■過去の旅

38:脳裏に焼き付いて


 ハリエットとピーターの勉強会は細々と続いていた。分かりやすく丁寧なピーターの説明により、ハリエットは数占い学の基礎はバッチリと言えるまでになっていたが、時折課題に出てくる応用問題には臨機応変に対応することができず、ピーターに応援を頼むことが主だった。

 ハリーとロンはというと、もはや基礎すらお手上げ状態で、しかしこの教科が、それこそ言葉通り自分達の未来・・に影響することはないので、授業は話半分に聞き流すのが常だ。だが、ハリエットとなるとそうはいかない。世間一般的には真面目で、その上、リリーに良い所を見せたいとなると、どんなに躓いたとしても、やはりがむしゃらに頑張るしかない。

 二人が勉強する場所は、もっぱら図書室だ。グリフィンドールは、寮の中でも群を抜いて騒がしいというのもあるし、ハリーの視界に入らないようにというのもある。

 ピーターへの態度は改めると約束した四人だが、その胸中はもちろん複雑で、ハリーのピーターへの憎しみが消えたわけではない。となると、ピーターから教えを請うている状況を彼に見せるのはあまり得策ではなく――消去法で図書室が残るのだ。

 金曜の午後、空いた時間をボードゲームをして過ごすというハリーの目をかいくぐり、ハリエットはピーターと共に談話室を出た。

「ごめんね、いつも。折角の空き時間なのに」
「僕も良い復習になるからいいよ。OWLの良い気分転換にもなるし」

 非常に難しいというテストが半年を切り、五年生と七年生はより一層勉強に精を出すようになっていた。あのフレッド、ジョージでさえ頭を抱えながらも真面目に勉強していた姿を見ていただけに、その難易度と重要性はハリエットも理解しているつもりだった。

「私ももうあと二年後にはOWLに頭を悩ませてるんだと思ったら憂鬱だわ」
「ハリエットなら大丈夫だよ! ついこの間ホグワーツに編入してきたばかりなのに、もう先生達のお墨付きじゃないか。あのマクゴナガルに加点をもらうなんて、そうそうできることじゃないよ」

 ハリエットは曖昧に笑った。カラクリとしては、単にハリエットが同じ授業を二回受けているだけであって、ハリエット自身の力ではない。慢心していれば、二年後間違いなく泣くことになるだろう。

 前を向いたハリエットは、丁度その時、階段下から誰かが登ってくるのが見えた。三人組だ。その中の一人はハリエットも良く知っている人物だが、何しろ残り二名が思わしくない。ハリエットは咄嗟にピーターの腕を掴み、身を翻した。

「えっ!?」

 混乱するピーターを差し置き、ハリエットは近くの肖像画裏にある抜け道に逃げ込んだ。先にピーターを押し込み、自分は後から入って肖像画をパタンと閉じる。

「一体どうしたの?」
「会いたくない人がいたの」

 ハリエットは肖像画を裏側から見つめたまま答えた。ピーターは黙り込み、何か呪文のようなものを囁いた。すると、目の前の肖像画が薄く透けだしたではないか!

 一瞬、ハリエットは勝手に肖像画が開いてしまったのかと思って動転してしまった。

「これ――えっ?」
「違うよ、僕だよ! 透過する魔法をかけたんだ。外の様子がどうなってるか気になって」

 ようやく合点がいき、ハリエットが落ち着きを取り戻すと、薄らぼんやり透けている肖像画から、三人組が目の前を横切っていくのが見えた。

 エイブリーとマルシベール、そしてスネイプだ。

 三人の姿が完全に見えなくなると、ハリエットはようやく肖像画から出た。

「スネイプって、あの二人と仲良いの?」

 ピーターに手を貸しながらハリエットは尋ねた。

「ああ、うん、そうみたいだ。五年生になってから急につるむようになったよ」
「そう……」

 エイブリーやマルシベールは、ハリーに呪いをかけた張本人だ。スネイプはそのことを知っているのだろうか。人間違いで何の罪もない下級生に呪いをかけた友人のことを。

「あの三人と何かあったの?」
「私が直接何かされたわけじゃないけど、最近廊下で会うと嫌なことを言ってくるから……。大丈夫だとは思うんだけど、トラブルになりそうな状況は避けたくなる癖がついちゃって」
「僕も逃げるのは得意だよ」

 恥じらうようにハリエットが言ったせいか、ピーターがフォローするように笑った。

「マグル生まれは何かと標的になることが多いから、一人になるのは避けた方が良いよ」
「なるべくそうするようにはしてるんだけど」

 ジェームズ達と仲直りしてから、ハリーとロンはまた彼らと一緒に過ごすようになった。ハーマイオニーは相変わらず図書室で、未来とはまた違ったラインナップの本の山に囲まれていることが多い。多くの生徒と同じように、勉強や読書は差し迫った状況にならない限りなるべく避けたいハリエットは、どうしても一人で行動することが多くなってしまうのだ。

「……最近は、どう?」

 ピーターは窺うように声を落とした。彼が何を指しているのか、ハリエットにはすぐ分かった。

「あんまり状況は変わらないけど、でも、私もちゃんと反撃するようにはしてるの。そのせいか、ちょっと躊躇う人達も増えてるみたい」

 人通りの多い廊下を通るようになったし、杖は常に手放さないようにしている。それでもどこからか呪いが飛んできたときには、最近習得した妨害呪文の出番だ。なかなか汎用性が高く、呪いを逸らしたり、相手の動きを遅くしてその間に逃げることだってできるのだ。本当のところは盾の呪文が一番効果的なのだろうが、まだハリエットには習得が難しい呪文だった。

「なら良かったけど……。そのうちもっとひどいことにならないか心配だよ。そろそろマクゴナガルに言った方が良いんじゃない?」
「……そうね」

 あまり身が入ってない返事をしながらハリエットは俯いた。

 正直な所、ハリエットは自分の身に降りかかる不幸について、誰に言うつもりもなかった。いじめられていることを両親に知られるのは恥ずかしいことだったし、ハリー達に言ったとして、彼らが怒ってやり返したとして、三人を巻き込んでしまうのも嫌だった。

 それに、もしかしたら自分にも非があったのかもしれないと思い始めていた。他の生徒もいたのに、自分だけ手を上げすぎていたのかもしれない。S・P・E・Wの活動を張り切りすぎたのかもしれない――。

 不特定多数からの悪意は、思っていた以上にハリエットの心身を蝕んでいた。冷静になってみれば、そんなの、加害者が圧倒的に悪いことは明白だ。だが、もしかしたら自分にも悪い所があったかもしれないと思わせてしまうのが怖い所だ。そして、そんな醜い自分を知られるのが嫌で、更に秘密にしようとだんまりを決め込む。

 長期にわたる悪意は、ハリエットの自尊心をも傷つけていた。まるで、ダドリー軍団にいじめられ続け、すっかり何もかもに自信喪失してしまったあの頃のように。ホグワーツに入学してから、多少は改善も見られたが、秘密の部屋の事件で再び自信やプライドは凋落した。

 それでも、それはあくまで自分に・・・関することだけだ。周りに対する正義感は以前よりずっと強くなった。ハリーの影響もあるが、それ以上にジェームズとリリーの影響が強かった。

 闇の魔術に対するジェームズの折れることのない真っ直ぐな正義感。然るべき時に正しく発揮されるリリーの公平な正義感。

 二人はハリエットの憧れでもあった。強い自分を持っている二人のようになりたいと思うこともある。そんな彼女は、過去に来てから一層周りに対する関心を向けていた。ホグワーツの危機を救おうと奮闘していたハリーの後についていくだけだったハリエットの姿はもうそこにはない。他でもないハリエットが、自分自身の意志で動くのだ。

「そこで何してるの?」

 図書室へ向かう途中のマートルのトイレの前。そこには、しくしくと涙を流している女の子と杖を握った少年。今まさにトラブルになりそうな気配を感じ取ったハリエットだが、今度は逃げることはせず立ち向かった。

 少年の方は見たことがあった。つい先日のスラグ・クラブで知ったバートラム・オーブリーだ。

「別に?」

 オーブリーはくるりと杖を回し、ポケットに突っ込んだ。

「ちょっとお話してただけさ」
「泣いてるみたいだけど」

 ハッフルパフの一、二年生と思われる女の子は、何も言わず、しゃっくりをあげて泣いている。ハリエットが思わず背中を撫でれば、充血した目でハリエットを見上げ、『あー』とか『うー』とか言葉にならない声を上げた。

「ガキのおもりはごめんだね。赤ちゃんみたいに何も話せないんなら、ママの所でねんねでもしてな」

 ヒラヒラと手を振りオーブリーは去って行く。状況が分からないばかりに、ハリエットはそれを黙って見送るしかできなかった。

「大丈夫?」

 できるだけ優しい声で話しかけてみたが、女の子は首を振るばかりだ。

 困り果てていると、ピーターがあっと声を上げた。

「これ、舌縛りの呪いだ。最近流行ってるんだ」
「治せないの?」
「マダム・ポンフリーに見せるのが一番だよ。反対呪文がまだよく分かってないんだ」
「医務室まで歩ける?」

 目を合わせて問えば、女の子は小さく頷いた。並んで歩き出したが、涙はなかなか止まらないようだ。ハリエットは再び足を止め、杖を取り出した。

「エイビス」

 初めての魔法だったが、うまくいった。杖先からは小鳥が一羽飛び出し、ハリエットの左手に止まった。

「可愛いでしょう? 撫でてあげたら喜ぶと思うわ」

 おずおずと女の子が出した手のひらに小鳥が飛び乗った。チュンチュンと小さく囀ると、女の子はゆるゆると嬉しそうに口元を緩めた。

「可愛い魔法だね」
「でしょう? ハーマイオニーに教えてもらったの」

 ハリエットは得意げに言った。教えてもらったのはほんの最近の出来事だ。この時代に来てから、随分とウィルビーに会っておらず、寂しそうにしていたのを気にかけてか、ハーマイオニーがこの呪文を使って可愛い小鳥を出してくれたのだ。彼女の気遣いがとても嬉しかったことをよく覚えている。

 女の子の涙が収まる頃には、医務室に到着していた。彼女の舌はマダム・ポンフリーによりすぐに治った。小鳥のおかげで元気になった彼女が言うことには、嘆きのマートルにひどいことを言っていたバートラムを注意したら、怒って呪いをかけられたのだそうだ。ハリエットはカンカンになって怒った。

「信じられないわ! 自分が悪いのに、逆に怒って呪いをかけるなんて!」

 図書室へ向かう途中、ハリエットはつい語気も荒く誰に言うでもなく文句を言った。

「うん、それにまだ相手は一年生なのに……」
「本当だわ」

 女の子は、マグル生まれの子だった。魔法界にまだ充分に慣れないうちに一方的に呪いをかけられ、どんなに怖かったことだろう!

「魔法って、本当にすごいと思うの。杖一つで何でもできるんだから。……でも、便利な魔法も、素敵な魔法もたくさんあるのに、よりによって誰かを傷つける魔法を使うなんてすごく悲しいことだと思う」

 攻撃呪文があるから、防御呪文が必要になる。綺麗で便利な魔法だけが残れば良いのにと思わないではいられない。――たとえどんな呪文でも、ヒトが使う限り悪用される可能性は捨てきれないのだとしても。

「ハリエットは、強くなったね」
「えっ?」

 一瞬何を言われたのか分からず、ハリエットはマジマジとピーターを見た。

「そんな……私、別に」
「でも、バートラムに向かって行った君は、まるでエバンズを見てるみたいだった。すごかった」

 ピーターの顔は真面目だった。嘘を言っている様子はない。お世辞かもしれないから喜びすぎてはいけないと思う一方で、ポッポッと頬には素直に熱が集まる。

「う、嬉しい……けど、そんなに似てた?」
「似てるよ。ホントに」

 とはいえ、ピーターの『似てる』とは、コソコソと怪しい動きをする悪戯仕掛人に対して、リリーが『何をしてるの?』と立ちはだかる場面なのだが、浮かれるハリエットには知るよしもなかった。

「ありがとう!」

 目を細め、本当に嬉しそうに笑うハリエットに、ピーターは呆けて身体の動きを止めた。つられてピーターもみるみる顔を真っ赤に染め上げる。

「そうだ、勉強する時間がなくなっちゃうわ。ピーター、行きましょう」
「う、うん……」

 ハリエットが歩き出したのを見て、ピーターも慌てて後を追う。だが、その視線は廊下を捉えてはおらず、少し前で踊るようになびく赤毛を見つめていた。