■回想

08:ネズミの懺悔


 気がついたとき、ピーターはゴドリックの谷にいて、ポッター家の戸を叩いていた。弱々しく、まるで今のピーターの心境を表すかのように小さい音で。しかし、やがてその音は大きくなる。激しく、切羽詰まったように。

「――誰だ?」

 無言で、それも激しく戸を叩かれ、ジェームズは警戒していた。いくら忠誠の術をかけて知り合いしか訪れないとはいえ、あまりに異様だった。

「……ピーター。ピーター・ペティグリュー……」
「ピーター? どうしたんだい、こんな時間に?」

 ジェームズは扉を開けない。未だ警戒してのことだ。

「ワームテールの由来は?」
「ネズミの尻尾から……」
「僕は?」
「鹿の角」

 淡々と答えていくピーターに、ジェームズはようやく扉を開けた。

「どうしたんだ、ワームテール。随分様子がおかしい。何かあったのか?」
「話があるんだ」

 俯き、ピーターは答える。もう深夜はとうに越している。ジェームズもさすがに寝ていたようで、寝間着姿だ。

 つい先日会ったばかりなのに、もう何年と会ってないような感覚がした――いや、実際そうなのだろう。ピーターは過去を追憶していたのだ。ホグワーツ入学年から今までを。

「皆も呼んでほしい。シリウスもリーマスも」
「リーマスも? でも、もうすぐ満月だ。僕たちだけじゃ駄目なのか?」
「呼んでくれ!」

 左腕を抑えながらピーターは叫んだ。ジェームズは逡巡したが、やがて頷いた。

「分かった。リリーも起こしてくる?」
「ああ」

 ジェームズはピーターを中に引き入れ、椅子に座らせると、守護霊の伝言でシリウス、リーマスを招集した。ついで、子供たちを起こさないようにしてリリーもそっと揺り起こす。

 誰もが困惑の表情を浮かべていた。深夜に、それも全員を集めたのがピーターなのだ。今まで一度だってこんなことはなかった。何か緊急事態でも起こったのかと皆真剣な表情を崩さない。静まり返った中、やがて徐に彼は口を開く。

「君たちに、言わなければならないことがある……」

 ピーターは、震える手でローブの袖をたくし上げた。そこから現れるのは、禍々しい闇の印。生っ白い腕に鎮座するのは、紛れもなく闇の印だった。

 全てを理解するよりも早く、ジェームズはハッと吐息を漏らした。

「……ピーター、君も冗談がうまくなったものだね。今日はエイプリルフールだっけ?」
「いや、今の時期だとハロウィーンだろう。闇の印のタトゥーシールだなんて、チョイスの趣味は悪いが」
「冗談じゃないんだ」

 緩みかけた空気が再び固まる。ピーターだけが額に脂汗を滲ませていた。

「本物だ。これは本物の闇の印で……僕は死喰い人で……」
「…………」

 あまりの衝撃で誰も何も話せなかった。まず、理解ができない。十一歳の時から仲が良くて、ずっと一緒にいて、文字通り寝食を共にしてきた友人が、死喰い人?

「いつから?」

 リーマスが小さい声で尋ねた。半ば理性だけで口が動いていた。

「……半年、前から」
「情報を流していたのは君だったのか?」
「ああ……」
「ふざけんな!」

 重い拳がピーターの頬に入った。ピーターは椅子ごと後ろの壁にぶつかり、そのまま地面に転がる。

「ふざけんな――ふざけんなよ! なんで死喰い人なんかに!!」

 ピーターの顔に影が落ちる――シリウスだ。右手を震わせながらピーターを見下ろしている。

「なんで俺たちを裏切った!?」
母さんを人質に取られたんだ!

 ピーターはシリウス以上の大声で叫び返した。

「そうするしか、なかった! 死喰い人に、なるしかなかった! じゃないと、母さんが殺されると思った!」
「……っ!」
「ずっと苦しんでた! 誰にも相談できずに、いつバレるか、いつ殺されるかって、ずっと怖かった……」

 ピーターは声を上げて泣いた。

「でも、違う――僕は自分が殺されるのが嫌だった。あ、あ、あのお方の下に行くたびに拷問にかけられて、あんな思いをするのは嫌だから、次はもっと、もっとって、自分から情報を流し始めた……」

 蹲るようにしてピーターはむせび泣いた。

「痛い……痛いんだ……死んだ方がマシだって思うんだ……それなのに、死ぬのは怖いんだ……」

 ピーターの嗚咽だけが家の中に響き渡る。誰も何も言えなかった。

「この前……あのお方に、ジェームズの家はどこかって聞かれたんだ……」

 弱々しく呟くピーターに、すぐさまシリウスが杖を握った。油断なく構えたまま血走った目で辺りを警戒する。

「お前――まさか――」
「い、い、言ってない……」

 喘ぎながらピーターはシリウスを見上げた。

「天秤にかけた……僕の命と、君たちの命……友情よりも、自分の方が大事だって、そう思い始めてた……でも、ハリエットの言葉を思い出したんだ……愕然とした……知ってたんだ……みんな、僕がしたこと全部知ってたんだ……だからハリーもロンも、ハーマイオニーでさえ、僕のことあんなに嫌ってたんだ……」

 さめざめと泣きながら、再びピーターは地面に蹲った。後悔と恐怖に塗れた泣き声が部屋の中に反芻して響く。

 思い出すのは、学生時代。自分たちにとって特別だった半年。未来からやって来た子供たち。ピーターとの不和。衝突。そして和解――。

 あの時は、ただただ訳が分からなかった。四人とも、思いやりがあってとても良い子だ。それなのに、ピーターにだけは冷たかった。嫌悪してすらいた。ずっとその原因が分からなかった――その背景に、まさかこんな事情があったとは。

「……ごめん……ごめん……みんな……」

 嗚咽混じりにピーターは何度も謝罪を口にする。

「ジェームズ、ごめん……」

 ピーター以外の、皆の視線がジェームズに集まる。

 皆が待っていると、ジェームズはそう感じていた。

 唯一まだ何の反応も示していないのがジェームズだった。理性で必死に事態を理解しようとしたリーマス、本能で動いたシリウス、四人の絆を知っているからこそ、気遣うように静観するリリー――ジェームズは、そのどれでもなかった。未だ理解ができていなかった。ピーターが、裏切り者?

 自分ができることは、他人もできて当たり前――ここまでの偏った思考はないが、しかしジェームズは、十一歳から様々な苦楽を共にしてきたこの友人たちに至っては、自分と同じ思考をしてくれていると思っていた。闇の魔術を憎み、魔法界を救いたいと、その一心で不死鳥の騎士団に入ったのだと。友達を裏切るくらいなら死を選ぶ――その意思を間違いなくジェームズは持っているのに、しかしピーターは違うと、そうらしい。

「ごめん、ジェームズ、ごめん……」

 最後の最後で踏みとどまった親友。だが、一度裏切った者が、もう二度と裏切らないなんて言い切れるか?

 安全策を取るならこのことをダンブルドアに報告してピーターを軟禁するかしないといけない。いや、それとも忘却術か?

 ――分かっている。頭では分かっていた。自分がすべきことは。

 だが、しかし、なぜ? なぜピーターは裏切った? どうして相談もしてくれなかった? 相談さえしてくれたら、何か対策を練られたはずだ。母親を安全な場所へ匿う方法も生まれたかもしれない。相談さえ、してくれたら。

 暗く淀んだ思考は、いつしか昔の記憶へと潜り込んでいた。

 今回のことを、どこかデジャブのように感じていたのだ。昔、同じように誰かと衝突して、距離を取ったことがあったと。

 皮肉なことに、争点となったのは目の前のピーター・ペティグリューで、相手は自分の子供たちだったのだが。

 数ヶ月一緒に過ごした下級生と、一年生の時からの付き合いのピーター、どちらが大切かと言われれば一目瞭然で。

 ジェームズは、自然とハリーたちと距離を置くことにした。

 ジェームズとしては信じられなかったのだ。ハリーたちが良い子だというのは一緒に過ごしていてすぐに分かった。だが、それを踏まえても目に余る彼らのピーターへの態度。このまま彼らの態度を黙認すれば、すなわちジェームズもピーターを蔑ろにしているということになる。

 ジェームズは、どうしてもハリーたちの言動を看過できなかった。だからこそ距離を置こうとしたのだ。そして、その時のことと今回のこと、状況がよく似ていると感じた。縁を切ろうとしたのにどうしても切れなかったあの時と……。

 つまりは、まだピーターに情が残っているということか。

「…………」

 皆がジェームズの反応を待っている。だが、ジェームズは分からなかった。どうすればピーターを許せるのかを……。

 ハリーたちとは和解できた。互いに譲歩して、そして何より彼らがリーマスを受け入れてくれた。和解するに充分な姿勢を見せてくれた。でも、今回は……。

 自分で自分の気持ちが分からなくて、考えがまとまらなくて、ジェームズはくしゃくしゃに頭をかき回した。

 まさかここまで来て裏切り者がこんなに近くにいたなんて、誰が考えただろうか!

 日に日にヴォルデモートの権力が増していく魔法界。そんな中でも、自分たちの絆だけは確実に信じられるものだと思っていたのに。

 この四人なら、何だってできる気がした――そのはず、だったのに。

 ジェームズは深い喪失感を味わっていた。もうここにかつてのピーターはいない。ある意味初めて見るピーターだった。弱みも卑屈も全て曝け出した臆病なピーター。だが、そうさせていたのは誰だったのだろう。誰もそのことに気づかなかったのだろうか。

 ハリーとハリエットの顔がぼんやり浮かんでは消える。

 あの子たちなら、この状況をどうするのだろうか。

 悲しみをひた隠しにして、ただ両親に会えた喜びを前面に出していたハリエット。両親を思って原因となったピーターに嫌悪感丸出しだったハリー。ハリエットは、優しい子だから、きっと許してあげてほしいと言うかもしれない。しかし、ハリーは。

 決して許さないだろう。何も知らないピーターをあれだけ憎んでいたのだ。たとえこの世界でジェームズとリリーが助かったとしても、自分の世界の両親はすでに死んでいるのだ。その憎しみも相まって許すことなどできないのではないか。

 そう思うからこそ、今から下す判断がハリーにとってひどく酷なものではないかと思ってジェームズは不安になる。まるで、ハリーを裏切っているようで。

 そこまで考えて、ようやくジェームズはどうしても一歩踏み切れない理由に気づいた。そして同時に、もう気持ちが傾いてしまっていることにも気づく。

「――なんで、相談してくれなかったんだ?」

 気づいた時には、ジェームズの口はひとりでに動いていた。ビクリとピーターは大きく肩を揺らす。

「む、む、無理だと思った……。あのお方に勝てるわけがないと思った……日に日に皆死んでいく……皆に話しても、あのお方に対抗できる術なんてないと思った……そして――そして、あのお方は絶対に僕に報復する……もう痛いのは嫌だと思った……」
「なんで、最後の最後で踏みとどまったんだ?」
「ずっと叫びの屋敷にいた……」

 真っ赤に充血した目でピーターは続ける。

「学生の時のことを思い出してた……皆は僕の憧れだった……でも、同時に劣等感もあった……。僕みたいな奴はあのお方に逆らうことなんてできない……だがら、そもそも君たちと友達になったのが間違いだったんだ……」

 ジェームズは、何も言わない。シリウスもリーマスもだ。

「でも……でも……」

 ピーターは激しく鼻を啜った。

「皆とまだ友達でいたかった……友達を、これ以上裏切りたくないと思った……」

 ジェームズは、長い長い息を吐き出した。皆が彼に注目する。

「君は僕たちを――騎士団を裏切った。それは事実だ。でも、それを悔いて今日ここへやって来た。これも事実だ」
「…………」
「君をどうするかは、ダンブルドアに一任しようと思う。団員としてダンブルドアの判断に従うつもりだ。でも、一人の人間としては――……」

 ジェームズは言葉を濁した。躊躇いがちに視線を落とし、そして観念したようにピーターを見る。

「僕も、まだ君と友達でいたいと思う」

 ピーターは固まった。唖然としてジェームズを見上げる。リーマスもリリーも顔色を変えなかった。ただ、シリウスだけ視線を逸らして短くため息をつく。

「別に……これはあくまで僕がそう思ったってだけだ」

 窺うようにジェームズはリーマスとシリウスを見た。

 ――君たちは。

 言葉にはしないまでも、ジェームズの言いたいことは分かった。固く閉ざしていた口をリーマスは開く。

「ピーター、僕の友達になったのは君が初めてだったし、君にとってもそうだと思う。だから、今日君が話したことはとてもショックだった」

 項垂れたまま、ピーターは何も答えない。

「でも、君が僕たちに劣等感を抱いたり、ヴォルデモートに母親を人質にとられたり……そういったことに気づけなかったことはすまなかったと思う。君がしたことは……騎士団に与えた被害を思えばまだ正直許せない。でも、それは団員としてだ」

 ピーターの身体が緊張と僅かな期待で強ばる。

「君がしたことは必ず償わなければならない。でも、その手伝いは僕もやる」

 リーマスは明言はしなかった。だが、ピーターにとってはそれで充分だった。嗚咽をあげながら蹲って何度も感謝を述べる。

「ごめん……ありがとう、リーマス……」
「俺はまだ許せそうにない」

 部屋の隅を睨み付けながらシリウスが言った。

「感情の整理がつかない。正直同じ空間にいたくもない」

 吐き捨てるように言われたが、しかしピーターは項垂れたままだった。

「でもまだそいつにも使い道があるかもしれないし――一旦は何も考えないことにする」

 それだけ言うと、シリウスは頭をぐしゃぐしゃかき回し、足音も荒々しく二階へ上がっていった。ハリーたちの顔を見に行ったのだろう。言葉はきついが、これが彼なりの譲歩だ。なおも殴りかからないだけまだマシだろう。

 ピーターもシリウスの態度を受け入れていた。ただ、黙って涙に濡れた瞳でその後ろ姿を見つめていた。

「喉が渇いたでしょう?」

 そんな彼の前にティーカップを差し出したのはリリーだった。軽く膝を折り、困ったように微笑んでいる。

「ピーターの好きな紅茶よ」

 落ち着いた紅茶の香りが、温かい湯気が、ピーターの鼻から身体全体へ染みこんでいくようだった。鼻を啜ってピーターはカップを受け取った。

「ごめん……リリー……」
「それを飲み終わったらダンブルドアの所に行こう」

 ジェームズが静かに声をかけた。

「僕はリーマスとピーターと行くから、リリー、君はシリウスとハリーたちの様子を見ててくれるかい?」
「分かったわ」
「もうすぐ夜が明ける……」

 窓辺に立ち、ジェームズは外を眺めていた。

 正直、まだ感情の整理はつかない。きっとここにいる全員がそうだ。だが、それでも何をするべきかは決まった。

 窓越しに、ハリーとハリエットの顔が浮かんだ。友達で、仲間で、自分たちの子供でもある彼ら。

 ――この選択で良かったのかい?

 ジェームズはそう問いかけずにはいられなかった。ピーターを許したのは、常日頃リリーが言っていたようなジェームズの独りよがりな判断ではなかったか、あの子たちの意志に反してはいないか、これから待ち受ける未来にとって、一番良い選択肢だったかどうか――きっと、その答えはまだ誰にも分からないのだろう。