踊る羽根ペン

ー晴れ渡る空の下ー






 ドラコにとって、スネイプは昔から頼れる人であったことに違いはない。

 彼とは、ドラコが幼少の頃より度々面識があり、誕生日のお祝いをもらうこともあった。ホグワーツ在学中は、直々にルシウスが頼んでいたことも相まって、随分目を掛けてもらっていた。

 そしてそれは卒業後も変わらず、むしろドラコが癒者になって以降は、関係性がより深くなったとも言える。癒者という職業柄、魔法薬の見聞は広いに越したことはない。既存の魔法薬の応用方法や、稀少な材料の効果的な調合方法、最近発表された魔法薬など、スネイプとの話題は事欠かない。それでなくとも、もしかすると、癒者よりもよっぽど深く魔法薬を研究しているだろうスネイプに、つい助言を仰いでしまうのは、身内の結束に固いスリザリン寮特有の性質だからだろうか。

 元来の研究者気質が騒ぐのか、教鞭を執る職でありながら、スネイプ自身も日々魔法薬の更なる改良を怠らないとあらば、彼もまた、表面上にはあまり変化はないが、それなりに快くドラコを出迎えるのが日常と化していた。

 その日、ドラコがスネイプの研究室の戸を叩いたのは、とある稀少な材料の購入ルートについて相談するためだった。学生時代、彼の材料棚に見た覚えが薄らとあり、ならばと直接彼を訪ねることにした――と言うのが、ドラコの言い分。

 スネイプは、何となく彼の目的が別にあるのではないかと感じていた。ドラコは、昔から喜怒哀楽が分かりやすい。今日だって、どこかソワソワした様子だ。何かある。そうは思ったが、スネイプから聞くようなことはしなかった。何か話したいことがあるのなら、向こうから勝手に話してくるだろう。

「我輩がいつも買い付けている店の主人は少々偏屈だ。紹介状を書こう」

 羊皮紙を取り出し、羽根ペンを手に取った所で、不意にスネイプは顔を上げた。

「……ああ、いや。やはり我輩も行こう。丁度買いたいものがあった」
「良いんですか? 紹介状を書いてくだされば、僕が買ってきますが」
「いや。紹介状ありきでも、あの店主を相手にするには心許ない。舐められては足下を見られるからな」

 この申し出にはドラコも想定していなかったようで、ポカンとしている。だが、多くは語らず、スネイプはローブを羽織った。

 煙突飛行によってまず向かったのはノクターン横丁だった。第二次魔法戦争以降、以前よりもずっとその規模は縮小されたが、それでもダイアゴン横丁の影で闇の魔術の品物が売り買いされるのはこの先も永遠になくなることはないだろう。魔法省も半ば黙認している。足取りが掴めなくなるよりは、必ずノクターン横丁を介して行われる商売の方が、いざとなったときは対処がしやすい、と。

 今から行く店も、もちろんノクターン横丁にある。ドラコには店の主人が偏屈だのとそれらしい理由を並べ立てたが、実のところ、ドラコのことを心配していた。スネイプにはもう失うものは何もなく、今更周りに何を言われたからと気にしないが、ドラコは違う。これから陽のあたる道を進んで行く中で、一人ノクターン横丁を歩いていたという事実が残るのは良くない。スネイプがいたから何がどう変わる訳ではないが、少なくとも証人にはなれる。

 そうして、無事材料の買い付けを終えた所で、特に寄り道することなく、スネイプはあっさり漏れ鍋へと向かっていた。相変わらずドラコは落ち着かない様子だ。そのまま黙っていれば、ようやく彼は意を決したように声を上げる。

「……先生。もしかして……誰かからお聞きしているかもしれませんが、僕の口から直接言いたいことが……」
「はっきり言わんか」

 言い淀むドラコに、スネイプは早々に痺れを切らす。ドラコは息を吐くと、真っ直ぐ前を向いた。

「ハリエットと結婚することになりました」
「…………」
「もしかして、初耳……ですか?」

 スネイプがゆっくり頷くと、心なしかドラコは嬉しそうな顔をした。

「スネイプ先生にはこれまでお世話になったので、どうしても直接言いたかったんです。ですが、ご報告だけで会いに行くというのも少し気恥ずかしく……このような形に」
「それは……あー……おめでとう、と言った方がよろしいですかな?」
「ありがとうございます」

 苦虫をかみ潰したようなスネイプの表情は、決して祝っているとは言い難いものだったが、しかしそれでもドラコにとっては充分だった。

「君の父上は何と?」
「心から祝福、という訳にはいかないようですが、許可は頂きました。先日も、ハリエットを交えて食事会をして。母は喜んでいました」
「そうか……」

 遠い目をしてスネイプは黙り込んだ。ドラコも、それ以上何かを付け足すようなことはせず、ただこの穏やかな沈黙を味わう。

 それから、スネイプが唐突に口を開いたのは、ノクターン横丁の狭い抜け道を抜け、あとは真っ直ぐダイアゴン横丁を目指すだけとなったときだ。

「ミス・ポッターの後見人の方も、随分とうるさかったのではないかね?」
「ああ、はい。渋られました。ですが、今は祝福してくださっています。僕達、一緒に暮らすことにしたんです」
「何――君と、ブラックが?」
「はい」
「新婚なのに?」
「はい」

 失礼な話だが、スネイプの口から『新婚』という言葉が出てきて、ドラコは思わず吹き出しそうになってしまった。もちろん既のところで堪えたが、しかしスネイプは尚もブツブツ言う。

「全く神経を疑う。たかだか後見人の分際で同居を強制するなどと……。断れなかったのか?」
「僕からそう申し出たんです。ハリエットとシリウスを離れ離れにさせるのは、僕の望む所ではないので」
「だからといって……」

 スネイプはますます渋面になった。ひどく同情の表情を浮かべている。

「同じ屋根の下に暮せば、どれだけ神経を削られるか君は分かっていない。あいつは子供がそのまま大人になったようなものだし、すぐに不機嫌になる。それに、嫌味はあいつの十八番だ」

 ここにシリウスがいたならば、『お前には絶対に言われたくない!』と吠え返しただろうが、しかし幸いなことにこの場にシリウスはいなかった。

「全部承知の上です。それでも、僕はシリウスに認められたいと思ったんです」
「あいつは君がそこまで思うほどの度量ではないと我輩は思うが……」

 スネイプはなおも納得のいかない表情だ。いくらドラコ本人の意志とは言え、小さい頃から目を掛けてきた青年が自分の憎き相手に認められようと奮闘する様を見るのは実に不愉快だ。

 スネイプの機嫌は落ち込んだまま、いつしかノクターン横丁を抜けた。人通りが多くなってきて、ドラコは人知れず焦った。早く本題に入らなければ――。

「先生――」
「私は、今あるもので充分だって言ってるのよ」

 それほど大きな声ではないのに、ドラコはハッとして口を噤んだ。知り合いの声――いや、婚約者の声に反応してしまうのは、仕方がないことだろうが。

「ファイアボルトと一緒にくれたネックレス、あれ、ものすごく高いものでしょう? まだ数回しか身につけたことないんだもの、もったいないわ!」
「でも、あれはもう十年も前にあげたものだろう。もっと最近の、流行に乗ったデザインの方が映えるに決まってる」

 ジュエリーショップの前で押し問答をするのは、今まさにドラコ達が話題に上げていたハリエット・ポッターと、その後見人シリウス・ブラック。思いも寄らない遭遇にドラコは足を止め、スネイプもまた否応なしに彼に合わせる。

「私、あのネックレスずっと大切にしてきたの。流行ってるからって、一生の場に別のものをつけたくないわ」
「じゃあ――じゃあ、せめてイヤリングだけでも――」
「イヤリングはこの前誕生日にもらいました! あれで充分です!」
「――だが、折角の結婚式なんだぞ! その日のために用意した素敵な宝石があったっていいじゃないか! わたしにも素敵な結婚祝いを贈らせてくれ!」
「でも……シリウス……」

 シリウスの深く熱い想いに、ハリエットは心揺さぶられているようだった。それとは対象的に、絶対零度の視線で二人を見つめるは、セブルス・スネイプ。現在目の前で繰り広げられるはた迷惑な後見人馬鹿小劇場に若干目眩を起こしかけている所だ。

 スネイプは、今すぐにでも回れ右をして帰りたい所だった。しかし、隣の教え子がそうはさせてくれなかった。

 婚約者同士、何か通ずるものがあったのか、ハリエットはふと言葉を切ると、ドラコの方へ顔を向け――満面の笑みを浮かべた。

「ドラコ! スネイプ先生も!」

 駆け寄ってくるハリエットの肩越しに、シリウスが苦虫を噛みつぶしたような顔をしているのが見えた。ハリエットとの時間を邪魔されたことにか、天敵スネイプと遭遇したことにか、はたまたそのどちらもか。

 ハリエットから少し遅れて、シリウスものそのそやって来た。

「こんな所で何してるんだ?」
「いつから我輩の行動の如何を君に報告する義務ができたのかね?」
「相変わらず嫌味な男だ」

 反射的に言い返したスネイプだが、この場においては正しくない選択だったかもしれないと思い直した。自分のみならまだしも、ここにはドラコもいる。これから義理の息子になる彼のことを思えば、この思い込みの激しい義理の父から――とはいえ、彼はあくまでただの後見人で、本人が父親面をしているに過ぎないのだが――たとえほんの小さな疑いの種であっても、取り除くに越したことはない。

「ブラック、勘違いしないでもらいたい。我輩はノクターン横丁で材料の買い付けをしにきただけだ。決してお前が勘ぐるような後ろ暗いことをしにきた訳ではない」
「そんなことは分かっている!」

 ハリエットがすぐ側にいるからか、心外だと言わんばかりにシリウスはそっぽを向いた。

「ところで、君達は? 買い物か?」
「あ――ええ。私は普通にお出かけするだけのつもりだったんだけど、シリウスがどうしても……私に宝石を買いたいって」

 ジト目で見られていることを感じ、シリウスは逆に胸を張った。

「そりゃあ、一生に一度の大切な日だ。わたしから贈り物をしたいって思うのは普通だろう? ドラコ、君もそう思うよな?」
「そうですね」

 シリウスから認められたとはいえ、未だ彼には頭の上がらないドラコ。ここは大人しくシリウスの期待通りの返事をするしかなかった。

「独り身の君にとっては、名付け子くらいしかお金の使い道がないだろうからな」
「その言葉、そっくりそのままお前にお返ししよう。魔法薬のしみったれた材料にしか使い道のない奴よりはマシだ!」

 ジトリといい大人二人が睨み合う。シリウスはスネイプを見据えたまま急に声を張り上げた。

「そうだな! どうせわたしには有り余るお金だ! ドラコ、君にも何か買おう!」
「……えっ? 僕ですか?」
「何が欲しい? 結婚祝いだ。何でも買おう。だが、間違っても角ナメクジだとかニガヨモギだとか言わないでくれよ! そういうものは、一日中研究室に閉じこもってるような輩に頼むんだな」
「シリウス」

 大人げない後見人の態度に、ハリエットが冷え冷えとした声をかけた。途端にシリウスは口を閉ざしたが、その顔には反省の色は見られない。

「いいわ。シリウスがドラコに用があるのなら、私、スネイプ先生と少しお話ししてくる」
「ハリエット……?」
「スネイプ先生、お時間大丈夫ですか?」

 ハリエットはにっこり笑ってスネイプを見上げた。スネイプもしばしの間ハリエットを黙って見下ろす。

「――良かろう」

 その時のシリウスの顔は、筆舌に尽くしがたく、スネイプは大層上機嫌でその場を去った。


*****


 間接的ではあるものの、天敵シリウス・ブラックの鼻っ柱をへし折ることができたスネイプは、ハリエットと共にダイアゴン横丁を歩いていた。歩き出してしばらくは、後ろに後見人の視線をひしひしと感じていたが、人混みに紛れて歩くうちに薄くなっていった。どうやら見失ってしまったらしい。

 スネイプが後見人の気配に注意を払っている間、ハリエットは大人しかった。というより、どこか緊張している様子だった。

 つい先ほど、シリウスを言外に窘めていた時とは打って変わってしおらしいのだ。スネイプの方も調子が狂ってくるというもの。

 そもそも、スネイプは、第二次魔法戦争が収束して以降――何年経ったと思っているんだという質問は受け付けない――未だハリー・ポッター、そしてハリエット・ポッターとの関係に思い悩んでいた。

 スネイプの、ジェームズに対する憎しみは相変わらずで、リリーへの想いもまた然り。ただ、その娘息子に対する思いは変化していた。

 始めこそ、ジェームズへの憎しみに曇った眼は、ハリーに対し、容姿も内面も父親そのものだという判断を下し、感情の赴くままに、正直少しやりすぎたと思うくらい当たり散らした――とはいえ、ハリーの方も、父親から受け継いだであろう問題児たる片鱗は時折見せていたために、少なからずスネイプだけが悪いという訳でもない。ハリエットの方も、リリーに似ているという面で、多少は躊躇いを見せたものの、結局はリリーとは違う性格に勝手ながら失望を覚え、決して友好的とは言えない態度を取ってきた。

 だからこそスネイプは、自分が彼らに嫌われていても仕方がないと思っていた。そもそも好かれようと思って接したつもりはない。むしろその逆だ。本意ではなかったとはいえ、スネイプ自身が彼らの両親の死の一端を担っているため、その後ろめたさが、逆にそんな態度を取らせていたのかも分からない。

 嫌われてもいい。むしろ憎んで欲しい。自分がジェームズを憎んだように。

 だが、彼らはそうはならなかった。スネイプを憎しみはしなかった。ハリー、ハリエット共にだ。それがスネイプにとっては不思議でならない。

 心から純粋に慕っている訳ではないだろう。だが、一時の気の迷いではなく、確かに二人が己を見る目には、深い感謝や尊敬、そして情がある。

 これに対し、スネイプは嬉しいと思うことは決してない。むず痒く、鳥肌が立ち、居心地も悪い。こんな感情を味わうくらいなら、できれば嫌って欲しいとすら願う。だが、彼らはそうはならない。こういう所が母親に似ているのだろうか、とぼんやりスネイプは思う。

「もうドラコからお聞きしてると思うんですけど」

 ハリエットの声が、スネイプを思考の海から引き戻した。

「私達――結婚することになりました」
「……ドラコから聞いた」
「それで――その、私達の結婚式、参加してくださいますか?」

 窺うように見てくるハリエットの視線を受け、スネイプは身を強ばらせた。

「ハリーの結婚式にも、先生は不参加でしたよね? ハリー、凄く残念がってました。目立つのはお嫌いだということは分かっているんですが――私もドラコも、スネイプ先生にはぜひ参加して頂きたいと思ってるんです」
「我輩の参加の有無でお前達の結婚式の如何は変わらないだろう」
「気持ちの問題です。私にも、ドラコにとっても先生は恩人なんです。……もちろん、強制ではありません。でも――もし、少しでもお気持ちが揺らぐのであれば……。式は、内輪だけの小さなものにする予定です。なので、スネイプ先生も気軽に来て頂きたいんです」
「先ほどの様子から見るに、君の後見人が質素な式で我慢するような甲斐性には見えなかったが」
「……何とか、抑えるつもりではあります」

 妙に空いた間に、スネイプは容易に有言実行とならない未来を想像した。

「でも、もし特に理由もなく無理だと仰るのなら、最終手段を取るつもりだってドラコが言っていました」
「……なに?」
「聞きたいですか?」

 ハリエットはクスクス笑ってスネイプを見上げた。

「お義父様にお願いするって言ってました。スネイプ先生にぜひとも参加して欲しいから、お義父様からせっついて頂くようにと」

 途端にスネイプは渋い顔になった。

 なるほど、確かに我が教え子はスリザリン寮に恥じない狡猾な青年へと成長した。こんな時に発揮して欲しくないというのが純粋な心境だが。

「――考慮しておこう」

 そう苦々しく答えるほかなく、そしてその返答は、ハリエットも想定済みだったようで、むしろおかしそうにクスクス笑う。結婚を控え、幸せの絶頂にいるためか、今日のハリエットは何がおかしいか、常に笑っている。スネイプは常時調子を崩されたままだ。

「スネイプ先生って、ドラコの後見人みたいですね」
「……何を急に?」
「ドラコはいつもスネイプ先生を頼りにしてますし、先生も、ドラコのことは特に目を掛けてましたよね?」
「……それは、彼の父親と親交があった所以だ」
「それでも、です」

 唐突にハリエットが足を止めた。その視線の先には、マダム・マルキンの洋装店の看板が。――いつの間にか、この辺りの区画をぐるりと一回りしていたらしい。

 ハリエットがなかなか動かなかったので、洋装店に何か用でもあるのかと目をやれば、ガラス窓越しに、シリウスとドラコの姿がある。どうやら、ドラコのローブか何かを仕立てようとしているらしい。シリウスは生き生きとしているが、ドラコはどことなく疲れた様子だ。

 良家出身のドラコは昔から質の高いものを身につけてきてはいたが、社会に出てからは、給料に合った暮らしぶりをするようになった。長年染みついた金銭感覚は、数年やそこらで修正されるものではなかったが、それでもようやく経済的なものの見方ができるようになっていた昨今――根っからの坊ちゃんシリウス・ブラックによる買い物に付き合わされ、多大な疲労を負わされたらしい。

 さすがのブラック家と言った所か、十二年間のアズカバン生活も、数年の脱獄囚生活も、彼の金銭感覚を変えるには何の影響も及ぼさなかったようだ。

「あの後見人と同居すれば、きっと苦労するだろう」
「そうでしょうか?」
「君は良いかもしれない。だが、大雑把なあの男と付き合っていれば、繊細な部類のドラコは神経を使うだろう」
「…………」
「……ドラコを、よろしく頼む」

 ハリエットは、ゆっくり瞬きをした。スネイプの言葉を反芻し、そしてへにゃりと笑う。

「やっぱり後見人ですね」
「あやつと一緒にしないで頂きたい」
「一緒にしてるつもりはありません」

 ハリエットはすぐに切り返した。

「シリウスは、過干渉すぎて、もう親の領域にまで達してるんですが、スネイプ先生は、まさに後見人の鑑と言いますか」

 視線の先では、やたとシリウスがドラコに紅色のローブを勧めている。ドラコにはもっと他に似合う色があるだろうとスネイプは思った。嫌がらせのつもりなのか、単にセンスがないのか、自分の趣味を押しつけてるだけなのか。

「スネイプ先生」

 再びハリエットが口を開いた。顔は前を向いたまま、視線だってドラコとシリウスに向けられたままだ。

「私、今とっても幸せです」

 虚を突かれた形で、スネイプ先生はそのまま何も言わなかった。ハリエットの視線の先のドラコを見る。

「私達がこうしていられるのも、スネイプ先生のおかげです」

 ゆっくり彼女に視線をやると、彼女もまたスネイプを見上げた所だった。ハシバミ色の瞳と目が合う。

「お待ちしていますね」

 そう言って美しく微笑んだ彼女は、リリーに似ていて、それでいて全く違うとも言えた。

 リリーの享年をとうに追い越したその女性は、ハリエット・ポッターその人だったのだ。


*****


 音もなくオフィスの扉が開いたとき、ハーマイオニーはそれほど驚かなかった。そろそろだと思っていたし、丁度一休みしたい頃合いだったからだ。

 だが、顔を上げたとき、顰めっ面のままズンズンと足を進める彼の姿を見てポカンとした。訪問があることは想定していても、まさか『彼』が来るとは思いも寄らなかったのだ。

「――これは一体どういうことだ」

 学生時代、何度この声を聞いてきただろう。

 だが、もうハーマイオニーは緊張に身体を強ばらせることなく、むしろにっこりと微笑む余裕すら滲ませて、彼――セブルス・スネイプを見上げた。

「まさかスネイプ教授が来られるとは。そのご様子ですと、お読みになったんですね? いかがでした?」
「人のプライバシーを突いた挙げ句、開き直るとは……。よくもそう堂々としていられたものだな。さすがは魔法大臣と言った所か」

 ハーマイオニーは微笑んだままちらとも動揺を見せず、むしろ落ち着くようにとスネイプに紅茶を勧めた。

「魔法大臣はよほど暇と見えるな。こんな低俗な本を出版するほどに?」
「光栄なことに、先日ベストセラーと相成りました。教授のご趣味に合わないのは残念なことです」

 軽くそう返した後、ハーマイオニーは真摯にスネイプに向き直った。

「スネイプ教授の心情を勝手に想像し、執筆したことは謝罪します。ですが、ハリエットとドラコの話を本にしたいと言ったとき、スネイプ教授のお名前を出すことをお許し頂けましたよね?」
「こんな風にあからさまに我輩の事情を曝け出すことに了承した覚えはない!」
「ですが、教授の複雑な諸事情は今では魔法界の子供ですら寝物語に知ってる話です。私がどう演出したからとして、今更ではありませんか? 私が過剰に演出しているということは周知の事実ですし」
「あれこれ勝手に想像されて、君の手によって執筆されたということに虫唾が走るのだ! そもそも、君は誰からこの話を聞いたのだ? ブラックか? ハリエット・ポッターか?」
「ハリエット・マルフォイですよ、スネイプ教授」

 小さく突っ込んだ後、ハーマイオニーは咳払いをした。

「残念ながら、教授の推測は外れです。もちろんドラコからでもありません。悲劇の脱獄囚シリウス・ブラックと、愛を貫いたセブルス・スネイプ、魔法界の英雄の妹ハリエット・ポッターに、闇の帝王を裏切ったドラコ・マルフォイ……。この四人が、かつてダイアゴン横丁の往来で何やら話をしていたようだというのは、もともと小耳に挟んでいたんです」
「なっ――」
「ダイアゴン横丁ともあれば、どれだけたくさんの目と耳があったことか。有名人が四人も集まれば、それはそれは興味を引いたでしょうね。そこから今回、こういった話を書くに至ったんです。そう的外れではないと、教授のご様子から何となく察しましたが」
「――っ!」

 薄ら寒いものを感じて、スネイプは咄嗟に閉心術を強めた。

 長年二重スパイをこなしてきたスネイプにとって、常日頃心を閉ざしておくことなど造作ない。習慣として日常生活の中に染みついていた閉心術が、まさかこんな時に危機感と共に警鐘が鳴らされるとは。魔法大臣とは言え、かつての教え子に。

「でもご安心ください。スネイプ教授の登場はこれで最後です。そもそも、今回の話だって番外編ですし。後二、三話でマルフォイ夫婦の話は本当に完結する予定です。それまで、ぜひ楽しんで頂ければ幸いです」

 学年で一番の出来の魔法薬を、あれこれと難癖をつけて減点していたのを、まさか根に持っているわけでもあるまい。

 だが、こちらを射抜くように細められた目に、不穏なものを感じ、スネイプは知らず知らず冷や汗を流した。