■繋がる未来―秘密の部屋―
13:夢うつつ
ハリエットの意識が覚醒したのは鋭い痛みによってだ。「あっ!」と悲鳴を上げつつ、思わず手を押さえれば、鳴き声とともに何かがドサッと落ちるのが分かった。
「なに……?」
バサバサと慌ただしく去っていくのは鶏だ。ぼんやりと白いものが闇夜の中に溶け込んでいくのが見えた。
「え……えっ?」
何が何だか分からなかった。ここはどこだろう。辺りは真っ暗で、どうやら外にいることだけが唯一はっきりしている。
柵の隅で怯えたように羽を動かしているのは先ほどハリエットが抱えていた鶏だ。――なぜ鶏を? いや、そもそもどうして外に……?
「チュー」
突然の鳴き声にハリエットはビクッと肩を揺らし、恐る恐る見下ろした。すぐ足元には、ロンにお世話をお願いしているスキャバーズがいた。口の辺りに血が付いている。あっと思ってハリエットは手を押さえた。
もしかしたら、スキャバーズに噛まれたのだろうか。なぜ自分がこの場にいるのかは分からない。だが、スキャバーズに手を噛まれて起きた――起きた?
改めて見ると、ハリエットはネグリジェにローブを羽織っただけの姿だった。最後に覚えているのもベッドに横になったまでだ。
「夢……?」
だが、今もなおズキズキと痛むこの手は現実のものだ。ますます分からない。意識のないままホグワーツの外まで歩いてきたとでも言うのだろうか?
寒気がしてハリエットは身を震わせた。今もなお落ち着く気配を見せない鶏を見、スキャバーズを見、そして怪我をした手の平を見つめた。なぜスキャバーズは私の手を噛んだの――? 嫌な想像が脳裏をよぎり、ハリエットは唐突に歩き出した。今すぐにでもこの場から逃げ出したかった。
城の中へ入ると、幾分かハリエットも落ち着きを取り戻したが、それでも階段を上る足は止まらない。早く寮へ帰りたい一心だったので、足音を忍ばせることも忘れていた。そのせいでフィルチに嗅ぎつけられていたのだが、スキャバーズが気を逸らしてくれていたことにも気付かないままハリエットは談話室に戻り、そしてそのままベッドに直行した。
横になっても、ハリエットは全く眠れなかった。自分の身に何が起こったのか考えていたのだ。これからどうすべきかについても……。
朝になり、ルームメイトが身支度を整えているのを、ハリエットはベッドの中で聞いていた。今日は一時間目から薬草学の授業だ。遅刻は厳禁なのに、それでもハリエットは動けない。
「ハリエット……大丈夫?」
こんもりと盛り上がった毛布にハーマイオニーは優しく手を当てた。
「調子が悪いなら、スプラウト先生には私から言っておくわ」
「ま、待って……」
勇気を振り絞ってハリエットは声をかけた。もう一人では抱えきれない。ハリエットは耐えられずに毛布を取り払った。
「私……ハーマイオニー……」
「どうかした?」
ハーマイオニーがベッドに腰掛け、目線が同じになった。優しい声色に、ハリエットはふとリリーを思い出して泣きそうになった。
「私……夢遊病かもしれないの」
「夢遊病?」
「深夜、気付いたら外にいたの。ハグリッドの小屋の近くよ。それで、私、その時にね――」
視線を下げたまま、ハリエットは全てを打ち明けることにした。
「鶏を締め殺そうとしていたみたいなの……」
一度口火を切れば後は楽だった。溢れ出る涙もそのままにハリエットは続ける。
「スキャバーズが噛んで我に返ったの。もう少し遅かったら、鶏が死んじゃってたかもしれない。私、自分が怖くて――い、いつか、あなたたちをこ、殺してしまうかもしれない……」
無意識のうちに杖をルームメイトに向けたらどうしよう? ただでさえ今ハリエットはリドルに呪文を教わっている。もしそのことが逆に脅威になったら?
「大丈夫、大丈夫よ。落ち着いて」
ハーマイオニーはハリエットの手をギュッと握った。
「一緒にマダム・ポンフリーの所へ行きましょう。大丈夫よ、きっと治るわ」
ハーマイオニーに連れられるようにしてハリエットは医務室へ向かった。事情を聞いたマダム・ポンフリーはすぐに魔法薬を調合してくれた。とはいえ、精神を落ち着かせてくれ、よく眠れるようになるという薬ではあるので、根本の解決にはならない。それでも動揺したハリエットを落ち着かせるには充分だった。
念のため、ハリエットはしばらく医務室に寝泊まりすることになった。昨日はろくに眠れもしなかったので、今日の授業は休むことにした。
とはいえ、朝一の薬草学はちょうど吹雪のため休講になっていた。ハリエットの着替えを準備するため、ハーマイオニーが談話室に戻ると、ソファに座ったロンが呼んだ。隣にはハリーもいる。
「朝から一体どこへ行ってたんだい? ハリエットもいないし。休講になったからって落ち込んで図書室に行ってたんじゃないよね?」
「違うわ。医務室よ」
「もしかしてハリエット? 調子が悪いの?」
「ええ……」
ハーマイオニーは声を潜め、夢遊病のことを伝えた。簡単に伝えるだけと思っていたが、ハリーが前を向いたままぼうっとしているのを見てつい声をかけた。
「ハリー、聞いてる?」
「――えっ?」
ぼんやりしていたハリーは一瞬反応が遅れる。目を瞬かせながらハーマイオニーを見た。
「なに?」
「もう! だから、ハリエットが夢遊病だって言ってるの」
「夢遊病? なんで? いつから?」
「マダム・ポンフリーはストレスのせいじゃないかって。いつからかは分からないわ。ハリエットはホグワーツに来てからじゃないかって言ってるけど」
「治るの?」
「薬を調合してくださるみたいだけど、ちゃんと治るかは分からないわ」
「今ハリエットは?」
「医務室よ。今日からしばらく医務室に泊まるの」
「そう……」
ぼんやりしたままハリーは生返事だ。ロンは肩をすくめた。
「どうしたんだい、ハリー。昨日から様子おかしいよ。ヘビのことは気にするなよ。僕だって蜘蛛が気絶するほど嫌いだ。人間誰だって嫌いなものはあるよ」
「うん」
相変わらずの返事にハーマイオニーはため息をついた。――と、すぐそばにスキャバーズが座っているのを見て手を伸ばして頭を撫でた。
「ハリーはこんなだし、頼りになるのはあなただけよ。ハリエットのこと守ってあげてね」
「チュウ」
寝室でハリエットの着替えを準備したハーマイオニーだが、ふと枕元のテディベアと目が合い、少し考えた後、これも持って医務室へ向かった。
「遅くなってごめんなさい。着替えと、あとこれ、ぬいぐるみ」
「ありがとう……」
ハーマイオニーがテディベアを渡すと、ハリエットは少し複雑そうな顔をした。
「寂しくない方が良いかなと思って持ってきたんだけど……」
持って来ない方が良かったかしら、と不安そうなハーマイオニーにハリエットは慌てて笑みを浮かべた。
「ううん、そんなことないわ。ありがとう。一人で医務室で眠るのは寂しいなって思ってたところだったの」
「なら良かった。他に必要なものはない?」
「大丈夫。ありがとう」
「気にしないで。ちょうど薬草学は休講だったの。明日からは休暇に入るんだし、ゆっくり休んで」
「そうね」
手を振って出て行くハーマイオニーを見送ると、ハリエットはため息をついてテディベアを押しやった。
「全く余計なお世話だ」
気弱なハリエットの仮面は脱ぎ捨て、すっかり不遜な態度が顔を出す。
「依存するのは僕にだけでいいのに」
『ハリエットはお年頃かい?』
ハリエット――もといリドルは二重の意味でイラッとした。仮にお年頃だとして、面と向かって思春期かどうかを尋ねるのが悪手だとどうして分からないのだろう。本当にハリエットが思春期に突入した時、絶対にこの手の父親は嫌われるに違いないとリドルは確信した。
ジェームズのことは無視して、リドルはテディベアを引っつかんだ。いい加減このぬいぐるみをどうにかしたいと思っていたので良い機会かもしれない。
「マダム・ポンフリー」
リドルが声をかけると、ポンフリーは驚いたように立ち上がった。
「顔色がよくありませんよ。まだ寝てないと」
「忘れ物をしたんです。ちょっと寮へ戻ります」
「ミス・ポッター――」
ポンフリーはまだ何か言っていたが、リドルは聞こえなかった振りをして階段へ向かう。
――昨日は雄鶏を始末し損ねたが、そろそろ新たな犠牲者を用意したいところだ。もうすぐ休暇も始まることだし、これを機にマグル生まれがホグワーツに戻って来なければいい。
夢遊病を疑い、ハリエットが医務室に移動したのは逆に良かった。医務室から「秘密の部屋」は非常に近く、機会があればすぐにでも怪物を出すことができるだろう。問題はどう医務室を抜け出すかだが、昼間ならば問題はない。
――とはいえ、それとこれとは別に、早いところこのぬいぐるみは始末してしまいたい。ハリエットの依存先を日記だけにしたいというのもあるし、何より彼女の父、ジェームズがリドルは心底嫌いだった。彼がヴォルデモート卿を倒したとされているのも不愉快だし、彼の言動が非常に鼻につく。娘だと思って猫なで声で話しかけてくるのも鳥肌が立つ。
三階まで上がると、リドルは辺りを窺いながらサッと女子トイレへ入った。個室に身を滑り込ませ、鍵を掛けると、テディベアに杖を向ける。切り刻んでトイレにでも流そうと思っていたのだが、閃光がぬいぐるみに直撃する前に弾かれ、リドルは当惑する。
――盾の呪文!? たかがぬいぐるみ一つにこんな魔法を使うなんてどうかしている!
ジェームズ、シリウス、リーマス、ピーターにリリー。
声を吹き込むために集まった大の大人五人が、しかしそれだけじゃ面白みがないんじゃないかと、半ば学生気分でああでもない、こうでもないとアイデアを出し合った結果、最強のぬいぐるみが出来上がったとはさすがのリドルも思い至らない。
思わずガンとトイレの壁を叩くと、ぬっと半透明のゴーストが現れた。
「あーら、あんたまた来たの?」
「…………」
「なあに、そのぬいぐるみ? 捨てようっての? せっかく可愛いのにもったいないじゃない」
五十年前にここで死亡した女生徒、マートル。人は来ないから好都合だと思っていたが、住み着いているゴーストはいるのだ。舌打ちして踵を返すと、マートルは甲高い悲鳴を上げた。
「無視、無視、無視!! みーんな私を無視していくのね! どうせ私なんて道端の石っころくらいにしか思ってないんでしょう!」
大声で喚き散らすマートルを無視して、リドルはトイレを後にした。
すんなりぬいぐるみを排除しようと思っていたリドルとしてはとんだ誤算だ。そもそも、このぬいぐるみはなかなかの曲者で、失くした時のために追跡呪だってついているので、単純に捨てるだけでは駄目だ。
それなら、誰かに拾わせたらどうだろう?
ふとそう思い至り、リドルは地下へ向かった。ハッフルパフの下級生ならば、まだぬいぐるみに興味を持つ年頃だろうという偏見からだ。窓際にでもおいておけば、きっと誰かが拾うに違いない。そうでなくとも、ハッフルパフ生なら誰かの落とし物だとお人好しを発揮するだろう。
廊下の真ん中にぬいぐるみを放り捨てると、リドルは清々した気持ちでその場を後にした。これで心置きなく自分のやるべきことに集中できる。
しかし、数歩と行かずに「おい」と声をかけられてその足は止まる。どうやら、死角になっていたスリザリン寮から上がってきた彼に気付かなかったらしい。
「お前のじゃないのか?」
――どうやら、お人好しはまさかスリザリン生にもいたとは。それも、リドルが想定していなかった人物だ。
「おい、いらないのか?」
地面に落ちたグリフィンドール生のぬいぐるみをわざわざ拾い上げたドラコ・マルフォイ。これまでの彼の言動を鑑みても、こんなお節介を焼くような人物には見えなかったのだが、一体どういう心境の変化か。
「いらない」
はっと目を丸くするドラコにリドルは更に続ける。
「あげる」
ポカンとするドラコを差し置き、リドルはさっさと歩き出した。困惑するのは彼だけではない。
『ハリエット、そんな――』
娘にそっけなく返され、ジェームズが絶望の声を上げる。その声に我に返ったドラコが慌てて叫んだ。
「僕だってこんなのいらない!」
『こんなのとはなんだ!』
途端にジェームズが反応し、ドラコは驚いてテディベアを取り落としそうになった。その合間にもハリエットは踵を返し、城へ歩いていく。
『追え! 追うんだマルフォイ!』
「命令するな!」
従うのは癇だが、しかしドラコとてこんなぬいぐるみと二人きりにされては堪らない。
ドラコもハリエットを追おうと駆け出そうとして――ふとその足が止まる。
『何してるんだ、マルフォイ! 早く行け!』
もうドラコは十二歳だ。ぬいぐるみを持っているところなんて誰にも見られたくない。その躊躇が致命的で、ドラコがモタモタしている間にハリエットはさっさと走って行く。
ジェームズが『ハリエット!』と呼んでいたが、ハリエットは振り返ることもせず階段を駆け上がっていった。