■繋がる未来―秘密の部屋―

08:決行の日


 十月に入ると、生徒も教師にも風邪が流行り出した。そのせいでマダム・ポンフリーは大忙しだ。作っても作ってもすぐ足りなくなる元気爆発薬にうんざりし、彼女自身が薬を飲んだ方がいいのではないかと思うほどに疲れ切っているようだった。

 ハリエットは別に風邪を引いているわけではなかったのだが、少し前から――リドルを実体化させてからだ――顔色が悪く、具合が悪そうだったので、ハーマイオニーに強制的に飲ませられた。両耳からもくもくと煙が立ち上るので、年頃の女の子としては少々恥ずかしい。

「これで君も立派なホグワーツ特急だな」

 だが、茶目っ気あるジョージの言葉にハリエットは笑みを零した。そんな風に言われれば、もうこの煙を気にすることはなくなってしまう。

 ピーターのこともあって気に掛けているのか、ウィーズリー家の双子は最近よくハリエットに話しかけてくれる。調子が悪そうなのもあるだろう。少しでも元気にしたいのか、おどけて笑わせてくれるのだ。気を使われているようで少し申し訳なかったが、それでもその心遣いは嬉しかった。

 皆が心配しているようなので、今日はゆっくり休もうかとハリエットは考えていたのだが、ハーマイオニーがロックハートの課題をやるというので、混ぜてもらうことにした。課題といっても、何せロックハートの課題は彼に関するレポートばかりなのだ。教科書を読む気にもなれないハリエットとしては、歩くロックハート辞典のハーマイオニーに便乗しないと羊皮紙一巻きなんてレポートは到底無理だと思ったからだ。

 白紙で出す気満々のロンをついでとばかりハーマイオニーは捕まえ、談話室で三人大人しく膝を突き合わせた。そしてものの五分も経たないうちにハーマイオニーは悲鳴を上げる。

「ロン! 何よその教科書! どうしてそんなにインク塗れなの?」
「もう忘れたのかい? あいつの記念すべき初授業がこんな風にしたんじゃないか」

 ロンはバサバサ教科書を振る。表紙にはロックハートの顔写真が載っていたはずだが、物の見事にインクで塗りつぶされている。表紙のロックハートは何とかしてインクから身を乗り出してポーズを決めようとしているが、中央に大きく広がった染みがそれを許してはくれない。

「だからって綺麗にするくらいすぐに終わるでしょう?」

 そう言いつつ、ハーマイオニーはさっと杖を一振りして教科書を綺麗にした。何故だかロンは不満そうだ。

 だが、その文句を口にする前にハリーが談話室に入ってきた。全身ずぶ濡れでひどく汚い。大雨の中クィディッチの練習をしていたので仕方ないが、シャワーも浴びずにこちらに近寄ってきたので女の子たちからは大変不評だ。

「シャワー浴びてきたら?」
「じゃないと風邪を引くわよ」

 あくまでハリーのことを思ってという口調だが、その内心はお察しの通りだ。

 ロンの同情の眼差しを受けながら、しばらくしてハリーは綺麗になって戻ってきた。今度こそという顔でソファに座れば、もう女の子二人からも何も言われない。

「何してるの?」
「ロックハートのレポートだよ」

 ハリーは「聞かなきゃ良かった」という顔になった。ハーマイオニーはめざとくそれを見逃さない。

「そうよ、ハリー。ロンの教科書がまだインク塗れだったんだけど、あなたのもそうじゃないでしょうね?」
「そのままだけど、それがどうかした?」
「先生に失礼だわ。教科書がインク塗れなんて!」
「あれはロックハートの教えだと思ってそのままにしてる」

 堂々と言い返したハリーにロンは賞賛の目を向けた。ハリエットは呆れてこっそり首を振った。

 ハーマイオニーが何も言い返せないのを良いことに、ハリーはさらりと話題を変えた。

「さっき、首無しニックに絶命日パーティーに呼ばれたんだ。君たちも来ない?」
「絶命……何ですって?」
「絶命日パーティー。今度のハロウィーンがニックの五百回目の絶命日なんだって。それを祝うために知人を招いてパーティーを開くらしいよ」
「面白そう! 生きているうちに招かれた人ってそんなに多くないはずだもの」
「自分の死んだ日を祝うなんてどういう神経? 普通死ぬほど落ち込んじゃわない?」
「ニックが五百年前に亡くなったってことの方が私はびっくりだわ」

 それぞれ感想を口にする面々。自分だけで行かなくても済みそうだとハリーはソワソワした。

「じゃあハーマイオニーは一緒に行ってくれるんだね? ロンは?」
「君たちが行くなら僕も行くよ」
「ハリエットは?」
「私は……調子が良かったら行くわ」
「分かった」

 ハリエットの調子に浮き沈みがあるのはハリーも承知している。ハリーはなおも落ち着かない様子で話題を探した。

「そうだ。さっきフィルチに罰則を与えられそうになって、その時事務室に通されたんだけどさ――」
「待って、どうして罰則? 何かしたのかい?」
「まさか! フィルチの機嫌が悪かったんだよ。歩いてただけなのに、廊下を汚したって怒られたんだ。まあ、ちょっとは汚れちゃったかもしれないけどさ」

 ハリーからしてみれば「ちょっと」かもしれないが、自分一人で掃除をするフィルチにしてみればそうではないかもしれない。何せ、魔法を使えば一瞬で済むが、フィルチが魔法を使っている所なんて一度も見たことがないからだ。となると、彼が怒るのも無理はないだろう。それにしたって罰則はやりすぎだと思うが……。

「フィルチはきっとスクイブなんだよ」

 まさに自分が考えていたことと同じ所をハリーがついたので、ハリエットは驚いて固まってしまった。

「事務室に何があったと思う? クイックスペル・コースの注文書だよ」
「クイックスペルって?」

 ハーマイオニーが尋ねた。

「魔法初心者のための通信講座だよ。スクイブの可能性が出てきたら、まずこの講座で確認したりするんだ」
「だからフィルチさんは魔法を使うことがなかったのね」

 因縁のフィルチの弱点を見つけたからか、ハリーは生き生きして見える。ハリエットはあまり気が乗らずに立ち上がった。

「どこ行くの?」
「ふくろう小屋。最近会いに行かなかったから、ウィルビーが拗ねてるみたいなの」

 ふくろう便の時間、用もなしにふらりとハリエットの元にやって来ては、ひとしきり撫でられて帰っていくウィルビー。近頃はハリエットが体調を崩し、構えないことも多かったので、ふくろう小屋でふて寝を決め込んでいるようだ。

 去年は、ことあるごとに家族やシリウスたちに手紙を送っていたのだが、今年はそれもほとんどない。だから余計にふくろう小屋へ足を向けることが少なかったのだ。

 ハリエットもそろそろジェームズと仲直りがしたいとは思っている。だが、いざ手紙を前にすると、何を書けばいいか分からなくなるのだ。大量に持ってきた手紙一式が、今年に入ってはほとんど使われないまま、今日もハリエットのトランクの中で日の目を見るのを今か今かと待っていた。


*****


 それからしばらく経ち、ハロウィーンもとい、ニックの絶命日パーティーの日がやってきた。大広間からおいしそうな匂いが漂ってきているのに、それに背を向けて暗い地下牢へ向かうのは並大抵のことではなかった。噂に寄れば、ダンブルドアがパーティーの余興用に骸骨舞踏団も予約したというのだ。非常に歯痒い思いをするのは当たり前だった。

「僕……今からでもお腹が痛いからって休めないかな?」
「約束は約束よ」

 そんなハリーをハーマイオニーは一刀両断した。

「パーティーに行くって、あなたそう言ったんだから」
「じゃあ私はここで。みんな、楽しんできてね」
「楽しめるものならね」

 ため息交じりに言うハリーをハーマイオニーが小突き、三人は階段を下りていった。

 体調が悪いからとパーティーへ行くのを断ったハリエットだが、その実、リドルと魔法の特訓をするつもりで城の外へ出た。

 本当はハリエットも絶命日パーティーに行ってみたかったのだが、リドルに「こういう時こそ特訓しないと」と言われて諦めたのだ。確かに、普段はレポートに追われてなかなか時間を取ることができないので、彼の言うことも一理あるし、本来はハリエット自身が言い出すべきことなので、少し情けなくもあった。

 ハリエットは、呪文の練習をする時は城裏でやるようになっていた。ドラコと遭遇したばかりなので、違う場所に変えた方がいいのではと提案したのだが、彼は誰にも言わないから大丈夫の一点張りで聞いてくれないのだ。むしろ、リドル自身がドラコに興味を持っている節もあった。聞かれるがままハリエットも答えていた。

「――だから、マルフォイは私たちのことを恨んでるのよ。お父さんには特に」
「ルシウス・マルフォイは今もまだアズカバンに?」
「いいえ。昨年の冬に出所したわ」
「ハリエット、君はどこで日記を見つけたと言ってたかな?」
「え? ダイアゴン横丁の本屋よ」

 唐突に話の流れが変わった。ハリエットにその真意が分からずに、しかし気にせず答えた。

「たぶん未来のあなたも本屋にいたんでしょうね」
「そうだろうね。君の本と間違って僕が持って行ってしまったのかもしれない」

 楽しそうに言いながらリドルはハリエットの前を歩き、そして木の前でくるりと振り返った。

「さあ、お喋りはこのくらいにして練習をしようか」
「ええ」

 そうして始まった呪文の練習。しかし、今日のハリエットはなかなか身が入らなかった。

「トム、私、攻撃する呪文より身を守る術を知りたいの。激しいのはあんまり性に合わなくて……。ほら、たとえば盾の呪文とか」
「襲われてる時に身を守っているだけでやり過ごせると思うのかい? 君の実力ならいつかは押し負けてやられてしまうだろう」

 トムの言う通りだ、とハリエットは項垂れた。実力が伴ってから言うべきことだった。

「守り続けるよりも反撃する方が合理的だ。強くなりたいというのなら避けられない道だよ。それに、盾の呪文だって万能じゃない」
「でも――」
「死の呪いを受けたらそれで全てが終わりだ」

 リドルの言葉にハリエットはハッと口を閉ざした。

「反対呪文も存在しない究極の呪文――これを受けた者で生き延びられた者は未だかつていなかった。君の父親を除いてね」

 落ち着かない様子でリドルはその場を歩き始めた。

「純粋に僕は気になるんだ。君の父親がどうやって生き延びることができたのかを。本当に知らないのかい?」
「ええ……。お父さんもお母さんも、あの時のことは話したがらないの。私たちがまだ子供だからかもしれないけど……」
その時・・・に何が起こったのか――それはきっとジェームズ・ポッターしか知らないことなのかもしれない」

 考え込むリドルとは対照的にハリエットは空を見上げた。いつの間にか暗くなっている。おいしそうなご馳走の匂いにハリエットのお腹も限界だ。

「暗くなってきたわ。そろそろ戻りましょうか」

 絶命日パーティーに人間が食べられるものが出されるとは思わない。ハリーたちのためにハロウィーンパーティーのご馳走を持って帰ろうとハリエットは考えていた。

 杖をしまい、歩き始めたハリエットだが、ふとリドルがついてくる気配がないので振り返った。

「どうしたの?」
「ああ、行くよ。僕は日記の中に戻らないと」
「トム、いつもありがとう」

 日記の前では全てをさらけ出せる気がするが、実体化しているリドルを前にしていると、少し照れくさい。だからこそ直接言いたいとも思っていたことだった。

「私に魔法を教えるのなんて、あなたにとっては何の利益もないのに……。本当にありがとう」
「…………」
「私ね、あなたとお友達になれてすごく嬉しい。私にできることがあれば何でも言ってね」
「何でも……ね」

 ハリエットが持つ日記にリドルの手が触れた。――と、日記が唐突に光り出し、同時にハリエットの身体は糸が切れたように崩れ落ちる。

「じゃあ、少しまた君の身体を借りよう」

 リドルの半透明の身体が徐々に薄くなり、日記の中に吸い込まれる。やがてピクリと身体を動かし、ハリエットが立ち上がった。

「この僕自らが魔法を教えてあげているんだ。このくらい構わないだろう?」

 そう呟くのは、ハリエット――もといトム・リドルだ。ハリエットが体調を崩しているのは、リドルが実体化している影響のみならず、こうしてハリエットの身体を乗っ取っているせいだ。にもかかわらず、何も知らないハリエットはのほほんとした顔でリドルにお礼を述べるのだからおかしくなってくる。

「とはいえ、君の魂はもう長くもたないかもしれないが……」

 ふらふらと、まるで夢遊病のようにハリエットが歩き出した。香ばしいカボチャの匂い漂う大広間に背を向け、ハリエットはそのまま二階へ続く階段を上った。