マルフォイ家の娘
18 ―君は知らない―
ホグワーツに戻ってきたハリーは散々な目に遭っていた。去年のリータ・スキーターが書いたハリーの中傷記事を足がかりに、日刊予言者新聞がハリーを信用ならない人物だと書き立てるようになったのだ。夏季休暇の間、そんな新聞を読み続けた生徒の多くはハリーのことを信用ならない人物だと決めつけ、ヴォルデモートの復活に関しても目立ちたがり屋の虚言だと馬鹿にするようになった。
ハリエットもこれに立ち向かった。何しろ、ハリエットとてヴォルデモートの復活に立ち会った者の中の一人なのだから、新聞で中傷されているハリーと違ってまだ聞き入れてもらえる――と思っていたのだが、未だ生徒の大多数はハリエットをハリーの恋人と勘違いしているようで、「恋人の嘘に付き合う哀れな女」としてあしらわれるようになった。
この一連の流れには、考えなくとも魔法省が糸を引いているだろうことは明らかだった。ヴォルデモートの復活をどうしても信じたくなかったらしいファッジないし魔法省は、その権力を以てして日刊予言者新聞にハリーを攻撃させることで自らを落ち着かせているのだ。
特に問題なのは、外から圧力をかけるだけでなく、内側からホグワーツに干渉しようと働きかけてきたことだ。
ホグワーツ一人気のない教授職「闇の魔術に対する防衛術」に就いたのは魔法大臣付上級次官のドローレス・アンブリッジだった。
彼女がまたくせ者で、「基本に返れ」という目的を掲げ、ただ教科書を読むだけの授業をしたのだ。ハーマイオニーは、すぐにピンと手を伸ばした。
「あなたのお名前は?」
「ハーマイオニー・グレンジャーです。授業の目的に質問があるんです」
ハーマイオニーは続けざまに言い放った。
「教科書を読んでも、防衛呪文を使うことに関しては何も書いてありませんでした。でも、闇の魔術に対する防衛術の真の狙いは、間違いなく防衛呪文の練習をすることではありませんか?」
「ミス・グレンジャー、あなたは魔法省の訓練を受けた教育専門家ですか?」
「いいえ、でも――」
「それなら残念ながら、あなたには授業の真の狙いを決める資格はありませんね。あなた方が防衛呪文について学ぶのは安全で危険のない方法で――」
「そんなのなんの役に立つ?」
ハリーが大声を上げた。
「もし僕たちが襲われるとしたら、そんな方法――」
「挙手。ミスター・ポッター」
アンブリッジが歌うように注意した。
だが、ハーマイオニーやハリーの行動に感化され、他の生徒も幾人か挙手し始めた。それぞれが、自分の思う疑問をぶつけたのだ。
もし襲われるとしたら、危険のない方法なんかじゃないとディーンもハリーの肩を持ったが、このクラスで一体誰が襲われるのかとにこやかにアンブリッジは言い放った。反論は許さない笑顔だった。
アンブリッジは、更に試験に合格するためには理論的な知識で充分足りるとも言い切った。パーバティはすかさず「闇の魔術に対する防衛術」OWLには実技はないのかと尋ねたが、理論を十分に理解していれば、試験下でも呪文がかけられないということはない、とのたまった。
「それでは、初めて呪文を使うのが試験場だとおっしゃるんですか?」
「繰り返します。理論を充分に勉強すれば――」
「理論は現実世界でどんな役に立つんですか?」
ハリーも拳を挙げて追随した。
「ここは学校です。あなたのような子供を一体誰が襲うと思っているの?」
「たとえば……ヴォルデモート卿とか?」
生徒たちは皆それぞれの反応を示した。大半は恐怖によるものだ。アンブリッジはにこやかな笑みを浮かべていた。
「グリフィンドール、十点減点です」
アンブリッジは立ち上がって皆を見回した。
「皆さんは、ある闇の魔法使いが蘇り、再び野に放たれたという話を聞かされてきました。しかしこれは嘘です」
「嘘じゃない!」
ハリーは叫んだ。
「僕は見た。僕はあいつと戦ったんだ!」
「私も見ました」
いい加減なことを言うアンブリッジに腹が立ったのか、はたまたハリーの勢いに背を押されたのか――気づけばハリエットは手を上げていた。
「あなたのお名前は?」
「ハリエット……マルフォイです」
マルフォイと聞いてアンブリッジに眉がピンと跳ね上げられる。ジロジロハリエットの顔を見た上でにっこり彼女は微笑んだ。
「グリフィンドールに入ったマルフォイ家の娘の話は聞いていますわ。どうやら周りから悪い影響を受けたようね。そんな虚言を吐くようになるなんて」
「嘘じゃありません。本当に見たんです。ヴォルデモートが生きているのを」
「でも、彼の話では、その場にミスター・ルシウス・マルフォイもいたそうね? あなたは父親を告発しようと言うの?」
父親じゃない――その一言が言えたらどんなに良かっただろう。
ハリエットが言葉に詰まったのを機にアンブリッジは更に言い募る。
「あなたが競技場にいたのだって、恋人のハリー・ポッターの勇姿を一目見たかった、だからでしょう?」
「違います!」
移動キーで連れ去られたから、ルシウス・マルフォイに売られたから――。
頭では分かっているのに声に出せない。
アンブリッジは手を上げてざわつく教室を黙らせた。
「もう良いわ。いつまでも恋人を庇っていても身のためにならないでしょうに。それとミスター・ポッター? あなたには罰則を科します、明日の夕方、五時。わたくしの部屋で。もう一度言いましょう。闇の帝王の復活――これは嘘です。魔法省は皆さんに闇の魔法使いの危険はないと保証します」
当然、ハリエットも罰則を受けるものと思っていた。だが、アンブリッジは決してハリエットの名は呼ばなかった。
「さて、ではどうぞ読み続けてください。五ページから」
――「マルフォイ家の権力に守られた」のだ。罰則を科したいに決まっているのにそうしないのは、ひとえにルシウス・マルフォイを恐れてのこと――。
ハリエットはそれが悔しくて悔しくて仕方がなかった。もう私はマルフォイ家とは何の関係もないのに――。
*****
ホグワーツ初日から――細かく言えば夏休みからだが――散々な目に遭っていたハリーだったが、もちろん朗報もある。ロンがクィディッチ・チームのキーパーに選ばれたのだ。選抜のために夜な夜な練習していたようだが、その努力が報われてハリエットはとても嬉しかった。
だが、それとは対照的に不満が募っていくのはやはり闇の魔術に対する防衛術の授業についてだ。相変わらず教科書を読むだけの授業が続き、これではヴォルデモートに対抗する手段だって何一つ学べないと思ったハリー達は、話し合った結果、自分達で防衛術を学ぶ必要性があると結論づけた。その教師役はぜひハリーに、と譲らないハリエット達に、自信のないハリーは決して頷かなかったが、同じ志を持った生徒達の数を見て少し考えが変わったようだった。彼らもまた、ハリーを教師役にというハーマイオニーの声に賛成が大多数だったからだ。
会合の頻度や場所、時間、ほとんどまだ何も決まってない状態だが、それでも防衛術を学ぶという決意は形になった。メンバーの名前をリストに書く段階になって、ザカリアス・スミスが声を上げた。
「そのリストがバレたら俺達は全員まずいことになる」
「ええ、それは分かっているわ。私がこれをその辺に置きっぱなしにするとでも思ってるの?」
「でも、全員秘密をバラさないって誓うだけじゃ効力が弱い。だって、そもそも信用ならない奴だっているんだから」
「誰が信用ならないって? はっきり言ってちょうだい」
「マルフォイだよ」
始めは自分のことを指しているとは思わず、ハリエットは反応が遅れた。その数瞬のうちに、皆の視線はハリエットに向けられていた。
「ポッターの恋人だからって、なんでこんな所にいるんだよ。父親に告げ口されたらどうするんだ?」
「ハリエットはそんなことしない!」
恋人じゃない、というハリーの律儀な否定はいきり立ったロンの叫びにかき消された。ハーマイオニーも追随する。
「それに、ハリエットは父親とは違うわ。純血主義でもないし、もちろんヴォルデモートを支持してもいない。むしろ――マルフォイ家とは決別してるの」
「じゃあ、なんであの時競技場にいたんだ?」
いつの間にかしんと静まりかえっていた。皆がザカリアスとハリエットとを見つめている。
「正直、みんな不審に思ってる。ポッターとセドリックが例のあの人の復活に立ち会った――ここまでは良いとしよう。でも、観客席にいるはずのマルフォイがどうして二人と一緒にいたんだ? なんであの人の復活の場に立ち会うことになったんだ?」
確かに、第三者から見れば不可解極まりない事態だろう。そして不信を生む事態でもある。ヴォルデモート復活に立ち会うことは、すなわちしもべであることと同義に違いないのだから。
「わ、たしは……」
だからこそ、誤魔化すことなどできないと思った。信用してもらうことが第一だ。折角ここまで話がまとまったのに、自分の一言で全て台無しになってしまう可能性だってあるのだから。
「私は、ルシウス・マルフォイに売られたの。ヴォルデモートへの生贄にされたのよ」
沈黙が破られ、皆がざわつき始める。事情を知っている者だけが落ち着きなく何か言うべきか口を開け閉めしている。
「でも正直――君はどこにでもいる女の子だ。そんな君がどうして? ポッターの彼女だから?」
「ハリエットは僕の妹だからだ」
ハリエットよりも早くハリーが答えた。
「僕とハリエットは双子なんだ。死喰い人の残党に狙われる危険性があったから、ハリエットはマルフォイに引き取られた。でも、ルシウス・マルフォイは最初からハリエットを道具としか思ってなかった。死喰い人のイメージを払拭し、魔法省へ恩を売るためにハリエットを引き取って、結局ヴォルデモートが復活したら生贄にしたんだ。自分が助かるために」
一気に言ってのけると、さざ波のように混乱が伝播していった。ハリー・ポッターとマルフォイ家の奇妙な結びつきこそ信じられないというのに、魔法省だの生贄だの、想像だにしなかった要素がそこには絡んでいて。
「全然似てない……」
なんて言ったら良いのか分からなかったのだろう、アンジェリーナがポツリと言った。もっと他に言うべきことがあっただろうに、なぜそれを選んだと言わんばかりにフレッドがクッと笑った。ハリーも苦笑いで返す。
「僕達の父さんと母さんの写真を見たら納得すると思う。今ここにはないけどね」
「これで納得してもらえたかしら?」
ハーマイオニーはぐるりと見回した。
「ハリエットのことも含めて、皆には全てを内密にして欲しいの。今はまだ……」
ハーマイオニーの言葉を合図に、アンジェリーナが羽根ペンを取ってリストに名前を書き始めた。
「別に私はハリエットが誰の娘でも書く気満々だったよ」
「僕も」
続いてネビルが名前を書く。
「ハリエットはハリエットだから」
「あ、ありがとう……」
グリフィンドール生達が次々に名前を書いていくのを見てハリエットは胸が温かくなるのを感じた。グリフィンドールだけではない。寮の垣根なく、皆が自分のことを受け入れてくれている。
「別に、まあ納得はしたからいいけど」
そう言ってザカリアスも渋々リストに書く。これで全員分集まった。ハーマイオニーがリストを回収し、これでこの日の会合は終わりを迎えた。
*****
アンブリッジの授業は相変わらずで、しかしハリーも癇癪を抑えることができず、彼女に噛みついてばかりだった。本来であればハリエットがそんな彼を諫める立場だろうが、無性にハリーに感化され、ハリエットも追随する形でハリーの援護に入るばかりだ。アンブリッジもこれには堪忍袋の緒を切らせ、ハリエットに罰則を科すほかなくなった。
本来なら落ち込む所だろうが、アンブリッジから罰則を勝ち取った――つまりはマルフォイ家の権力に勝ったということだ――ことの証明ともなり得るため、ハリエットは誇らしい気持ちだった。だが、そうは思わないのはハーマイオニーだ。
「あなたらしくないわ。あなたがハリーのこと窘めてくれると思ったのに!」
「でも、私達が真実を叫ばないと――」
「アンブリッジに『私が間違ってました』って言わせることが目標じゃないのよ!」
馬鹿正直に真実を口にし続けるだけが戦いじゃないのよ。
ハーマイオニーの言葉は的を射ていて、ハリエットは少し落ち込んだ。
本当はハリエットにだって分かっている。ルシウス・マルフォイに売られた怒りや悲しみをこんな形で発散していても虚しいだけだというのは。
だが、皆から「マルフォイ家の娘」として見られることにどうしても激しい抵抗感が出てきたのだ。ルシウスに売られたあの日からハリエットはもうマルフォイではない。それなのに、相も変わらずマルフォイがハリエットの後ろをついて回って――いい加減我慢の限界だったのだ。最近ではむしろ開き直って、どうせマルフォイ家の娘として見られるのなら、そのマルフォイの体面を汚してやれというやけっぱちにも似た状態になっており、それが今回の罰則を引き起こしたようなものだった。
それをハーマイオニーに明らかにされ、ハリエットは自己嫌悪に陥りながらアンブリッジの部屋を訪れた。
「こんばんは、ミス・マルフォイ」
「こんばんは、アンブリッジ先生」
花柄のローブを着たアンブリッジは、テーブルクロスを掛けた机の前にいた。
「さあ、お座りなさい。書き取りを始める前に、少しあなたにお話があるの」
アンブリッジは立ち上がり、ハリエットのすぐ側までやってきた。
「さて……ミス・マルフォイ? わたくしはね、あなたがグリフィンドールに入ったせいで、悪いお友達から多大な影響を受けていることが不憫でならないの」
ハリエットはまじまじとアンブリッジを見返した。どこからどう反論したものか、一瞬全く分からなかった。その間にアンブリッジはつらつらと続ける。
「あなたがミスター・ポッターの影響を受けているのは明らかだわ。それに、ミス・グレンジャーと友達なせいで頑固にもなってる。でも、あなたの気持ちも分かるわ。監督生を友達に横取られて悔しいし、同じように目立ちたいと思ってる、違う?」
「違います」
あまりにも見当違い過ぎて、ハリエットにはそれしか言えなかった。にも関わらずアンブリッジは何度も頷き、ハリエットの返答など聞こえなかったように肩を叩いた。
「分かるわ。わたくしだってあなたが一番監督生にふさわしいと思ってるもの。だから、あなたにこれをプレゼントするわ」
アンブリッジはポケットに手を突っ込み、何か小さいものを取り出し、見せた。「I」の字型の小さな銀バッジだった。
「監督生バッジよりももっとすごいものよ。魔法省を支持する生徒にだけ――しかも、選ばれた学生にしかわたくしは渡さないつもりよ。このバッジをつけている生徒には、生徒から減点する力を持っているの。もちろん、監督生からでも、ね」
アンブリッジはバッジを見せびらかすようにテーブルの上に置いた。
「このバッジの申請を出してるんだけど、ダンブルドアが聞き入れてくれないの。でも何とか通すつもりよ。わたくしはそれだけの力を持っているの」
得意げに言い、アンブリッジは身をかがめてハリエットの耳に囁いた。
「皆を見返す力があなたには必要だと思うの。心配しないで良いわ。誰かに何かを言われたら、わたくしが守ってあげる」
「私をスパイにしようと?」
ハリエットはキッと顔を上げた。アンブリッジはチチチ、と小鳥のさえずりのような声を出した。
「スパイだなんて人聞きが悪いわ。あなたには今のグリフィンドールを内側から変えていって欲しいの。たとえばそう、あなたの友達とか」
「――結構です。私には必要ありません」
ハリエットはアンブリッジから身を離し、真っ直ぐ見つめ返した。
「私はハリーもロンもハーマイオニーも尊敬しています。友達を売るようなことは絶対にしません」
「――そう、結構、よく分かったわ」
アンブリッジはパッとハリエットから手を離し、いそいそと距離を開けた。まるで、少しでも近づいたらハリエットから悪い影響を受けると言わんばかりだ。
「あなたはマルフォイ家の落ちこぼれのようね。これじゃあミスター・マルフォイが可哀想だわ。こんなのが娘じゃ……」
「願ったり叶ったりです」
思わず笑ってそう言えば、アンブリッジはピンと眉を跳ね上げた。そして徐にテーブルに羊皮紙を置く。
「でもわたくしは教師としてそんなあなたを矯正する必要がある。いいえ、しなければならないのよ。この言葉を身に刻みなさい。そこに『私はマルフォイ家の娘です』と書きなさい」
罰則が始まった。ハリーの手の甲の傷は何度も見ている。今から自分が何をされるのかも。
だが、ハリエットは黙って羽根ペンを取った。アンブリッジには何としてでも屈しないつもりだった。
*****
数回の罰則が終わりを迎える頃には、ハリエットの手の甲の傷はかなり深くなり、文字を読み取れるぐらいにはなっていた。罰則後、ハーマイオニーがいつも傷の手当をしてくれるが、傷がもし残ったらとハリエットは心配だった。こんな痕が残ったら恥だ。両親にも顔向けができないような気がした。
最後の罰則を終えると、ハリエットはハンカチで傷を抑えながら足早に寮へ向かった。新たな罰則で治りきってない傷が開き、また更に深くなっていた。ハンカチで抑えていないと血が滴り落ちるほどだ。
あまりにも惨めだ。自分がしたこととはいえ、こんな文字を刻まれることになるなんて。
唇を噛み締めながらズキズキと痛む傷に耐えていると、向かいからドラコが降りてくるのが分かった。辛気臭い顔を引き締めて無表情を心がける。
ドラコもハリエットにはすぐ気づいたようだ。素通りしようか迷っていたようだが、結局すぐ近くまでやってきた。
「こんな時間に何してるんだ?」
「……ドラコこそ」
「僕は見回りだ。監督生だからな」
ドラコの胸元にはバッジがきらめいている。風の噂には聞いていたが、そういえば祝ったことはなかったな、とぼんやりハリエットは考える。
「怪我したのか?」
「ちょっと引っ掻いただけ」
「何に?」
「……ウィルビー」
少し迷ってハリエットはそう答えた。ウィルビーに聞かれたら顰蹙を買いそうだ。
「ウィルビーは噛みはするけど、引っ掻きはしないだろ」
ハリエットに一歩近づき、ドラコは腕を取ろうとする。ハリエットは反対に後退った。
「見回りしてるんでしょう?」
「もう終わった。治療は?」
「ハーマイオニーがしてくれるわ」
「じゃあなんで二階から上がって来たんだ? 医務室に行ってたんじゃないのか?」
「マダム・ポンフリーがいなかったのよ」
まるで獲物と狩人のように緊迫した状況が続く。ハリエットは思い切ってドラコの横を走って抜けようとしたが、それを見越したドラコが腕を掴んで阻止する。
「ウィルビーじゃないだろ。誰にやられたんだ?」
「別に――誰だっていいじゃない!」
逃げようともがくが、それを阻みつつドラコはハリエットのハンカチを取り払った。血が乾きつつあったので、それが剥がれる感覚に小さく悲鳴を上げる。ドラコはそれに怯んだが、目はハリエットの傷跡から離れなかった。むしろ、ハリエットが痛がっていることなどすっかり忘れて握っている腕に力を込める。
「なんだこれは!」
「離してよ!」
「アンブリッジか!?」
「あなたに関係ないでしょう!」
ドラコは言葉に詰まったがすぐに立ち直る。
「マクゴナガルに言え。こんな罰則許されるわけがない!」
「そんなことできないわ! アンブリッジには絶対に屈しない!」
「傷が残ったらどうするんだ!」
一番心配してることを突かれ、ハリエットは目に涙を浮かべた。
「私だってこんな傷嫌よ……。お父さんとお母さんの娘なのに……」
この傷を見るたびに思い出すだろう。まやかしの親の愛情を切望していた自分、真実を知ってもなお心の奥底で愛されることを願っていた自分、ヴォルデモートの足元に捨て置かれた憐れな自分――。
後ろめたいし、惨めだ。敵の仲間からの愛情を切に願っていたなんて。
「君は――マルフォイと名がつくものは全部嫌なんだな。あの家で起こったことは全部忌まわしい出来事なんだ」
地面を睨みながらドラコは囁いた。
「僕は――楽しかった、君といて。家族というよりは、友達みたいな感覚で、話すのも、遊ぶのも楽しかった。でも、君にとってはそれすらも忌まわしい記憶なんだろう? 君にとって、マルフォイ家の一員だったことは人生の汚点なんだ」
「でも――だって、辛い気持ちの方が大きかった!」
反射的にハリエットの口から飛び出してきたのは言い訳じみた言葉だった。
「私がどれだけあなた達を羨ましく思っていたか知らないでしょう? 私の中の幸せな家族像はいつもあなた達だった! でもそこに私はいないの……どれだけその輪の中に入りたいと思ったか、あなたは知らない……」
「君だって知らないだろう!」
対抗するようにドラコは叫んだ。
「確かに、僕は愚かだった! 父上の君に対する扱いを、深く考えようともしなかった! でも――でも、君だって知らない! 僕がずっとどんな気持ちでいたのかを! 君が家族を切望してるのが分かってたから、だから家族として接してきたのに……なのに、本当の兄も後見人もできたから、もう僕はいらないって?」
「そ、そんなこと――」
「現に!」
反射的に出てきた否定を、ドラコはそれ以上の剣幕で押さえつけた。
「君は距離を置いたじゃないか……! 父上だけじゃない。僕のことだって、まるで、敵を見るみたいに見てくる……」
そんなつもりはなかった。だが、ドラコは顔を手で覆い、掠れた声で訴えてくる。ハリエットを動揺させるには充分だった。
「僕がどんな気持ちでポッターとのダンスを見ていたか知らないだろう? いつも無防備に僕のベッドで寝る君を見てどんな気持ちになったか……」
唐突にハリーの言葉が蘇ってくる。――君にはそんな気なくても、マルフォイが変な気を起こすってことも十分あり得るんだ――。
「僕が君のことを好きだってことも、君は知らない……」
ゆっくりと目を見開き、ハリエットは固まった。しかしドラコは尚も続ける。
「家族で我慢してようと思ってた――なのに、君はそれすらも許してくれない。何のためにずっと気持ちを押し殺してきたんだ?」
「…………」
「どうすれば良いのか、僕は分からない」
地面を見つめたままドラコは続ける。決してハリエットと目を合わせようとはしなかった。
「でも……君が嫌だって言うのなら、もう近づかない。縁を切る」
ボソボソと囁き、ドラコはそのまま階段を降りていく。ハリエットは何か言うことも呼び止めることすらできずに、ただただその後ろ姿を見つめていた。