■アズカバンの囚人

19:満月の夜


 クルックシャンクスを先頭に階段を上り、その後をルーピン、ペティグリュー、ロンが、横並びになって繋がって降りた。その次をハーマイオニー、ハリーと続き、シリウスがスネイプの杖を使って彼を宙づりにして運んだ。最後はドラコと、彼を支えたハリエットだ。ドラコは、階段を降りるたびにスネイプのつま先が階段にぶつかっているので、シリウスがわざとやっているのではないかと恐々としていた。

「今日、ペティグリューを吸魂鬼に引き渡したら、どういうことになるか分かるか?」

 シリウスは、自分の前後を挟む双子に声をかけた。ハリーは躊躇いなく口を開く。

「あなたが自由の身になる」
「そうだ……」

 シリウスの声は緊張していた。

「しかし、それだけではない。誰かに聞いたかもしれないが、わたしは君たちの名付け親であり、そして後見人でもある」
「はい、知っています」
「その……だから」

 シリウスはコホンと咳払いした。

「もちろん、君たちがおじさんやおばさんとこのまま一緒に暮らしたいというなら、その気持ちはよく分かるつもりだ。しかし……まあ……考えてくれないか。わたしの汚名が晴れたら……もし君たちが……別の家族が欲しいと思うのなら……」

 双子は思わずと足を止めた。ハリーは天井から突き出している岩に頭をぶつけたし、ハリエットはドラコを落っことした。

「あなたと暮らすの?」
「ダーズリーと別れるの?」
「むろん、君たちはそんなことは望まないと思ったが。……ただ、もしかしたらわたしと、と思ってね」
「とんでもない!」

 勘違いされたら困ると、ハリーは拳を握ってシリウスに詰め寄る。ハリエットはドラコのことを綺麗さっぱり頭から忘れて、後ろからシリウスの服をギュッと掴んだ。

「もちろん、ダーズリーの所なんか出たいです! 住む家はありますか? 僕たち、いつ引っ越せますか?」
「本当に私たちと住んでくれるんですか? 私と、ハリーと?」
「あ、ああ……」

 シリウスは戸惑ったように小さな双子を見比べた。宙に浮かんだスネイプの頭は天井をゴリゴリと擦り、床に転がったドラコは階段を滑り落ちたが、三人は気にもとめなかった。

「そうしたいのかい? 本気で? わたしに気を遣ってるのではなく?」
「本気です!」
「むしろ、私はあなたが気を遣ってるんじゃないかと……後見人だからって……」
「そんなことはない!」

 シリウスはこの場の誰よりも声高々に叫んだ。

「わたしは……わたしも、家族が欲しいんだ。君たちと一緒に暮らせたら、こんなに幸せなことはないだろう」
「……っ!」

 ハリーはこみ上げてくる思いを瞳に宿し、ハリエットは涙に宿した。

 ふと、もっと近づきたいと思った。その思いは切に膨らみ続け――ボスッとハリエットはシリウスの胸に頭を預けた。待ちきれなくてハリーも妹に続く。

 無言のまま双子が己が胸に飛び込んできて、シリウスは感極まって泣きそうな笑顔になった。十二年ぶりの心からの笑顔だった。老け込んでいた顔は一気に若返り、その瞳は輝かんばかりに光を放つ。積年の涙が両頬を伝った。それは地に落ちることなく、双子の頭の上に吸い込まれていった。

「ハリー? 大丈夫? 何かあった?」

 トンネルの出口からハーマイオニーの声がした。三人は慌てて離れた。そしてハリーは歩き出し、シリウスはスネイプを天井から引き剥がし、ハリエットはドラコのことを思い出す。

 無粋なのは分かっていたので、三人が抱擁している間、ドラコは声はかけなかったが、最高潮に不機嫌だった。階段を滑り落ちたことで、新たにできた擦り傷を無言で指さす。ハリエットは精一杯両手を合わせた。

 トンネルを出るまで、一行は一言も話さなかった。否、話せなかった。聞きたいことはたくさんあったし、話したいこともあった。しかし、この先に待っている幸福を思うと、胸が一杯になって、何も言葉にはならないのだ。

 ようやくと穴から這い出し、皆はトンネルと同じように一列になって歩き出した。だが、それも最初の頃だけで、すぐに列は崩れた。ハリーはわざと歩みを遅らせてシリウスの隣に並んだし、ハリエットは自分でも気づかないうちに早足になって彼の隣に追いついた。これに苦労するのは負傷者達である。

 双子の可愛い行動にシリウスはスネイプを空高く掲げ、視界に入ってこないようにしたし、ドラコはハリエットの足並みにあわせるため額に大粒の汗を光らせた。

 横並びになっても、誰も何も話そうとはしなかった。しかし先に限界が来たのはハリーである。

 感極まって何も話せずにいたのが、今度は胸に溜まりに溜まった感情を堪えきれず、息が詰まりそうになったのだ。シリウスと暮らす前に窒息死しないために、ハリーは意を決して話しかけた。

「僕……僕」

 ゴクリとハリーは唾を飲み込む。

「――あなたと一緒に暮らすのが本当に楽しみだ」

 『どうしてこんなつまらないことを! 言いたいことはもっと他にもあったのに!』と、ハリーは自分の横っ面を殴りたくなった。

「私も! ……私も、本当に楽しみ。夢みたいだわ」

 だが、ハリエットも後に続いた。ハリーと同様、溜まりに溜まっていた。

「ずっと思ってたんだ。ダーズリーの所から出たいって」
「でも、だからって誰でもいいわけじゃないわ!」

 ハリーの言葉だけだと誤解されると、ハリエットは慌てて付け足した。

「あなただから……お父さんの親友の、あなただから」
「うん。本当に。アルバムで初めて見たとき、父さんと本当に仲がいいんだなって思ってたよ」

 シリウス越しに片割れと目が合い、双子はにへらっと笑った。この想いがシリウスに伝わってくれればと思った。

「君たちの家に行ったときにも思ったが……」

 シリウスは静かに口を開いた。

「君たちのおじやおばは、ちゃんと世話してくれてるかい?」
「そんなわけ!」

 ハリーはぶんぶんと首を振った。

「あいつら、最低だよ! 僕たちがちょっとでも気に触るようなことをするとすぐに食事抜きにするんだ」
「部屋に軟禁されたときは、さすがにしんどかったわ」
「服はいつもダドリーのお下がりだし」
「ダドリーはいつもハリーを殴るわ」
「ハリエットの髪も引っ張る」
「バーノンは些細なことですぐ怒鳴るし」
「おばさんはずっと仕事を言いつけてばかり」

 双子は、まるで告げ口するかのように一気に話した。

 ずっと、誰かに聞いてもらいたかったのだ。友達やその親兄弟ではなく、自分たちだけの、自分たちを大切に思ってくれる大人の人に。そして、一緒になって怒って欲しかった。

 双子は、シリウスに何をして欲しいというのはなかった。ただ、一緒に理不尽を怒ってくれるだけで充分だった。

「何だと……?」

 だが、シリウスの声から漏れた低い声が、双子の純粋な気持ちを凍えさせる。

「ジェームズとリリーの忘れ形見にそんな酷い仕打ちを……?」

 シリウスの唇はわなわなと震えていた。

「信じられない……殴り込みに行ってやる!」
「ま、待ってシリウス! 駄目だよ、そんなことしたら!」
「そ、そうよ! 私たちと一緒に暮らす前に、犯罪者になっちゃうわ!」
「僕たち、あなたと暮らしたいんだ!」
「ハリー……ハリエット……」

 ――なんだこいつら、とドラコは死んだ魚のような目で思っていた。さっきから黙って聞いていれば、耳に飛び込んでくるのはどんな恋人同士の語らいだと思うほど甘ったるい会話ばかり。ハリエットはまだいい。だが、デレにデレているハリーも、鼻の下を伸ばしているシリウスも、ドラコからすれば気持ち悪いの一言である。

 早く誰か僕を開放してくれと、遙か先にいるルーピン達の背を見た。だが、その時、ルーピンの影が一瞬蠢いたような気がして、ドラコは目を瞬かせた。目を細めて見やれば、ルーピンの影は、どんどん身体を伸ばしていく。その異変に気づいたのはドラコだけではなかった。

「逃げろ!」

 シリウスは駆け出した。ハーマイオニーも叫ぶ。

「今夜は脱狼薬を飲んでないんだわ! どうしましょう!」
「わたしに任せて、早く逃げろ!」

 恐ろしいうなり声を上げ、ルーピンの身体にはみるみる毛が生えだした。手には巨大なかぎ爪が生える。

 そこに狼人間が現れたとき、シリウスも犬に変身していた。狼人間は煩わしそうに己の手首を縛っている手錠をねじ切った。巨大な黒々とした犬が飛び出し、狼人間の首に噛みつく。二匹は爪と爪、牙と牙とで互いを引き裂き合っていた。

 誰もが茫然とその光景を見つめる中、それは起こった。ペティグリューがルーピンの落とした杖に飛びついたのだ。そして目映い光が炸裂し、ロンを襲った。続いて上がった閃光も、クルックシャンクスを襲う。

「エクスペリアームス!」

 ハリーが杖を上げてハリーが叫んだ。ルーピンの杖が高々と宙を飛び、ハリーの呪文の成功を物語った。だが、時既に遅かった。気がついたときにはその場にネズミがいた。ネズミはするりと手錠の縄を掻い潜り、草むらを走り去る。

 それと共に、狼人間も逃げ出すところだった。シリウスとの戦いに敗れたのだ。

「シリウス! ペティグリューが逃げ出した!」

 シリウスは血を流していた。鼻面も背も深手を負っていた。だが、ハリーの言葉にすぐさま立ち上がり、ペティグリューを追って校庭を駆けた。

「ロン……ロン!」

 ロンは、目を半目に見開き、口だけがだらりと開いていた。生きているのは確かだが、正気を失っている。

「早く安全なところに連れて行かないと」

 確実に援護が必要だった。ルーピンのこと、ペティグリューのこと。

 ハリーはスネイプを、ハーマイオニーはロンを、そしてハリエットはドラコを。

 三人がそれぞれ歩き出したところ、キャンキャンと苦痛を訴えるような犬の鳴き声が聞こえてきた。

「シリウス!」

 双子は血の気を失った。シリウスが苦しんでいる!

「ハリー!」

 ハリエットは叫んだ。

「お願い、シリウスを助けて!」

 返事をする間もなく、ハリーは駆け出した。ハーマイオニーも一瞬躊躇ってハリエットを見た。ハリエットは迷いなく頷いた。

「皆は私が見てるから、お願い!」
「ええ!」

 ハーマイオニーも急いでハリーの後を追った。ハリエットは祈るように目を閉じ、その場に立ち尽くす。犬の鳴き声はもう止んでいた。助かっただろうか――?

 だが、すぐ側で唸り声のようなものがして、ハリエットの身体に悪寒が走った。ハッとして後ろを振り向けば、そこに狼人間が立っていた。狼人間が、この辺り一帯に漂う四人もの人間の匂いを嗅ぎ取り、再び戻ってきたのだ。

 手傷を負い、狼人間は興奮していた。ドラコが隣で腰を抜かすのをハリエットは感じていた。ハリエットは震える手で杖を突きつけた。

「え……エクスペリアームス!」

 最初の攻撃は当たらなかった。素早い動きで狼人間は後ろに飛び退いたのだ。ハリエットは皆の前に立ちはだかっていた。杖は油断なく構えていたが、次も当たらなかったらという不安が胸をよぎる。

 息を吸ったとき、狼人間が飛びかかってきた。武装解除の呪文を叫ぼうとしたが、間に合わない――。

「きゃあっ!」

 ハリエットは後ろに引き倒された。終わりだと思った。だが、目を開けると、そこには血走った目で睨み付けるスネイプがいた。

「馬鹿者! 死にたいのか!」

 スネイプ先生が助けてくれたのだ、と思ったときには、彼はもうハリエットに背を向け、狼人間の前に立ち塞がっていた。

「二人を連れて早く逃げろ!」
「あっ……ああ、でも先生――」
「ステューピファイ!」

 スネイプの閃光は確実に当たった。しかし狼人間を失神させるには至らない。狼人間は一歩こちらに近寄ってきた。

 しかしその時、真横から鋭い閃光がほとばしり、狼人間にぶち当たった。急所に当たったのか、狼人間は苦しそうにもがく。

「ステューピファイ!」

 再びスネイプが叫ぶ。今度も命中した。狼人間は低く唸り声を上げて禁じられた森の方へと駆けていった。その背はみるみる小さくなっていく。

「す、スネイプ先生――っ」

 ハリエットは身体から力が抜け、その場にへたり込んだ。スネイプは相変わらず鼻に皺を寄せていたが、ハリエットにはそれすらも懐かしく、心から安堵した。

「シリウス・ブラックは」

 スネイプは未だ狼人間が去った方向を睨みながら問うた。ハリエットはすっかりスネイプに心を許していた。

「分かりません。最後に聞こえたのは、あっちの方からです。ハリーとハーマイオニーもいるはずです」
「そこを動くな」

 スネイプはすぐに走り出した。そして次に戻ってきたとき、彼は、気を失っているハリーとロン、そして縛り上げたシリウスを担架に乗せ、宙に浮かばせていた。