■小話

05:アニマルパニック



*不死鳥の騎士団『獅子と蛇と巨人と』前、談話室にて*


 クィディッチの試合が始まると、それに比例して練習量も多くなるのは、毎年恒例の出来事だった。熱血漢であるオリバーからキャプテンの座を譲り受けたアンジェリーナ・ジョンソンであれば、そんなこともなくなると思いきや――彼女もまた、鼻息荒くして、スリザリンとの試合に向けて練習量を二倍にすると選手達の前で宣言したのだ。

 クィディッチ・キャプテンのバッジをつけると、クィディッチ・馬鹿になる魔法でもかけられているのだろうか。

 ハリーは目の下にくっきりとクマを作りながら、そんなことを考えていた。

「おー、ハリーも精が出るな。休みの日にまで勉強か?」

 必死になって魔法薬学のレポートを書き連ねるハリーのすぐ側に、フレッドが腰を下ろした。

「スネイプがハリーに大量の課題を課したんだ。調合を失敗したからって。あいつ、ハリーをへとへとに疲れさせて、箒から真っ逆さまに落ちることを願ってるんだ」
「縁起でもないこと言わないで」

 ロンの言葉に、ハーマイオニーはピシャリと本を閉じた。

「スネイプ先生の意地悪はいつものことでしょ。問題は、ハリー、あなたが怠けてギリギリまで宿題を残していたことよ。まだ魔法史に占い学のレポートも残ってるでしょう?」
「君、血も涙もないね。少しは手伝おうって気にならないのか?」
「手伝ったらハリーのためにならないわ」

 ロンは、せめてもとハリーのために自分が参考にしたページを折ってハリーに渡していた。果たしてそれが正しい情報なのかはさておき、ハリーを思う心が大切なのだとロンは結論づけていた。

「ハリエットはハリーを手伝ってるぜ」

 ロンは視線でハーマイオニーの背後を示した。彼女の後ろで、ハリエットは大きく肩を揺らす。

「まさか――ハリエット、課題を手伝ってるの?」
「ああ、ロン、言わないでよ」

 ハリエットはへにゃっと眉を下げ、レポートを後ろ手に隠した。今まさに出来上がった、ハリーの占い学の課題である。

「信じられないわ! あなたは私と同じ考えだと思ってたのに!」
「でも、占い学に関しては共通の考えだろう? 二人とも、占い学は真面目に受けるに値すると思ってない。特にハーマイオニー、君は一年も持たずに癇癪を起こして占い学を辞めたじゃないか。それなら、ハリエットが占い学の課題をどう扱おうが、君には何も言えない。オーケー?」
「――っ」

 珍しく論理立てて攻めるロンに、ハーマイオニーは何も言えずにいる。その隙に、ハリエットは急いで課題をハリーの元に届けた。

「ありがとう、助かるよ」

 親友達の論争には気にも留めず、ハリーは疲れたように笑ってレポートを受け取った。そして再び羽ペンを走らせる。

「課題って言っても、私がしたのは本当に些細なものなのよ。ここ一月で見た一番最悪な夢を、自分なりに考察するっていう――」
「ハリエットはハリーの双子だからね。ハリーがどんな夢を見たかさえ聞けば、ハリーがどんな風に考察するなんてお手の物じゃないか」
「そういう問題じゃないわ!」

 ハーマイオニーは呆れて首を振った。もはや言葉も出てこない様子で、疲れたように再び本を読み始めた。

「はーん、とにかく、我らがクィディッチ・チームのシーカー殿はお疲れってことだ」

 肩をすくめ、今度はジョージがハリーの反対側のソファに腰掛けた。

「そんな君には、ハニーデュークスで配ってたこのお菓子をやろう。なんでも、幸せな一時が味わえるとか」
「ありがとう……」

 ハリーは微笑み、ポップな包み紙のキャンディを受け取った。ロンは羨ましそうな顔をする。

「僕にはないの?」
「残念、弟の分は用意していない」
「何せ一つしかもらってないからな」
「我らがシーカーには、何としてでも次の試合でスニッチを取ってもらわねば。そのためには、ロン、分かるだろう?」
「ちぇっ」

 ロンでふて腐れたような顔をしたので、若干ハリーは気まずい。

 ふと思いついたハリーは、そのままキャンディをハリエットの手に押しつけた。

「課題手伝ってくれたお礼にハリエットにあげる」
「えっ、でもいいの?」
「うん。二人の気持ちは有り難く受け取るよ。次の試合だってスニッチを取ってみせる」

 ハリーが笑顔でフレッド、ジョージを見やれば、彼ら二人は微妙な顔をしていた。ハリーは首を傾げる。

「どうかした?」
「あっ、いや、別に……」

 珍しくもごもごと言葉を濁す二人を不思議そうに見る傍ら、ハリエットは包み紙を開いてキャンディを口に放り込んだ。幸せな一時が味わえるという文句が少し楽しみだった。

「……?」

 違和感はすぐにあった。身体がムズムズとしだし、みるみる今見ているものが遠ざかっていく。ポンッと軽快な音がしたと思ったら、ハリエットの身体はあっという間に縮んでしまった。

「ハリエット!?」

 驚いたのはハリエットだけではない。少し見ないうちに、いつの間にかハリエットが消えてしまった――。

 慌てるハリーとは裏腹に、ハーマイオニーは驚いた顔でソファの元へよろよろ近づいた。

「ハリエットが……ハリエットが……」

 屈んだ後、ハーマイオニーはすぐに立ち上がった。そうして振り返った彼女の手には、ほんのり赤い毛をフサフサと生やしたウサギがいた。

「あ……えっ?」
「なんでウサギがこんな所に?」

 現場を目撃した訳ではない男子達は、いまいち理解が追いつかない。ハリエットの『その場面』をバッチリ目撃していたハーマイオニーは、極力自分を落ち着かせながらこんこんと説明する。

「落ち着いて聞いて――あのね、ハリエットがウサギなの。このウサギはハリエットよ。フレッドとジョージのキャンディを食べたら、ハリエットがウサギになっちゃったの」

 ギロリ、とハーマイオニーは双子を睨む。ウィーズリー家のそっくりな双子は、へらっと愛想笑いを浮かべた。

「ホントはハリーに食べてもらいたかったんだけどなあ。まあサンプルは多い方が良いし」
「あなた達! ハリーを実験台にしようとしたの!?」
「人聞きの悪いこと言うなよ。ちょっと研究しようと思っただけさ」
「同じことよ!」

 ハーマイオニーはギュッとウサギを抱き締める。さすがのハリーも顔を顰める。

「ハリエットはちゃんと元に戻るの?」
「ああ。二、三日のうちで元に戻るよ。俺たちでちゃんと実験済みだ」
「二、三日もウサギでいないといけないの? ハリエットが可哀想よ!」
「そもそも、二人はどうしてこんなことしたの? 自分たちで試すだけで充分じゃないか」
「俺たち、最近アニメーガスの研究をしてるんだ」

 尋問される立場なのに、何故だか双子はどっかり優雅にソファに座り直す。

「事前に自分が何に変化できるのか分かってた方が、アニメーガスを習得しやすいだろうと思って、このアニメーガス・キャンディを思いついたんだ。でも、この世にアニメーガスができる奴は少ないだろう? まさか、マクゴナガルにキャンディを食べてなんて頼める訳がない」

 確かに、とロンが頷いて、ハーマイオニーに睨まれた。

「そこで閃いたのが、ハリー、君だ。何でも、君は牡鹿のパトローナスを出せるらしいじゃないか。アニメーガスよりは、守護霊の方が難易度が低い。もし守護霊とアニメーガスが一緒なら、サンプルがもっと簡単に取れると思ったんだよ」
「あなた達の言い分は分かりますがね、だからって、本人の承諾もなくこんなことに付き合わせるなんて気が知れないわ! 私、マダム・ポンフリーにハリエットを預けた後、マクゴナガル先生の所に行くわ」
「ハーマイオニー!」

 それだけは勘弁を! とフレッドとジョージが慌てた。

「これは画期的な商品になるはずなんだ! 考えても見ろよ。アニメーガスが使えなくても動物になれるんだぜ? それだけじゃなくて、アニメーガス習得の手助けになるかもしれない……」
「お願いだ、ハーマイオニー。マクゴナガルだけは止めてくれ」
「あなた達はさっきからキャンディの行く末を心配してらっしゃるようですけどね」

 ハーマイオニーの声はツンツンしていた。

「ハリエットはあと三日もウサギでいなくちゃいけないのよ? 授業だって受けられないわ! キャンディの心配よりも、ハリエットの心配をするべきでしょう!」
「うーん、確かにハーマイオニーの言う通りだ」

 フレッドは唸りながら頷いた。

「よし、分かった。ウサギになってる間、ハリエットに出された課題は全て俺たちが代わりにやろう」
「分からなかった所は、俺たちがつきっきりで教える」
「今回のお詫びに、次のホグズミードで、ハリエットが欲しいと言ったものは何でも買ってやる」
「これでどうだ?」
「もので釣ろうとしたって駄目よ!」

 ハーマイオニーの声は一層高くなる。

「あなた達には誠意が足りないわ! まずは謝罪でしょう!」
「もうさ、ハリエットに決めてもらえば良いんじゃない?」

 一向に前に進まない会話に、ロンが口を挟んだ。

「ウサギでも、ハリエットには僕たちの声は聞こえてるんだろう? フレッドとジョージをマクゴナガルに告げ口したいのならハーマイオニーの所へ、黙ってても良いって言うのならフレッドの所へ歩いてもらえば良いじゃないか」
「ロン!」

 ハーマイオニーは髪を振り乱して首を振る。

「そんなの駄目よ! ハリエットがどうするかなんてあなたでも分かるでしょう!?」
「でも、当事者はハリエットだろ? 君がどうこう言ったって、ハリエットが許すって言うんなら、フレッドもジョージも許されるべきだ」
「――っ」

 ハーマイオニーはパクパクと口を開け閉めした。一体今日のロンはどうしたのだというのだろう。やけに正論だ。

 ――実際の所、ロンもアニメーガス・キャンディに興味津々で、あわよくば自分もそのおこぼれに預かりたい一心なので、いつもは空回りばかりする頭がやけに冴えていた、ただそれだけのことだったのだが、ハリエットで頭が一杯のハーマイオニーにはもちろん知るよしもない。

 ハーマイオニーの腕からハリエットを抱き上げ、ロンはそっと絨毯の上に下ろした。ウサギは、戸惑ったように人間達をおろおろと見上げていたが……やがて、ウィーズリー家双子の方へ進んだ。

「ハリエット!」

 途端にフレッドが満面の笑みを浮かべてハリエットを抱き上げた。

「さすが、君ならこのキャンディの素晴らしさを分かってくれると思っていたよ!」
「ハリエットはただあなた達に同情しただけよ」

 刺々しくハーマイオニーが呟いたが、双子の耳には届いていなかった。

「次のホグズミードは楽しみにしていてくれ。君にはうんとお詫びの品を買ってあげるから」
「さあ、ジョージ、こうしちゃいられない。ハリエットはウサギだった。こうなりゃハリエットにも守護霊の呪文を習得してもらうか? ハリー、いつになったらDAで守護霊の呪文を教えてもらえるんだ? 俺達、待ち遠しくて――」
「今のところはクリスマス休暇後を考えてるけど……ところで、二人は何の動物に変化したの?」
「よくぞ聞いてくれた。俺たちは――」

 男の子達は、すっかり興奮してキャンディの話に夢中になる。その中には、兄として、一番に元凶を怒らねばならないハリーもいる。ハーマイオニーは長々とため息をつき、無意識のうちにハリエットの背中を撫でた。

「……本当にこれで良かったの? あなたのお人好しには頭が下がるわ」

 ウサギは、ふんふんと鼻を動かし、困ったようにハーマイオニーを見上げていた。


*****


 それからというものの、ハリエットはハリーの新しいペットとしてグリフィンドール生の間に定着した。彼は、食事も教室移動も、果ては授業にも赤毛のウサギを連れて行っていたからだ。

 とはいえ、魔法薬学の時間にはハリエットはグリフィンドール寮でお留守番だ。スネイプならば、ハリーに難癖をつける良い機会ができたと、ニタリと顔を綻ばせて減点を科すだろうからだ。それだけならまだしも、彼ならば、ハリエットを実験台にするのも躊躇わないだろう。

 三日目の朝方、ハリーがハリエットを腕に抱えて大広間に向かっていると、ちょうど前からスリザリン生が固まってやって来た。両側にクラッブとゴイルを引き連れた、ドラコ・マルフォイご一行である。

「ポッター、新しくウサギを飼い始めたのか? 全く、君の動物愛護精神には頭が上がらないね。ドビーにヒッポグリフに――スナッフルなんて野良犬もいたかな?」
「お前には関係ないだろう」

 うんざりとした顔でハリーが答える。ドラコはめげずにニヤリと口角を上げる。

「そう言えば君は『スピュー反吐』なんてつけた団体にも入ってるそうだね? 今度は哀れな動物愛護団体でも設立するつもりか?」
「エス・ピー・イー・ダブリュー! しもべ妖精福祉振興協会よ!」

 彼に何を言っても無駄なことは分かっているだろうが、ハーマイオニーは躍起になって言い返した。ハリーやロンですら『S・P・E・W』の活動を真面目に取り合ってくれないので、意地になっているのだろう。

「そうかそうか……『反吐』なんてバッジは、君たちにお似合いだねえ」

 ハリーの腕の中で、ウサギが不機嫌そうにぶうっと唸った。ドラコの目が細められたのを見て、ハリーは慌ててウサギを抱え込み、彼の視界から隠した。ドラコはふんと鼻を鳴らす。

「随分可愛がってる様子じゃないか。授業にも連れてくるなんて。ウサギは寂しいと死ぬんだろう? せいぜい可愛がってやれよ」

 いけ好かない表情をしながらドラコは取り巻きと共に去って行った。ロンはその後ろ姿に思い切り顰めっ面を返しながら、早く行こうぜとハリーとハーマイオニーを急かす。

「でも、ハリエット、一体いつになったら戻るの? もう三日目よ」
「そのうち戻るだろ。フレッドとジョージは三日のうちには戻るって言ってたじゃない」
「でも、それはあの二人の場合よ。キャンディは二人しか試してないのよ。ハリエットの場合だけ違ったらどうするの」
「明日になっても戻らなかったらマダム・ポンフリーに相談すれば良いじゃないか」

 何ともロンは楽観的だ。ハリーも心配そうにはしつつも、ハリエットに細切りにした人参を与えている。真剣に事態を捉えているのは自分だけの気がして、どうにもハーマイオニーは納得がいかない。

 そのうち、ふくろう便の時間がやって来た。ヘドウィグがハリーの下にやって来て、シリウスからの手紙を落とした。何でも、ハリエットから返信が来ないことを心配しているらしい。ハリエットがウサギになっているなんて口が裂けても言えなかったので、ちょっと風邪を引いている、と返信することにした。

 そのうちウィルビーもやって来た。シリウスからの手紙をおざなりにテーブルに落し、さあ大好きなハリエットはどこだとキョロキョロと周りを見渡す。

 ウィルビーは愕然とした。長い距離を経てようやく帰ってきたのに、肝心のハリエットがどこにもいないのだから。

 ウィルビーは混乱のあまり、大暴れだった。ハリエットはどこだと手当たり次第に、ハリー、ロンを激しくつつき回る。うんざりしたロンが、ハリーの膝元にいたウサギを拾い上げ、テーブルの上に置いた。

「お前のご主人様はこっちだ!」
「ロン!」

 それを見たハーマイオニーが血相を変えて叫んだ。

「ウィルビーがハリエットを攻撃したらどうするのよ!」

 だが、ハーマイオニーの心配もどこへやら、ウィルビーはウサギを攻撃しなかった。おどおどしたように遠巻きにウサギを観察する。ウサギがおずおずウィルビーに近づけば、ウィルビーもまた羽を優しくウサギの方に向ける。

「驚いた……ウィルビーの奴、まさかハリエットのことが分かるのか?」
「ひょっとしたらあなたよりも賢いかも」

 ハーマイオニーの嫌味にロンは顔を顰める。

「ふくろうと一緒にされたくないね! ハリエットもなんでこんな凶暴なふくろうを飼ったんだ? ピッグウィジョンと同じくらい小さいくせに、暴力的過ぎだろう」

 ウィルビーもウサギも、ロンの言葉など聞こえていない様子で和やかに戯れていた。


*****


 午前中の授業もつつがなく終了し、朝食を食べた後、ハリー達の最初の授業は魔法史だった。毎週のことながら、ご飯を食べた後の魔法史は、耐えがたい眠気に襲われる。この時間、起きている生徒の方が稀だったし、起きている生徒も、眠気を誘うゴーストの語りなど聞いちゃいない。大抵が他の授業で出た課題をこなしている生徒がほとんどだ。唯一ハーマイオニーだけが真面目に教科書とビンズの話を聞き比べている。

 ビンズの催眠効果のある話し方は、ウサギも余すことなく影響を与えるらしい。ハリエットは、ハリーのすぐ傍らでうとうとしながら丸まっていた。

 時折ハーマイオニーが不機嫌そうにハリーとロンを小突くも、育ち盛りの二人の少年は意にも介さない。深い深い眠りに落ちていた。

 二人が目を覚ましたのは、授業終わりのチャイムが鳴って五分も経った頃だ。ハーマイオニーや他の生徒の姿はもはやない。ロンは寝ぼけ眼で慌てて飛び起きる。

「ウワッ、寝過ごした! ハリー、起きろ!」

 うとうとしながら、ハリーも目を覚ました。眼鏡をかけ直し、ようやく事態を把握し、慌ただしく教科書を鞄に詰める。

「大変だ! 次はマクゴナガルの授業だ! 減点される!」
「ハーマイオニーの奴、起こしてくれたって良いじゃないか!」

 悲鳴混じりにロンが叫ぶ。ここにハーマイオニーがいたならば、『私はちゃんと起こしましたけど、あなた達が起きなかっただけです!』と目を三角にして言い返すことだろう。

 ハリーは寝ぼけていた。赤茶色のテーブルの上で、ふわふわと丸まっている赤い物体が同化して見えて、てっきりハリエットはもうハーマイオニーが連れて行ったのだと思い込んだのだ。

「行こう、ロン!」

 鞄を引っさげ、ハリーとロンはバタバタと魔法史の教室を後にした。途中幾人かのスリザリン生とすれ違ったが、明らかに寝起きと思われる二人の様子を指差して笑っていた。

 次に魔法史を受けるのは五年のスリザリン生だった。ぞろぞろと皆が教室へ入る中、ドラコもまたクラッブ、ゴイルを引き連れていつもの定位置へと向かう。

 窓際の、温かな日差しが差し込んでいる机には、フサフサした赤毛のウサギがうとうと眠り込んでいた。だが、そのことに気づかず、クラッブは遠慮なくドサッと机に鞄を投げ置く。途端に、むぎゅうっと何かが苦しそうな音が響き渡る。クラッブがのっそりした動作で鞄を上げると、そこには目を瞬かせ、身体を縮こまらせたウサギがいた。

「なんだ? こいつ」

 ゴイルがウサギを取り上げた。遠慮なくむぎゅっと耳を掴まれ、持ち上げられたので、ぞわぞわとハリエットに悪寒が走った。止めて、止めてと一生懸命暴れる。

「おい、手荒に扱うな」

 まるでゴリラに捕獲された子ウサギのような光景に、さすがのドラコも気の毒に思ったらしく、口を挟んだ。鶴の一声か、ゴイルは渋々ウサギを机に下ろした。ハリエットはぶるぶる震えながらドラコの側まで非難した。ウサギの目線から見ると、クラッブやゴイルがいつも以上に凶暴に見えた。ドラコならば、まだ二人程大柄でもないので、ウサギの足でも逃げられそうだと若干失礼なことを考えていた。

「ポッターのウサギか?」

 ドラコはジロジロハリエットを見下ろした。

「あれだけ大事そうにしていたのに忘れていくとは、ポッターの記憶力は鳥以下か?」

 ゲラゲラとクラッブとゴイルが笑い出す。ハリエットは不機嫌そうに唸った。

「何だ、何か文句でもあるのか?」

 意地悪そうに口角を上げ、ドラコはハリエットの額をぐりぐり押した。ハリエットはすっかり腹を立て、鼻を鳴らすと、机の上に丸まった。動物に意地悪をするドラコなんか相手にしていたら体力を消耗するだけだ。

 本当のところ、今すぐにでもハリーのところに行きたくて堪らなかったが、しかし変身術の教室まではかなり距離がある。それをウサギの足で向かうのは些か無謀だったし、途中でスネイプに見つかったら大変だ。ハリエットはこのまま魔法史の教室でハリーが思い出して戻ってくるのを待つつもりだった。

「誰かさんに似てふてぶてしいウサギだ」

 あなたもね、と言い返したつもりで、ハリエットはぶるっと鼻を鳴らす。その時ようやくビンズが教室の壁をすり抜けて入ってきたので、ドラコは静かになった。

 やがてビンズの眠たい授業が再び始まった。つい先ほどたっぷり寝たばかりなので、ハリエットの目はパッチリしていた。暇つぶしに教室の中を見回す。

 スリザリン生も、やはり十五歳の少年少女だ。しゃんと背筋を伸ばして起きている生徒など、数える程しかいない。ちなみに、クラッブとゴイルは一番早くいびきを掻いて寝ていた。

 ドラコも、退屈そうに羽ペンをくるくる回している。授業中のドラコが珍しくて、ついハリエットがジロジロ見ていると、ふと視線を落とした彼とパッチリ目が合った。ハリエットは慌てて目を瞑り、身体を動かして寝たふりを決め込む。

 ドラコはというと、目の前でもふもふと誘惑するかのように動く赤毛の生き物に、不意に興味が駆られ、無意識のうちに手を伸ばした。

 ふかふかした弾力が、ドラコの手を押し返す。ウサギの身体は、思いのほか柔らかかった。それに温かい。

 ハリエットは、思い切り身体を硬直させていた。今己の身体に起きている現象が信じられなかった――ドラコに撫でられている?

 意地悪な撫で方ではなかった。優しく、遠慮がちで、むしろ気持ちいい。鼻筋をスルリと撫でられ、ハリエットはうっとりと目を瞑った。

「なかなか触り心地は良いじゃないか」

 ポッターのくせに、とドラコは呟く。何がどう『ポッターのくせに』なのかは分からないが、ハリエットは大人しくされるがままになった。ここでドラコの癇に障り、意地悪をされても困る。

 ビンズの催眠攻撃とも取れる話し方に、ドラコの優しい撫で方。

 ハリエットはあっという間に眠りに落ちていった。警戒心も何もなく、ハリエットはドラコの前に無防備な身体を明け渡したのだ。

 授業中、ハリエットはドラコに思う存分撫でられたことを知らない。うとうとしたまま彼に抱き上げられ、鞄に入れられたことも。

「可愛いペットが見つからなかった時のポッターの顔が見物だな」

 そう呟くドラコの声は、非常に意地悪そうな響きに満ち溢れていた。


*****


 次にハリエットが気がついたのは、暗い寝室のような場所だった。一瞬ハリー達の寝室かとも思ったが、緑を基調としたその部屋は、どうにも違う。やがて、キョロキョロと見回すうちに、ハリエットはサーッと血の気が引くのを感じた。――どうやら、ハリエットはスリザリン寮に来てしまったようだ。

 慌ててハリエットはベッドから飛び降り、扉へダッシュした。だが、生憎と扉は完全に閉まっていたし、ハリエットの今の身長では、ドアノブにすら届かない。ハリエットは完全に閉じ込められていた。

 あわあわと無意味にその場をぐるぐる駆け回っていたが、やがてドシドシと足音が聞こえてきた。その足音は、真っ直ぐハリエットの部屋の方へやってくる。ハリエットが慌てて飛び退くと同時に、扉が大きく開いた。

 そのすぐ後、ハリエットの目の前を大きな靴がドシンと振り下ろされる。『踏み潰される!』と仰天したハリエットは、慌ててその場から逃げ出した。開いた扉から逃げ出せば良かっただけなのに、何かのアトラクションのように次々に大きな靴が襲ってきて、今のハリエットには冷静になれるだけの時間がなかった。

 しばらく床の上を駆け回り、最終的には、一番清潔そうで、整理整頓されているベッドに逃げ込んだ。他のベッドは、何やらお菓子の欠片や包み紙があちこちに散らばっていて、いくらウサギとはいえ、ハリエットにも抵抗があったのだ。

 身の安全が確保され、ようやく落ち着いたハリエットは、侵入者がゴイルだと認識する余裕ができた。

 大広間からの帰りなのか、ゴイルの腕には大きなケーキが抱えられている。ゴイルはそれを心底嬉しそうな顔で食べていた。

 ハリエットがそれを恨ましげに見つめていると、やがて再び寝室の扉が開いた。入ってきたのはドラコだ。呆れた顔をゴイルに向ける。

「ゴイル、いい加減掃除をしろ。しもべ妖精の掃除が追いついてないじゃないか」
「あいつらの仕事が遅いだけだ」

 ゴイルは口の中でもごもご言い訳した。

「それも一理あるが、でも被害を被るのは僕の方なんだ。クラッブにも言って、早く綺麗にしてくれ」

 ブツブツ言いながら、ドラコはドサッとベッドに腰を下ろす。ベッドのスプリングが跳ねるのと同時に、ハリエットの身体も上下する。どうやらここはドラコのベッドだったらしい。

 ハリエットは毛布の中で縮こまりながら、どうやってこの場から逃げだそうか考えあぐねていた。上からくぐもったような会話が繰り広げられる。

「――ゴイル、あいつを知らないか?」
「あいつ?」
「ウサギだ。ベッドの上に寝かせておいたのに、逃げたのか? ドアを開けるとき注意しただろうな?」
「……忘れてた」
「何だと? さすがに踏みつけてはないだろうな?」
「…………」

 不穏な沈黙に、ドラコは頬を引きつらせた。頭の中でウサギが踏み潰される無残な光景を想像してしまったらしい。

 ハリー・ポッターのことはいけ好かないが、しかし、さすがに罪なき小動物が命を散らされるのは後味が悪いらしい。落ち着かない様子で歩き回ったり、物を持ち上げたりしてハリエットのことを探し始めた。その光景に若干絆され、ハリエットはおずおずと毛布の中から顔を出した。振り返ったドラコと目が合う。思いのほか彼はホッとした顔を見せた。

「人のベッドの上を動き回るなんて、礼儀もなってないウサギだ」

 ――続いて出てきた嫌味は辛辣だったが。

 彼は一体一介のウサギに何を求めているのだろうか? ウサギとは動き回るものだ。むしろハリエットだからこそ大人しいくらいだ。

 気を利かせて損したわ、と再びハリエットは顔を引っ込めようとしたが、目の前にオレンジ色の何かがちらついたので、押し留まる。

「ほら」

 オレンジ色の艶々としたそれは、細切れの人参だった。ハリエットは目を輝かせて人参に飛びついた。この瞬間、少しだけ人間としての理性を失っていたことは否めない。だって仕方ないだろう。それほどお腹空いていたのだ。

 だが、ハリエットは人参に齧り付けなかった。寸前でひょいと人参が引っ込められたのだ。

「…………」
「ほら」

 もう一度ハリエットはチャレンジしたが、またしても寸前で引っ込められる。ハリエットは恨ましげにドラコを睨み付けた。

 ドラコは、ニヤリと意地悪く笑いながら、今度は膝の上で人参をヒラヒラさせた。これ見よがしに見せびらかしている。

「来いよ。食べたいんだろ?」
「…………」

 確かに、お腹は空いた。ウサギの胃袋は小さいのだろうか。お腹と背中がくっつきそうなくらいだ。だが、ハリエットはこれでも人間だ。人間としての尊厳がある。まるで餌付けするかのように扱われるのは癪だ。

「ポッティー、餌が欲しかったらここまで来いよ」
「…………」

 あろうことか、ドラコはハリエットに『ポッティー』と名付けたらしい。ある意味では間違ってないが、しかし、こんなことをしていて彼は虚しくならないのだろうか?

 ハリエットはむしろドラコが哀れに思えてきて、そのまま毛布に引っ込んだ。こうなったら、もう寝るしかない。夜中に起き出して、皆が寝静まっているときに、こっそりグリフィンドール寮まで逃げるのだ――。

 だが、うとうとする間もなく毛布を持ち上げられ、ハリエットはベッドの上に転がり落ちた。目を回しながらよろよろと四つ足で起き上がる。

「生意気な奴め。食わず嫌いをするな。餓死されても困る」

 そう声が降ってきたと思ったら、ドラコは乱暴にハリエットの口に人参を押しつけてきた。前歯に当たって痛い。ハリエットは仕方なしにもぐもぐと人参を食べた。

 食わず嫌いなどではなく、単にドラコのハリーへの、方向性を間違えた意趣返しを見ていられなかっただけなのだが。

 ドラコに手ずから食事をさせてもらった後は、本当にハリエットも眠たくなってきた。彼のベッドの中央にぐでんと丸まり、欲望のままにうとうとする。微睡みの中、声が聞こえてきた。

「マルフォイ、パーキンソンが勉強を教えて欲しいって」
「またか? 忙しいって言ってこい」

 足音が遠ざかっていった――と思ったら、再び戻ってきた。

「ウサギと遊んでるって言ったら、自分もウサギが見たいって」
「余計なことを言うな! もう寝てるって返せ」

 しばらく後、再び足音が。

「声が聞こえるのに、嘘言わないでって」
「ああ――もう!」

 ドラコは苛立ったように足音を荒立て、談話室へと降りていった。それからはもう、穏やかな時が流れた。時折、クラッブとゴイルのベッドの方から、ゴソゴソとお菓子を漁る音がするが、可愛いものだ。ハリエットの身に危険が降りかからないのであれば、それで充分――。

 その時は突然訪れた。ポンッと軽快な音が鳴り響き、ハリエットの身体はみるみる大きくなり――そして、人間に戻ってしまったのだ。ハリエットは一瞬ベッドの上で茫然とした。

 確かに早く人間に戻りたいとは願ったが、今じゃない! 決して今じゃない!

 このいかにも怪しげな音が、同室生二人に聞こえない訳がなかった。

「今の音、なんだ?」
「ジュースの栓が抜けたような音……」

 クラッブにしては的を射た答えだった。だが、今のハリエットには全く以て良くない。できればあまり興味を持って欲しくなかった。偶然にもドラコが天蓋を閉めきっていたため――ウサギに餌付けしている所を見られたくなかったのだろうか――直接姿を見られることはなかったが、しかし、カーテンを開けられればそれでおしまいだ――。

「パーキンソンの奴、本当に授業を受けているのか? 今日習ったばかりの所じゃないか!」

 ブツブツ言いながらドラコが入ってきた。新たな危機がやって来たと自分の運命の終わりを悟ったハリエットだが、しかし、ドラコは鞄をゴソゴソ漁るのみで、ベッドに注意を払う様子はない。

「マルフォイ」

 にもかかわらず、ゴイルが声をかけた。

「今、マルフォイのベッドで、ポンって音が……」
「ジュースの栓を抜いたような」
「ジュース? 寝ぼけてるのか?」

 ドラコは呆れた顔になった。

「早く寝ろ。もう寝坊しても起こしてやらないからな」

 羊皮紙を手に、ドラコは寝室を出て行った。クラッブとゴイルはしばらくぼそぼそ二人で会話していたが、やがてお菓子をしまい始めた。

 怪しげな音の追求は止めることにしたようで、ハリエットはホッとした。しまいには、部屋の灯りまで消える。二人はもう完全に寝るつもりらしい。もぞもぞとベッドの中に潜り込む音が聞こえる。五分と経たずにいびきが響き渡る。

 ハリエットは、詰めていた息を吐き出した。しかし、迫り来る不安まではどうにもならない。

 ――これからどうすればいいのだろう? 人間のままでは、スリザリンの談話室を堂々と出て行くことはできない。真夜中であれば人気もないだろうが、しかし、まだドラコが起きている。彼をやり過ごさなくては、グリフィンドール寮までの道は遠い。

 一瞬、彼なら話せば分かってくれるのではないかとハリエットは思った。全てを告白して、協力をお願いするのだ。――いや、しかしすぐにこれは却下された。彼はDAの会合を暴こうと躍起になっているし、ついこの間は、ハーマイオニーと一緒になって彼に小鳥をけしかけてしまった。ここで弱みを握られる訳にはいかない。やはり、何としてでも自分自身の力でここを抜け出さなければ。

 暗闇の中、ハリエットはそうっとベッドから抜け出した。しばらく目を開けていたおかげで、暗闇には目が慣れた。おまけにいびきが聞こえてくるので、クラッブとゴイルの居場所はなんなく掴めた。問題は、どこに隠れるかだ。

 ドラコが寝てさえしてくれれば、真夜中に談話室を堂々と通過することなど容易だ。そう、本当にドラコだけが問題なのだ。

 しばらく寝室の中を散策したが、ハリエットが隠れられるような場所はどこにもなかった。強いて言うのなら、既に寝ているクラッブとゴイルのベッドの近くなら隠れられないこともないが――だが、こう見えてハリエットも思春期の女の子だ。さすがに寝ている男の子の側に行くというのは、危機感がなさ過ぎる。いや、でも、他寮の男子部屋にいる時点で、もう危機感も何もないのだろうか――。

 そんなことをつらつらと考えているせいで、ハリエットは足音がすぐ側まで来ていることに気づかなかった。ハリエットは大いに慌てる。

 ブツブツと独り言を言うこの声は、紛れもなくドラコだ! 早く――早く隠れなければ!

 ハリエットはあわあわと部屋の中を見回したが、相変わらず隠れられそうな場所は見つけられない。頑張ってドラコのベッドの下に潜り込もうとしたが、狭い、狭すぎる。トランクが邪魔で、身体の半分がはみ出してしまう。

 ガチャリとドアノブが回る。何をとち狂ったのか、ハリエットはドラコのベッドに逃げ込んだ。毛布を頭から被り、ピッタリと壁に身を寄せ、できる限り存在感を薄くする。どうか、また早く談話室に降りてくれますように。決してカーテンは開けませんように――!

 ハリエットの願いは虚しく、ドラコはそこに居座った。机上の灯りをつけ、ゴソゴソとトランクを漁る音がする。

「全くこんな時間まで……明日はクィディッチの練習があるのに……」

 ブツブツ言う声と、衣擦れの音が響く。いよいよ彼は寝る支度を始めているようだ。ハリエットは今にも死にそうな顔色で唇を噛みしめる。

 照明は消され、シャーッとカーテンが開けられた。ベッドのスプリングが軋む。ドラコが横になったのが嫌でも分かった。

「あ、そうだ、ウサギ……」

 めんどくさそうな声がすぐ側でした。ハリエットは息を殺す。

「おい……ポッティー……どこに行った?」

 眠そうな声が上がるが、もちろんウサギが反応する訳もない。

「まあいいか……」

 そのままドラコの声は尻すぼみし、やがて穏やかな寝息が立てられる。ハリエットは長々と息を吐き出した。

 念には念を入れて、ハリエットはしばらくその場から動かなかった。もうさすがに良いだろうと思った頃、徐に動き出し、そして固まる。――壁とベッドの隙間に、身体が完全に嵌まっていた。

 見つかることを恐れ、どうやら壁に身体を押しつけすぎたらしい。力の限りを尽くせば何とか脱出できそうだが、しかし、そうすればベッドが盛大に軋み、揺れ、ドラコが目覚めることなど確実だ。ハリエットは、できる限り細心の注意を払い、少しずつ脱出を試みた。焦れて音を立てるのが一番してはならないことだ。気の遠くなるような時間をかけて、ハリエットはようやくドラコのベッドの上に出た。

 ダイエットしよう――そう思った。

 だが、ハリエットにはまだ苦難の道が残されている。最終関門――ドラコを乗り越えなければならないのだから。

 ハリエットは、ウサギのように四つ足で恐る恐るドラコに近づいた。そしてベッドが軋まないよう、そうっと彼の向こう側に両手をつく。

 まだドラコのような細身の体格で良かったとハリエットは思った。これがクラッブやゴイルのような男の子だったら、どうあっても身体が触れ、起こしてしまうのは目に見えている。

 ドラコの安らかな寝顔を見ていると、何だか悪いことをしているような気分にもなる。こんなことになったのも、フレッドやジョージ――いや、そもそもドラコがスリザリン寮までハリエットを誘拐したせいだというのに!

 急に腹立たしくなって、ドラコに意地悪をしたい気分になったが、いや、しかしここは我慢だ。まずはスリザリン寮からの脱出が目標なのだから。

 足を上げて移動しかけた所、急にドラコがもぞりと寝返りを打った。それはあまりにも突然で、ハリエットは反応のしようもない。両手に体重を乗せていたハリエットは、ドラコがぶつかってきたことによって、支えを失った。あっと思ったときには、声もなくぐでんとドラコの上に潰れた。

「うっ!」

 声を漏らしたのはドラコの方だ。突然己の上に人一人乗っかってきたのだから、それも当然。カッと見開かれたドラコの目とハリエットの目がバッチリ合った。混乱したハリエットは、反射的にドラコの口を両手で押さえる。

「――っ」
「お願い、静かにして!」

 当然ドラコの方は大いに慌て、暴れる。目を開けたら、少女が自分の上に乗っかっていて、口を塞がれて、今にも泣き出しそうな声色で――。

 杖を持っていればそもそもこんなことにはならなかったのだろうし、ハリエットが、完全にドラコに跨がった上で片手だけでも封じていればまだ状況は変わっていただろう。混乱のあまり、ただ口を塞ぐことしか頭になかったハリエットを、逆に腕を封じて体勢を逆転させることなど、ドラコには容易なことだった。

 ハリエットには何か何だか分からなかった。いつの間にか視界が反転し、気づいたときには、ハリエットはベッドの天蓋を見上げていた。すぐにドラコの顔がハリエットの視界を遮る。

「誰だお前は?」

 暗闇の中、まだハリエットの顔はぼんやりとしか分からないのだろう。彼の左手は杖を探るように机の方に伸ばされ、そして右手は、ハリエットの両手を容易にベッドに縫い止めていた。

「……ハリエットよ……」
「は?」
「ハリエット・ポッター……」

 観念してついにハリエットが白状すれば、ドラコはきょとんとした顔になった。目を細め、顔を近づけ――そしてまた飛び退く。

「なんでこんな所にいる!」

 遠慮なく響き渡った声に慌てるのはハリエットの方だ。

「お願い、説明するから静かにして……これには訳があるの」
「訳だと? スリザリン寮に侵入して、それに――どうして僕のベッドに!」
「だから違うの……」

 恥ずかしいやら、情けないやらで、ハリエットの否定の声は弱々しい。対するドラコの声は、相変わらず遠慮がないので、深い眠りにつく同室生の耳にまで届いていた。

「マルフォイ?」

 もぞもぞと誰かが起き上がる音がする。

「何かあったのか? 話し声がするけど……」

 ハリエットは、緩んでいたドラコの拘束を抜け出し、自由になった両手で再びドラコの口を塞いでいた。ドラコは顔を真っ赤にしてこれを外そうともがいた。

 ――侵入者のことを告げ口しようがしまいが、ひとまず今はクラッブの問いに答えるしかないことが分からないのか?

 ドラコが呆れている間に、クラッブは照明まで点けだした。一向にドラコが返事をせず、にもかかわらず暴れているような音がするからだろう。

「マルフォイ?」
「――っ、大丈夫だ!」

 ハリエットとの攻防に勝利し、ようやくドラコはそう返した。その瞬間、ハリエットの動きはピタリと止まる。『ドラコ……!』とその瞳は感動に満ち溢れている。

「ポッティーが――ああ、いや、躾のなってないウサギが暴れてるだけだ」
「ならいいけど……」
「起こして悪かった。もう寝てくれ」

 再び照明が落とされ、クラッブが眠りにつくまで、ハリエットとドラコは非常に気まずい時間を味わうことになった。灯りがついたことで、現在ドラコがハリエットの上に馬乗りになっていることが双方共に自覚されたし、二人が今いるのはベッドの上だし、ドラコはハリエットの腕を拘束していたし、カーテンは閉め切られ、実質二人きりだし……。

 クラッブの寝息が聞こえ始め、ようやくドラコはハリエットの上から退いた。寝間着を直し、低い声で囁く。

「談話室まで来い」

 ハリエットは小さく頷き、ドラコの後についていった。

 幸いなことに、スリザリン寮の談話室には、人気はなかった。とうの昔に深夜を越しているのだから、それも当然だろう。

 火の気のない暖炉に火を点け、ドラコはどっかりソファに腰を下ろした。

「――で、君はどういう言い訳を用意しているんだろうな? わざわざ僕の所まで夜這いを仕掛けるなんて」
「なっ――よっ――」

 ハリエットは口をパクパクさせた。あまりの羞恥に、咄嗟に言い返すことが出来ない。

「まあ気持ちは分からないでもない。寮も違うし、君にできることは、思い切って夜中に寮に忍び込むことだったと……そういう訳なんだろう?」
「馬鹿なこと言わないで!」

 ハリエットは真っ赤になって叫んだ。

「私は――私はね、ウサギだったの!」
「……は?」

 突然の告白に、ドラコは目を白黒させる。ハリエットは息継ぎもせずに続けた。

「あなたが魔法史の教室から連れ去ったウサギが私なの! 私、フレッドとジョージの悪戯で、ずっとウサギになっていたの! ハリーが授業に遅れないようにって、毎日連れ出してくれたけど、あの日は……教室に忘れられて、それで」

 あなたが誘拐したんじゃない、とハリエットが責めるようにドラコを見た。ドラコはなおもポカンとしている。

 ようやく頭に理解が行き渡ったのは、ハリエットの方も落ち着きを取り戻し、ソファに腰を下ろしたその瞬間だった。

「あのウサギがお前だと!? そんなの分かる訳がないだろう!」
「分からないでも、普通人のペットを誘拐する!? 信じられないわ!」
「ちゃんと返すつもりだった! ポッターの不安そうな顔をしばらく楽しんで、それで放すつもりだった!」
「『ポッティー』」

 ハリエットが冷たい声で言うと、ドラコがギクリと肩を揺らす。

「『餌が欲しかったらここまで来いよ』――まさか、ウィルビーにもあんな風に意地悪してないわよね?」
「心外だ! そんなことしない!」
「私にはしてたじゃない!」
「あれは――」

 一瞬声を詰まらせ、そして。

「魔が差したというか……」

 もごもごとドラコが口の中で言い訳をする。ハリエットの怒りはなかなか収まらなかった。

「どうだか。私、ドラコのふくろうはとっても可愛がってるのに、それなのに、あなたは私達のペットにはああいう扱いをするのね? ……私、もうあなたの所にウィルビーを行かせるのは止めるわ。どんな意地悪されるか分かったものじゃないもの」
「ああいうことをするのはポッターのだけだ!」

 ドラコは叫んだ。相変わらずハリエットの視線は冷え冷えとしている。

「自分でも、嫌な扱いだっていうのは分かってるのね? なのにあんなことをしたのね?」

 ドラコはもう何も言い返せなかった。押し黙るドラコを見て、ハリエットは小さく息を吐き出した。

「私、もう行くわ。お騒がせしてごめんなさい。じゃあね」

 踵を返したハリエットを、ドラコは慌てて呼び止めた。

「外にはフィルチもピーブズもいる。見つかっても良いのか?」
「別に、良くはないけど――」
「もし万が一スリザリン寮を出る所を見られたらどう言い訳するつもりだ?」

 今度はハリエットが言葉に詰まる番だった。ドラコは静かに続ける。

「朝になるのを待って、人気がないときに出るのが一番だ」
「――でも、ここにはいられないわ。いつ誰かが降りてくるか分からないもの」
「僕のベッドで寝れば良い」

 ハリエットはパッと彼を見た。頬は紅潮し、どことなく非難するような目だ。

「私――こう見えても――」
「女だ」

 ドラコは単調に続けた。

「僕はここで寝る。それでいいだろう? 魔法をかけて、クラッブもゴイルもベッドには侵入できないようにさせる。――もっとも、あの二人は僕の許可がなければ勝手にカーテンを開けたりはしないが」
「…………」
「フィルチに見つかるリスクを思えば、充分な案だと思うが」

 ハリエットは応えなかった。戸惑っているうちに、焦れたドラコが彼女の腕をとり、寝室まで上がった。

 カーテンの前でドラコが軽く杖を振るうだけで、保護呪文の効いたベッドは完成した。ドラコはあっさりハリエットを置き去りにして、そのまま寝室を出て行った。

 戸惑いながらも、ハリエットはドラコのベッドに腰掛けた。――確かに、今日はいろいろなことがあったせいか、身体の疲労は限界だ。今にも眠りにつきたいが、しかし、ここは同い年の男の子のベッドだ――。

 疲労には抗えず、ハリエットはローブを脱ぎ、こてんとベッドに横になった。つい先ほどまでドラコが眠っていた場所だと思うと、自然とハリエットの頬は赤く染まる。ぎゅっと目を瞑り、毛布を頭から被った。

 眠れ、眠れ、眠れ――。

 ハリエットの祈りが通じたのか、そう間を置かず、ハリエットは眠りに落ちた。意外にも、自分のベッドで眠りにつくような、そんな穏やかな眠りだった。


*****


「――い、起きろ。聞こえてるのか?」

 ハリエットの意識を浮上させたのは、不機嫌そうなドラコの声だった。慌てて飛び起きれば、カーテンは閉め切られ、その向こうから彼が声をかけているのだと分かった。

「あ……ごめんなさい。今起きたわ」
「早く出て来い。今なら皆朝食に出払ってる」

 ハリエットは慌てて髪を整え、ローブを着、カーテンを引いた。そこには、とっくの昔に制服を着たドラコが立っていた。

 ハリエットは無言のまま、同じく口を閉ざしたドラコの後についていった。寮を出、階段を上り、見慣れた玄関ホールまでやってくる。

「ありがとう……」

 そこまで来た時、ハリエットは消え入りそうな声で感謝を述べた。

 『ああ』だか『うん』だか、よく分からない返事を返し、ドラコはそのまま大広間に入っていった。少し間を置いて、ハリエットも後に続く。

 グリフィンドールのテーブルに近づけば、ハリエットの姿に一番に気づいたのはハーマイオニーだ。

「ハリエット!」

 ぴょんと席から飛び上がり、ハーマイオニーは勢いよくハリエットに抱きつく。ハリエットは一瞬息ができなくなった。

「元に戻って良かったわ! でも、今まで一体どこにいたの!? ずっと心配してたのよ!」
「ああ……えっと……」

 答えに窮していると、ハリーとロンもやってくる。ハリーも心の底からホッとしたような顔だ。

「本当にごめん。あの時、すごく慌てててさ……。ハリエットは、てっきりハーマイオニーが連れて行ったんだって勘違いしちゃって」
「でも、本当に今までどこにいたんだい? 僕ら、忍びの地図でも探したけど、全然見つからなくてさ」

 ロンの言葉に、ハリエットはヒヤリとした。おそらく、ハリエットがスリザリン寮なんかにいる訳がないと探しもしなかったのが見つからなかった要因だろう。誰か意地悪なスリザリン生がハリーのペットを誘拐したんじゃないかと、そういう物騒な考えに三人が至らなかったことを、ハリエットは心から神に感謝した。

 必要の部屋に隠れていたと、ハリエットは適当に言い訳をし、三人からの追求は逃れた。ハリエットも、あの夜の出来事は、恥ずかしさのあまり、早く記憶から抹消したい出来事なのだ。

 とはいえ、ドラコに対する怒りが冷めた訳ではない。彼のおかげで無事戻ってこられた訳だが、しかしそれとこれとは話が別だ。

 それから一月の間、いつもの如くドラコがハリーに突っかかってくるときには、ハリエットがすかさず『ポッティー』と呟き、すると途端に押し黙るドラコの姿がしばしば見られ、ハリー達には至極不思議そうな顔をされることになった。