■別視点
07:終わる時に開く
憂いの篩から顔を上げた後、ハリーはしばらく茫然としていた。しかし、自分がなさねばならぬことは理解していた。
ハリーは、ついに自分が生き残るはずではなかったことを悟った。ハリーの任務は、両手を広げて迎える『死』に向かって静かに歩いて行くことだった。その途上で、ヴォルデモートの生への最後の絆を断ち切る役割だったのだ。
――ハリエットとシリウスと、三人で暮らすことを夢見ていた。晴れてシリウスの無罪が晴れ、三人で外を歩きたかった。
置いてけぼりにされたと分かったら、ロンやハーマイオニーはなんと言うだろう。ここまで一緒に困難を乗り越えてきたのに、最後の最後で裏切られたと思うだろうか。ハリエットと、ロンとハーマイオニーと、談話室でくだらないことを話していたかった。
皆ともっと生きたかった。
死への恐怖が、ハリーの足を、身体を震わせた。
ハリーに残っているのは、生への執着だけだった。
「ドビー」
ハリーの声は震えていた。
「ドビー、ここに来てくれるかい?」
バシッと騒々しい音を立て、トビーが現れた。トビーは満身創痍といった様子だった。靴下は片っぽが脱げ、頬や腕には切り傷が、しかしその瞳には誇らしさが輝いていた。
「ドビーをお呼びでございますか? ハリー様! ハリエット様をお助けに行くのですか?」
ハリーはぎこちなく頷いた。
「僕を、ハグリッドの小屋まで姿くらましして欲しいんだ」
ドビーは大きな目を一層見開いた。
「……お一人で行かれるおつもりですか?」
ハリーはまた頷いた。ドビーは一歩ハリーに近づいた。
「ドビーめも一緒に連れて行ってください! ドビーめは、いつだってハリー様と一緒にあります!」
「ドビー、それは駄目だ。僕は一人で行かないといけない」
「なぜですか? ドビーは自由なしもべ妖精です。ドビーはハリー様と共にありたいのです!」
「ドビー、お願いだ。僕の言うことを聞いてくれ――」
「ハリー、ハリーはどこだ! ロン、ハーマイオニー!」
部屋の外で、シリウスが叫ぶのが聞こえた。
「まさか、一人で森へ行ったわけじゃないだろうな!?」
「校長室にいるわ」
ハーマイオニーが静かに答えた。
「ハリーも、そこまでは無謀ではない」
ルーピンの声がした。
「作戦を練り直すんだ。皆でヴォルデモートに奇襲をかけるか――」
「ドビー、お願い」
ハリーが再びドビーを見ると、ドビーは小さく頷いた。ハリーはドビーの手を握りしめ、付き添い姿くらましをした。
次に気がついたとき、ハリーはハグリッドの小屋のすぐ前にドビーと共に立っていた。ハリーはドビーの手を離した。ハリーが歩き出すと、ドビーはとことこついてこようとした。
「お願いがあるんだ」
一緒に来ようとする彼を押しとどめ、ハリーは精一杯微笑んだ。
「ハリエットをよろしくって、マルフォイに……」
ハリーは唇を噛みしめた。
「マルフォイに、伝えて……」
ドビーは大きな目からボロボロ涙をこぼしながら、何度も頷いた。
ハリーは前を向き、歩き続けた。禁じられた森の端にたどり着き、そこで足が竦んだ。
木々の間を、吸魂鬼の群れがスルする飛び回っていた。その凍るような冷たさを感じ、無事に通り抜けられるかどうか、ハリーには自信がなかった。守護霊を出す力は残っていない。もはや、身体の震えを止めることさえできなくなっていた。
ハリーは、不意にスニッチのことを思い出した。
『私は終わるときに開く』
ハリーは首からかけた巾着を探り当て、スニッチを取りだした。ハリーは、金色の金属を唇に押し当てて囁いた。
「僕は、間もなく死ぬ」
金属の殻がぱっくり割れた。中には何かが入っていた。ハリーは杖先に光を点した。
二つに割れたスニッチの中央に、黒い石があった。真ん中にギザギザの割れ目が走っている。『蘇りの石』は、ニワトコの杖を現す縦の線に沿って割れていたが、マントと意思を表す三角形と円は、まだ識別できた。
ハリーは目を瞑って手の中で石を三度転がした。
ことは起こった。儚い姿が、小枝の散らばった土臭い地面に足をつけて、動いている音が聞こえた。
ゴーストのような、でもゴーストとも違う、不思議な姿が、それぞれの顔に愛情の籠もった微笑を浮かべて、ハリーに近づいてきた。
ジェームズは、ハリーと全く同じ背丈で、瞳はハリエットそっくりだった。死んだときと同じ服装に髪はくしゃくしゃ、そして眼鏡はアーサーのように片側が少し下がっていた。
リリーは誰よりも嬉しそうに微笑んでいた。ハリエットよりも背が高く、より快活に見えた。長い髪を背中に流し、彼女はハリーそっくりの緑の目で、いくら見ても見飽きることがないというように、ハリーの顔を貪るように眺めていた。
リリーを見ていると、不意に涙が零れた。
本当にハリエットとそっくりだった。生き写しだと誰も彼もが同じことを言うのが当然だと思った。
もう少し成長したら――きっともっとリリーそっくりになるのだろう。
その姿をすぐ側で見られないことが、何よりも悲しかった。
「あなたはとても勇敢だったわ」
その声は、慈しみに満ちあふれていた。母の声だった。
「お前はもうほとんどやり遂げた」
ジェームズが言った。
「もうすぐだ……父さん達は鼻が高いよ」
「苦しいの?」
子供っぽい質問が、思わず口をついて出ていた。
「死ぬことがか? いいや。眠りに落ちるより素早く、簡単だ」
森の中心から吹いてくる冷たい風が、ハリーの前髪をかき上げた。二人の方からハリーに行けとは言わないことを、ハリーは知っていた。決めるのはハリーでなければならないのだ。
「一緒にいてくれる?」
「最後の最後まで」
ジェームズが言った。
「あの連中には二人の姿は見えないの?」
「父さん達は、君の一部なんだ。他の人には見えない」
「ハリエットには?」
ハリーはジェームズとリリーを見た。
「見えないわ」
リリーは悲しみを湛えた瞳で首を振った。
「でも、側にいる」
ジェームズが後を引き継いだ。
「父さん達は、いつも君たちの側にいる」
そしてハリーは歩き出した。吸魂鬼の冷たさも、ハリーを挫きはしなかった。