■アズカバンの囚人

20:逆転時計


 城へ向かう途中、スネイプは全くハリエットの話に取り合ってくれなかった。何度シリウスの拘束を解くようお願いしても、彼が犯罪者だという考えを捨ててはくれないのだ。

 シリウス・ブラックは医務室の上の階に閉じ込められ、吸魂鬼の『キス』を待つだけとなってしまった。

 魔法省大臣のコーネリウス・ファッジも到着した。話を聞きたいと彼はスネイプとハリエットの元にやってきた。ハリエットも必死になって状況を説明したが、立場のあるスネイプと一介の学生のハリエットでは、重きを置かれるのがどちらかは明白だった。

「言語道断……誰も死ななかったのが奇跡だ。スネイプ、君にはマーリン勲章、勲二等、いや、もし私が口やかましく言えば勲一等ものだ」
「誠に有り難いことです、閣下」

 スネイプは恭しく頭を下げた。

「言動から察するに、生徒には皆『錯乱の呪文』がかけられていました。生徒はブラックが無実である可能性があると考えていたようです。彼らの行動に責任はありません。しかし、自分たちだけでブラックを捕まえようと思ったわけですな。どうも自分たちの力を過信している節があるようで……」
「ああ、それは何しろハリー・ポッターだ。我々は皆この子には甘いところがある」
「しかし、それにしましてもあまりの特別扱いは本人のためにならぬのでは? 規則を破り、夜間人狼や殺人者とつるんで……」
「違う、全然違います!」

 何度言えば分かるんだろう。どう言えば分かってくれるんだろう。

 ハリエットの心はもう限界だった。同じことを叫びすぎて、声は掠れていた。

「シリウス・ブラックは殺人者なんかじゃありません! 無実なんです! ピーター・ペティグリューは自分が死んだと見せかけたんです! 今夜ピーターを見ました!」

 ファッジは哀れむような視線をハリエットに向けた。

「ハリエット、君は混乱している。あんな恐ろしい試練を受けたのだし、横になりなさい。さあ、全て我々が掌握しているのだから」
「してません!」

 ハリエットは甲高く叫んだ。

「捕まえる人を間違えています! シリウスは無実です!」
「ミス・ポッター、大臣閣下の前ですぞ」
「だって……こんな、こんなのひどいわ――」

 ハリエットはスネイプに縋り付いた。

「止めて……止めて、お願い、シリウスを助けて――」
「まあ! まだあなたは安静にしてないといけません!」

 突然マダム・ポンフリーの声が響いた。ハリエットは涙ながらに振り返り、目を見開いた。

「僕もその場にいました。大臣閣下、スネイプ先生」

 ドラコが、血の気を失った顔で立っていた。壁に背をもたれかけさせ、今にも倒れそうな顔をしている。マダム・ポンフリーは彼をベッドに戻らせようと、彼の腕を引っ張って奮闘していた。

「信じられないことですが、僕もシリウス・ブラックは無実だと思います。僕もピーター・ペティグリューを見ました。アニメーガスだったんです。ウィーズリーのペットに紛れ、ペティグリューは――」
「お分かりでしょう、閣下?」

 スネイプは肩をすくめた。

「『錯乱の呪文』です。二人とも……ブラックは見事に術をかけたものですな」
「私たち、錯乱なんかしていません!」

 怒りを込めてハリエットはスネイプのローブを握りしめた。

「大臣、先生」

 マダム・ポンフリーは顔に怒りを湛えていた。

「二人とも出て行ってください。この二人も私の患者です。患者を興奮させてはなりません!」
「私、興奮してません! 何があったのか、ちゃんと説明しようとしてるんです!」
「私たちも外に出ようとしていたところです。ただ、ミス・ポッターが放してくれないので」
「さあ、ミス・ポッター。大人しく病室に戻りなさい。その怪我を治療します」

 ハリエットは怪我した手を覆った。ネズミのペティグリューに噛まれたときの怪我だ。こんなもの、シリウスに比べたら、痛みなんて感じない。

「このくらいなんともありません! 待ってください、スネイプ先生! 私の話を聞いてください!」

 スネイプはハリエットを引き剥がし、ファッジと共に医務室を出て行った。扉は無情にも目の前で閉められた。ハリエットはその場に泣き崩れた。どうすれば――どうすればいいというのだろう。一体私に何ができる? どうすればシリウスを助けられる?

 だが、そう間をおかず、同じ扉からダンブルドアが入ってきた。突然降り注いだ光明に、ハリエットは縋り付いた。

 彼の下に、ベッドで気絶していたはずのハリー、ハーマイオニーも駆け寄ってきた。ハリエットの訴えが彼らの耳にも届いていたようで、シリウスの一刻を争う状況も理解していた。

 生徒たちだけで話したいと、ダンブルドアはマダム・ポンフリーを一旦医務室の外に出てもらった。それからは、ハリエット達は口々に叫んだ。シリウスが無実だと、ペティグリューが真の『秘密の守人』だったと、ペティグリューはアニメーガスだと。

 洪水のように押し寄せてくる訴えを、ダンブルドアは片手で制止した。

「今度は君たちが聞く番じゃ。頼むから、わしの言うことを途中でさえぎらんでくれ。何しろ時間がないのじゃ」

 ダンブルドアは語った。シリウスの無実を証明するものは何もないと、十三歳の魔法使い数人と人狼が何を言ったところで証言にはならないと、自分はハリー達を信じているが、魔法大臣の判決を覆す力は自分にはないと――。

「必要なのは時間じゃ」

 ダンブルドアがハーマイオニーを見た。何か言いかけた彼女が、ハッとして口をつぐむ。

「シリウスは八階のフリットウィック先生の事務所に閉じ込められている。西塔の十三番目の窓じゃ。首尾良く運べば、君たちは今夜一つとも言わず、もっと罪なき者の命を救うことができるじゃろう。ただし、皆忘れるでないぞ。見られてはならん。ミス・グレンジャー、規則は知っておろうな。誰にも見られてはならんぞ」

 ハリエットはハーマイオニーを見た。ハーマイオニーとダンブルドアは、何かが通じ合っているかのようにじっと目を合わせていた。

「君たちを閉じ込めておこう。今は真夜中五分前じゃ。ドラコ、君は安静のためじっとしておくのじゃぞ」

 ハーマイオニーは何か言おうと口を開いた。だが、ダンブルドアはそれを視線で制する。

「ドラコは、何も見ておらんし、何も聞いておらん。君たちのために、口を閉ざしてくれるじゃろう」

 確信を持った言い方だった。ダンブルドアはそのまま医務室を出、扉を閉めようとしたところで最後に言い残した。

「安全のため、ミス・グレンジャー、三回ひっくり返せば良いじゃろう。幸運を祈る」

 ハーマイオニーはすぐさま行動を開始した。ローブの襟からと手も長くて細い金の鎖を引っ張り出した。

「ハリー、ハリエット、こっちに来て」

 三人は一カ所に集まった。ハーマイオニーは鎖を突き出し、それをハリー、そしてハリエットの首にもかけた。鎖の先には、キラキラした砂時計があった。ハーマイオニーは何も言わず、砂時計を三回ひっくり返した。

 暗い病室が溶けるようになくなった。身体が後ろに引っ張られるような感覚があった。

 しばらくして、固い地面に足がついた。周りの景色がはっきり見え出すと、ハリーとハリエットは愕然とした。医務室にいたはずなのに、玄関ホールに立っている。

「こっち!」

 ハーマイオニーは双子の腕を掴むと、箒置き場の中に隠れた。

「何が……どうして」
「時間を逆戻りさせたの、三時間前まで」

 ハーマイオニーは早口で説明した。

「ほら、私たちよ。今からハグリッドの小屋へ向かおうとしてるところね」
「つまり、僕たちは過去に戻ってるってこと?」
「私たちが、今のこの時間軸に二人存在するってこと?」
「まさにそういうことよ」

 ハーマイオニーはゆっくり箒置き場を出た。透明マントに隠れているらしい三人分の足音が遠ざかったからだ。彼らの後を追いながら、ハーマイオニーは説明した。

 時間を逆戻りさせるため、逆転時計を使ったこと、同時に複数の授業を受けるため、誰にも言わないと約束し使わせてもらっていること、今年はずっと逆転時計を使っていたこと――。

「でも、分からないのはダンブルドア先生が私たちに何をさせたいか。どうして三時間前に戻せっておっしゃったのかしら」
「たぶん、ダンブルドアが変えたいと思っている何かが、この時間帯に起こったに違いない」
「バックビークよ」

 ハリエットはハッと顔を上げた。

「もうすぐバックビークの処刑が行われるわ」
「それだわ!」
「でも、それがどうしてシリウスを救うことに繋がるの?」

 ハーマイオニーの疑問に、ハリーが答えた。

「ダンブルドアが今教えてくれたばかりだ。シリウスは八階の窓に閉じ込められてる。そこまでバックビークに乗って救い出すんだよ! シリウスもバックビークも助かる!」

 自分たちがいるはずの暴れ柳を遠回りして避け、ハリー達は森まで駆けた。そこからは、木の間にうまく隠れながら、ハグリッドの小屋の戸口が見える場所まで移動した。バックビークもすぐ側にいる。

「よし、今なら――」
「駄目よ!」

 ハーマイオニーは慌ててハリーの腕を掴んだ。

「今バックビークを逃がしたら、ハグリッドが逃がしたんだと思われるわ。死刑執行人達に、バックビークはまだちゃんといるってことを見せないと!」

 しばらく待っていると、死刑執行人の一行が到着した。小屋の中に入ると、彼らは開いている窓からバックビークの存在を確認した。

「ここで待ってて。僕がやる」

 ハリーは忍び足でカボチャ畑の柵を越え、バックビークに近づいた。瞬きをしないよう注意しながら、以前やったようにバックビークの前でお辞儀した。バックビークは膝を曲げて姿勢を低くし、また立ち上がる。ハリーはバックビークを柵に縛り付けている綱を解き、バックビークを引っ張った。バックビークはなかなか動こうとしなかったが、なんとか死刑執行人達に気づかれる前に、森の中まで引き入れた。

 小屋近くでは、間一髪、死刑執行人達が騒ぐ声がした。

「いない! どこに行った!?」
「いない、いない! 良かった、可愛いくちばしのビーキー! きっと自分でいなくなっちまったんだ! ビーキー、賢いビーキー!」

 ハグリッドの所に行こうとしてバックビークは綱を引っ張り始めたが、三人はそれを足を踏ん張って押さえた。やがて、ダンブルドア達はハグリッドと共に小屋の中に姿を消した。