■謎のプリンス

23:帝王のディナー


 瞼を震わせ、ハリエットが目を覚ましたとき、最初に感じたのは圧迫感だった。

 ハリエットはうつ伏せに倒れていた。何かが自分の上にのしかかっているような重苦しい圧力があった。

 そこは、いつもの寝室の匂いではなかった。ダーズリーの家でも、ブラック家の屋敷の匂いでもない。どこか埃っぽく、息苦しい場所だった。

「目覚めたか」

 低く冷たい声が響いた。ハリエットがピクリと動いたのに気づいたのだろう。目を開けると、ずらりと人が座っている光景が飛び込んできた。黒いローブを身に纏った魔法使いや魔女達だ。仮面をつけていなかったが、ハリエットにはすぐ彼らが死喰い人だと分かった。

「さて……ハリエット・ポッター。俺様が誰か分かるな」

 ハリエットは、身体を起こさずにはいられなかった。もうここがどこだか理解していた。ホグワーツの廊下などではない。ホグワーツでこんなに大勢の死喰い人がテーブルに並んで座っているわけがないし――ヴォルデモートがいるわけもない。

「……ヴォルデモート……」
「気安くこの方のお名前を呼ぶでないよ!」
「ベラ、良い」

 ヴォルデモートの近くに座る魔女――ベラトリックスが吠えたが、ヴォルデモートは軽くいなした。

「お前と会うのは二度目だな? あのときは暗くてよく分からなかったが……お前はジェームズ・ポッターの妻にそっくりだな。あの女も俺様を手こずらせてくれた。あの女の保護呪文が俺様をこんな姿にしたのだ」

 ヴォルデモートは、長テーブルの一番奥に腰掛けていた。そしてハリエットは、そのテーブルの上に横たわっていた。テーブルをぐるりと囲んだ椅子には、数多の死喰い人が肩を並べて座っている。

 まるで、ディナーのメインディッシュのようにハリエットはテーブルの上に放置され、そして皆から無感動に見つめられていた。

「思っていたより、取り乱しはしないのだな? 肝が据わっているのか? そんなようには見えないが……何しろ、ドラコの記憶では、お前は良くべそをかいていた」

 ドラコの名に、ハリエットの表情は僅かに変化を見せた。ヴォルデモートはそれを見逃さなかった。

「どうやってここに連れてこられたのか、不思議ではないのか? なぜ自分だけが敵地に拉致されたのか」

 ハリエットは、細心の注意を払ってゆっくり手を動かした。幾人もの注意が向く中、動きを完全に気取られないとは分かっていたが、それでも刺激したくはなかった。

「お前ほどハリー・ポッターと近しい者なら、俺様に有利な情報をもたらすと思ったのだ。それに、妹が連れ去られたと知ったときのハリー・ポッターの顔を想像してみれば、こんなに胸がすくことはない。あやつはもう三度も俺様に抗った。両親と同じだ。時には俺様がハリー・ポッターに歯がゆい思いをさせたとしても恨みはあるまい」

 ハリエットの些細な期待は崩れ落ちた。ポケットに杖はなかった。

「後は……そうだな、ほんの少しの好奇心と言ったところか」

 ヴォルデモートはちらりと視線を横にやった。ハリエットも釣られて顔を向けるが、暗闇があるだけで、そこに何があるかまでは分からない。

「だが、今回はお前だけではない。ダンブルドアのことも収穫だった」

 ハリエットの顔は固まった。ダンブルドアに何かあったのだろうか?

 分かりやすいハリエットの表情に、ヴォルデモートは愉快そうに笑った。

「もしや、知らないのか? ……教えてやろう。ダンブルドアは死んだ。殺されたのだ。そこにいるセブルスにな」

 ヴォルデモートはすっと左手を上げ、ハリエットの斜め後ろを指さした。ハリエットが振り返ると――そこにはスネイプがいた。黒いローブを羽織り、死喰い人と肩を並べ、そこに座っている。彼の無表情が、黙ってハリエットを見つめ返した。

「ダンブルドアが殺されたと分かったときの、あやつらの顔を直接見られなかったのは残念だが、今はお前のその表情だけで我慢することとしよう。いずれ、俺様に反抗する者は皆一様に同じ表情を浮かべることになるだろう」

 ヴォルデモートは指でテーブルを叩いた。

「一つ残念なのが、ドラコだ。死喰い人をホグワーツに手引きしたことは賞賛に値するが、ドラコの任務はそれだけではない。自らの手でダンブルドアを殺害すること……そうだったな、ナルシッサ?」

 ヴォルデモートはナルシッサを見つめた。ナルシッサは青白い顔を一層白くさせて震えていた。

「ダンブルドアを武装解除し、追い詰めたは良いが……ドラコは最後の最後で怖じけついたのだと、アミカス、お前はそう報告したな?」
「おっしゃるとおりでございます、我が君」
「ドラコ……俺様は失望したぞ。怖じ気づくまでは見事な手腕だったのになんと情けないことか……」

 ヴォルデモートは再び暗がりに視線をやり、そしてくつくつと笑い声を上げた。

「俺様としたことが、服従の呪文を解くのを忘れていた。直接批評を下さねばな。ドラコよ、ここへ」

 暗がりからぬっと現れたのは、皆と同じく黒いローブを着た青年だった。瞳は虚ろで、どこを見ているのか分からなかった。

 ヴォルデモートは彼に杖を突きつけ、呪文を唱えた。途端にドラコは全身の力が抜けたかのようにぐらりと体勢を崩した。しかし地面に倒れ込むことはなく、頭に手をやり、ドラコは茫然としたように瞬きを繰り返した。

 ぼうっとした表情のまま、ドラコはヴォルデモートを見、ナルシッサを見、その他の死喰い人を見――そして、ハリエットの所で止まった。彼は目を見開き、恐怖に染まった表情を浮かべた。

「ドラコよ、なぜダンブルドアの殺害に怖じ気づいた? 失敗したときには両親を殺すと、そう言ったはずだな? まさか失敗したとしても許してもらえると、そう思っていたのか?」

 ドラコは声もなく首を振った。

「セブルスが代わりにダンブルドアに手をかけたから良いものを……まあ良い。お前はきちんと二つ目の任務もこなした。そこは褒めてやろう」
「…………」
「よくハリエット・ポッターを連れてきたな」

 再びドラコとハリエットの視線が交錯した。彼は驚愕に固まっていた。まるで自分のしたことを思い出すかのように頭に手を当て、後ずさりをする。

「さて、ドラコと同じように、お前の記憶も覗いてみよう。そのためにここへ連れてきたのだからな」
「我が君……」

 ドラコが小さく声をかけた。困惑と恐怖が入り交じった声色だった。

「なに、軽く開心術をかけるだけだ。お前は下がっていろ」

 ヴォルデモートが軽く杖を振るうと、まるで見えない糸で引っ張られるかのようにハリエットは彼の前まで引きずられた。ヴォルデモートと目が合う――。

「レジリメンス!」

 久しぶりの感覚だった。誰かが心に押し入ってこようとする感覚。スネイプにはない荒々しさがヴォルデモートにはあった。

「幼少期は随分と悲惨な目に遭ったようだな。マグルの家に育てられたのだから、それも当然か」

 記憶を探られながら、ハリエットはどこか遠くでヴォルデモートの声を聞いていた。

「ハリー・ポッターはスリザリンに適性があったのか……。グリフィンドールを選ぶなどと、愚かなことをしたものよ。そしてお前は……ハッフルパフか。双子揃って道を誤ったのはここからか――」

 ヴォルデモートに記憶を蹂躙され、見られていない秘密など一つもなくなった頃、ようやく彼はハリエットを解放した。初めてここで目を覚ましたときと同じように、ハリエットはテーブルの上で四肢を投げ出して倒れていた。

 ヴォルデモートは、今やハリエットの全てを知っていた。大切にしたい思い出も、恥ずかしい記憶も、思春期に移ろった感情全てを知られていた。

 ハリエットの全てを明らかにしたにもかかわらず、ヴォルデモートの顔は浮かなかった。苛立ったように赤い目を細める。

「俺様には分からないことがいくつかある。秘密の部屋で何があったのか、不死鳥の騎士団の本部はどこにあるのか、団員は誰か、活動内容は何か、ダンブルドアはハリー・ポッターに何を教えているのか……。お前の記憶を暴けば全てが分かると思っていたのに、どういうことだ?」

 ヴォルデモートは考えるように間を置き、また杖を振り上げた。開心術が来ると身構えていたハリエットは、予想外の呪文に悲鳴を上げることになった。

「クルーシオ!」

 ――これまで経験したどんな痛みをも越える痛みだった。全身が燃えるように熱い。頭が激痛で爆発しそうだった。

 終わって欲しい……気を失ってしまいたい……死んだ方がマシだ……。

 気がつくとその痛みは過ぎ去っていた。しかしハリエットの身体はまだそのことに気づかないらしく、小さく痙攣していた。

 震えながら涙をこぼすハリエットを無理矢理引きずり、ヴォルデモートは目を合わせ、再び開心術をかけた。

 しかし今度も思っていた程の収穫はなかったらしく、ヴォルデモートは嘆息する。

「意外と強情なのだな。――ベラ」

 黒髪の魔女がニタリと笑って頭を下げた。

「マルフォイ邸に姿くらましのできない地下があっただろう。連れて行け。吐かせろ」
「承知いたしました、我が君」

 舌なめずりをして、ベラトリックスはハリエットを見た。ハリエットは背中に悪寒が走るのを感じた。ベラトリックスは徐に立ち上がり、彼女の髪を掴んでテーブルから引きずり下ろした。ハリエットはよろよろ後についていく。テーブルを通り過ぎ、ヴォルデモートの横を通り過ぎ……そこで足が止まった。

 ドラコが、ハリエットの腕を掴んでいた。真っ青な顔で、唇を震わせながら、しかし決して視線を合わせず、ハリエットの腕を確かに掴んでいた。

 死喰い人がどよめいた。その中には嘲笑も含まれている。ナルシッサが『ドラコ!』と叫ぶのが聞こえた。

 ハリエットは、彼の腕を振り払った。わざとドラコを冷たく睨み付ける。死喰い人が一斉にはやし立てた。

 そして前に向き直ってベラトリックスの後についていく。ハリエットは不安で押し潰れてしまいそうだった。

「嫌われてしまったな?」

 愉快そうに笑うヴォルデモートの声が、最後に聞こえてきた。