。

「シリウス、大好きよ」

 ハリエットは満面の笑みでそう言った。

 他にも言いたいことは山程あったが、今はこれで十分だった。

 シリウスは照れくさそうにしていたが、やがてその両腕にハリエットを閉じ込める。

「ドラコよりもか?」
「もう、意地悪!」

 シリウスの腕の中でハリエットは笑い声を立てた。いつの間にかクリーチャーはいなくなっていた。


*****


 しばらくして、ブラック邸にドラコがやって来た。

 ドラコは戦々恐々としていたが、想定していた以上にシリウスが穏やかな顔をしていたので、拍子抜けしたようだ。おまけに、開口一番シリウスはドラコに謝罪をした。ドラコは盛大に慌てふためいたが、謝罪を受け入れた。気まずい雰囲気の中、食事会が始まる。

 ハリエットが必死になって話題を探し、シリウスとドラコも、ぎこちないながら会話を続ける。しかし、食事会が終盤になっても落ち着かなかった三人は、結局、その原因であるこの先の出来事について、話題に挙げた。

「それで、あー……」

 シリウスの視線は斜め上を向いていた。

「君たちの、結婚についてだが……」

 喉が詰まり、シリウスはゴホンと咳払いをした。

「わたしは、ハリエットの後見人として……親として……心から君たちの結婚を祝いたいと思う」
「――っ」

 ハリエットもドラコも言葉を失った。

 ハリエットも、シリウスが認めてくれたことは分かって履いたが、改めてこうして言葉にされることで、無上の喜びが胸に込み上げてきた。

「それで……うん……ハリエットから聞いたが……」

 相変わらずシリウスの歯切れは悪かった。そういえば、とハリエットは思い出す。あの日あの夜――叫びの屋敷を出た後、シリウスが初めてハリーとハリエットに同居しないかと言ってくれたとき……あの時もまた、彼はとてもとても緊張していたようだった。あまりにも懐かしい思い出に、ハリエットは胸が一杯になる。

「同居の話だが……君は本当にそれでいいのか? ハリエットと二人きりで暮らせるのに?」
「はい」

 ドラコはまっすぐシリウスを見つめた。もっと他に言い様はあっただろうが、それ以上何も言おうとしないドラコに、シリウスが先に根を上げた。

「分かった。とりあえずは……その……有り難く君たちの言葉に甘えよう。わたしも、正直その話を聞いたときは嬉しかった」

 シリウスは息継ぎもせずに続ける。

「ただ、わたしとて気を使うつもりではいる。君たちは新婚になるんだ。二人で過ごしたいときもあるだろう。わたしはいつも帰りは遅いし、休みの日だって、ハリーかリーマスの所に行こうと思って――」
「シリウス!」

 妙な気の使い方をしているらしいシリウスに、ハリエットは堪らず声を張り上げた。全く彼という人は、知り合い夫婦の家に居着く趣味でもあるのだろうか。

「ハリーの所も新婚だし、ルーピン先生だってテッドはまだ小さいのよ!」
「だが、いつもいつもわたしと一緒じゃ――」
「私達は家族になるのよ! 変な気を使わないで!」
「…………」

 シリウスは、嬉しそうな、でも申し訳なさそうな、複雑な表情を浮かべた。

 シリウスにそんな顔は似合わないので、ハリエットは元気になってほしくて、彼のグラスにたくさんワインを注いだ。ハリエットに注いでもらってついグラスを傾ける速度が早くなったシリウスは、いつもよりのびのびと酔っ払った。

 同居を承諾してもらい、すっかりシリウスは上機嫌だった。羽目を外してワインをしこたま飲んだシリウスは、少しだけ調子に乗った。

「君以上にハリエットにふさわしい男はたくさんいると思う」

 またまたそんな失礼なことを口にするくらいには、シリウスは酔っていたのである。

 憤慨してハリエットが口を挟もうとしたが、しかし彼の話はそれで終わりではなかった。

「だが、ハリエットを心から幸せにできる男は君しかいないとも思う。少なくとも、ハリエットはわたしに対してそんな素振りを見せるから、許さざるを得ないだろう」

 照れ隠しか、シリウスは早口で言った。

 本当はシリウスだってドラコのことを認めてるくせに、とハリエットはニコニコ笑った。

「ハリエットを悲しませたら承知しない」

 最後にドラコを一睨みして、シリウスは照れ隠しにまたグイッとグラスを傾けた。ドラコはドギマギしながら姿勢を正した。

「あの……ミスター・ブラック。本当にありがとうございます。正直、僕にミス・ポッターは勿体無いくらいだと――」
「それは止めろ」

 ドラコの言葉を遮って、シリウスは急に真面目な顔になった。

「ミスター・ブラック、ミスター・ブラックと何度も言われて、頭がおかしくなりそうだ。いいか? わたしはブラックじゃない――いや、ブラックだが――ブラックじゃない。分かるな?」

 分かりそうで分からなかったが、ドラコはとりあえず頷いておいた。

「シリウスでいい」
「あ……ありがとうございます」

 妙な沈黙が居間に漂った。

「ドラコは恥ずかしがり屋なのよ」

 見ていられなくて、ハリエットもまた妙なフォローをした。

「私の名前も、二人っきりのときですら呼んでくれないの。『君』ばっかり」
「ほーう?」

 シリウスはツンと顎を突き上げ、ドラコを見た。

「わたしの名付けた名前が呼べないと?」
「い、いえ、そういうわけでは……」

 この状況で妙な告げ口をしたハリエットに、ドラコは勘弁してくれと視線でメッセージを送った。ハリエットは気づかなかった。

 仕切り直しの食事会は和やかに――時にぎこちない雰囲気になりながら――幕を下ろした。

 ただ、何を思ったか、帰りが遅くなったドラコに、泊まっていくかと突然シリウスが言い出したときには場は騒然となった。

 ――自分は試されているのか。

 まずそう思ったドラコだが、シリウスの顔を見るに、どうやら本気で言ってくれているようだった。ただ、シリウスもいるとはいえ、さすがにそんなことはできないので、ドラコは丁重に断った。

 ハリエットも残念そうな顔をしながら、玄関までドラコを見送りに出た。これまた妙な気を使ったシリウスは、居間に残ったままだったし、クリーチャーも見送りに出なかった。静かな玄関ホールまで出ると、ハリエットはポツリと呟いた。

「ドラコ……同居のこと、本当にありがとう。シリウスは素直じゃないから、あんまり分からなかったかもしれないけど、でも、最初にこの話をしたとき、本当に嬉しそうだったの。もちろん私も。甘えん坊だって思われるかもしれないけど、まだシリウスと離れたくなかったの」
「君にとって大切な人は、僕にとってもそうだ」

 恥じらうように笑ったハリエットの手を、ドラコは真面目な顔で握った。

「あの日――あの夜、君たちが一緒に暮らすという話をしていたとき……あの時の僕は、君たちがマグルの家で酷い扱いを受けてたなんて知らなかったけど、三人が一緒に暮らせたらいいだろうなって思ったんだ。本当に幸せそうに見えたから」

 一気に言い切ると、その後彼は視線を外し、照れくさそうに付け足した。

「まあ、本当のことを言うと、『ポッター』には脱獄囚と同居するのがお似合いだって皮肉ももあったが」
「何それ」

 ハリエットは小さく笑った。ドラコの顔は真剣だった。

「折角一緒に暮らせるようになったのに、それを引き剥がしたくなかったんだ。それに、僕だってミスター――シリウスにはもっと認められたいと思う。そのためには、もっと僕のことを知ってもらう必要がある……。君の父親なんだから、そう思うのは当然だろう?」

 ハリエットは何度も頷きながらドラコに抱きついた。

「ドラコ……大好き」
「僕も――愛してる」

 束の間目が合ったが、どちらからともなくその瞳は閉じられ、そして唇が合わさった。今がこの上なく幸福な一時だと心から思った。薄暗い屋敷も、今なら白亜の城に思える。グリモールド・プレイス十二番地が、これからのマルフォイ家の出発地となるのだ。