■過去の旅

42:奇跡の果て


 校長室のガーゴイルの前に立ってようやく、ハリエットは自分が合言葉を知らないことに気づいた。だが、ここで引き返すほどハリエットは愚かではない。ひとまず手当たり次第に思いつく限りのお菓子を口にしようと息を吸い込めば、そのやる気をからかうかのように何ともあっさり壁が左右に割れ、螺旋階段が現れる。

『お入り』

 そう言われているような気がして、ハリエットは階段を上った。樫の扉をノックすれば、すぐに返事が返ってくる。

「お入り」

 今度は気のせいではない。ハリエットは「失礼します」と一言口にし、扉を開けた。

「久しぶりじゃのう、ハリエット」

 突然やってきたハリエットを咎めることなく、ダンブルドア先生は優しく言った。ハリエットは恐縮して縮こまる。

「約束もしてないのに、突然すみません」
「わしは気にしておらんよ」

 軽く杖を振り、ダンブルドアお茶の準備を始めた。

「校長が受け持つ授業がない分、生徒が部屋に遊びに来るようなことがなければ、逆に交流が持てなくてわしは寂しくて仕方がない。君達の父親のように、むしろお茶をしに来るぐらいしてくれる生徒が増えたら嬉しいくらいじゃ」
「お父さんが?」
「もっとも、彼らはわしに悪戯を仕掛けることの方が大本命のようじゃが」

 ダンブルドアは嬉しそうだが、ハリエットは居たたまれなくなってますます身体を小さくした。今だけは、ジェームズを父親とは思えず、むしろやんちゃな弟のように思えた。

「それで、どうかしたかのう。つい先ほどの、君達のちょっとした小競り合いについてじゃろうか?」

 もう知っているのかとハリエットは驚いた。一体誰から聞いたのだろう。

「は、はい――。ドラコが、私達は未来を変えるつもりなんじゃないかって不安に思って、それで口論になってしまったんです。もともと、本当に未来に帰れるかどうかも不安だったみたいで……。本当はもっと早くにお聞きしないといけなかったんですが、その、逆転時計は、あとどのくらいで直りそうなんでしょうか?」
「直る目途はついておる。もうすぐで直る予定ではあるが、きちんと作用するかどうか、君達がおかしな時間軸へ飛ばされないかどうか検証が必要なので、しばらく時間はかかってしまうが……。夏休みが始まる前には君達は未来へ戻れるじゃろう」
「……そう、ですか……」

 落胆したような声が出てしまったことに気付き、ハリエットは慌てて笑みを浮かべた。

「ありがとうございます」
「悲しいかね?」

 静かに尋ねるダンブルドアに、ハリエットはちょっと返事に躊躇った。

「……寂しくは、あります。でも、もともと、お父さん達に会えただけで奇跡みたいなことだったんです。これ以上高望みはできません。だって、辛い思いをしてるのは私達だけじゃない……」
「――それでも、その哀しみは君だけのものじゃ」

 遮るようにしてダンブルドアが言った。ハリエットは視線を落とす。自分だけが、悲しみに暮れてはいけない――。

「……でも、それよりも私、未来がどうなってしまうかが不安なんです」

 今のハリエットの心配の種は未来――いや、ドラコだ。もともとハリエット達が巻き込んでしまっただけで、ドラコは何の関係もない。なのに、ドラコや、もしかしたら他の人の未来にまで影響が出てしまったらと思うと、急に恐ろしくなってきたのだ。

「シリウスの話では、この前の暴れ柳の件で、お父さん――ジェームズが大怪我をするなんてありませんでした。単に伝えていなかっただけなら良いんです。でも、もし私達の存在のせいで未来がちょっとでも変わってしまうのなら……」

 あの時のシリウスには、あまり悪びれた態度は感じられなかった。もしジェームズが大怪我をしていたというのなら、あんな風に過去の悪戯話を吹聴するようなことはできなかったはずだ。

「ドラコのご両親について……えっと、もしかしたら悪い方向に未来が変わってしまうんじゃないかって思ってるんです。もし、私達が未来に戻ったとき、ドラコのご両親に良くないことが起こっているのであれば……」
「単刀直入に言おう」

 ダンブルドアの言葉にハリエットは顔を上げた。

「君たちの未来が変わることはない」
「本当ですか?」

 ダンブルドアは小さく頷く。ハリエットはホッとしたような、胸がざわつくような変な心地になった。

「以前、ハリーも交えてここで話をしたことは覚えているかのう」
「はい」
「わしは始め、君達が過去に来たことは、未来の中にすでに組み込まれていると推察した。つまりは、逆転時計の故障はなるべくしてなった未来。君達がこの時代へ来ることは必然だったのではないかと考えた。そうなれば、君達がここで何を考え、どう動こうと、未来が変わることはない。そうなるべくしてなっているのだから。だから、君達がご両親の側にいることも許した。じゃが」

 淀みなく綴られていた声が途切れる。

「暴れ柳の一件で、わしの推察が間違っていることに気づいた。未来のシリウスの話では、ジェームズが大怪我をしたという話はなかったと。にもかかわらず彼は瀕死の重傷を負い、そして君達の輸血を以てして助かった。それらが示すは、すなわち――未来が枝分かれしてしまった可能性がある」
「枝分かれ……。過去で何が起こったとしても、決して私達の・・・未来は変わらないと言うことですか?」
「その通りじゃ。君達の・・・未来は変わらない。――君達が使っていた逆転時計は、特別に魔法省から許可をもらって使用しているものじゃ。もちろん生徒が使用するために、制限がかけられておる。せいぜい数時間程度しか時は遡れないこと、そして何より、既に決められた未来しか生きられないこと。過去へ戻るというのは、立派な大人の魔法使いでも誘惑が大きい。それが生徒なら尚更のこと。勉学以外では使用しないと誓約書を書いたとしても、誰がそれが破られたことを知ることができよう?」

 その問いかけは、答えを必要としていなかった。間髪を入れずダンブルドアは続ける。

「通常の逆転時計は、それこそ今回のように、何日でも、何年でも時を遡ることができ、かつ、本来未来では起こりえなかった出来事を引き起こすこともまた可能。それゆえ魔法省で厳しく使用を管理されておるのじゃ。取り返しのつかない過去の改変ができぬよう」

 よく考えれば、確かに怖い話だ。過去に戻って何か改変をしたとして――それが正しい歴史として認識されてしまうのだから。

「生徒に貸し出される逆転時計には、もし生徒が逆転時計を使って悪さをしたとしても、自動的に元の未来へ戻るよう仕掛けが施されておる。逆転時計は、今まさに流れている時を記憶しているのじゃ。過去が大きく改変されても、元の未来へ戻ることは容易い。……ハーマイオニーが持っていた逆転時計は、時間を制限する部分が壊れていた。だから二十年も昔の時代へやって来たのじゃ。本来の使い方で言えば、君達は巻き戻した時点まで過去で生きる必要がある。じゃが、時間制御が壊れているのであれば、それを上手く活用するのみ。君達が過去へ来た時と同じように未来へ戻れば良いだけのこと」

 未来が変わってしまったかもしれないこと。

 ハリエット達の元の未来と、変わってしまった未来、二つに枝分かれしたこと。

 そして――ハリエット達が戻るのは、元いた未来だ。

「……分かりました」

 理解は、した。逆転時計の仕組みも納得がいく。未来が変わらないというのもホッとした。

『未来に戻ったらシリウスにたくさん聞かせてあげるの。あなた達の共通点を。思い出を。未来がどうなってるかは分からないけど、あなた達があの時のハリーとハリエットだって分かったら、きっとびっくりするでしょうね』

 ハーマイオニーが言ったようなことは、おそらく実現できないだろう。未来は変わらないのだから、シリウスは何も知らない。リーマスもダンブルドアもマクゴナガルも何も知らない、知るよしもない。私達だけが、知っている。

「でも……未来が枝分かれしたのなら。お父さん達が生き残る未来があっても何も問題ありませんよね? 本来の正しい未来とは少し違っていても――お父さん達も生き残って、ドラコのお父さんも無事で、そんな未来があっても良いですよね?」

 ハリエットは往生際悪く言い募った。ダンブルドアはハリエットを見つめた後、ゆっくり首を振った。

「君達の逆転時計は、本来の未来の時の流れが刻まれておる。過去を改変しすぎてしまえば、時空が歪み、君達は元いた時代に戻れなくなってしまう」
「…………」

 ハリエットは目を瞑った。あまりにたくさんの情報量に頭が混乱してしまいそうだった。要点は理解した。だが、気持ちが追い付かない。少し頭を整理する必要があった。

「お話……聞かせていただき、ありがとうございました」
「またいつでも来なさい」

 ダンブルドアは最後にハリエットにレモンキャンディーを握らせて見送った。

「ハリエット」

 ただ、部屋を出る前、ダンブルドアが小さく声をかけた。

「突然起きた『奇跡』に、もっと、もっとと思うことは後ろめたいことではない。本来であれば、君達には当たり前のように与えられた愛情、親愛だったはずじゃ」
「…………」
「君達は奪われた側じゃ。それを防ぐことができなかったわしらを責めるのじゃ。自分ではなく」

 どう返せば良いか分からず、ハリエットは曖昧に微笑んで頭を下げた。今はただ一人になりたい気分だった。

 ハリエットがいなくなった後、ダンブルドアはその扉を見つめたまましばらく動かなかった。その目は扉を通り越して未来を見据えている。気がかりなことが一つだけあった。

 ハリー達の・・・・未来は変わらず続いていくだろう。元はそこから全てが始まったのだから。

 だが、自分達の・・・・未来は。

 ハリー達の介入により、既に変化してしまった今この時。ハリー達が未来に帰った後はどうなるのだろう。このまま未来まで枝分かれして続いていくのか、果たして、彼らが帰った瞬間、全てなかったことにされ、消滅してしまうのか――。

 前例のない事態に、ダンブルドアも全てを予測しきることはできなかった。