■回想
06:ネズミの告白
ポッター家を後にしたピーターは、震える身体である場所へ向かった。この年、もしかしたらポッター家よりもたくさん訪れたかもしれない場所――。
「遅い」
地を這うような恐ろしい声。ピーターは足の先から恐怖が込み上げてくるのを感じながら頭を下げた。
「も、申し訳ございません、我が君……。き、き、騎士団の任務があって……」
「日に日に情勢は俺様へと傾いている。ダンブルドアはさぞ焦っていることだろう」
背の高い椅子にゆったり座るヴォルデモートは、幸いなことに機嫌は良さそうだった。
「なぜお前をここへ呼んだか分かるか? ワームテール?」
「い、いえ……」
「予言の子だ。ついに決めた」
言葉少なに立ち上がり、ヴォルデモートは落ち着かない様子で歩き始めた。
「予言を聞いた時、俺様には怒りしかなかった。俺様に比肩する者だと? 学生時代から頭角を現し、ようやくこの魔法界の全てを手に入れようとしている俺様に、まだ一歳かそこらの赤子が匹敵するというのか?」
ヴォルデモートの苛立ちと共に窓ガラスがガタガタと揺れる。ピーターはヒッと喉を鳴らした。
「――だが、仕方ない。予言がそう言うのだ。決めるしかない。二つに一つだ」
ヴォルデモートはピーターの目の前で止まった。どうか、どうかと祈るような思いでピーターはギュッと目を瞑るが、無慈悲にその名は綴られた。
「ポッターだ」
「――っ!」
「ポッターに決めた。ハリー・ポッターと言ったか? あいつが予言の子だ」
「わ、わ、我が君……」
ピーターはその場に崩れ落ちた。ヴォルデモートはクッと唇の端を歪める。
「なんだ? 今更嫌だというのか? 騎士団の情報を流すのは良くて、親友を売るのは我慢ならないか? お前はそんなに友達思いだったのか?」
ヴォルデモートは杖でピーターを吊り上げた。己の目の高さまで掲げる。
「俺様は知っているぞ、ワームテール。お前は自分の身が一番惜しい。可哀想なお前のために母親を人質にと言ったが、どうだ? 本当は人質なぞいなくとも友達を売ったのではないか?」
「ち……ちが……」
「楽になれ、ワームテール」
ヴォルデモートはゆっくりピーターの周りを徘徊した。
「友達とやらが一体何の役に立つ? いつお前を助けてくれる? 今お前はこんなに苦しい思いをしているのに。お前をこんな状況に追い詰めたのがあいつらだというのに」
「あ……あ……」
「簡単なことだ」
ヴォルデモートが止まった。赤いヘビのような目にピーターは射すくめられた。
「お前の代わりに、母親の代わりに親友の子を差し出せと言っているだけだ。赤子だ。なんの意志も尊厳もないただの子供。あっという間にあの世へ旅立つだろう。それのどこが可哀想だというのだ?」
「…………」
「可哀想なのはお前の方だ。騎士団と俺様の間で板挟みになって……。早く楽になりたいだろう? 決断するのだ」
ドサリとピーターの体が地面に倒れ込んだ。ピーターは項垂れたままその場から動かない。
「それで、ワームテール。ポッターの家はどこにある?」
「…………」
「まだ決心ができない臆病者めが!」
いきり立ち、ヴォルデモートはピーターに磔の呪文を掛けた。静かな屋敷にけたたましい叫び声が響き渡る。一瞬のことだった。それでも、ピーターの意志を挫くには充分だった。
「ち、違います。言えないんです。忠誠の術がかかってるから……」
「忠誠の術だと? 小癪な!」
苛立ち紛れにヴォルデモートはピーターを壁に叩き付けた。ピーターはそのまま力なく地面に転がる。
「守人はダンブルドアか?」
ヴォルデモートの足がすぐ目の前にあった。ピーターは震えながら首を振る。
「し、シリウスです……。ジェームズは、シリウスがいいって……」
――間違いではない。一度はシリウスに決まった。ジェームズがそう言った。
「はっ、傲慢なあの男が言いそうなことだ。大人しくダンブルドアに頼めばいいものを、俺様をブラックごときが欺けると思ったのか?」
イライラとヴォルデモートは続ける。
「しかし、厄介だ。もちろんあやつを捕まえるのは容易なことだろう。だが、あいつが口を割るとも思えん。ポッターの危機にいつも一番に駆けつけるあいつが……ワームテール」
再びヴォルデモートが目の前にいた。
「秘密の守人は自分の方がいいと、そう言うのだ」
「え……」
「ブラックは囮になり、自分が守人になった方がより安全だと言うのだ。自分の方が逃げ隠れが得意だからと……」
「で、ですが」
思い切って顔を上げたピーターはすぐに後悔した。無慈悲で残酷な赤い瞳が己を見下ろしていたからだ。
「もちろん、お前がブラックを俺様の前に連れてくるのでもいいだろう。死よりも恐ろしい苦痛が永遠に続く絶望……。あのブラックの口からポッターを売らせるのもさぞ気持ちが良いだろう」
ヴォルデモートは唇の端を歪めた。そしてゆっくりピーターを見据える。
「二日与えよう。それまでに必ずお前が守人になるのだ。そして俺様にポッターの居場所を明かすのだ……」
*****
それからどうやって自分が家に帰ってきたかは覚えていない。気がついたときにはソファに倒れ込むようにして座っていた。暗い部屋の中、ピーターの中に鬱々とした感情がこみ上げてくる。
『俺様にポッターの居場所を明かすのだ』
ヴォルデモートの恐ろしい声。思い出すだけでも動悸が激しくなる。
ポッターの家? 僕が秘密の守人なんだ。教えることはそう難しいことじゃない。でもポッターは――僕の友達だ。
今までのスパイ活動とは圧倒的に重みが違う。せこせこと内部情報を内通することとなんて比べ物にならない。僕は、この手で、この口から親友を売ることになるのだ。
喉がカラカラに乾いた。アクシオでキッチンから水入りのコップを呼び寄せたが、手元が狂って膝下にぶちまけてしまった。
生暖かい水だ。にも関わらず、ピーターはそこからゾクゾクと寒気を感じた。まるでこの水が己の血のように感じて情けなくも悲鳴を上げる。転げ落ちた先は地面で、無様に尻もちをついたが、誰も助けてくれる者はいない。手を差し出してくれる人だって。
ピーターはクシャクシャに顔を歪め、蹲った。震える唇から嗚咽が次から次へとせり上がってくる。
ああ、白状しよう――僕は、母親が人質に取られたからだけじゃない。磔の呪文をかけられることも、自分が殺されることも嫌で、怖くて、親友を売ろうとしている。
でも仕方ないじゃないか!
ピーターの叫びは、緊張と恐怖で早くなる呼気のせいで声にはならなかった。
誰だって、死ぬのは怖い! それが殺されることであれば更に! 拷問の末に殺されるのであればもっと嫌だ!
がんじがらめの境遇に、つい唯一安穏としているだろうもう一人の親友の顔が思い浮かぶ。
リーマスは、いいよなあ……。
ふとポツリとピーターはそう思った。
狼人間だから、既にデメリットを背負っているから、これ以上負担をかけるのは忍びないと守人の候補から外された。拷問も殺される心配もなく、ゆうゆうと彼は家に引きこもっていればいいのだ。
思えばリーマスは、昔からそういう奴だった。ジェームズたちみたいに天才的な訳じゃないのに、要領がいいから涼しい顔で二人について行けた。その上八方美人で、自分だって悪戯に加担しているくせに、監督生という身分を笠に着て涼しい顔で罰則から逃れたりする。スネイプへのいじめだって、自分は関係ないという顔をしてうまいことジェームズとリリーとの間を行き来していた。ジェームズたちは特に何も思わなかったようだが――そういう奴が一番たちが悪いのだ。
僕がどれだけ必死に二人について行っているか分かりもしないくせに――彼は、狼人間というだけで同情と友情を勝ち得たのだ。僕も狼人間だったら良かったのに――。
ふと思い至ったことがあって、ピーターはクッと笑いを零した。嘲笑とも、自嘲とも取れる笑みだ。
――だが、そんな彼の器量の良さも、そろそろ限界が来たようだ。シリウスが、リーマスがスパイじゃないかと疑っているのだ。最近自分たちに黙ってよくコソコソ出掛けているから。そんな時は狼人間の所に出入りしているらしく、仲間と集うつもりじゃないかと怪しんでいるから。
スパイは僕なのに――それなのにリーマスを疑うなんて見当違いも甚だしいシリウスの愚かさに笑いがこみ上げてくる。大人しく自分が秘密の守人になればいいものを、ヴォルデモートの力を過剰に危ぶみ、親友を疑い、そしてあろうことか、スパイであるもう一人の親友に秘密を託そうとするなんて。
シリウスはそういうところがある。確かに彼は頭が良い。何でも良くできる。だが、直情的ですぐにカッとなるし、思い込みが激しく、肝心な所で爪が甘い。冷静になれば誰よりも良い作戦を思いついたりするのに、すぐに挑発に乗ってすべてを台無しにするのだ。澄ました顔で皆を見下しているくせに、実は一番愚かなのがシリウスだ。成績だって、万年学年二位。一度だってジェームズに勝てていないのは周知の事実だ。それなのに、自分はまだ本気を出していないんだというクールぶった顔をする。
それに、彼は考えもせずにものを言う所がある。無神経な言葉で人がどれだけ傷ついてるか考えもしなかったに違いない。純血主義で抑圧してくるブラック家の人々を嫌い、家を出てきたくせに、周囲の人々の心無い言葉で傷つけられてきたくせに、自分は平気で人の傷口をえぐるようなことを言ったりする。彼はどうやらブラック邸に思いやりや共感力を忘れてきてしまったらしい。
そういう意味でまだマシなのはジェームズだ。シリウスに並ぶ天才的な頭脳と実力を持っているのに、人の機微に聡く、些細なことでもすぐに気づく。しかし、だからこそか、彼は非常に自意識過剰だ。いつも髪をクシャクシャにしてラフにセットされた風を装おうとするし、自分の才能に酔いしれている節がある。いつだったか、リリーにガツンと言われていたときは思わず笑いそうになったものだ。クィディッチでだって、目立ちたがりなプレイが多い。自分ができることは他人もできて当たり前と思っていて、ピーターのような人種が彼をどんな風に思っているのか想像だにしていないはずだ。
ホグワーツ名物となっていた悪戯仕掛人――その中の一人にどうして自分がいられたのか、今やピーターは不思議に思えてならない。血の滲むような努力の末ようやくアニメーガスは習得できたものの、ホグワーツの成績はパッとしないし、何かを成し遂げたわけでもない。きっと教師や同級生の間でも自分のことを覚えている者はそういないだろう。それなのに、なぜ――。
ジェームズたち三人は、きっとピーターが一人どれだけ惨めに感じていたか気にもしなかったに違いない。カリスマ性のある三人と比較されて、日々僕がどれだけ苦痛を感じていたか。
臆病で頭脳も実力もなくて、そんな僕に、どうしてヴォルデモートに抗えというのか。
できるわけないじゃないか。僕だけじゃない。きっとほとんどの人が僕と同じことをするはずだ。あの三人はもしかしたら例外かもしれない。でもそれを僕にまで押し付けないでくれ。
虚ろな目でピーターは宙を見上げる。無意識のうちに右手は左手を抑えていた。
もう戻れないんだ。母を人質に取られ、僕を殺すと脅しているヴォルデモートを前に立ちはだかることなんてできない。
一瞬、ほんの一瞬、ジェームズたちに全てを打ち明けるという考えが頭の中を過ぎったが、すぐにそれは霧散する。
――だってそうだろう。一度裏切った奴を再び仲間になんてする愚か者がいるもんか。いくら優しいリーマスでも、情に厚いシリウスでも、友達思いのジェームズでも、僕を許してくれるわけがない。裏切り者と罵って、そのまま見向きもしなくなるに違いない。
でもそれが普通だ。たかが友情。裏切りを許容できるほど、友情は大した代物ではないし、その逆も然り。僕たちは確かにホグワーツで共に七年を過ごした。でも、ただそれだけだ。僕のこれからの人生を捨てるに値するのが友情だと? それだけの価値がジェームズやリリー、そしてその子供にあるのか――。
子供――。
ふとピーターは固まった。子供、子供――ハリーと、ハリエット。
『二人のご両親は亡くなったの。二人が赤ちゃんの頃に。まだ一歳だったわ』
ハーマイオニーの輪とした言葉は、今でも鮮明に思い出せる。今日があの双子の誕生日だった。ということは、もういつでもジェームズたちが殺されることを覚悟しなければならない。
『ハリエットに何をしたんだ!?』
ハリーの声がぼんやり頭の中に響く。あのときは、随分と過保護な兄だと思った。だが、両親亡き後、子供二人だけで支え合って生きてきたのだろうと思えば、それも当然かと思い直したものだが――。
――いや、待て。
ピーターは全身の血が凍りつくような感覚を味わった。なぜ、ハリーは初対面からあれほど自分に冷たかった? 彼だけじゃない、ロンも、ハーマイオニーも――。
『二人のご両親は亡くなったの。亡くなったのよ』
なぜそんな怖い顔をして言うのか。二人の両親が故人だということは自分のみならず皆だって知らなかったのに、どうして自分だけ。
かつてはそう思っていたものだが――ああ、そうか。
彼らは知っていたのだ。ピーター・ペティグリューという男が裏切り者で、そしてハリーたちの両親を死に追いやった者の一人だと。
そう考えれば全ての辻褄が合う。初対面からの素っ気ない対応、憎まれているのかと見紛うほどのあのハリーの態度にも納得がいく。決してピーターと目を合わせず、話しかけるどころか、名前を呼ばれたこともない。ロンやハーマイオニーだって似たようなものだ。道理に反することを誰よりも嫌がりそうなハーマイオニーすら、自分のことをない者と扱うので、最初はひどく戸惑ったものだ――ハリエットだって――。
『……よろしく。私はハリエット・ポッターよ』
『気にしないで。知らなかったんだもの。それに、ちょっと驚いただけで、全然怒ってないわ』
『ええ。今のうちに終わらせようと思って。ピーターはどうしたの?』
いや、違う。ハリエットは最初から分け隔てなかった。普通に名前を読んでくれたし、話しかけてくれた。むしろ好意的で――。
本当に?
ピーターは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
本当に好意的だっただろうか? 心の中では僕のことを憎んでたんじゃ――。
『何か、他に方法があったはずよ。たとえお母さんを人質に取られても……。私が同じ立場だったらって考えた。ロンやハーマイオニーを売るか、お父さんたちを守るか――』
「――っ!」
頭の中に閃光が走ったかのようだった。あの時は、ハリエットが何を言っているのかさっぱり分からなかった。だが、今なら分かる。ハリーだけではない。ハリエットだって、当然心に思う所はあったのだ。
『私には、どっちも選べない! だから、皆と相談して、ダンブルドア先生に助けを求めて、何か良い方法がないか――ただそれだけをしてくれるだけで良かったの!』
「…………」
あのハリエットの心の叫びは、全て僕に向けられたものだった。
そのことをようやく思い知り、ピーターは激しい自己嫌悪に襲われた。
酩酊薬の影響なくして決して表に出さなかったであろうハリエットの本心。それは、ピーターの一番痛いところを突いた。あの半年の間――いや、もしかしたら今でもずっと――ピーターの心の中にいたあの少女の本心が、今最もピーターの良心を痛めつけていた。
皮肉な話だ。素っ気なく冷たい態度でピーターを傷つけていたハリーではなく、優しさと同情で本心を覆い隠していたハリエットの方にこんなにも苦しめられるなんて。
――なぜハリエットは両親の敵である僕に優しくしてくれたんだろう? どうして、ハリーたちのように僕を避けなかったんだろう。
『ピーターは、優しい人だわ』
優しい? この僕が?
裏切り者にかける言葉では到底ない。お人好しだ。でも、思えばハリエットはそういう子だった。困っている人を見過ごせず、友のためなら危険にだって自ら飛び込んで行って、思いやりがあって優しくて、勇気もある。まさしくジェームズとリリーの子だ――。
「ワームテール」
まるで家の中から響くかのように低い声が辺りを這った。 ――玄関の前に、誰かが立っている。
ピーターはビクリと体全体を揺らす。
「あのお方がお呼びだ、ワームテール」
学生時代嫌というほど聞いた声だ。だが、あの時は守ってくれる友人がいた。だが、今は――。
「約束の日だと仰せだ」
ハッとしてピーターは動きを止める。あれから何日が経った? もう三日経ったというのか?
「弱虫ペティグリュー。いるのは分かってるんだ! 裏切るつもりか? あのお方を裏切ればどうなるのか分かってるのか? 楽に死ねると思うなよ! 磔の呪文をかけて、地獄のような苦しみを与えられるだろう!」
耳を塞ぎ、ピーターは恐怖に身体を震わせていた。まさに地獄のような時間だった。彼らだけではない。この場に、もしもヴォルデモート本人が現れたら――それを思うと、ピーターはますます縮こまり、ただただ彼らがどこかへ行くのをひたすらに待った。
しばらくすると、激しく叩かれていた扉も止んだ。本当にピーターがいないと思ったのかもしれない。だが、もうここにはいられない。いつ何時ヴォルデモートがやってくるか分かったものではない。ピーターは恐怖に打ち震える足に叱咤し、立ち上がった。