愛し子

― 03:憧れの箒 ―






 ハリエットは、週末になるたびマルフォイ邸にお邪魔し、ドラコと共に箒の練習や魔法界の勉強をすることになった。まだ勉強はいい。同じ空間にスネイプがいるし、彼がいる時はドラコも意地悪を言ったり素っ気ない態度を取ることもないのだから。

 だが、箒の時間は別だった。ハリエットとドラコの他には、何かあった時のためにとしもべ妖精のドビーしかいないので、ドラコはろくに箒も教えてくれないし、マグル、マグルと言ってハリエットのことを馬鹿にしてばかりなのだ。

「箒を教えてよ……」

 今日も今日とてドラコが一人で箒に乗って行こうとするので、ハリエットはつい引き留めた。

「マグルは大人しく人形遊びでもしてればいい」

 しかし相も変わらずドラコの態度は冷たい。それどころか、ハリエットが持ってきたふくろうのぬいぐるみを見て鼻で笑う始末。

 ハリエットは恥ずかしさで頬を染めた。ぬいぐるみを持ってきたのは、ドラコが遊んでくれないので、彼のペットのワシミミズクと一緒に遊ぶためだった。それなのに、まるで「子供」と言わんばかりの言葉は釈然としない。

 ハリエットがうだうだしている間に、ドラコは箒に乗ってピューッと行ってしまった。ハリエットはしょんぼりして箒を握る。折角空を飛べるって楽しみにしてたのに――。

「スネイプ様に頼んでみてはいかがですか?」

 ドビーが恐る恐る声をかけた。

「箒を教えてもらうよう……」
「でも、先生は忙しいわ」

 ただでさえハリエットたちに勉強を教えるのに週末の時間を使っているのだ。その上更に箒もとなると、彼がいつ休めているのか心配になってくるくらいだ。それに、ハリエットは、ドラコに嫌われていることをスネイプに知られたくなかった。スネイプはドラコのことを可愛がっている。それなのに、ハリエットがうまく彼と仲良くできていないことを知ったらどう思うだろう?

「ドビーは箒に乗ったことある?」
「そんな、恐れ多い!」

 ドビーはぶんぶん首を振った。ドビーに教えてもらうのもいいかもしれないと思ったのに、返答は芳しくない。

「箒は魔法使いの特権です! ドビーめは、箒に乗ろうと思ったことさえありません」
「空を飛びたいとは思わないの?」
「考えたこともありません」
「そう……」

 ますますこれで先行きが怪しくなってくる。悩んだ末、ハリエットは、見よう見まねで箒に乗ってみることにした。いい加減、空を飛んでみたいという欲を抑えることができなくなったせいもある。毎週毎週ドラコだけが気持ちよさそうに空を飛んでいるのを見るのは苦痛にも等しい。ハリエットだって魔女なのだ。教えてもらわなくても、もしかしたら上手く飛べるかもしれない――。

 恐る恐るハリエットは箒に跨がった。足はびったり地面についたままだ。空を見上げ、また地面を見る。蹴ってみたら、飛ぶだろうか。でも、勢いがついて飛びすぎたらちょっと怖いかも――。

「わあっ!?」

 そこまで考えた時、突然箒がグンと上に浮かび上がり、ハリエットは悲鳴を上げた。しかし、そんなことで箒は止まらない。むしろどんどん上へ上へと引っ張られていく。

「いやーっ!」
「ハリエット様!」

 まるで箒が意志を持っているかのように、ハリエットは前に飛ばされ、上下に揺られ、そして最後には木にぶつかり、地面に激しくぶつかった。咄嗟に伸ばした手首がグキッと嫌な音を立てる。

「大丈夫ですか!?」

 ドビーが血相を変えて駆け寄ってきた。だが、ハリエットはそのことにも気づかないままわあんと大泣きした。今までに感じたあらゆる痛みの中で群を抜いて痛かった。見れば、手首が変な方向に曲がっている。それを見てますます痛みがひどくなった。

 わんわん泣いていると、異変に気付き、ドラコが降りてきた。ハリエットの手首と木に突っ込んだ箒を見て顔色が悪くなる。

「何があったんだ?」
「ハリエット様が箒に乗ろうとして……それで、箒の制御ができなくなって落ちました!」
「どうして止めなかった!?」
「どっ、ドビーは悪い子! ハリエット様を止められなかった! 助けられなかった!」

 目にもとまらない身のこなしでドビーは木に頭をぶつけ、自らお仕置きをし始めた。ハリエットも泣き止まない。ゴンゴンという頭をぶつ音とハリエットの泣き声が嫌なハーモニーを奏でる。

「そんなことしてる暇があったら治してやれ! それくらいできるだろう!」

 ドラコの声にハッとしたドビーはすぐさま動きを止め、ハリエットに治癒の魔法を掛けた。みるみるハリエットの手首が元の位置に戻り、腫れも引いていく。ハリエットの泣き声はすすり泣きくらいに収まる。

「他に痛いところはありますか?」
「ううん……」

 ハリエットは首を振った。まだ痛みはあるが、先ほどまでの激痛ではない。あまりにも不思議な魔法だが、しかし今はそれに驚いている余裕はない。

 真っ赤に泣きはらした目を擦り、立ち上がると、ハリエットは箒を持ってよろよろ歩き始めた。慌ててドラコが呼び止める。

「どこに行くんだ? まだ乗るつもりか?」
「もう帰るの……」
「…………」

 ドビーも心配そうについてきた。まだ手首が痛いだろうから箒を持ちますと言ってくれたので、ありがたくお願いする。

「人形を忘れてるぞ」

 後ろからドラコが声をかけた。あ、と思い至って振り返ったが、ドラコは微動だにしない。教えてくれたのはいいもの、彼が持ってきてくれるわけではないらしい。ハリエットは黙ったまま戻り、ぬいぐるみを抱き抱えた。ふくろうの顔を見つめていると、何故だかスネイプのことを思い出し、ハリエットの涙腺はまた緩んだ。

「……告げ口するつもりじゃないだろうな?」
「え?」
「僕が教えなかったからって……」

 ハリエットは唖然としてまじまじ彼を見た。怪我をしたのは完全にハリエットの不手際だが、それにしたって、彼は自分のことしか考えてないのだ。ハリエットは更に悲しくなった。

「……知らないっ!」

 ぷいっとそっぽを向き、ハリエットはわざと足音を踏み鳴らして歩き始めた。不安そうにドビーもすぐ後ろをついてくるが、なぜかドラコもだ。無言で歩くハリエットを余所にぶつぶつ言いながらついてくる。

「まさか勝手に乗るなんて思わなかったんだ」
「…………」
「前みたいにドビーと人形ごっこすると思ってたし……」
「…………」
「女なら、その方が楽しいと……」
「…………」

 ハリエットがあんまり黙っているので、つい我慢の限界が来たのはドラコの方だ。

箒を教えればいいんだろう!

 びっくりしてハリエットは振り返った。声の大きさにもだが、その内容にも。

「……いいの……?」

 ハリエットはおずおずと尋ねる。あの意地悪で高慢なドラコが、本当に箒を教えてくれると?

「ああ……」

 ドラコは渋々頷いた。だが、ハリエットにはそれで十分だった。なぜだか、彼は嘘はつかないという確信があった。ハリエットはぴょんぴょんその場で飛び跳ねた。

「ありがとう!」
「僕は厳しいからな。泣き言は言わせない」
「分かってる。頑張るわ!」

 ドビーから箒を受け取り、逆にぬいぐるみを持ってもらって、ハリエットはドラコに近づいた。

「まさか、今日乗るつもりか? 怪我したばっかりだろ」
「もう痛くないわ! それよりも早く乗りたいの!」
「全く……」

 面倒くさそうな顔をしつつも、自分が言いだしたことなので、ドラコもそれ以上は言えない。準備するようハリエットに合図するが、しかし、ハリエットがいざ箒に跨がろうとしたとき、みるみるその笑顔は萎む。

「どうしたんだ? 早く乗れよ」
「こ、怖い……。どうしよう、さっきみたいになっちゃったら?」
「その恐怖心が箒に伝染したから暴走したんだ。空を飛ぶのを楽しみにしてたんじゃないのか?」
「楽しみだったわ。でも、すごく痛かったの。もう落ちるのは嫌だわ」

 みるみる眉がへにゃりと垂れ下がる。泣きこそしないものの、早速泣き言を口にしたハリエットにドラコは呆れる思いだった。

「だからって、乗らないと何も始まらない。ずっとそうしてるつもりか?」
「だって……」

 ハリエットは逡巡し、そして躊躇いがちにドラコを見上げた。

「マルフォイの後ろに乗りたい……」
「はあ? どうして僕が乗せてやらないといけない!」
「だって、一人で飛ぶのは怖いから……。お願い、一度だけでもいいの。飛ぶことの楽しさが分かったら、自分一人で乗れそうな気がするの」
「……乗れよ」

 ため息をつきつつも、ドラコは前に詰めた。パッとハリエットは笑顔になる。

「ありがとう!」

 いそいそとハリエットはドラコの後ろに乗り込み、そして遠慮なくドラコに抱きついた。その腕を離したら宙に放り出されるのだから、余計にだ。「行くぞ」という合図と共に、箒がふわりと浮いた。

「う、うわあ……」

 早速足がプラプラ宙を浮き、ハリエットは感嘆と恐怖を込めて声を漏らした。その間にも、みるみる箒は浮上していく。

「ど、どこまで行くの?」
「こんな高さじゃ木にぶつかるだけだ。もっと上に行く」
「あ、う……」

 パクパク口を開け閉めしながらも、ハリエットは何も言えなかった。やがて森を抜け、辺り一面空ばかりの光景になる。

「わあ、本当に空を飛んでる!」
「今はまだ浮かんでるだけじゃないか」

 そう言って、ドラコはスピードを上げて前へ進み始めた。ハリエットはますますドラコに抱きつく力を強める。だが、高い場所から見た光景は、とても綺麗だった。そもそも、こんな高い場所に来たことすらハリエットは数えるほどくらいしかない。

 そういえば、とハリエットはスネイプと遊園地に行ったことを思いだした。同級生が皆遊園地に行ったことがあると聞き、そして同時に意地悪な男の子に貧乏人だと馬鹿にされたことが悲しくて、思い切ってスネイプに遊園地をねだったことがあった。

 スネイプは、休日と言えどいつも仕事場に行くため、駄目元でお願いしたのだが、彼はハリエットの我儘を聞き入れ、誕生日に連れて行ってくれたのだ。

 当日はもうハリエットははしゃぎにはしゃぎ回った。メリーゴーランドや、コーヒーカップ、ジェットコースターにも乗った。ジェットコースターは、あまりの恐怖にハリエットはベンチから立つことができなかったが、スネイプがソフトクリームを買ってくれたので、すぐに機嫌は直った。

 だが、問題は観覧車に乗った後だった。ハリエットとスネイプがあまりにも似ていないことや、スネイプの人相やら格好が不審者紛いだったことが相まって、誰かに通報されたのか、遊園地の係員に声をかけられたのだ。観覧車から降りた後、もう帰ろうと二人揃って遊園地を出て行こうとする光景が怪しく見えたらしい。

 係員はいくつかスネイプに質問をしていたが、ある瞬間、急に笑顔になって頭を下げて去って行った。今思い返してみると、きっとスネイプが魔法か何かを使ったのだろうことは予想がつくが――しかし、ハリエットはその時の出来事があまりにもトラウマで、それ以降スネイプにお出かけをねだることはなくなった。きっと、スネイプもショックだったと思ったのだ。ハリエットのせいで周りから不審者扱いをされ、彼はどんなに傷ついたことだろう。

 あの時、観覧車から見た光景が、今と重なって見えた。夕日が温かく周りを照らし出し、どこか懐かしい気持ちにもなる不思議な感じ。あの時、観覧車の中で、スネイプが不意に頭を撫でてくれて、ハリエットはとても嬉しかったのを覚えている。隣に座っても嫌がらなかったし、会話は弾まなかったが、言葉がないのはいつものことだ。ただ、頭を撫でられる感触に胸が熱くなって、そわそわして、ハリエットはただただ俯いていた――。

 その時、綺麗な夕日に黒い影が重なった。ドラコがわっと叫び、箒がぐらりと揺れる。ハリエットは我に返った。

「なっ、何!?」
「マグルの攻撃だ!」
「攻撃!?」

 揺れる視界の中、ハリエットが目にしたのは、ヘリコプターが脇をすり抜け行くところだ。ただのヘリコプターなのに、何を攻撃されたのだろう――。

「ドラコ様!」

 ドビーの声が聞こえたと思ったら、制御不能に陥っていた箒がピタリと停止し、やがてゆっくりゆっくり下降を始めた。唖然として下を見ると、ドビーが人差し指をこちらに向けていた。

「大丈夫ですか?」

 ようやく二人が地面に足をつけると、ドビーが心配そうに駆け寄ってきた。ドラコは顔を真っ赤にして叫ぶ。

「大丈夫なものか! マグルが理不尽に突撃を仕掛けてきた! 急に突っ込んでくるなんて何様だ!」
「あれはヘリコプターよ。きっと、あそこが通り道だったんだわ」

 不思議と、ハリエットは落ち着いていた。ドビーの対処が早かったので、それほど恐怖を感じることはなかったのだ。それどころか。

「空を飛ぶの、とっても楽しかったわ。今日はありがとう、ドラコ!」
「自分一人では乗れなかったくせに……」
「でも、もう大丈夫だと思うの……。来週から箒を教えてくれる?」

 ハリエットは不安そうに尋ねた。もしもう止めだと言われたらどうしよう? せっかく教えてくれると言ってくれたのに、ハリエットは箒に乗れなかった。もう嫌だと言われたら?

「……来週も箒に乗れないようなら、教えるのは止める」
「ありがとう!」

 ハリエットはパアッと笑みを浮かべた。来週、きちんと乗れるかどうかは分からないが、ひとまずはチャンスをもらったのだ。ハリエットは嬉しくなってニコニコ笑う。ドラコはハリエットと目が合うとすぐに顔を逸した。そっぽを向いたドラコの頬は、夕日のせいか、血色良く色づいていた。